とある研究所の社宅(という言い方もおかしいけど、他に言い方がないので、こう呼ぶことにする)の一室が、今の僕の住居だった。
「ただいま」
僕がそういうと、即座に妻の挨拶が返ってきた。
「おかえりなさぁい」
妻の顔を見るのは、三日ぶりだ。ある実験で、三日間ほど研究所にこもりっきりだったから。
僕と同い年だから二十代半ばを過ぎているはずなのだが、今でも高校生だといったら通じるんじゃないかと思うほどの童顔で、可愛らしい愛妻だ。
思わず抱きしめたくなるほど……むっ……。
駆け寄ってきた妻が、飛びついてキスしてきたため、結局、抱きしめてしまった。
妻が夕食を食卓に並べている間に、普段着に着替える。
三日ぶりに妻の顔を見たためか、ふと昔のことを思い出した。
学校が異なる二人の高校一年生のときの出会い。高校卒業間際に僕の方から告白したこと。大学・大学院時代を通じての遠距離恋愛。そして、結婚。
そういえば、突如として僕の目の前に現れて告白を後押ししてくれた朝比奈みくるさんは、どこかしら、妻に似ていた。
今から思い返してみれば、僕が小学生のときに交通事故から僕を救ってくれた件も偶然とは思えないし、もしかしたら妻との出会いにも彼女は関与しているのかも。
彼女の素性については、予測はついている。それを口に出したことは一度もないけれども。
僕がこれから生涯をかけて研究しようと心密かに決心していることも、そして僕と妻との関係も、きっと遠い未来につながっているのだろう。
おっと、つい考え事に没頭してしまった。
今の僕は、所詮は駆け出しの研究者にすぎない。
遠い未来のことを妄想していては、鬼に笑われるだけだ。
今は、愛妻の手料理に思いをはせることにしよう。
着替えを終えて戻ると、食卓には豪華な夕食がそろえられていた。
「豪華だね」
「今日はがんばったんだよ」
実験で閉じこもっていた三日間はろくな食事をしてない。
そんな僕のために、妻はがんばってくれたようだ。
さっそく手をつける。形容しようがないくらいにおいしい。素直な感想を伝えると、妻はニコニコ顔で喜んだ。
互いにこの三日間のことを話し合いながら、食事は進む。
僕が話す実験のことなんてほとんど理解できないだろうけれども、それでも妻は楽しそうに聞いてくれた。
夕食が終わり、二人でソファに座ってなんとなくテレビを見ていると、
「ねぇ、ハカセ君」
妻は、僕のことを昔からあだ名で呼ぶ。結婚したんだし、そろそろやめてほしいと思う。
そういえば、義兄もいまだに「キョンくん」というあだ名で呼ばれることをなげいていた。
「なんだい?」
妻は、上目遣いで僕を見つめてきた。
「あたしね。赤ちゃんがほしいの」
唐突な発言だった。
結婚するときもこうだったな、と思い出す。今から考えると、逆プロポーズだったわけで、男としては少し情けない気もする。
それはともかくとして、妻を説得せねば。
「赤ちゃんを育てるのは大変なことなんだよ。分かってるのかい?」
「『そんなもんは気合で何とかなるわよ!』って、ハルにゃんが言ってたもん」
涼宮先輩も余計なことを吹き込んでくれたものだ。
涼宮さんは、小学校のころ僕の家庭教師をしてくれた人で、今は義兄の妻、そして研究所の先輩にあたる。といっても、涼宮先輩は在宅勤務なので、妻の実家に帰省するときぐらいしか顔を合わせることはない。
彼女は、生物学から、理論物理学、航空宇宙工学その他もろもろまでを一人でこなすバイタリティにあふれる天才的な研究者だった。
しかし、天才であるがゆえに、何事も自分を基準として発言する傾向があった。
あの人なら、子育ても気合で何とかしてしまうんだろうけど……。
「あのね。僕は就職したばかりで、収入は二人で暮らしていくのにぎりぎりなほどしかないんだよ。もう一人増えたら生活が苦しくなってしまう。そうなったら、僕たちはともかく、子供がかわいそうだよ」
妻は頬を膨らませて不満顔だったが、納得してくれた。
彼女は、ただをこねる子供のような態度をとることがあるけれども、理を通して話せば素直に理解してくれる。
そんな妻の願いを早くかなえるためにもがんばろうと思った。
研究から生まれた特許は研究所と研究者の共有となり、その使用料は折半する規則になっている。実用的な特許を一つでもとれば、収入はだいぶ安定するはず。
そうなれば、自分がやりたい研究にも家庭のことにも多くの時間を割くことが可能になる。
僕と妻の子供か……。
きっと、妻に似て可愛い子供だろう。
僕がそんな想像に浸っていると、
「ハカセ君」
妻が再び呼びかけてきた。
「なんだい?」
「赤ちゃん作る練習しよ」
上目遣いで見つめてくる可愛らしい妻は、僕の理性を決壊させるのに充分すぎた。
僕は妻を抱き上げると寝室へと向かった。
その後のことについては、黙秘ということで。
終わり。