僕は時々考える。君の事、彼の事、彼女の事。彼と彼女の息子二人と、宇宙及び未来から来た彼女達の事。
僕自身の事は八番目。両手を使わないと出て来ない。
いつの間にか、自分よりも大切に想うモノが増え過ぎているな、と苦笑する事しきり。それらは僕を雁字搦めに縛り付ける。
けれどそれは、決して嫌じゃない。僕は皆を想う事によって、皆から抱き締められているという事。
足元から首筋まで絡み付いた、「彼」が表現する所の「腐れ縁」は、一人じゃ立てない僕をしっかりと支えてくれる。
そういうモノ。
僕は何を返せるだろうか。あなた達に。
僕を愛してくれる、あなた達に。 


「古泉さんが私を愛してくれれば、それで良いのではないでしょうか?」
「その意見には貴女の私的な希望が入り過ぎていますね。却下です」
七月初めの日曜日。僕は小鳥さんを誘って、レストランで昼食を摂りながら歓談していた。そうです。世間一般で言う所のデートです。それは認めましょう。
「愛してくれない、って言うんですか?」
「曲解です。非常に悪意の有る解釈で、正直頭が痛いですよ、僕は」
海が見たいと言う彼女の申し出を受けて、僕達は海沿いをドライブしていました。湾岸線沿いの、海の見えるレストランというのは洒落ていて結構だと思うのですが、しかし、舞台が整い過ぎてはいませんかね。
テラスであるとか、出て来る料理であるとかが、何と言いますかその……雰囲気を出し過ぎています。
これでは、まるで恋人同士ではないですか。
「まるでも何も先ほど古泉さん自身も仰ったでしょう。れっきとしたデートですよ?」
「国家権力が見たら、即尋問を行うような年齢差ではありますけれど……ね」
「大丈夫ですよ。私、古泉さんに手を出された事有りませんから!」
……なぜ、恨みがましい目で僕を見るんですか? それと、どう「手を出されていない」事を証明するおつもりですか、貴女は?
「『ジャンヌ・ダルク』って映画をご存知ありますか?」
どこのミラ・ジョヴォヴィッチを気取っていらっしゃるのでしょう?
ああ、物腰の柔らかいハルヒさんと喋っている気分です。コレもDNAの為せる業なのだとしたら……もう少しお父さんの側の遺伝子は頑張っても良かったのではないかと思います。
「……あ、この辺りは素敵なホテルが多いんです」
顔を赤らめて何を言っているんですか。何を考えているんですか。

留置所で一人絶望する僕を身元引受人として現れた彼がチラリと見た後「あ、別人でした」と言って踵を返す。そんなシーンが脳内で鮮やかに再生された。 

性犯罪者の烙印だけは死んでも避けたいですね……。僕も、もうそろそろ四十代になるのですし。
「それまで我慢出来ますか?」
「貴女さえ、そのような事を言い出さなければ十分に。僕は理性的な人間なつもりですから、これでも」
なるべく思考を鈍化させようと、僕はパスタに手を付ける。何を考えたのか少女が笑った。
「古泉さん」
口が塞がっているので、目だけで続きを促す。
「貴方は、私が、本当に好きなんですね」
パスタが器官に入り込んで、慌ててアイスコーヒーを探してしまう。右手を伸ばしてグラスを掴もうとしたら、汗を掻いたグラスが僕の手からするりと逃げ出した。
目を白黒させながら、顔を上げれば彼女がしたり顔でストローに口を付けている。そのまま少女は席を立った。
息が苦しい。本当に、このままでは。
デートの途中で窒息死なんて笑えないというのに、非常事態。誰ですか、お似合いの最期だと嘲笑しているのは。意識が少しづつ遠ざかっていく。顎を触られて、上を向かされたような気がした。何も考えられない。
少女の顔が近付く。僕は抵抗出来ない。
唇が、湿った、生温い、柔らかい物に触れた。軟体生物の様なぬめりとした物体に唇を突付かれるままに、閉じていた門を開く。
途端、流れ込んでくる、温い、苦い液体。飲み下す。
少女の目が、笑っていた。今、唇を離せば服が汚れますよ、と言外にそれは語っている。
……屈辱です。僕は少女にされるがままになっていた。注がれる液体が無くなるまで、それは続けられて。
「……余り褒められた行為では有りません」
「貴方の機嫌を悪くさせる以上の見返りは有りました。だから、後悔はしていません」
海を背景に、少女がにっこりと微笑む。赤く染めた頬は……恥ずかしいなら最初から凶行に及ばないでおけば良いのではないでしょうか。 

