誰が作曲したのか、どんな曲名なのかは分からないが、何度か耳にしたことがある気がしないこともないクラシック音楽。おそらく、此処の喫茶店のマスターの趣味なのであろう。落ち着いた感じの曲で、これまた落ち着きがある店内の雰囲気に絶妙にマッチし、この上ないほどの憩いの空間を提供してくれている。生意気な高校生でも分かるほどのな。
そして、見るも麗しいウェイトレスさんがせかせかと俺の席を通り過ぎるたびに、豆を煎って、それを湯で浸出したこげ茶色の液体の――言わずもがな、コーヒーだ――苦味を含んだ大人の香りが鼻腔を擽る。ブラジルやモカ、スマトラなど沢山の豆の種類があるが、俺は別段コーヒーに精通しているわけではないので、匂いだけでコーヒーの銘柄を言い当てるような殊勝な芸当はできない。
周りを見渡せば、年齢層に多少の違いはあれど、どの席も番。ようは、忌々しいカップルしかいないと言うことだ。
おい、お前ら。早く出て行ってくれ。外は滅多に拝むことのできない快晴だぞ。そんな天気の日に屋内に篭っていたら勿体無いじゃないか。雨なら仕方ない。雨宿りという目的があるもんな。そうさ、俺は雨なら許していた。でもな、今は十人に質問したら、十人が晴れと答えるほどの天気だぞ。つまり、雨じゃない。俺は許すことができないんだ。聞くに堪えない甘い未来を語り合うなら、どっか公園のベンチででもやってくれ。よっぽど健康的だと思うぜ。もう一度言う。乳繰り合うなら外でやってくれ。一人身には辛いんだよ。癒しの空間がぶっ壊れちまうって。
「どうしたの? 苦虫を噛み潰したような顔をして」
俺の向かいに座っていた少女が笑顔で訊いてきた。
そよ風が吹けば、ふわっと舞い上がりそうなほどの腰まで伸びたサラサラの髪。決して太っている訳でもない、むしろ細身だが肉付きが好く健康的な身体。バランスが良いと言うことだな。肌は陶器のように白く、滑らかである。大きな漆黒の目には思わず吸い込まれそうになる。何より、その笑顔が太陽よりも眩しい。敢えて、ランクを付けるならAA+だ。
「ん? ああ。いちゃいちゃするなら外でやれ、と世の一人身男性の気持ちを代弁していたんだ」
俺は右手で孤を描くようにして言った。
「それって嫉妬じゃない。わたしじゃ不満ってこと?」
俺の向かいに座る少女、朝倉涼子はくすくすと笑った。
朝倉涼子との出会いは至って普通だった。ただ単に、クラス替えが行われて一緒のクラスになった。それだけのこと。
最初に話しかけてきたのは朝倉の方だ。「一年間、よろしくね」と一言。無難に友好的な姿勢を表せるある意味、お決まりの台詞だ。どっかの奴らみたいに「ただの人間には――」みたいな珍妙不可思議な件でファーストコンタクトをしたりはしない。
新たな学年になり、授業のスピードも難易度も格段に上がった。元々成績が芳しくない俺にとって、学校生活の存続をかけたほどの危機に見舞われたのだ。赤点では済まず、留年、落第など身の毛も弥立つほどの不幸な未来を否応無しに想像してしまう。留年なんかしてみろ。今まで鼻で笑っていた後輩どもと机を並べることになるんだぞ。苦痛の他ならない。
そこに救世主として現れたのが朝倉。朝倉は委員長も努めるほどの超優等生だ。品行方正。才色兼備。朝倉に当てはまる四字熟語を探せばきりが無い。そんな素敵朝倉が勉強ができないはずがない。俺の思惑通り、朝倉は学年でもトップクラスの秀才だった。
宿題の解答を写させてくれ、と頼みに行ったことが始まりである。
結果から言うと、朝倉は解答を写させてはくれなかった。自分でやらなきゃ意味がないんだとさ。流石、真面目優等生。そして真面目が過ぎるのか、頼んでもいないのに朝倉は宿題の解法を一から十まで丁寧に説明してくれた。その説明が分かり易いのなんのって。へたな教師よりは数倍と教えるのが上手だった。
それから、俺は勉強で行き詰ると、迷うことなく朝倉大先生のところへ向かい教えを請うことにした。朝倉は嫌な顔一つせず、むしろ楽しそうに馬鹿な俺にとことん付き合ってくれた。
今では、勉強のことだけでなく日常的な些細なことまで話す仲になった。休憩時間はずっと朝倉と話すだけってことも珍しくはない。
もちろん、その様子を見て、俺たち二人が付き合っていると勘違いされることも多々ある。高校生でも幼稚な考え持つ奴は結構いるんだ。そう言ってくる奴には決まってこう答えるようにしている。
「ただの友達だ」ってな。
さっきも言ったが、俺と朝倉は関係は単なる友人同士である。朝倉もそう思っていることだろう。
