一 章

 

一章口絵 

 Illustration:どこここ


 

 そろそろ梅でも咲こうかというのに、いっこうに気温が上がらない。上がらないどころか意表をついたように雪を降らせる気まぐれの低気圧も、シャミセン並みに寒がりの俺をいじめたくてしょうがないようだ。朝目覚ましが鳴ると、いっそのこと学校を休んでしまおうかと考えるのが日課になっている。俺は窒息しそうなくらいにマフラーをぐるぐる巻きにして家を出た。

 

 結果はともあれ本命も滑り止めも無事に受験が終わって、学校では三年生をほとんど見かけなくなった。生徒の三分の一がいなくなり、校舎の一部がガランとして静まり返っている。一年生も二年生も残すところ、憂鬱な期末試験だけだ。三年生でも朝比奈さんだけは、SOS団のためにまじめに通ってきているようだが。

 

 その日の朝、教室に入ると俺の席の後ろで机につっぷしているやつがいた。ハルヒが珍しくふさぎこんでいる。
「よっ、どうしたんだ?」
「どうもしないけど、今朝からずっと耳鳴りがするのよね」
お前もか。俺も今朝起きたときからずっと妙な感覚を感じていた。どこがどう妙なのか分からなくて説明のしようがないんだが、視界がぼんやりしているというか、嗅覚が妙に生っぽいというか。まあ原因も分からないし、気にはしない風を装っていた。
 二限目の英語の授業中、突然教室の前のドアがガラリと開いた。誰が入ってきたのかと全員がそっちを見た。俺もつられて教科書から目を上げると、隣のクラスにいるはずの長門が飛び込んできた。
「ちょ、有希どうしたのよいきなり」
長門はハルヒの首筋にちょっと触れ、ハルヒはそのままがっくりと意識を失った。
「おい、何があったんだ」
「……急いで、時間がない。涼宮ハルヒを背負って外に出て」
俺は言われるままに気絶したハルヒを肩にかついだ。教師とクラスメイト全員が唖然としている中を、ちょっとお騒がせしますね、と言いつつ廊下に出た。
「やあ、どうも」
廊下には古泉も待っていた。長門はドアをピシャリと閉めた。
「……時空震の初期微動を感知した。フィールドを張る」
長門は右手を上げて詠唱をはじめた。四人を包む、直径三メートルくらいの青く光る球体が生まれた。
「朝比奈さんは無事なのか」
「……間に合わない。無事を祈る」
そう言うが早いか、球の外の映像がブレはじめた。この感覚、前にもあった。一昨年の十二月十八日、俺が校門前で朝倉に刺されたときだ。改変された世界が元に戻るとき、これに似たような大規模な時空震が発生した。
「原因は何だ?誰かが歴史を書き換えようとしてるのか」
「……分からない」
数分してまわりの景色は元に戻り、俺たちを包んでいた青い球体は消えた。
「もう、大丈夫」
「そうか。教室に戻っていいか?」
「……いい」
「ありがとよ」
「……お礼ならいい。わたしはしばらく調査する」
長門はそういい残して廊下を走り去った。
「今日の長門さんは颯爽としていますね」古泉が言った。
あいつが危機感を持つのはよっぽどのことなのだろう。
「じゃ、後ほど部室で」
手を振って去っていった。脳天気だなこいつ。

 

 さて、気絶したハルヒをかついで教室に戻るのに、どう説明したものかな。しかしハルヒ、重いぞ。

 

 その日の放課後、午前中にあった時空震のことが気にはなっていたのだが、長門がその後なにも言ってこないのでとりあえずは安心していた。
 部室棟の階段を登ると、文芸部部室がやたら騒がしい。またハルヒが新人勧誘でもおっぱじめたのか。ドアを開けるなり「キョン君!」と聞きなれた声がエコーして聞こえた。なんだこの五・一チャンネルサラウンド並みの音響効果は。
 俺はそこにあるものを見て我が目を疑った。あ……朝比奈さんが、「朝比奈さんが十一人いる!」
「長門、ちょっと状況を説明してくれ」
「……次元断層によって複数の分岐が同時に生まれた。複数の未来軸が発生」
「つまりですね、調査に訪れた朝比奈さんが十一人いる結果に」
古泉が肩をすくめた。なんてこった。時空震動で人が増えるとあっちゃ、お役所の戸籍係が混乱しかねん。この先の少子化にも歯止めがかかるだろう。
「キョン君」「困った」「ことに」「なっちゃい」「ましたぁ」
十一人の朝比奈さんのうるうる瞳に囲まれて、俺はパニックなようなパラダイスなような複雑な気分に襲われた。
「お願いです、誰かひとり代表してしゃべってもらえませんか」
「誰か」「って」「誰が」「代表に」「なれば」「いいんで」「しょしょしょしょ」
最後のは完全にこだましていたな。

