ああ、彼女欲しいな。
公園を仲良く手を繋いで歩くカップルを見て、俺は何気なく呟いた。横にいる人物など完全に忘れて。
「彼女?」
ベンチに腰掛けて読書マシーンと化していた宇宙人は、ふと顔を上げて道行くカップルの片割れを指差した。
「いや、あの人が欲しいわけじゃなくて概念的な『彼女』だ」
「そう」
溜め息混りに説明してやると長門は再び目まいのするほど詰め込まれた文章の海に視線を落して、口を噤んだ。
それ以降、何を話するでもなくうすらぼんやり公園を眺めることに徹していると携帯電話ががなり立て始め、電話に出るとそれに負けない大音声に叱りつけられた。
散々怒鳴られてから時計を見やると、まあ気の短い奴なら怒るのも仕方ないくらい予定時刻を過ぎていた。
しかし、日曜の朝から出向いてやってるんだから少しの遅刻には目を瞑ってもいいんじゃないか。
そんな思いを胃の下辺りに引っ提げた俺は、長門を連立って駅前の喫茶店へと戻っていった。
まさか、さっきの会話が大きな歪となって俺に襲いかかるとは予想だにもしなかった。
さて、場面は怒り狂ったハルヒに喫茶店でその日二回目払いを強要された翌日、つまりは月曜日に移る。
夏休みも間近に控えた俺の財布はSOS団で開催される旅行やら、突発的に行なわれるイベントに耐えられる余裕もないようで、この状況を如何に乗り切るかということに頭を巡らせている内に授業が終っていた。
然る後に、俺の足が部室へと向うのは習慣であり、文芸部withSOS団と表札の上げられた戸を律義にノックしたのは警戒心からであった。
返答は三点リーダーだったことから、長門が一人でいるか誰も居ないのだろうとの二択になる。まあ、後者の可能性はかなり薄いのだが。
遠慮なく戸を開けると大方の予想通り、長門が全自動書籍捲り機と化して隅の方に置かれたパイプへと腰かけていた。普段の長門なら侵入者に見向きもせず、読書を続けるのだが、
「付き合って欲しい」
と、呟いて俺を驚かせた。
いくら文章にして百文字程度の授業とは言え、実際に受けると疲れるものだ。それに、手伝わされる内容が非日常的なことだとすれば尚更である。
「今からか?」
「そう」
命の恩人の頼みは聞かねばならん。それでも、溜め息の一つくらいは許されるはずで、肺中の吐息を吐ききって気合い一閃。
「よし。じゃあ、ハルヒがこない内に行くぞ」
「ここにいればいい」
がくんと肩透かしを食らった。
「……じゃあ、何するんだ?」
「まだ、思案半ば」
状況が全く理解できなかったが、長門は自分の仕事は終ったとばかりに本を読み始めた矢先、
「やっほー。お待たせ」
「ふえぇ」
朝比奈さんと紙袋を小脇に抱えたハルヒの乱入によって、いまいち噛合わない会話に終止符が打たれた。
回れ右。前へ進めで部室から退出すると、ニヤけた野郎と鉢合わせになった。
中の様子を察して器用に肩を竦めた古泉の面を眺めていても不愉快になるだけなので、長門の言葉を反芻する。
付き合って欲しい。今から。ここにいればいい。それから導き出される推論は一つだ。
部室で何か起こっている!
