「あの……今日の帰り、空いてます? 良かったら、2人でコーヒーでも飲みに行きませんか? ああ、もちろん俺のおごりですからご心配なく」
 キョンくんは目線をそらし、少し照れたふうにそう言った。
 カウンターパンチを狙ったつもりが、逆にそこにつけこんだフェイントをくらったような気がして、私は言葉を失った。
「ええと、すいません。何か予定がありましたか?」
 応えるタイミングを見誤った私を不思議がるように、心配気なキョンくんが面食らった私の顔をのぞきこんでいる。私はほとんど反射的に、「そうなんだ。ちょっと今日は予定が入っててさ!」 と返答していた。本当は別に予定なんてないのに。クラスメイト数人と帰りにお気に入りのパン屋に寄っていこうと話してはいたが、それだって予定と呼べるほどの拘束力があるわけじゃない。一言断りを入れておけばそれで住むような簡単な口約束だ。
 一瞬、何故自分がこんな嘘をついてまでキョンくんのさそいを断っているのか、判断しかねた。
「そうですか。じゃあ、明日は大丈夫ですか? 落ち着いた場所でゆっくりしながら話をしたいから、喫茶店にでもと思うんですが」
「ああ、明日ね。ごめんねキョンくん。実は明日も予定が入っちゃってるんだよねぇ。あはは。ホントごめん。家庭の事情でね、ちょろっと抜けづらい用事なんだ」
 申し訳ない表情を演技で作り、私は残念そうなキョンくんに背を向けた。

 

 気がつくと、私は嘘をついていた。友人のさそいを断るくらい大事な家庭の事情なんて、何もないのに。
 キョンくんのおさそいを断るだけなら、嘘をつく必要なんて全然なかった。正直に友人とパン屋へ行く約束をしているからとか、気分がのらないからとでも言っておけば、キョンくんなら一言 「そうですか」 と言って、深くは追求してこないに違いない。
 じゃあ何故、私は不必要な嘘なんてついたのか。
 胸の奥の方で、ちりちりと痺れるような鈍い痛みが波打っていた。

 

 

 

 古泉くんとの半年間の交際にピリオドを告げたのは、私の一方的な理屈だった。私は彼に恋焦がれていて、いつも一緒にいたいと願っていて、ずっとお話ししていたいと思っていた。それ自体は付き合っている恋人としては当然の願望だと考えていた。けれど、彼は、古泉くんの方は、そうは思っていなかったようだった。大事なバイトがあるとかでよくどこかへいなくなってしまったし、SOS団の活動が予想以上に長引いたなどの理由で私と会えない時もしばしばあった。
 そんな出来事のひとつひとつが少しづつ積み重なっていって、私の私らしさをゆっくり、緩慢にくずしていったのだと思う。

 

 彼には彼の生き方があるのだからバイトをやめてくれなんて言うつもりは毛頭なかったし、私自身がSOS団をとても気にいっているわけだから、その活動を制限してくれだなんて言えるわけもない。古泉くん自身は、彼なりに私のことを大事に思ってくれていたようなので、やはり彼の生活に口をはさむことはできなかった。

 いや、今にして思えば、それも自分を誤魔化すための方便だったように感じられる。彼に私の都合を押し付けたら、彼の価値観を否定したら、彼から与えてもらえる愛情を一気に失ってしまうかもしれない。そういう思考が少なからず私の意識下にあったように思う。だから私は、自分さえ我慢して彼をたてていればいいんだと思いこみ、不満はあってもそれを胸の内に押し殺して笑って彼と付き合っていた。


 その当時はまったく気づくこともなかったけれど、無理に抑え込んだものがそのままキレイサッパリ消えうせてしまうほど、やはり現実はあまくなかった。結局抑圧に抑圧を重ねた、私の彼を求める気持ちは、ある日とうとう抑えきれなくなり爆発してしまった。かわいさ余って憎さ百倍と言うのかな。激しい恋慕の反作用は想像以上に大きなもので、それまで私の心の大部分を占めていた彼への愛情は、驚くほど急激に冷めていった。
 私はただ、自分の心を表に出すこともなく毎日笑いながら過ごしていただけだったから、彼にはその私の心境の変化が理解できなかったに違いない。
 私から別れ話を切り出された時。彼は今まで見たこともないほど呆気にとられた顔で、無理に愛想笑いを繰り返していたのを覚えている。誰が見たってそれは自分の身にふりかかった理解不能な突然の災難に押しつぶされまいと抗う、彼のやせ我慢だった。