 

 ちょっと朝比奈さんには失礼して、俺と長門、古泉だけで円陣を組んで対応を協議した。
「長門、この中のどれが本物だろうか?」
「……正直言って分からない」
「ホクロを調べてみてはいかがでしょうか」古泉が笑いをこらえている。
「お前、堂々と朝比奈さんに胸を見せてくれと言えるのか」
「僕の口からは言えませんね。あなたなら角が立たずに確認できるんじゃないでしょうか」
「お前この状況を楽しんでるだろ」
「分かりましたか」
「……ひとりずつ、コスプレさせるのがいい」長門が口のはしで笑っている。
「しかし十一人分の衣装が……って長門、お前まで悪ノリするんじゃない」

 

俺は部屋の中を右往左往する朝比奈さん達に向かって言った。
「えーと、朝比奈さん、じゃなくて朝比奈さん達。とりあえず自分の時空に戻っていただけませんか。こんなところをハルヒに目撃されたら、説明のしようがありません」
「それもそうですね」
ゴスペルのコーラスでもやれそうな十一人の声が同時に応えた。
「でも、誰かが残らないといけませんよね」
そりゃそうだ。ひとりは残らないとこの時間平面から朝比奈さんがいなくなってしまう。
「じゃ、じゃあ失礼ではありますが、誰が残るかくじ引きで決めたいと思います」
俺、もしかしてこの状況を楽しんでないか。

 どこから用意したのか、長門が爪楊枝を握っていた。市内不思議パトロールの班分けと同じく、十一本中、一本にだけ赤い印が入っている。
「赤いのを引いた朝比奈さんが残ってください」
朝比奈さん達は、まるでワルキューレの杯を煽るかのように真剣な面持ちで一本ずつ引いた。
 やがて外れた朝比奈さんはひとりずつ消えていった。俺に手をふりふり、涙さえ浮かべて。なんかすごく悪者になった気分だ。赤い爪楊枝を引いた朝比奈さんだけが満面の笑みを浮かべていた。
「やれやれだな」
「失礼ながら、時間旅行をする者の悲しいサガ、とでも表現しましょうか」
古泉が愉快そうに笑っている。
「ひどいわ古泉君」
朝比奈さんは苦笑していた。俺にも似たような経験はあるんだ。時間を超えて行った先に俺がいたんだからな。


  可憐なる文芸部室の天使をまとめて十一人も拝むことができ、俺は十一日分の癒しを得たような心持だった。晴れやかなるニコニコ気分で朝比奈印のお茶をすすった。だがそれで終わりではなかった。



 帰宅後、朝比奈さん達がコスプレでサッカーをしているところを妄想していると、めずらしく長門から電話がかかってきた。
「……全員集まってほしい」
「なにがあったんだ?」
「……詳しくは、後で」
長門が召集をかけるからにはよっぽどのことなのだろう。
「分かった。古泉と朝比奈さんには俺から連絡を入れる」
「……待っている」
 古泉に電話をかけると、タクシーで朝比奈さんを拾ってから直接行くと言った。午後八時、俺は自転車を飛ばした。マンションの入り口で長門が教えてくれていた四桁の番号を押す。七階まで上がり、部屋の前でインターホンを鳴らそうとしたらドアが開いた。長門はドアの前で待っていたようだ。
「……入って」
「古泉と朝比奈さんはまだ来てないのか」
「……まだ」
 あの事件からこっち、長門の部屋に入るのは久しぶりだった。部屋の様子が少しだけ変わった。カーテンが暖色系の花柄に変わっている。それから花瓶に花がさしてある。長門が花を活けるなんて珍しい。だいぶ人間っぽい雰囲気がするようになった。元々が殺風景すぎたんだが。
「部屋、明るくなったな」
「……そう」
長門がお茶を運んできた。少しだけ微笑っぽいものが浮かんだ。
「……飲んで」
「ああ、サンキュ」
 この部屋に最初に訪れたときには、正直寒くてとても人が住んでるとは思えない空間だったが。そんでもって情報生命体やら宇宙論やらを聞かされた日にゃ、痺れの来た足ともどもさっさと帰りたい一心だった。なんとなくだが、今俺はこの長門空間を気に入っている。こうして、湯飲みからゆったりと立ち上る湯気と、どこを見てるでもなく静かに座っている長門。

