「ふぇぇぇ……」
 脅えた吐息を漏らすメイド服の朝比奈さんと、その背後に立つ真剣な顔のハ
ルヒ。
 無言のまま、ハルヒは朝比奈さんの両腕を背後から掴んでいて……そのまま
じっとしている。
 一見すると何か意味がありそうで、やっぱり意味がなさそうな2人の行動を
長門と古泉はそれぞれの日常行動を取りながら見守っていた。
 これ、笑う所? 
 放課後、部室を訪れた俺が見たのはそんな光景だった。
 ……おい、ハルヒ。
「何」
 忙しいんだから話しかけるな! ――と言いたげな声で俺に言い返しながら
も、ハルヒは朝比奈さんから視線を腕も離さないままでいる。
「キョン君……」
 そして切なげに助けを求める朝比奈さん。
 さて、今日はいったい何が起きてるんだ?
 古泉。
「はい」
 あれは何だ。
「何だ、と聞かれましても……。僕がここに来た時には、すでにこの状態でし
た。大体、20分程前の事です」
 そんなに長い時間あの状態なのかよ?! おいハルヒ、何をしてるのか知ら
ないが朝比奈さんを離せ!
 俺に反論するように強い視線をぶつけた後、ハルヒは疲れた顔で朝比奈さん
を開放した。
 そして、その場に崩れ落ちる――お、おいハルヒ?!
 その場に崩れ落ちたのは開放された朝比奈さんではなく、何故かハルヒの方
だった。
「……あの……涼宮さん」
 困った顔でハルヒの傍に座る朝比奈さんの顔を見ようともせず、ハルヒは体
育座りになってぶつぶつと何かを呟いている。
 いったいどうしたんだ? ……朝比奈さん、ハルヒはいったい何をしてたん
ですか?
「ええっ?! えっと……あの。それはですね? ……えっと。や、やっぱり
私からは言えません。ごめんなさい」
 何で朝比奈さんが恥ずかしそうな顔をしているだろう?
 あわあわと手を振るメイドさんから事情を聞くのを諦め、俺は窓際に座る宇
宙人に事の真相を聞くことにした。
 長門、いったい何があったのか知ってたら教えてくれ。
 それまで、ずっと静かに読書を続けていた長門は栞を挟んで本を閉じ、俺に
向き直ってから口を開く。
 簡潔に一言。
「涼宮ハルヒが太った」
「有希ーーーーー!!!!!」
 長門の言葉に即座に反応して立ち上がったハルヒが大声をあげ、部室の窓は
悲しげに震えていた。
 
 
 ――それから15分後(古泉はあの後すぐにバイトで早退した)
 つまりあれか。コンビニの新製品巡りをしてたら、ついつい食べ過ぎてしま
ったと。そんな訳なんだな?
「……その通りよ、悪い?」
 ようやく落ち着いたハルヒは、いつもより1オクターブ程低い声でそう言い
返した。
 悪くはないが……ハルヒ、そもそもお前は太ってないと思うぞ?
 別に裸を見たわけでも詳しい3サイズを知ってる訳でもないが、クラスの中
でも細い方だと思うんだが……。
「煩いわね、これはプライドの問題なのよ」
 そんなもんなのかねぇ。
 とはいえ疑問は残る。
 朝比奈さん、じゃあさっきの意味不明なポーズは何だったんですか?