 私の言葉が心底信じられないという感じで、彼は平静を装って私にいろいろと質問を投げかけてきた。何故、突然別れ話などを持ち出したのか。自分の何がいけなかったのか。などなど。本当に彼は状況が把握できていない様子だった。把握しろという方が無理な注文だけど。だって彼には、落ち度がないのだから。

 「付き合っている恋人を放ったらかしてバイトだ部活だと遊び呆けている男が悪い。男の方に落ち度がある」 という意見もあるかもしれない。それも正しい意見の一つではあるだろう。しかし、私たちはそういうスタイルでの付き合いはしていなかった。お互いの行動に理解を持ち、お互いの考えに理解を示す。そういうスタンスの関係だった。それは他の誰が決めたものでもない。私自身が決めた有り方だった。

 ただ私が交際というものに過大な期待を背負いこんで、勝手につぶれてしまっただけ。それだけのことなのだ。そういう意味では、彼には良い迷惑だったに違いない。
 だから私は、彼に対して負い目を感じるし、とても後ろめたい罪悪感を持っている。

 

 

 きっとキョンくんは、友人の古泉くんが私にふられてしまったこを知り、それを撤回して再び仲良くよりを戻すことを私に進言しようとしているんだ。だから、放課後の喫茶店で腰を落ち着けてゆっくり話をしたがっているに違いないんだ。
 そう思い込もうとすればするほど、私の胸の中の罪悪感が毒を噴出するように、ぴりぴりと痙攣し始める。それが痺れを伴い、とても、痛い。

 正直に言うと私は心のどこかでキョンくんが、私のことをデートに誘っているのではないかと思っている。そんなはずはないと分かっているのに、それでも頭の隅の影で、ひょっとしたら、と言う期待にも似た思惑が存在していることを否定できない。
 だから、そんな自分を咎めるように私の内の罪悪感が動き出すのだ。

 全てが終わってしまった後で 「あの時ああしておけばよかった」 と後悔する私を、私そっくりな顔をした胸中の罪悪感が侮蔑の貌であざ笑い、眉をひそめてささやきかける。

 

 ───古泉くんを自分勝手な理屈でふったくせに

 

 その重荷と痛みから逃げ出したくて。

 それじゃあ、とキョンくんに手を振って、私は階段を降り始めた。


「俺、あきらめませんから!」
 その時だった。背後の階上から降ってきたキョンくんの言葉に、一瞬足を止める。
 その言葉の意味を脳が解析し始めた瞬間、無理矢理それを打ち消すように私は駆け出した。

 

 

 


 午後の授業にはまったく身が入らなかった。
 考えまい考えまいとすればするほど、ズルズルと思考のループに陥ってしまい、自分がどんどん内向的になっていくのが手にとるように分かった。
 なんとか教科書を構えてノートを開き筆記用具を手にするが、形だけではとても勉強になんて打ち込めなかった。

 

 ───俺、あきらめませんから!

 

 あの言葉の意味は、なんだったんだろう。
 その意味を実に乙女らしい考え方で解釈すればするほど、胸の罪悪感はのたうち回るように暴れ続けるのだった。
 表向きには私は普通に授業を受けているように見えただろうけれど、どうやらそんな私の不穏な胸中に気づいた人物が約1名いたようだ。

「鶴屋さん、どうかしたんですか? 昼休みに屋上から帰ってきて、ずっと元気がないみたいですけど」
「ああ……いやぁ。あははは。なんでもないよ。なんでもないんだ」
 私がそう言って空元気をふかすほど、みくるの表情はどんどん曇っていった。そりゃそうだ。今の自分が愛想笑いでその場を誤魔化そうとしていることは、自分のことながら手に取るように丸分かりなんだから。泥沼だなあ、もう。
「なんでもないのならいいんですけど。もし悩み事とかあるのなら、いつでも相談にのりますよ」
 見る人誰もを安心させてくれる笑顔でにこりと笑うと、みくるは教材の後片付けにとりかかっていた。私のことが心配だけどこれ以上口出しするべきじゃない、と思い私に声をかけるのを中断したのだろう。その気づかいが今はとても嬉しかった。