 インターホンが鳴った。古泉が到着したようだ。長門は立ち上がってインターホンの映像に向かって「入って」と言った。
「どうも、遅くなりまして」
「あの、長門さん、お邪魔します」
古泉の隣で朝比奈さんが小さくなっていた。長門が二人分のお茶と羊羹を運んできた。四人がなにを喋るでもなく、ただただお茶をすする。部屋を暖めるエアコンの音だけが静かに流れていた。
「長門、そろそろ本題に入ってもらっていいか」
「……もう少し待って。もうひとり来る」
もうひとり?誰だろう。そのとき、インターホンが鳴った。喜緑さんが入ってきた。清楚な感じのレディ、この人のやさしい笑顔を見るのは久しぶりだ。
「皆様、こんばんわ」
「どうも喜緑さん。いつぞやはいろいろお世話に」
「いえいえこちらこそ。お元気そうでなによりですわ」

 

 キッチンからお茶と羊羹をもう一組運んできて、長門は口を開いた。
「……本題に入る」
長門は和室のふすまを開けて、奥から熱帯魚の水槽のような感じの、立方体のガラスケースを持ち出してきた。中に本らしきものが浮いている。これは……思い出すもおぞましい、あの文庫本じゃないか。長門はそっとこたつの上に置いた。
「……これは、涼宮ハルヒとその周辺について書かれた本」
「なんですかこれ、涼宮さんって作家になったんですかぁ?」
「はて、そのような事実はなかったような気がしますが」
二人とも、前と同じ反応をしているな。
「涼宮ハルヒの著作物ではない。情報統合思念体では、以前にも同じ現象を観測した。これに関する情報は禁則事項となっていた。全員の記憶は、消去されているはず」
実は俺だけは覚えてるんだが。
「これより説明する。禁則が一時的に解かれる」
長門は喜緑さんに視線をやった。喜緑さんはうなずいた。長門の禁則解除のキーって喜緑さんだったのか。

 

 長門は去年の十二月に起こった出来事から、谷川流氏のいた世界にスリップし、戻ってくるまでを話しはじめた。俺とアパートで出会ったシーンからは省いたが。
「そんなことがあったなんて……」
「つまり、この本に書いてあることが僕たちの世界の動向を左右するわけですか」
「俺の手にあった本は向こうに置いてきたよな」
「……それとは、別の一冊」
「長門に直接送られてきたわけか」
「……そう。前回直接手で触れたが、それはきわめて危険。クロノ放射を検出した。重力子フィールドで覆ってある」
クロノ放射が何なのか知らないが、ケースに入ってるのはそのためか。
「本来ならこれは見えていないはず」
長門曰く、フィールドの壁越しになんらかのエネルギーが漏れている。そのために肉眼で見える、のらしい。よく見ると、ゆっくりと回転する本の向こう側が透けている。

 

 これはいったい、誰が何のために用意したのか。

 

「今朝の時空震も関係あるのか」
「……情報量が限定されているが、その可能性は高い」
「それで、本の出所は分かったのか」
「……今のところ不明。もしこの本が氾濫したら、次元のパラドクスが生じる」
「またもや世界は消滅の危機ですか」
「……消滅はしない。歴史を上書きするか、無限ループが生じるだけ」