「あれは……その、涼宮さんは自分の二の腕と、私の二の腕の太さを比べてみ
たんだそうです」
 朝比奈さんの言葉で、ハルヒの額に筋が浮かんだ。
「私も確認された」
 続く長門の言葉に、筋は2本に増える。
 ま、落ち込むなよハルヒ。朝比奈さんに長門、相手が悪かったんだ、ここは
野良犬に咬まれたとでも思ってこれからの人生を前向きにだな、
「うっさーい! 体重ではあたしの方が重いのに、みくるちゃんの方が胸は大
きくて腕は細いのよ?! 有希にも腕の細さで負けちゃったし! あんたに分
かる? この屈辱が!」
 男の俺が分かるわけないだろ。
 俺にわかるのは、朝比奈さんの胸が俺的世界遺産だって事だけだ。
「……いいわ、こうなったらあたしも本気よ。今日からダイエットをするわ!」
 無駄に勢いのあるハルヒの宣誓を、俺は朝比奈さんのお茶を飲みながら聞き
流し
「こらっ聞きなさーい!!」
 おお、いつになく本気だな。
 
 
「なるほど、それで部室に見慣れない減量関係の食品や道具が増えているんで
すね」
 ま、そーゆー事だ。
 翌日の部室には、ハルヒがどこからともなく持ってきたお茶やダンベル、カ
ロリー0のクッキーなどがテーブルの上に所狭しと並べられていた。
 ったく、いつの間にこんなに持ち込んだんだ?
 そして張本人であるハルヒはいつもの様に団長席に座り、
「何見てるのよ」
 制服の上にジャージを着込みチャックを上まで閉じるという、見てる方が暑
い服装でタンベルを振っていたのだった。
 なあハルヒ。
「何よ、今忙しいんだから後にして」
 頑張ってる所悪いが、筋肉は脂肪より重いぞ。
「先に言いなさいよこのバカっ!」
 あ、あっぶねえ?! ダンベルを投げる奴があるか!
 部室の床の上で重量感満点の衝突音を立てるダンベルを見送った後、指摘つ
いでに俺は言っておくことにした。
 これは親切で言うんだが筋肉が少なければ痩せ難いのは本当だ。だからお前
がやってる事は完全な間違いって訳じゃない。
「……あんた、詳しいわね」
 ドンキホーテで生肉を見つけたような顔をしてハルヒは聞く体勢に入った。
 男は一度は筋トレにはまるもんなんだよ。なあ古泉。
「ええ、僕も覚えがあります」
 同意する様に頷く古泉。
 俺達ぐらいの年代の奴のベットの下には、使わなくなった筋トレ用品が転が
ってるのが普通だと思うぜ。
「そうなの? ……でも2人とも筋肉質じゃないわよね」
 自分で言うのもなんだが飽きっぽいからな。で、さっきのダンベルの話だが、
例えば二の腕を鍛えたとしよう。で、普通の生活で二の腕の筋肉を使う機会っ
てあるか?
「シャーペンを持ったりするじゃない」
 お前のシャーペンは何キロあるんだよ……まあつまり、日常生活であまり力
仕事に縁の無い場所を鍛えても、体重からすれば重りをつけてるようなもんだ
って言いたいんだ。
「彼の説明に補足させていただくと、基礎代謝と呼ばれる部分は普段使わない
部位を鍛えても上昇します。ですがやはり、頻繁に使う部位を鍛えた方がより
効果的かと」
「ふ~ん……なるほどね」
 さっそくメモを取り始めたハルヒ。
 でもまあ、毎日使うからって太ももとかを鍛えると見るからに筋肉質な足に
なっちまうんだけどな。
「じゃあどうしろって言うのよ?!」
 どうしろって……なあ?
