「あー、キョンくん待って、待って!」
 朝。自宅を出る間際に俺を呼び止めるのは妹である。
「お兄ちゃんと呼んでくれたら待ってやらんでもない」
「キョンくんはキョンくんじゃない」
 靴紐を結びながらつぶやくわが妹
「行ってきまーす」
「……あっ、お、お兄ちゃん待って!」
 いよっし! 何年ぶりかで呼称変更に成功だっぜ! ……あぁ、耳に心地いいこの響き。俺はシスコンでも何でもないが、この呼ばれ方にはかなりの愛着というかノスタルジーがあるんだよ。悪いか。
「はいはい、お兄様はいくらでも待ちますよ」
「……よしっ、と。行こう、キョンくん!」
 ダメだこりゃ。そろそろ中一なんだから何としてでも『キョンくん』だけは避けてほしいところなのに。


 クラスに着くと既にしてハルヒも長門も来ていた。古泉は別クラスだ。
「ようキョン」
 谷口である。俺は新年度に入っても一度も変わっていない自分の席に近付きつつ挨拶。
 谷口は続けて、
「おいお前、今年のクリスマスの予定は決まったか?」
 お前、そんな諸刃の剣を振りかざしていいのか?
「何言ってんだよ。俺はぜんっぜん構わねぇぜ。何たってもう予定が入ってるからな!」
 びしぃっと親指を立てる谷口。お前あれか、毎年十二月限定で運気が上昇する星の元にあるのか? つまり来月にはまた別れてるってことだが。
「う、うるせぇ! 今度こそは長続きする!」
「へぇ、長続きねぇ。……キョン、谷口がどのくらい続くか二人で賭けない?」
 入ってきたのは国木田。俺は鞄を置いてマフラーを取りつつ、
「そうだな。俺は年明けと共に関係がまっさらになるに缶ジュース二本」
「僕は年越せないと思うなぁ……缶ジュース三本ね」
「お前らなぁ!」
 俺と国木田のパドックに来た客のような視線にたじろぐ谷口。安心しとけ、別れた時がクリスマス前だったら、またパーティに誘ってやるから。
「ぜってー行かねーぞ! 見てろよお前ら! ギネスもビックリの長期恋愛に発展させてみせるぜ」
 引き続き談笑しているうちに担任が入ってきたので、俺たちは散って席につく。

「朝っぱらから元気ねぇ? あんたも」
 一連のやり取りを見ていたハルヒが言った。
「こっちからエンジンかけとかないとお前についてけなくなるからな。特に最近はさ」
「はい、静かに、静かにーっ」
 担任の声がかかった。俺は前を向く。
「今日は転入生が来ている。えーと、そこの長門くんの双子の姉妹だそうだ」
 直後に俺は身を乗り出して耳の穴をかっぽじることとなった。
 何だって?

「えー、本日づけでうちのクラスに転入してきた、長門由梨くんだ」

 ……。
 俺、絶句。
 クラス、絶句。

 長門が、もうひとりいた。

 いや、違う。
 姿形は長門有希そのまんまなのだが、髪の色が黒だ。それこそ真っ黒だ。同じくらい瞳も黒く、透き通りかたが長門とはまた別の印象を与える。
 何と言えばいいのだろう。確固たる存在感というか、周囲の空気をシャープに磨いでしまうような、座ってる長門とは明らかにベクトルの違うオーラを放っている。言っておくと眼鏡はナシだ。
「何でもこれまで海外に留学していたのだそうだ。そういうわけで、これからみんな仲良くやっていこう」
 教師の通過儀礼的紹介のほとんどは俺の耳を素通りした。

 何だ、この展開は……!

 俺はこの段になってようやく当事者の一人だろう長門有希を見た。苗字が一緒なので、都合上ここから先は下の名前で呼ぶが、他意はない。
 有希はしばし由梨を見ていたが、やがて俺に視線を飛ばして、一瞬だけ首を横に傾けた。ひょっとして、心当たりないのか?
「キョン知ってた? 有希に姉妹がいたなんて!」
 ハルヒに袖を思いっきり引っ張られたために着席させられた。知らん! 夢にも思わなかったとはこのことだろう。今さらほっぺたをつねる俺である。
「どっちが姉なのかしらね!」
 ワイドショーで結婚二ヶ月の芸能人が離婚したニュースを見る主婦より興奮しているハルヒだった。むむ。単純に考えれば有希のほうが姉じゃないのか。……何せ有希は情報統合思念体のヒューマノイドインターフェースだ。最近忘れがちな属性ではあるが、平たく言って宇宙人である。ならばその姉妹たる由梨もほぼ間違いなく同じ属性を所持しているはずだ。単純に考えて、先にいたほうが姉ということになるのではないだろうか?
 当の長門由梨は廊下側の一番後ろの席に腰を下ろした。
 有希と同じく周囲を委細気にしない素振りは、まさに長門そのまんまである。
 座った後で自分を見ているクラスメートたちをひとしきり見渡して、
「よろしく」
 とだけ言った。声も長門そのものである。視覚情報なしに聴かされたら区別できるか自信がない。


