そんな土曜日が終わって翌日。今日こそは何もない、まっさらな休日だ。
 なんだかそれがものすごく久々なような気がして、俺は惰眠をむさぼったりだらだらとテレビを見たりして過ごすことに終始していたのだが、頭の中にはここが改変世界であり、元の世界を取り戻さなくてはいけないという俺一人が抱えるには重すぎる事実が俺の頭に延々とのしかかり続けていた。
 ふと疑問が浮かぶ。
 ―――なんで、改変した奴は俺の記憶だけを残したのだろうか。
 長門がまた俺に選択することを託したのか。いや違う。あいつが改変したにしてはあまりにも不自然な点が多すぎる。俺がこの世界でやっていることは大体あの冬と同じようなもんだが、あの時は一年前までしかさかのぼっていないのに対し、ここでは四年前のハルヒの記憶にまで改変が及んでいる。
 しかし、長門がハルヒの力を利用したときほど改変は正確じゃない。つい数日前までの世界の面影を残しすぎたせいでちぐはぐな部分が存在していて、もしかしたら俺以外にも何かおかしいと気付いた奴がいるんじゃないかと思えるほどだ。SOS団の周辺にいる人物に限られるがな。考えてみれば、ジョン・スミスがいなけりゃハルヒが北高に入る理由だって無かったんだ。
 ……もしかしたら、長門や古泉はしっかりその特異な属性を持ち合わせてはいるが、自分がそうであるという記憶――自分が宇宙人であるとか超能力者であるとか――だけしか変わっていないのかもしれない。未来人であるはずの朝比奈さんについてはこの時間平面に存在している時点で確定的だ。
 ハルヒの願望実現能力に関しても同じだとしたら、ハルヒが元の世界に戻ることを望んでくれればあるいは……いや、そりゃ無理な注文か。この世界はジョン・スミスが存在しないために、ハルヒにここが改変世界であると確信させることができないのは既に織り込み済みだ。今のハルヒは、俺が言った非現実世界への興味だけで動いてくれているだけ。しかし古泉の言うハルヒの現実的な部分とやらが邪魔して俺の言うような世界になることはない。
 ――もしかしたら、朝倉の言うとおり、長門がこの世界を改変したのか?
 違う。そんなわけがない。第一、朝倉が俺に真実を話して何か得するとも思えない。
 ……駄目だ。こんな世界がどうだとかいう小難しい事を考えられるほど俺の頭はよろしくない。とにかく行動しないと周囲は何も変わらないんだ。
「……結局、部活に行くしかねえか」
 俺の足りない頭を振りしぼって出た結論はそれだけ。
 シャミセンは、俺の呼びかけにうんともすんとも答えなかった。