ならば何故、俺と朝倉は喫茶店で過ごしているのか。しかも二人きりで。その理由は至極簡単。俺が朝倉におすすめの参考書はどんなのかって訊いたところ、「今度の休日に一緒に買いに行く?」と朝倉が言ったから他ならない。そして、現在はその買い物が終わり、一息ついているとこである。デートとかそういった類であるとは誤解しないでいただきたい。
「今日はありがとな。朝倉のおかげで良い参考書が見つかったよ」
俺は朝倉へと謝辞を述べた。
「どういたしまして。せっかく良い物を買ったんだから、しっかり勉強しないと駄目よ」
朝倉は小さくお辞儀をしながら言う。
その後も俺たちは時間を気にすることもなく、他愛もない会話を続けた。勉強のこと。学校のこと。テレビの
こと。本のこと。特にテーマを決めず、だらだらと話し続けた。
「わたしたちもカップルに見えたりするのかな」
唐突に、朝倉は何の脈絡もなく呟いた。
口に含んでいたコーヒーを噴き出しかける。
「何故いきなりそんなことを言う?」
「なんとなくよ」
「んー、多分見えないだろ。俺と朝倉じゃ釣り合わないからな」
別に謙遜しているわけではない。本当にそう思っているのだ。
「あら、そんなことないわよ。もう少し自信を持っても誰も文句は言わないわ。それに、あなた結構人気あるし」
「人気がある? そんなこと露ほども感じたことが無いな」
朝倉はくっくっと笑う。
「やっぱりあなたも鈍感なのね」
「も?」
「ええ。も、よ」
朝倉はの言う『も』とは他に誰のことを意味しているのだろうか。何故だか、身近にいる気がしてならない。
というか、俺って鈍感なのか?
「まあ、見えない人の方が多いかもしれないわね。だって……」
「なんだよ」
「だって、あなた女の子みたいだもの。カップルよりも女の子の友達同士に見えるわね。きっと」
数週間前にも同じことを言われた気がする。俺ってそんなに女性っぽい顔立ちをしているのだろうか。本音を言うと、身から溢れるワイルドさやダンディズムで満ち満ちていると自負していたんだが。
「ほんと、高校生の頃の涼宮さんそっくり。まるで生き写しね」
何気なく放たれた朝倉の言葉。その言葉だけ見れば不審な点は見当たらない。しかしその言葉のせいで、俺は
一瞬の内に怪訝な状態に陥った。
「……涼宮? なんでお前がお袋の旧姓を知っているんだ? 俺は言った覚えがないぞ」
俺は疑い過ぎなのかもしれない。お袋の旧姓だって、調べようと思えば簡単に調べることができる。なぜなら、お袋、おまけに親父は我が北高に不名誉ながら数々の伝説を残している。息子の世代まで語り継がれるほどの強烈なやつだ。実際、『涼宮』という名前を知らない生徒の方が少ないだろう。
だから、朝倉が『涼宮』を知っていることには何の不思議も無い。知っているだけならばな。
しかし、朝倉の言い方はまるでお袋の高校生時代を知っているかのようだった。『涼宮』じゃない。涼宮ハルヒという人物を。それに、俺は両親がSOS団の創始者なんて誰にも言ってない。朝倉が俺と『涼宮』の関係を知るはずがないんだ。
「あっ、そうか。これはまずかったかな」
朝倉は手を口に当て、固まった。
「どういうことか説明してくれ」
俺は朝倉を問いただす。
二人の間に沈黙が続く。俺は朝倉の顔を見続けるが、朝倉本人は俯き、なんのアクションも起こそうとしない。
ウェイトレスが心配そうにこちらの様子を伺っていた。
「信じてもらえないかもしれないけど、聞いて欲しいことがあるの」
何分、何十分そうしていただろうか。ようやく、朝倉が口を開いた。
「わたしね、俗に言う宇宙人なの」
「…………」
「…………」
再び、沈黙が訪れた。
「あ、あの……聞いてる?」
「……いや、聞こえなかった。もう一回頼む」
「だから、わたしは宇宙人なのよ」
皆に是非、問いたい。わたしは宇宙人です、と言われて信じる奴はいるだろうか? 答えはNOだ。不思議大好きお袋でも信じないだろう。捻くれた親父なんか尚更だ。もし、親父が宇宙人のことを信じていたら、滑稽過ぎて笑えない。
「朝倉。春の陽気で頭のネジでも緩んだか?」
「ううん。いたって正常よ」
朝倉は首を横に振りながら言った。
そこで開き直ったのか、朝倉は、
「わたし、あなたの御両親と同級生だったのよ。あんまり仲良くなかったけどね」
とか、
「長門さんのこと知ってるでしょ? 実は、あの人も宇宙人なのよ」
とか、
「でね、わたしは長門さんに消されてしまったの。あなたのお父さんを殺そうとして」
などと、小学生でも信じないようなことを延々と喋り続けた。ふざけているような感じではない。朝倉の喋る様子は楽しそうに見えなくもなかった。
正直言って、俺は朝倉の話を信じていない。