 そのまま一限に突入したが集中できるはずもなく、それはクラスの大半がそうであるらしかった。
 誰もがチラチラと長門由梨のほうを盗み見ている。谷口なんぞ鼻の下が二センチほど伸びている。
何だお前、黒髪属性だったのか。
 
「こんにちは! あたし涼宮ハルヒ。あなた有希と姉妹なのね! どっちが姉?」
 チャイムが鳴った直後にハルヒは五歩で由梨の元へ行き、同時にした質問がこれである。引っ張られるように俺も後について行き、ふと見ると有希も隣にいた。
 長門由梨は俺たち三人に無感動な目を向けてからもう一度有希を見て、
「有希はわたしの姉」
 とだけ言ってまた正面を向いた。ハルヒが続けて訊く。
「あなた! 姉さんが入ってる部活に興味ない?」
「ない」
 即答しやがった。ハルヒが言ったのが文芸部を指すのかSOS団を指すのか分からんが、今は重要でない。
「そうなの? でも、今度一度見に来るといいわよ!」
「いい」
 何となく初期の無反応だった長門に近い感じである。やっぱりこいつは最近ここに来たのだろうか。
「ん、つれないのね。有希、あんたからも誘ってあげてよ」
「……いい」
 長門は明らかに戸惑っていた。ひょっとしたら俺とハルヒ以外のクラスメートが見ても分かったかもしれん。どうやらあらかじめ知らされてはいなかったと見て間違いなさそうだ。
「え? あんたたちひょっとして……。ううん、分かった。それなら、無理に引っ張ったりはしないから、暇な時にでも遊びに来てね。部室は旧館三階の端っこだから」
 ハルヒの言葉に由梨はまったくうんともすんとも言わず、次の授業の準備を始めた。
 
「何か有希よりずっとクールなのね。とっつきづらいったらないわ」
 二限開始直後のハルヒの台詞である。俺はどっちの長門にも訊きたいことが山ほどあったのだが、ハルヒがいる以上叶わぬ願いである。
 俺の感想としては昨年春に最初に会った頃の長門もあんな感じだったと思うのだが、ハルヒは忘れてるのかもしれない。
 しかし、何だってまた長門の妹なんてキャラが出てくるんだ? 観測役なら一人で十分じゃないの
か? バックアップならまだ分かるが、それにしたって長門が事前に話を聞かされていないはずもないだろう。


 ハルヒは次の休み時間にはいつも通り校舎内めぐりに出発した。何とも切り替えの早い奴だ。
 さて、俺は早速有希のほうと共に由梨の机に再集合。
「長門由梨さんか。今さらだがはじめまして」
 由梨は無感動に俺と視線を合わせた。黒く、それでいて透けた瞳が俺を射抜く。
 俺は有希を指差しつつ、
「突然だが、キミもこいつと同じく統合思念体のインターフェースなんだよな?」
 長門由梨は黙って頷いた。
「何をしに来たんだ」
「インターフェースの交換」
 あっけらと言った。……理解しかねる。何だって?
「固体名長門有希はここ数ヶ月で観測者としての資質を失いつつある。それゆえ、処分があらためて検討されている」
 調子を変えずに由梨は言った。重要事実だけを淡々と言うのは、まさに最初期の長門有希そのものだった。
「ちょっと待てよ、どういうことだ。あの時、俺は長門を消すようなことをすればハルヒと共に世
界を変えてやると言ったはずだ」
「涼宮ハルヒの能力の解析は最終段階に入っている。彼女が世界を作り変えるような状況にも対処は可能」
 俺は由梨登場時よろしく絶句する。……何だって?
「長門?」
 俺は有希のほうを向いた。有希はわずかに顎を引いて由梨を見ていたが、やがて、
「彼女の言っていることは……正しい」
 とだけ言った。
 おい、まだ何にも分からないぞ。一体どういうことだよ。ハルヒの力を調べ終わったら、お前たちはどうなるんだ?
 この問いに答えたのは由梨である。
「統合思念体の意識に戻る。今は過渡期。観測者には精度が要求される」
 それじゃ何か。俺の長門じゃスペックが不足してるってのか。
「長門有希は涼宮ハルヒをはじめとする周囲の人物に影響を受けすぎている。思念体は新しい観測用インターフェースが必要と判断した」
 それがお前か。……言ってみれば新品だな。だが俺はそんなの認めないぞ。それじゃこっちの長門はどうなるんだよ。
「有希が思念体への報告を終え、わたしの試行期間が終わった時、役割は交替される」
 どういう意味だ。