 七月七日月曜日。今日はいよいよ七夕だ。
 別段変ったことは無く、ハルヒの不機嫌が若干浮上したように見えるくらいで、朝倉の妙な干渉も無くなっていた。ただ本日分の全ての授業が終了し、教室から解放された途端にハルヒが飛び出して行った時には嫌な予感を感じずにはいられなかったが。
 部室に来てみると、既に他の団員達が揃っていた。
「あ、こんにちは。お茶は……お客さん用の湯飲みがあったかなあ。今出しますね」
 そこにいたメイド服姿の朝比奈さんを見て思わず口元が緩む。朝比奈さんのお茶を飲むのは実に一週間ぶりだ。嬉しさもひとしおである。しかし、どうやら朝比奈さんの織姫のコスプレ姿は拝めないようで実に残念だ。当たり前ではあるのだが。
「……こんにちは」
「よう」
 俺が鞄を置いた席の向こう側にいるのは妙にぎこちない笑みを浮かべた古泉だ。そういえば席はここに座ってもいいんだろうか。
「大丈夫ですよ、朝比奈さんにも別の席がありますから」
「そうか」
 ………沈黙。妙に気まずい。なんで俺がこんな気まずさを感じなきゃいかんのだ。
 あまりの居づらさに、ここから出ていくこともかなわんからいっそ寝たふりでもしてしまおうかと投げやりな考えが浮かんできた頃、
「へいお待ち!」
 SOS団の団長殿が部室の扉を壊れんばかりの勢いで開けて飛び込んできた。しかも、わさわさと笹が揺れる竹まるまる一本を抱えて。
「わあ、大きな竹ですねえ」
 と軽く歓声を上げるのは朝比奈さん。長門は目線だけハルヒの方に寄越してすぐ本に目を戻し、古泉はただ笑っているだけ。ちくしょう、嫌な予感しかしないが俺が聞くしかないのか。
「その竹は何処から持ってきたんだ」
「何処って、学校の裏の竹林よ」
 ああ、聞くんじゃなかった。やっぱりあの私有地から持ってきたのかよ。
「ま、バレなきゃいいのよ、バレなきゃ」
 バレたら反省文もんだって分かってて言ってんのかこいつ。
「はいこれ短冊、それに筆ペンね。芋の葉の朝露を使って墨をするのがいいって聞いたんだけど、近くに芋の畑がなかったわ。とりあえず一人二枚書いたら、笹をここに立てかけておくから適当に結びつけて」
「そりゃ、えらく気合が入ってんだな。一昨日はそうでもなさそうだったが」
「やるからには徹底的にやんのがあたしの主義なの! ほら、文句言わずにさっさと書く書く。書き終わったら各自笹に結びつけなさいね」
 ハルヒにせかされ、渋々筆ペンを手に取り願い事を考える。なんて書くべきなんだ? 『世界を元に戻してください』……まぬけすぎて書く気が起きない。適当なことを書いてやり過ごすか? しかしハルヒの事だ、願い事を書けば何か確変が起きるかもしれん。
 恥をしのんで先ほど思いついたことをそのまま書き殴ると、俺は二枚目にまた適当なことを書いてさっさと終いにした。ちなみに他の四人は、朝比奈さんが俺が無事に異世界へ行けますようにというなんだかちょっとズレているような気がする願い事を書いてくれていた以外は去年見たのとほとんど似たような内容だった。こいつらは去年も七夕なんてしていないようだったし当たり前か。
「さて、短冊に願い事を書いたらやること無くなっちゃったわね。じゃあこの笹をとりあえず一晩部室に置いといて、後はもう解散かしら?
 でも短冊がちょっと余り過ぎちゃったわ。捨てちゃうのももったいないけど……」
 ハルヒがぴらぴらとまっさらな短冊を弄ぶ。確かにきれいなままの色画用紙を捨てちまうのはもったいないが………あれ。そういえば、以前似たようなもんを誰かから貰ったような……
 はっとして制服のポケットに手を突っ込む。ガサリと音を立てて俺の手が掴んだのは、以前この世界の長門から貰った花の絵が描かれた栞だった。ああ、貰ったのをすっかり忘れてた。少し折れ曲がっちまっている。散々調べたが何の変哲もないただの栞だったし、俺は読書をしないから机の奥に大事にしまっておくかな。いつまでもポケットに入れておいたってしょうがないだろう。そう思って今度はポケットじゃなく鞄の方にしまおうとすると、
「何ですか、それ?」
 そう俺の栞を指差して言ったのは古泉だった。
 何ですかって、どうみてもただの栞だろ。
「いや、そうではなくて、その柄です。裏側の」
 そう指摘されて裏返して見ると、ひどく見覚えのある奇怪な記号がそこにあった。
「………」
 思わず絶句する。いつの間にこんなもんが描いてあったんだ。俺が気付かなかった? 違う。俺はあの後栞を穴が開きそうなほどに調べたんだ。勝手に浮かび上がってきたとみて間違いない。そしてこの記号は―――すぐに分かった。四年前の七夕。

 中学生のハルヒが俺に校庭に描かせたそれだった。

 なんでこんなもんが栞の裏に? 間違いない。長門だ。あの宇宙人がとうとう俺の前に現れたらしい。
 すぐに鞄の中へ栞を突っ込む。
「ん? キョン、何かあった?」
「なんでもない。古泉、こりゃただの模様だ。書店でたまたま貰っただけだしな」
 お前は黙ってろ、そう俺は言外に含ませたつもりだった。
 古泉もそれを理解したらしく、
「そうですか」
 と、あっさりと引き下がってくれた。最初は俺の手もとを注視していたハルヒもすぐに興味が失せたようで、鞄を持つと、
「んじゃ、今日は解散! 鍵閉めはお願いね」
 と宣言してさっさと部室を出て行ってしまったのだった。


「あなたは帰らないのですか?」
 部室前の廊下で、帰ろうとせずに窓に背中を預けていた俺に、鞄を持った古泉がそう聞いた。部室のドアの向こうでは朝比奈さんが着替えの真っ最中だ。
「ちょっと用事があってな。施錠は俺がやるから気にせんでくれ」
 別に朝比奈さんの着替えを覗こうとかいうんじゃないぞ。長門もまだ部室で本を開いているはずだからな。
「……… そうですか」
 古泉はいかにも聞きたいことがありますと言いたげな沈黙を持たせてから、それではと別れの挨拶を残して踵を返した。当然俺はそこを突っ込んだりしない。
 そういえば、ハルヒには何も言われなかったが明日も部活に顔を出すべきなんだろうか? 分からん。というかハルヒはこのまま俺をSOS団に引き入れてしまいそうな勢いだ。だが、ここは俺の知っているSOS団とは違う。俺は宇宙人未来人超能力者の揃ったSOS団こそが、俺の帰るべき場所なんだ。

 ――だが、もしこのまま世界が元に戻らなかったら?