「ご馳走様でした」
「それを女性の口から言うのはどうかと思いませんか?」
口には出しながらも、屈辱を感じながらも、嫌悪は小指の先ほども感じていない自分が嫌になります。
ええ、認めましょう。
僕は、この少女に惹かれている。
年甲斐も無く。
どうしようも無く。
恋、焦がれているのです。

「私は古泉さんが大好きです」
そう、臆面も無く言う少女に。恥じらいながら言う少女に。
「僕も貴女が好きですよ」
手玉に取られる事を、楽しんでいるのです。 

「海水浴とかはなさらないのですか?」
折角、海に来たのですから。水平線を見ながらポツリと呟く。
「それは『私の水着姿を見てみたい』と解釈させて頂いても構いません?」
「……どうしてもそっちの方向に会話を持って行きたい様ですね」
苦笑する。潮風が頬に当たって気持ちが良い。飲み下したコーヒーに少しだけ違和感を持った。
冷た過ぎる、と。いけません。少女に良い様にやり込まれています。
「お母さんが『古泉さんは押しに弱い』って言ってましたから、それを実践しているだけですよ」
……ハルヒさん、娘の恋愛を応援する為とは言え、僕の弱点を曝すのは適当な所でご遠慮頂けませんかね。
「お父さんは何て言っていましたか?」
少女は微笑む。夏に似合いの、カンカン照りの太陽の様に。
「『アイツだけは止めておけ』って苦虫を噛み殺したみたいな顔で言ってました」
本音でしょうね。キョン君らしい。
「でも、『根が良い奴なのは保証してやる』とも言ってましたよ?」
「そうですか」
僕は……そんな事を言われたら苦笑いをするしか無いじゃないですか。

ねぇ、キョン君。ハルヒさん。長門さん。朝比奈さん。
僕はこんなにしあわせで良いのですか? 

泣きそうになるのを堪えて、苦笑。どうも、年を経るごとに涙脆くなってしまっている気がします。
「あ、お父さん繋がりで今朝、伝言を預かってきているのですけど」
キョン君が……僕に? 何でしょう? やはり罵倒の文句ですかね。
「彼は……何て?」
「私には良く分からないのですけれど、古泉さんに伝えれば理解する、とだけ聞いています」

『一度だけ、ハルヒ以外の全てを裏切ってお前の味方をしてやる。切り札の使い時はお前次第だが、出来ればきっかり二年後に使ってくれ』 

コレは彼なりの祝福の言葉。
幸せになれ、の回りくどい言い方。
「その時」くらいは手放しで祝福させろ、と。
僕の親友はそう言っている。
僕も分かりにくい、ぼかした言い方が好きですけれど。
キョン君。
貴方も、人の事は言えないんじゃないですか? 