 もし私が男の子だったら、絶対にみくるにアタック連発してるだろうな。こんなにかわいくて甲斐甲斐しくて、気遣いもできるんだもの。ちょっとドジだけど。でもこの子にはそれを補って余るほどの女の子らしさがあるし。おしとやかで、おしゃれで。話しても眺めても面白い。みくるは性別を問わず一緒にいたい!と思える女の子なのさ。

 

 私は、どうなんだろう? 他の人から、どう思われているんだろう。

 

 

 

 学校の帰りに友達たちとパンを買い食いしてはしゃいでも、家に帰ってきてお風呂にはいっても、頭のどこか深い場所をキョンくんの言葉が鋭利なトゲとなって掠め、傷をつけ、そこがかさぶたのように黒々とふくれていた。
 私は水玉のパジャマの上に上着を羽織ると、今日何度目かのため息をもらした。
 手にしている携帯のディスプレイには、10分前に着信したみくるからのメール本文が表示されていた。

 

『(´・3・)<明後日の土曜日、キョンくんと私と鶴屋さんでボーリングに行きませんか?』

 

 私とみくると、キョンくんの3人?
 みくるが私をボーリングやショッピングやカラオケに誘ってくることはたまにあるけれど、それは2人でのお出かけやクラスの友人たちとの交遊。特定の男の子1人交えた3人でのお出かけなど今までに一度もないことだ。
 初めてのことだから訝しがっているということではない。キョンくんとは仲の良い友人のつもりだから、休日に友達と誘い合って遊びに行く間柄になっても不思議はない。しかしそれは、あくまで普段の話だ。
 なぜこのタイミングで?

 

 ───俺、あきらめませんから!

 

 また彼の言葉が私の耳に蘇ってきて、熱をもったリアルさでリフレインする。

 ボーリングへ行こうと誘うメンバーの中に古泉くんの名前があったなら、私と古泉くんの問題に見かねたみくるとキョンくんが余計なお節介を焼いてくれているんだ、と納得できるのに。かわいらしいことをしてくれるじゃないか、と笑い飛ばせるのに。
 みくるにメールの返信で尋ねたところ、ボーリングに行くメンバーはあくまでもみくるとキョンくんと私の3名らしい。クラスの友達は元より、共通の知り合いであるSOS団のハルにゃんや有希っこは来ないのだという。
 3人という数字は、一体なにを意味しているのだろう。

 

 

 半年前。まだ私とみくるが2年生だった頃。
 少し離れたデパートまで買い物に出かけていた、その帰り。日差しの強いバスの車内で肩をよせあって談笑していた私とみくるがふざけあっていると、突然バスが急停車したことがあった。ふざけあっていた私たちはいきなりのことにつんのめり、手摺につかまることもできず、強い力で突き飛ばされるようにバスの床に転がった。
 大丈夫ですか? そう言ってみくるに声をかけ、私の腕を持ち上げてくれたのが古泉一樹くんだった。
 少し油断して転んだだけなので、最低限の受身を取ることはできた。だから、多少打った腰が痛みはしたが、擦過傷も負ってはいなかった。
 しかし彼は心配そうな顔つきで、じっと私の目を見ていた。
 古泉くんとは何度も顔を合わせていたけれど、あんなにも近い距離で見詰め合ったのは初めてのことだった。そして、彼のあの切れ長の目を間近で見た時、私は始めて彼を異性として認識したように思う。
 あの時、バスの中に居合わせたのは、私とみくると古泉くんの3人だけだった。
 その数日後に私と古泉くんは付き合うようになったのだが、だいぶ裏でみくるが暗躍してくれたようだった。尋ねてみても彼女は意味深に顔をほころばせるだけだったけれど、それは雰囲気というか、場の空気みたいなもので私にも敏感に感じ取れていた。

 

 あの日、あの突き刺さるような日差しの暑かったバスで、心配そうに私を見ていた古泉くん。
 そんな私と古泉くんの仲をとりもってくれたみくるのほころんだ笑み。
 屋上の上から降りる途中、階上から聞こえたキョンくんの真面目な声。

 

 いろいろなものが頭の中でぐるぐると回り、煮えたち、どろどろに混ざり合っていった時、また胸がちくりと痛んだ。
 私は携帯のディスプレイを閉じると、エアコンのリモコンを手にとってベッドの上に身を横たえた。
 真っ暗な夜闇の向こう側から、雨樋を打つ雨の音が間断なく聞こえていた。

 

 

  つづく

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最終更新:2008年01月11日 19:23