朝倉の話は聞く分には良かった。だってそうだろ。クラスの委員長が実は宇宙人だった。おまけに両親の旧友も宇宙人だ。さらには、親父を巡って二人で殺しあったりもしたという。親父にそんな甲斐性があったとはな。で、目の前の朝倉は一回殺されて、再び生き返ったのだと言う。当時の姿のままで。面白いじゃないか。
どこぞのファンタジー。いや、SFかな。どっちでもいいや。朝倉の話はそういうものだった。漫画やアニメ、小説でしか存在しない世界。恥ずかしながら、俺はそういう非日常的なことが好きだった。エスパーだろうが、地球防衛軍だろうがなんでもいい。ガキの頃、夢見たことを引きずっているのと言うか、ただの妄想好きなのかは分からない――お袋の影響かもしれないな。小さい頃はよく聞かされていたから――ただそういう世界が好き。それだけだった。
だからと言って、そういうことを信じるってのはまた別問題だ。
心の奥底ではどう考えているかは置いといて、少なくとも表面上ではそんな世界から一線を引いている。高校生にもなって宇宙人や未来人、超能力者を望むような真似はしない。一線を引いているからこそ、今の年齢になってもファンタジーやSFを楽しめるんだ。
宇宙人、未来人、超能力者なんてものは存在しない。
分かっている。分かっているんだけども、やっぱりどこかで期待なんてつまんないものを抱いちまう。そういう奴らがいたら愉快なんじゃないかって。だから、きっと、これは気の迷いなんだ。
「じゃあ、宇宙人って証拠を見せてくれよ」
朝倉は小さく息を呑んだ。自分の話が肯定されるとは思ってもいなかったらしい。俺もそんなこと思っていなかった。
で、朝倉は咳払いと同時に平常を取り戻し、にこっと笑った。
「うん。それ無理」
「なんでだよ?」
「ふふ、冗談。言ってみたかっただけ」
茶目っ気たっぷりの朝倉はそう言うと、俺の方に向けて右腕を伸ばしてきた。
「なっ――」
朝倉は聞き取ることができない何やら呪文めいたことを高速詠唱し始めた。
刹那、目に入ってくる光景が変わった。
――すげえ――
気付いたら元の喫茶店だった。落ち着いたBGMにコーヒーの香り。ちゃんと向かいに朝倉も座っている。
黄色だったかな。ピンク色かオレンジ色だったかもしれん。シャボン玉みたいな球体が幾つもふわふわと浮いていたな。ついでに、俺もシャボン玉みたいにふわふわ浮いていたな。何もかもがふわふわしていたな。鳥も、虫も、親父も、花も、水も、木も、みんなふわふわだった。
二秒だけいたかもしれないし、二十年もいたかもしれない。時間なんて概念はないように思えた。
「どう? 信じてくれた?」
返答に困った。俺はどこに行っていたんだ。どうなっていたんだ。
「保留……だな。頭の整理がつかん」
「それでいいわ。今はね」
朝倉は俺に幻想を見せただけ。ただそれだけ。今の幻想は何の意味も持たない、らしい。
朝倉が宇宙人、ということはまだ信じられない。超能力者って線もあるからな。でも、普通とは明らかに違うってのは理解できた。少し変わったクラスメイトだ、と。
「凄いでしょ?」
悪戯っ子の様な無邪気さで朝倉が訊いてくる。
「ああ。まったくだ」
俺は頷くことしかできない。
日常にひびが入った。無視できないイレギュラーなやつが割り込んだ。そのイレギュラーなやつはガン細胞よりも性質が悪くて、どんどんと侵食を広げていくだろう。仕舞いには、全てを飲み込んでな。
困ったな。なんかもう引き返すことができない気がしてきた。俺が予想していたような平々凡々な安穏たる日々がトップギアにして駆け出していく。入れ替わるようにして、溜息しか出ないようなどろどろとした、でも本当はキラキラとした得体の知れない未来がずしんずしんと、大地の代わりに俺の心を揺るがしながら近づいてくる。
可笑しなことだが、それを待ち望んでいる自分がいる。ファンタジーやSFなんてもんは存在しないことが分かっているはずなのに、そんな非日常を欲しているんだ。心の奥底では夢見るお子様だったんだな。
いや、それが悪いということじゃない。事実、俺の両親はそれを具現化させるためにちんけな団を立ち上げ、東奔西走したんだから。血は争えないらしいな。親父、俺を見て笑え。お袋、一緒に笑おうぜ。
心が疼く。理由は分からないが心が疼く。何かが始まるんだ。
春の陽気でネジが緩んでいるのは俺かもしれない。
「なあ、俺はお前の秘密を知ってしまった。口封じのために命を狙われてしまうんじゃないか?」
俺は冗談のつもりで言った。
その冗談に対し、朝倉はしっかりと俺を見据え、はっきりとこう述べた。
「大丈夫。わたしがさせないわ」