「……だそうです」
目を瞑る。眉を抑えて下を向く。目玉が、なぜだか熱かった。
「……返答を」
僕の声は震えている。なぜだろうか。いつもなら、二十年前の自分なら。これくらいの感情、押し殺す事だって簡単だった筈。
「彼に伝えて貰っても良いですか?」
「……どうぞ」
少女の指先が僕の髪に触れる。まるで背中を擦る様に、優しく触れる。

「では、一度だけ。きっかり二年後の貴方の笑顔を今から予約させて貰えますか、と」

ストローを使って口に含んだコーヒーに少しだけ塩味を感じたのは、きっと海が近いから。
そういう事にしておこう。
少女が僕を、運動会で頑張って走った息子を見つめるような優しい目で、じっと見つめていた。 

「古泉さん」
「なんでしょう?」
カーステレオは聞き取りにくい英詩を流している。ウィンドウは開け放って。涼しいとはお世辞にも言えない風が肌を撫でる。
「淫行、ってどこからなんでしょうか?」
「……聞く相手、間違えてません?」
「間違えてません。例えば、キスからだったとしたら、私は困ります」
「貴女から一方的にされたのですから、僕は無罪ではありません?」
ハンドルを握る右腕にジリジリと日差しが刺さる。しかし、それ以上に助手席からの視線が痛かった。
「そういう事言いますか?」
「言っておかないと、履き違えられそうですからね」
カーステレオは海辺を走る密室の中で愛を歌う。彼女はそれが愛の歌だとは知らないし、気付かない。僕だけが知っている。けれど、具体的に何と歌っているのかまでは分からない。
「どちらがしたのかをハッキリさせないと……後が怖そうだ」
「どういう意味です?」
少女の眉はきっと斜に傾いているのだろう。そう思って左折する時にチラリと覗き込んだが、その目は予想外に穏やかだった。 

「古泉さん」
「なんでしょう?」
「私、貴方からキスをして貰った事が有りません」
「した記憶も有りませんね」
クスクスと揃って笑う。まるで恋人同士の様に。親子ほども年の離れた、君と僕。
「私が嫌いですか?」
「まさか」
「私が好きですか?」
「勿論です」
「私にキスをしたいと思いますか?」
「極稀に」
「それは親愛のキスですか、恋愛のキスですか?」
「括れる様な単純な想いではありません。ひっくるめて、です」
「今、私にキスをしたいと思ってくれていますか?」
「運転中だから感情は置いておいて無理ですね」
「でしたら、脇に停めて下さい」
「車は急に停まれません」
「キスしますよ」
「今、停めます」 

快晴。日差しがガラス越しに差し込む。車内で。
「これで、どうですか?」
「どう、とは?」
「古泉さんの気持ちを聞かせて下さい」
「前に言いませんでしたかね」
「泣きますよ」
「それは困ります」
「貴方が私を想ってくれているという、証が欲しいと願うのは、いけない事ですか?」
素直な心に、敵う心構えなんて無い事は知っていた。
僕はエンジンを切りました。ステレオも、駆動音も、何もかもが今、この時だけは煩わしかったからです。

日差しが強い。僕の心臓が脈打っているのは、きっと貴女の願望を片っ端から叶える為。
世界は皮肉なくらい透き通る水色。海も、空も。
だから、口付ける。君への想いの全てを込めて。海も空も、目に映るもの全てを注ぎこんで。
僕の世界を、君にあげよう。
少女の涙も、透き通る水色。 

「初めて古泉さんからキスをして頂きました」
「お父さんとお母さんには内緒にしておいて下さいよ?」
僕らは、まるで共犯者みたいに、まるで恋人同士ではないみたいに笑い合った。


「プレゼントが今ので終わりでも私は構いません」
言われて考える。さて、鞄の奥に仕込んである小さな箱はどのタイミングで出すべきだろうか、と。
まぁ、いいでしょう。まだ日は高い。
今日という一日は、まだ始まったばかりです。
僕の一番大切な日は、まだ始まったばかりです。

僕のしあわせな日々は、まだ……。

「古泉さんは私がしあわせにしますよ、必ず」
そう言って僕を振り返る、君の背景には海。空の青さを映して、広がる。
二年後、君にこの場所で。どんなドレスを着て貰おうかと考えて、少しだけ頬が緩んだ。
ああ、貴女は、僕の為に産まれてきてくれたのですね、本当に。

「Happy birthday、マイガール」
僕は恭しく片膝を突いて、君の長い髪にキスをした。

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