「もう入っていいわよ」
ハルヒの入室許可が下りるや否や、俺は飛び込むように部室へと入った。
まあ、中の光景は非日常と言えばそうだろうな。
「キョン。そんなにみくるちゃんが見たいの?」
と、不機嫌な表情のハルヒに相変わらず読書を続けていた長門まではありふれた日常だった。しかし、久しぶりの涙目で蹲る朝比奈さんは今や立派な水着姿となっていた。
それも、どっかの学校で正式採用されているようなタイプ、俗にいうスクール水着だった。何故か膝丈の靴下を着用している。
古泉が入ってくるのを尻目に、取り越し苦労にどっと疲れが噴出した俺は何も言わずにパイプ椅子に座り込んだ。
すると誰も口火を切ろうとはせず、部室に妙な沈黙が生まれた。
……………………。
たっぷり一分続いた静寂の後、古泉が某ボクサーよろしく真っ白な灰になった俺に向って話しかける。
「……あの。つっこまないんですか?」
森羅万象に対するツッコミ役とはいえ、疲れてる時もあるんだ。お前に任せる。
「……はあ。では、僣越ながら」
と、朝比奈さんのスク水姿を舐め回すように見てから、
「……なんで靴下を?」
結局、古泉のもどかしいツッコミ以降、怪奇現象が起こるわけでもなく、本日の活動は終了し集団下校となった。その道すがら。
「今日はどうしたんですか? 妙にそわそわしているようでしたが」
仕方なく、ことのあらましを説明してやる。
「そんなことがあったんですか。しかし、部室は余程のことがない限り安全ですよ。前にも言った通り、あそこは飽和状態ですから何かが起きる余地はありません。それに、涼宮さんの精神も比較的安定しています」
「そうか? 昨日は怒り狂っていただろ」
「それよりも、さっきあなたが部室に真っ先に入った時に閉鎖空間が生まれたんですよ。気をつけて下さい」
「不可抗力だろ」
気せずして溜め息の二重奏が起こった。
「では、僕はこの近くで発生した閉鎖空間に向います。新たな火種を生み出さないようにくれぐれもお願いします」
古泉はそう言って、こっそり路地へと入っていった。
お願いされてもな。だいたい何が起こってるんだ、と謎の発言を残した張本人を見やると目が合って、長門はぴたりと足を止めた。追いついたところで、長門が先に口を開く。
「明日、食料の携行は推奨しない」
「ってことは、明日どっか行くのか?」
長門は首を横へとわずかに振った。
「どういうことだ?」
「明日、食料の携行は推奨しない。これ以上は言えない」
それっきり瞬間接着剤で唇を塞いだようにうんともすんとも言わず、途方に暮れている内に解散となって自宅にたどり着いた。
わけが分からん。
ともかく、お袋に明日は弁当が要らないと告げてから風呂、飯、寝るで早めに床につく。長門の数少ない一日の言葉を思い出して、あれこれ推論を立てている内に俺はいつの間にか眠りについていた。
事件が起こったのは、次の日の昼休み開始早々であった。
さあ飯だ、と谷口、国木田らいつものメンバーで机を囲んでから弁当がないことを思い出した。
「なんだ。キョン。弁当忘れたのか?」
谷口が哀れむような目付きで、しかしウィンナーを口に放り込みながら尋ねる。
別に忘れたわけではないがそういうことにして、俺は部室に出向いた。
長門は当たり前のように、座っていて、無機質な視線をこちらに向ける。
「座って」
よく分からんが言われた通りに座るなり、長門が金属製の小箱を取り出した。
「それはなんだ?」
しかし、俺の問いを無視して長門は箱を開ける。
中身はこれ以上ないほど普通の弁当だった。七割を白米が占め、脇には玉子焼きやらウィンナーやらが並んでいる。
長門は箸で玉子焼きを摘んでから、
「開口して」
「えっと、まさかとは思うがお前が食べさせる気か?」
「そう」
冗談だろ、と軽く首を振ると長門はぐいぐいと箸を近付けてきた。
「開口して」
とうとう根負けして口を開くと、黄色い物体を口の中に押し込まれた。甘じょっぱい味が口中に広がる。
「どう?」
「うまいが、長門が作ったのか?」
「そう」
長門は首肯して、白米を俺の口に放り込んだ。
宇宙人特製弁当を喰うことになるとは予想だにもしてなかった俺は呆然と咀嚼を繰り返す。
「ゆうにもあーんして」
長門がそんなことを囁いたのは、弁当を半分ほど食い終えたところのことだった。
口の中にあった海洋性軟体動物の形をしたウィンナーを燕下してから、