 俺が振ってやると古泉は頷き、
「正直、今の涼宮さんにダイエットは必要無いと思います」
 両手を上げて首を振って見せた。
「そんなの駄目。この2人にはどうしても勝たないといけないのよ」
 ハルヒが断固たる決意で視線を送る先で、朝比奈さんは脅えた顔で震えてい
て、長門は黙々と読書をしていた。
 そんな2人を見ていた俺は――神のお告げか悪魔の囁きか――とんでもない
妙案を思いついてしまった。
 天啓と言っても過言ではないレベルのな。
 ……なあ、ハルヒ。
「何よ」
 不自然に聞こえないように普段通りを意識しながら、俺はハルヒに提案して
みた。
 朝比奈さんに勝ちたいのなら、無理な筋トレをするよりももっといい方法が
あるんだが。
「本当!」
 ああ、実にシンプルな考え方だ。
 俺はハルヒの視線の先で脅えている朝比奈さんの元へ行き、
「あ、あの……キョン君?」
 大丈夫ですよ、朝比奈さん。何も心配いりません。むしろ楽になってしまう
くらいです。
 俺は普段、朝比奈さんが愛用している茶器セットの元へいき、ポットを取っ
てハルヒの元へ戻った。
「……何よこれ」
 ポットだ。
「え、これで運動しろって言うの? それがいい方法なの?」
 違う違う。――俺は朝比奈さんを指差し、顔がにやけるのを我慢しながら言
った。
 朝比奈さんがやってる事を、お前もやってみればいいんじゃないか? 毎日
毎日お茶を入れるのは大変だし、メイド服を着て立ち振る舞いに気をつけて歩
くのもダイエットには効果的だと思うぞ。
「あの……私、別に歩き方とかそんなに気にしてなかったんですけど……」
 小声で訂正する朝比奈さんの声に気づかないまま、
「それよっ! 忘れてたわ……やっぱり物事には形から入るのが一番なのよね、
みくるちゃんに勝つ為には、まずみくるちゃんの行動を真似るべきなのよ!
そしてみくるちゃん以上に完璧なメイドをやりきれば、自ずと結果は出るはず
よね!」
 ハルヒは――俺の密かな企みには気づかないまま――機嫌を良くして立ち上
がり、メイド服を手に入れるべく朝比奈さんの元へ急ぐのだった。
「や! 涼宮さん、自分で脱ぎま、ダメーーー!!!」
 
 
 ――数十分後
「お待たせしました」
 控えめな声と共に手元に置かれるティーカップ。
 ありがとう。
 謝辞を告げる俺に軽く一礼し、音も無く去って行くメイド服の女性は――朝
比奈さんではなくハルヒだ。
 一方、メイド服を取られて制服に戻った朝比奈さんは、今は俺の隣で何だか
そわそわしていらっしゃる。
 ん、悪くないね。
 ハルヒの淹れた紅茶は――朝比奈さんには及ばないものの――それなりの味
で、俺は素直にハルヒを見直していた。
 回りに気を使って足音を立てない様に上品に歩くハルヒは、普段の粗暴な本
質が思い出せない程に優雅な雰囲気で溢れている。
「……凄く美味しい……涼宮さんって何でもできるんですね……凄いなぁ」
「流石は涼宮さんですね」
 朝比奈さんや古泉の感想はもっともだろう。
 2人の感想を軽い会釈で流しつつ、ハルヒは壁際に立ったままじっと待機し
ている。
 回りに気を使わせないよう、じっと動かないでいる姿は本物のメイドさんの
様だった――まあ、本職のメイドさんなんて森さんしか見たことが無いんだけ
どな。
「あまり見られていてもお仕事の邪魔になりますでしょうし、何かゲームでも
しましょうか?」
 そうだな、でもお前と勝負するのも飽きてきてるし……。
「おやおや、これは申し訳ありません」
 苦笑いする古泉にアイコンタクトを送る。
 ――おい、せっかく休みにきている人が俺の隣に居るだろうが。
 その視線に気づいた古泉は、軽く頷いて見せた。
 なあ古泉。たまには朝比奈さんと勝負してみたらどうだ?