「で、俺たちを呼んだ理由は」
「……防衛線を張るために、全員で同行してもらいたい」
「ということは、わたしたちが向こうの世界に行っちゃうんですか?」
「……そう。著者とのコンタクト、本の出所、送付者の敵性判断を含めた調査」
「行くなら厚着していったほうがいいな。あと生活用品とかも」
こないだはほとんど何も持たずに行ったからな。あの状態なら何を持っていっても役に立たなかっただろうが。
「向こうの世界は特殊な環境なんですか」
赤道の反対側で季節が逆だからとかじゃなくて、十二月に飛ぶからなんだが。
「……こちらとほとんど変わりない」
「では、必要な物資は僕のほうで揃えましょう。なにがご入用ですか」
「……全員分の身分証明書、レーション、救急医薬品」
「世間は未成年には冷たいからな。身分証明がなくてなにかと苦労した」
「じゃあ免許証を手配します」
「それから金も多少あったほうがいい」
まだこないだの金、返してなかったな。戻ってきたらバイトしないと。
「かしこまりました。武器はいりますか?」
「武器の携帯は厳禁です……あぶないですぅ」
「冗談ですよ」
古泉はふっと含み笑いをした。
「バナナはおやつに入りますか?」
この非常時になにを言っているのかと、全員の冷たい視線を浴びた。古泉は自らを恥じるように詫びた。
「す、すいません。ちょっと言ってみたかったもので」
なんだかこいつだけは不必要に楽しそうだな。緊張を楽しむタイプか。

 

「……決行は明日、部室にて」
長門はメンバーを見回して、異議がないことを確かめたのか、ひとこと呟いた。
「……解散」
俺たちはそれぞれ帰宅した。
 やっぱり出発は部室なのか。古泉が前にも言ったことがあるが、あの文芸部部室はいくつかのエネルギーが飽和状態にあり、いつでも流出しやすい状態にあるという。長門によれば、遠く銀河を離れても、時間平面を超えても観測できるらしい。そんなところで部活動を展開している俺たちもどうかしているが。


 週末のSOS団部室、もとい、文芸部部室だ。
 俺は六限の終わりを待たず、珍しく授業をさぼってさっさと部室に行った。遠足の前日のようなワクワク感を抑えられなかった。授業もどうせ必修科目じゃないし、三学期のこの時期だけにやる気もないし。
 部室のドアを開けると長門しかいなかった。さすがに今日は本を開いていないようだ。
「よっ。今日は早めに来たぜ」
もし俺だけに知らせておくことがあれば、あるいは前もって検討しておくことがあればと思って余裕を持って来たのだが。長門はそんな様子は見せなかった。
 なにをしてるのかは分からないのだが、長門はハエか蚊を捕まえるような仕草をしていた。
「なにを捕まえてるんだ、虫か?」
「……素粒子」
「素粒子って、あの黒い球のやつか」
「……緊急用の素粒子球を全員に配る」
あんな重たいもん持たせても荷物になるだけな気もするが。長門は俺の顔の前で、サッと見えないなにかを捕まえた。俺は長門の手を凝視した。まさかチェレンコフ光が見えたりはしないだろうけど。

 

「やあ、遅くなりました」
古泉が清々しいスマイルとともに現れた。まだ授業は終わってないだろ。なんだその膨らんだリュックは、登山じゃないんだぞ。
「出発するのに必要な物資です。用意するのに手間取りまして」
こいつがキャンプに行くときは必ず食料隊長を買って出るんだろうな。
 古泉は長テーブルの上にゴトゴトと物資とやらを並べ始めた。コンパス、GPS、その妙な天体観測器具みたいなのは六分儀か、いつの時代の旅行だよ。食料は水とカロリーメイトと、レーションはNASAで開発のアレか。