「三人称とてにをはがおかしいぞ」
ともっともなことを言う。
「ゆうとは私のこと。一人称であるから、問題ない」
然るに考えられることは一つしかなく、俺は絶句した。
「ゆうにもあーんして」
口を開いた無表情に箸を渡される。
「それは重要なことなのか?」
「そう」
俺は覚悟を決めて、白米を箸で適量摘んだ。
これは重要性を帯びた行為であり決して他の意図はない、と心の中で呪文のように繰り返してから長門の口に入れてやった。どうも量が多かったようで長門は口一杯に頬張って咀嚼する。
「…………」
無言とともに箸を奪われてお返しのように白米を突込まれる。それから適当に喰わしたり食わされたりしている内に弁当がなくなった。
「けっこう、うまかったよ。ありがとな」
「そう」
長門的に自分の仕事は終わったらしく、空になった弁当箱を片付けると本を読み始める。
「えっと……これでおわり?」
長門は首を左右に振ってから、
「明日からも食料の携行は推奨しない」
二ミリ程度顎を引いて肯定の意思表示を示した宣告通り、長門は毎日弁当を持ってきて俺に食わせた。その間、この行為に何の意味があるのかしつこいように尋ねたのだが返答は全て三点リーダーに統一された。
そんなこんなで、土曜日は朝である。太陽が低いとはいえ茹るような暑さの中、俺はちゃりんこをこぎこぎ、駅前へと向っていた。
別に不思議探索やら、ハルヒの突発的召集ではないので財布には優しいのだが、いかんせん長門に呼び出された理由が分からない。
昨日の昼間、長門特製サンドイッチをむしゃむしゃやっていると、「明日、同行を求める」なんて言い出したのがことの発端である。
駅に到着して、駐輪場に自転車をとめたところでぽつねんと佇む長門を見つけた。
いつもの制服姿の長門は俺を認めるとてくてくと何処かに歩き始めて、俺に溜め息を吐かせる。仕方なく素直に付き従ってしばらくたったころ、長門は映画館の前で足を停めた。
最近、ちょっとした宣伝が行なわれている洋画の立て看板が入口に並んでいる。
「これを見る気か?」
冗談半分の問いに長門はわずかな首肯をみせて、チケットを渡すと、俺が口を開く前にとっとこ中へ入っていった。
ついてこい、ってか。
情けなくも従僕と化した俺は入口でチケットを半分に千切られてから、長門に続いた。
中へと入ると、中々の込み様で立ち見客がちらほらいる。俺が立ち見を覚悟したとき、袖を引かれた。見れば長門が俺のシャツを引っ張っていた。
そのままエスコートされるがまま真中まで行くと、宇宙的パワーかただの偶然か、ぽっかり二つだけ空いた座席があった。
座り込んでから何か話すでもなく待っているとブーっと音が鳴って館内が暗くなった。
期待はしていなかったが、これが中々面白く俺は映画に引き込まれた、とはあくまで比喩表現である。最後に主人公とヒロインのキスシーンで終わったのは少し安直だが、中々楽しめた。
横を見やると長門が無表情でエンドロールに流れるアルファベットを追っていた。
こいつは文字とあらば全て見らねば気がすまないようで、流れ終えるまで動く兆しすら見せなかった。
それから長門と連立って映画館を出たのはいいが、何するんだろうね全く。
長門はこちらを振り向きもせず歩き出して、流石に慣れた俺は何も言わず付き従う。
しばらくして辿り着いたのは、長門が始めて自分が宇宙人であると宣言した公園であった。
二人してベンチに腰掛けて、次に何をやるのか戦々恐々待構えていると、長門は目を閉じて軽く顎を突き出した。
「何してんだ?」
ぱちくりと目が開き、
「接吻待機中」
と、とんでもないことを言い出した。
「……な、なんで?」
「私達は五日前から交際関係にあるはず。自然なこと」
無論、俺たちが交際関係にあるはずがな……あっ。
約一週間前の会話が走馬灯のように蘇ってきた。
長門は「付き合って欲しい」と言って、その意図を全く理解していなかった俺は「よし」っと返した。
「もしかして、これか?」
「そう」
「えっと、俺はその、交際関係になるとかいうやつではなくてだな。つまりは、その何かの手伝いかと思っていったことなんだ」
しどろもどろに説明をする俺を長門の無機質な瞳がまばたきもせずに見つめていた。
「そういうわけで、すまん」
「把握した。交際関係を延期する」
「延期?」
「私は待ってる。ずっと」
おわり