「え? わ、私ですか?」
「もしよろしければ、お相手願えないでしょうか」
「……あの。私でよければ」
 照れながら頷いてみせる朝比奈さんを見て、古泉は早速チェス盤の用意に取
り掛かった。
 そう、たまにはこんな日があってもいいよな。
 朝比奈さんは休んでいて、ハルヒがメイドさん。
 大人しいハルヒを見るのは新鮮で、何事も起こらない時間は長門にもいい休
暇になるだろう。古泉に連勝して楽しそうに笑う朝比奈さんを見るのも、俺に
とっては素敵な時間だしな。
 ――メイドになったハルヒの活躍は給仕だけに留まらず、掃除、洗濯、家事
全般に渡って完璧を極めていった。
「わ~甘くて美味しいです~。あの、これっておかわりありますか?」
 特にお手製らしいお菓子は好評で、朝比奈さんの笑顔が絶える日は無かった
と言ってもいい。
 本棚の中が綺麗になって長門も喜んでいた様な気がしないでもないし、古泉
もバイトの発生しない日々に心身ともに安らいでいる様だった。
 俺か? 俺は俺で楽しませてもらったよ。朝比奈さんとのお話する機会も増
えたし、妙な空間に閉じ込められる事もないしな。
 ……それとまあ、ハルヒのメイド服は……似合ってたよ。うん。
 
 
 ――それから数週間後
 放課後、部室の扉を開けた時
「いぃぃぃぃぃやっほぉーーーーー!!!」
 朝比奈さんの背後で奇声を上げて飛び跳ねるハルヒを見て、俺は幸せな時間
に終わりが来た事を悟っていた。
 でもまあ一応聞いてやるか、頑張ってたんだし。
 ハルヒ、どうかしたのか?
「あ、キョン聞いて! ついにみくるちゃんより二の腕が細くなったの! ほ
ら! あんたも触ってみなさいよ! むしろ触って! ほらほらほらぁ!」
 そう言って押し付けられた腕は――なるほど、これは長門位の細さかもしれ
ないな。
 しかも筋肉質でもなく綺麗なまま、ハルヒが喜ぶのも無理は無い。
「メイドさんの仕事って結構大変だったけど……やってよかったわ……本当、
これは貴重な経験よ。もし、あたしに娘が生まれたら、一度はメイドを経験さ
せるわ、絶対」
 何やら先走った感動に震えるハルヒの前で、朝比奈さ――あ、朝比奈さん?!
 静かに震えながら、朝比奈さんは泣いていたのだった。
「……キョ……キョン君……キョン君……」
 どうしたんですか? またハルヒに何かされたんですか?
「違うんです。……ほら、見てください」
 そう言って差し出された朝比奈さんの腕は――あれ、別に何も変わって無い
と思うんですが。
「よく見てください! 前より、前より太くなっちゃったんです! ……ずっ
と動かないままお菓子とか一杯食べてたから私、私……うぅ」
 泣きながら震える朝比奈さんの肩を優しく抱きながら、諭すようにハルヒは
言ってきかせる。
「大丈夫大丈夫、みくるちゃんは細い細い胸は大きい細い細い」
 何か混ざってなかったか?
「でもでも! 体重も増えて来てるし、このままじゃどんどん太っちゃいます」
 切実な顔で反論する朝比奈さんに、
「あのね、みくるちゃん。ちょっとくらい太ってた方が男にはもてるのよ?」
 当たり前みたいにハルヒは言ってのけるのだった。 
 ったく、数週間前のお前に聞かせてやりたい台詞だよ。
「――きょ、今日からまたあたしがメイド服を着ますね」
 パタパタと走ってハンガーからメイド服を取った朝比奈さんに、
「あ、こら! ダメよ! もっと決定的な差を付けるまではあたしがメイドを
するからみくるちゃんは休んでて!」
「ダメですー! もう、もうダメなんですー!」
「ちょっとこら! 離しなさい!」
 ……やれやれ、短い休暇だったな。
 窓際では長門がちょうど本を読み終えた所で、俺と同じ様に小さく溜息をつ
いた気がする。
 俺は俺でメイド服を取り合う2人を見ながら、自分で淹れた紅茶を飲みつつ
非日常の再来に備えて一息ついていた。
 
 
 二の腕 ~終わり~ 
 
 
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最終更新:2021年12月30日 01:08