「有希は先行して情報統合思念体の意識へ戻る」


 三限目。何の授業を受けていたか後で思い出せないほど、俺の思考は勉学から逸脱していた。
 ハルヒはハルヒで何やら画策している気配だったが、今は話しかけてこない方が好都合だから助かる。
 とんでもない出来事はいつだって予告なく俺たちの前に立ちはだかる。例外なく今回も唐突な展開が突きつけられたわけだが、何をどうすればいいのかさっぱり分からない。有希は有希で自分の考えに没頭しているように見えた。人間に近付きすぎた……か。確かに、俺はここ数ヶ月、長門有希が情報統合思念体の一端末であることなんかほとんど忘れて、部室に欠かせない団員のひとりとして、クラスメートとして、また親友として接してきた。有希も今の生活を好意的に受け入れているように見えた。俺はこんな日々ができるだけ長く続けばいいと思っていたし、しかし朝比奈さんや鶴屋さんはあと二ヶ月あまりで卒業してしまうから、少なくとも部室で五人揃っていられるのはそう長くないということも承知していた。そこに今回の一件だ。
 まずは、古泉や朝比奈さんに事情を話す必要があるだろうな……。


 俺は放課後まで悶々とした時を過ごした。谷口なんかは昼休みの段階ですっかりニューカマーたる長門由梨のランク付けについて熱く激しく語っていたが、お前彼女持ちだろ。
「そんなの関係ねぇよ。それじゃお前はこれ(小指を立てて)がいたらアイドルのファンやめるのか?」
 ……よく分からん論理である。つうかお前何時代の人間だ。頭の中だけは旧石器時代のそのまた昔にまで遡ってもよさそうだが。
「長門由梨さんねぇ。僕はお姉さんのほうがいいかなぁ」
 などとのん気にミートボール食べながら言うのは国木田だ。やれやれ。俺もその常識的トークに気兼ねなく参加したい。
 
 放課後。俺はハルヒと長門と共に部室へ向かう。長門由梨は授業が終わるとさっさと帰ってしまったが、ハルヒの観察はいいのだろうか。
 部室に先にいたのは朝比奈さんで、古泉はまだ来ていないようだった。俺はいつもの場所に椅子を出して腰を下ろし、ハルヒと長門もそれぞれ同様にしたが――、

 バサッ

 長門のハードカバーが落ちる音である。
「長門?」
 俺が呼びかけると、
「へいき」
 とだけ言って本を拾い上げた。長門はまだ動揺しているらしかった。いつも通り振舞おうとしているのは分かるが、それが逆に普段との違いを浮き彫りにしているようで、俺は何だか複雑な気持ちになってくる。
 自分が消えちまうかもしれないなんて聞かされて平気でいられる奴の方が、それこそ人間じゃない。
 長門がこうした反応を見せるようになったことこそが、つまり普通の女の子に近付いた何よりの証なのだ。そしてそれが長門由梨なる代替インターフェースを思念体が用意する理由になってしまった。
……皮肉なもんだな。
 俺は長門からハードカバーを取り上げた。真っすぐな瞳が潤んでいるように見えたのはさすがに気のせいだろうが、それでも長門は何かをこらえているようだった。
「無理すんな」
 それだけ言った。長門は二秒ほど俺を見ていたが、やがて顎を引くように目を伏せた。
「ちょっとキョン、いいかしら」
 それまでパソコンを見ていたと思っていたハルヒが突如俺を呼び止めた。……何だよ。
「話があるの」