「それから身分証明書です」
免許証を受け取った。写真の写りはいまいちだが、よく出来ている。普通自動車だけか。
「大型特殊とか牽引二種とかがご入用でしたか」
そんなもんあっても運転できねーだろ。普通自動車でもあやしいのに。
「あら、皆さん早いんですね。遅れちゃってごめんなさい」
通学カバン以外に旅行用のバックも下げている朝比奈さんが現れた。いいんですよ、俺はあなたが来ることが分かっているなら日が暮れても待ちつづけますから。
「あの、制服のままでもいいんでしょうか。いちおう旅行用の服も用意してきたんですけど」
「いいんじゃないでしょうか。必要なら向こうで着替えられると思います」
旅行用ってまさか、エジプトでミイラの発掘をするようなコスプレではあるまい。それはそれで見てみたい気もするが。俺は通学カバンに必要最小限の衣類だけを詰め込んで、教科書の類は机にしまったままだ。
 しかし、全員が一度に現れたら谷川氏はいったいどんな顔をするだろう。今から楽しみだ。
「長門、喜緑さんは一緒に行くのか」
「……彼女は連絡要員として残る」
「じゃあ、これで全員だな」
長門はうなずいて、カバンから小さな包みを取り出した。丁寧に包まれた銀色のシートのようなものを開くと、あの文庫本が出てきた。
「もしかしてそれを読むのか」
「……この本の位相情報を使って転移するだけ」
そうか、よかった。あのループする感覚は頭がおかしくなりそうだからな。

 長門は朝比奈さんに向かって言った。
「……次元転移の後、時間移動が必要」
「わたしの出番ですかぁ?ええっと、待ってください。上司に聞いてみないと……」
朝比奈さんは少し視線をさまよわせたが、今度は困ったような顔をした。
「あの……前例がないので判断しかねる、らしいです。どうしましょう」
まるでどっかの頭の固いお役所だな。窓口が三時に閉まらなくてまだマシだ。
「よその世界での時間移動なんて、こちらにはさして影響ないでしょう」
古泉がフォローしたが、投げやりだな。まあそうとも言えないんだが。
「それもそうですね。なにがあってもわたしの責任じゃないですよね」
朝比奈さん、無責任なことをそんなに嬉しそうに言わないでくださいよ。
「……そう。では、はじめる」
長門は文庫本を開き、空中に放り投げた。それは床には落下せず、宙に浮いたままゆっくりと自転した。これ、重力に逆らってるのか。長門が右手を上げて詠唱をしようとしたとき、突然ドアが開いた。
「……あ」
「あ……」
「あんたたち、あたしに内緒でなにしてんのよ。そんなリュックなんか背負って、夜逃げでもする気?」
まずいときにまずいところを見られた。今日は掃除当番じゃなかったのか。
「す、涼宮さん」
「ええっと、僕たちはですね、春休み中の合宿を検討していたんです」
「そうなんです。わたしたち、遠足の予行演習をしていたんです」
朝比奈さん、あなたは来月に卒業する身分ですよ。
「団長のあたしを差し置いてそんなミーティングを開くなんて、免職処分だわ。よくて減俸ものよ」
俺たち給料もらった覚えはないんだが。ボーナス払ってもらえるなら今すぐやめてやってもいいぞ。

 ハルヒの眉毛がピクピクと動いた。腕組みをして一同を睨みつける姿は、部下の陰謀に気が付いた戦国の武将のようだ。
「僕達で計画して涼宮さんを驚かせようと思ってですね」
「そんなたわ言は聞きたくないわ。本当のことを話しなさい」
今回ばかりは古泉の必殺爽やかスマイルも役に立たないようだ。全員が、いったいどうしようと互いを見た。
「なによその、示し合わせるような視線は」
俺はハルヒの腕を取った。
「ハルヒ、お前も一緒に来い」
「来いってどこによ」
「でも、そんなことをしたら」古泉が俺を制しようとした。
「置いていったらアレが出るぞ」
古泉は黙った。アレといったらアレ以外ない。
「ハルヒ、今は説明してる暇がないんだ。向こうで説明するから来い」
俺はいつも、厄介事はあとに回すのが習慣なのだ。
「あとは俺が責任を持つから、長門、やってくれ」
「……分かった」
ずっと右手を上げたままだった長門が、ハルヒの呪縛から開放されたかのように呪文を唱えた。

 

 あのときのような白い光には包まれなかった。まわりが暗闇になり、うっすらと見える青い光に包まれた。ドアがあったと思われる方向から、ひとつの青い光の輪がやってきて俺たちを包み、そこにいる五人の姿を照らして、やがて窓があったと思われる方へと消えた。続いて同じ輪が次々と現れは消え、現れては消えた。青い光の輪が並ぶトンネルをくぐるかのように、そして動く歩道の上で移動しているような感覚に襲われた。

 ゆっくりと浮かび上がった長門の影が、ドアのほう、光のやってくる方向を指差した。まず長門が、それから俺が続いてそっちへ歩き始めた。まるで暗いトンネルをくぐるかのように。数歩歩いてから、ふと気が付くと正門前にいた。西宮北高だった。


「……到着した」
時間移動にも時空震動にも、似ても似つかない現象だった。今しがた潜り抜けてきた一風変わった風景に、全員が呆然として黙りこんでいた。
 朝比奈さんが思い出したように口を開いた。
「ええと、じゃあわたしの番ですね」
 行き先の日付は俺がここを離れた十二月二十四日、だいたい夜九時半から十時ごろだろう。朝比奈さんは全員が手を繋いだことを確かめてうなずいた。風景がぐるぐると回りだした。俺も朝比奈さんもハルヒに目を閉じていろというのを忘れていた。三半規管がツイスト状のドーナツみたいになったような不快感に襲われ、足元が天井に張り付いたような重力逆転の幻覚を見てから、ようやく落ち着いた。
「着きました。午後九時四十五分です」
 ハルヒを見ると手で口を抑えている。無理もない。奇妙な模様が走るトンネルを歩かされ、テーマパークの絶叫マシンでも体験できないような気分を堪能したのだからな。
「おい、こんなとこで吐くな」
 俺は全員を促し、人目を避けてともかくグラウンドに入ることにした。俺はハルヒを水飲み場へ連れて行った。ハルヒは顔をジャブジャブと何度も洗い、俺が渡したハンカチで鼻をかんでようやく落ち着いたようだった。

 二日酔いで青ざめたような顔をしたハルヒが口を開いた。
「それで、いったいここはどこなのよ」
 さて、ハルヒにどう説明したもんだろう。今までこいつにはいろいろとその場しのぎの嘘をついてきたが、今回ばかりはどう説明すればいいのか見当もつかない。いっそのことタイムトラベルと言ってしまえば、まだ救いようはあるんだが。じゃあどうやってやったのと深く追求されたら、朝比奈さんの秘密を明かすしかなくなる。
「それに、なんで夜なの?まさかタイムトラベルしたの?」
「まあタイムトラベルではあるんだが、ここは俺たちの住んでる世界とは違う、簡単に言ってしまうと異世界だな」
「は?そうなんだ」
ハルヒはぽかんと口を開けた。俺はてっきり、何バカなこと言ってるの、ちゃんと説明しなさいよね、と首を絞められるかと思っていたのだが。
「ということはよ、ここに住んでる人たち全員、異世界人なわけね」
お前、なに目んたまキラキラさせてんだ。
「異世界人は俺たちのほうだろう」
「まあ、外国に行けば自分が外人になるようなもんだけど」
分かりやすいな。
「それで、ここはどういう世界なの」
「どう説明すればいいか分からんのだが、俺たち以外の人間はふつうに存在してふつうの日常を暮らしてる」
「つまり、あたしたちがいないわけ?」
「まあ、そういうことだ」
「分かったわ。こういうことね、異世界人を捕まえてあたしたちの世界に連れて行って人体実験しようってのね」
「そんな地球外生物みたいな真似するかよ。お前が異世界人に会いたがってたからツアーを組んだんだ」
いい兆候なのか悪い兆候なのか、やっと俺らしい出任せが口をつくようになった。
「あたしに黙って行こうとしてたじゃない」
「これは調査旅行のはずだったんだよ。いきなり団長を連れていってトラブルになったら申し訳ないだろ」
「まあ、それもそうね。ロケハンは下っ端のやることだしね」
やっと納得したか。ほかの三人もほっとしたようだった。長門が唱えていたアレはなんだと聞かれなかっただけでもありがたい。俺、段々とハルヒをごまかすのがうまくなってきてるような気がする。勉強はそっちのけでそんなどうでもいいような技術を会得してるなんて、かなり鬱だ。

 


二章へ

 

 

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最終更新:2020年07月01日 15:26