 俺はヤカンを火にかけたままわけがわからないという表情できょとんとする朝比奈さんに苦笑いを浮かべつつ、ハルヒに付き従って廊下に出た。

「有希とあの……由梨って子。ほんとに姉妹なのよね?」
 ドアを閉めるやハルヒが言った。……しかし廊下は寒いな。暖まりきってない部室の方がまだマシだ。
「あぁ、見りゃ分かるだろ。そっくりじゃねぇか、長門と」
「そうだけどさ。でも中身は正反対じゃない?」
 正反対、ね。どうだろうな。両方を初めて見る人にとっちゃ髪の色くらいしか差がないように見えるんじゃないだろうか。ハルヒの発言はこれまで長いこと長門と付き合ってきたからこそのものだろう。
「由梨のほうもSOS団に入れる気なのか?」
 何の気なしに訊いたが結構重要な質問だ。ハルヒの行動はこれまでいくつも俺たちの運命を変えてきたからな。チト大げさかもしれんが、間違いではない。
「さっきまではそのつもりだったけど……」
 言いよどむとは珍しや。けど、何だよ。
「あの二人、姉妹仲悪いんじゃないかしら」
 ……。
 さて、俺はどんな表情をしていたんだろう。仲が悪い、か。何せ有希の代わりをするために由梨が派遣されてきたのだから、仲がどうこう以前に両者はもともと相容れない立場にあるのだ。
「ちょっと見ただけでそう決め付けちまうのは早計じゃないのか。単に両方無口なだけだろ」
「だといいんだけど。何か、有希はあの子に困ってるように見えたから」
 あんだけ動揺する長門を見りゃそれは誰だって何か勘繰るだろうな。谷口なら一生分からないままかもしれんが。
「お前はどうしたいんだ?」
「そうね。……込み入った問題なのかもしれないし、しばらくは様子を見ようと思ってるけど」
「おや、お二人揃ってどうしましたか?」
 現れたのは古泉一樹である。
「掃除当番だったもので、遅れてしまいました」
 などと訊いてもいないイイワケをする。ハルヒは古泉を見て、
「古泉くん、有希に妹がいたって知ってた?」
 腰に手を当てて問いかけるハルヒに古泉は一瞬笑みを崩し、ちらと俺と眼を合わせ、
「いえ、初耳ですね。長門さんに……妹さんが?」
 俺は神妙に頷いた。


「なるほど。そういうことでしたか」
 十分後の部室である。一応各自それぞれの放課後風景の一ピースとなっているが、長門は本を読まずに窓の外を見ているし、ハルヒはやたらとマウスをクリックしているし、朝比奈さんはそんな空気を感じ取ったのか一度茶を載せたお盆を盛大にひっくり返した。
 俺と古泉は二人でイマイチ盛り上がらないダイアモンドゲームをついでのようにして、その間に俺が朝あったことをひとしきり説明した。
「お前の意見を聞かせてくれないか」
 かなり小声で喋っている俺たちだった。昨日までのバタバタがウソのようにしんとしている。間もなく特典映像の撮影が始まるはずだったが、ハルヒはまだ号令をかけなかった。
「長門さんより先に僕の見解を訊くんですか?」
 長門は今あんな状態だからな。上の空の長門なんてものを初めて見たぜ。いつも半分寝ているような眼をしている長門だが、今日はどこか別の世界に旅立っている気すらしてくる。
「仮に長門さんがここからいなくなってしまうとして、僕にそれを止めるのは荷が重たすぎますね」
 ふいに夏場に果たされた雪山での約束を思い出した。あの時、こいつは十分すぎるほど俺たちに味方してくれた。そこで一部明かされた古泉の本心を、俺は今でも忘れていない。
「あなたも。誰が一番長門さんの力になれるのか、とっくに分かっているのではないですか?」
 ぐむむ。訊いた俺がバカだったか。一年半もやって来て俺はどんだけ学習能力がないんだろうな。
「ですがそうですね。ひとつ言うならば、僕もまだこの日常を続けたいと思っています。なので、長門さんがいなくなってしまっては僕個人としても困りますね」
 長門がいなくなって困らない人間などこの部室にいないってのは遥かSOS団黎明期に遡っても変わらない事実さ。あの時の俺はそう思ってなかったがな。

 緊急事態といえば緊急事態であるはずなのだが、入学から今までに至る一連の流れにおける山場は、夏の一幕で片がついたという確信があったので、俺はこの一件に肩の力を抜いて接して行くつもりだった。少し悲しくはあるが、全体を起承転結とすれば転のパートが終わってしまったらしいことは事実なのだ。俺はこれまでを十分すぎるほど楽しんだし、今だって日常をどの時より楽しんでいる。だから長門妹の登場は結にあたる部分の始まりなのかもしれないと、どこかで思っていたのだった。


 結局、その日は映画撮影の事後キャンペーンは一時凍結され、俺たちは普通に(誰も彼も全然普通じゃなかったが)放課後を過ごして終業となった。

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最終更新:2020年03月15日 22:43