 俺はかぶりを振った。駄目だ、考えるんじゃねえそんなこと。長門からのヒントだって改変から五日も経ってようやっと見つけたんだ。俺が絶対に改変を食い止めてやる。――だからそこで待っとけ、長門。俺はぎり、とこぶしを握った。
 がちゃり、と静かにドアが開く。朝比奈さんだ。
「あ、どうも。誰か待ってるんですか?」
「いや、そういう訳じゃないんです。ちょっと用事が残ってるんで」
「そうなんですか? じゃあ、鍵閉めよろしくお願いしますね」
「ええ、まかせてください。――あの、一昨日はありがとうございました」
「ふえ? おととい?」
 朝比奈さんが不思議そうな顔をして首をかしげた。
「えっと、みんなで七夕をやろうって話ですよ。あれ、多分俺…… と、ハルヒを励まそうとしてくれたんですよね?」
 朝比奈さんがぶんぶんと手を振った。
「べっ別に、そんなんじゃないです。ただ何となく思いついただけで、なんだかみんなの空気が重かったから、なにかできないかなって……そう思っただけですから。気にしないでください」
 ふわりと朝比奈さんが微笑む。ああもう、この人は本当の天使かなんかじゃないのか? 多分神様か誰かが走り回って疲弊する俺を癒すためにこの人を寄越したんだろう。いやきっとそうに違いない。
「あの、それじゃあ……また明日」
 朝比奈さんは小さく頭を下げてぱたぱたとその場を去って行った。反射的に「あ、はい、また明日」と返してしまったが……多分、もう来れないと思います。いや、来ないんだ。俺は。


 部室のドアを開けると、未だ窓際で長門が本を読んでいた。
「長門」
 顔を上げる。
「お前はまだ帰らないのか?」
「帰る」
 そう言って長門は本を閉じ、機械じみた動作で辺りを片づけ始めた。せかすようになっちまってちょっと悪いな。
「そうだ、これ。見覚えあるか」
 俺が差し出したのは長門が数日前にくれた栞。裏には奇怪な文字が躍っている。
 長門は黙って首を横に振った。
「そうか」
「そう」
「…… 鍵はどこにある?」
 夕日に照らされた部室が妙にまぶしい。長門がそばに置いてある自分の鞄をとった。
「これ」
 指先にぶら下がる部室の鍵。
「部室に用があるの」
「……いや、別にそういう訳じゃないが」
「ならわたしが鍵を閉める」
 とことこと部室のドアへ向かう長門。俺も急いで鞄をとって部室を出た。誰もいなくなった部室の中を俺が探し回ることを警戒したのだろうか? 別にそんなつもりはさらさら無いんだがな。
「鍵はあなたが返して」
「……おう」
 手のひらでチャリ、と金属音が鳴った。
「じゃあな、長門」
「待って」
 振り返ると、ブラックホールみたいに真っ黒な瞳が俺を捉えた。
「あなたは、異世界人?」
 はたから見たら頭がおかしい奴としか思えないような質問を相変わらずの無表情で問うてくる。
 だが俺は異世界人……じゃないな。確かにここは俺にとって異世界みたいなもんだが、世界の構成情報とやらが書き換えられているだけで別に俺が時空を飛び越えたりした訳じゃない。推論だが。
「というか長門……お前はハルヒの言ったことを信じるのか?」
 自分で言っておいて何だが、正直信じてもらえるとも俺は思っていない。証拠も何もないし、ハルヒだって恐らく心の底から信じちゃいないだろう。しかしこの目の前の長門は、
「分からない」
 と相変わらずな単語の少なさで答えるだけだった。
「もし、あなたの言うことが真実だったなら、元の世界が取り戻されたとき。
 この世界は、どうなる?」
 長門が僅かに頭を傾けた。
 どうなる……と聞かれたって、それは俺にも分からない。あの冬の時の世界は未だに平行世界として残ってるのか、俺が病院で目覚めた時には既に消滅していたのかさえ俺には分からないのだ。
 そもそもあれは俺が三日前までの時間遡行をしたからこそ、長門が世界改変を行ってそのまま俺が改変された世界を体験するパターンと、改変された直後にさらに未来から来た長門と俺によって修正されるパターンの二通りができちまった訳で、やりようによってはこの世界は俺が消えたまま残るかもしれないし、情報がすべて上書きされて消えて無くなるかもしれない。
 そういえばこの人間バージョン長門にも、SFに対する興味というものがあるのだろうか。よく分厚いSFものを読んでいたし、宇宙人でなくともそういうものにそそられるものがあるのかもしれない。
「俺自身にも分からんな。もしかしたら消えることもあるかもしれん」
 だがこの世界はいわゆる他者によって捻じ曲げられた世界であって、だからといって改変の修正を諦めるわけにはいかないんだ。
 長門は逡巡するように俺の顔を凝視すると、「そう」とだけ言い残してその場を去って行ってしまった。
 長門がこんなことを聞いたのは、異世界だの何だのというSF的なワードに対する興味ゆえだったのか。あるいは消えるかもしれないこの世界に対する愛着だったのか。
 まさか後者を考えてるとは思えないんだがな。
 しかし小さな背中が遠ざかりますます小さくなっていくのを見て、俺は長門が視界から消える瞬間に
「すまん」
 と口からこぼしてしまったのだった。


 それから一旦家に帰り、着替えて飯を食ったり部屋でごろごろしたりしているうちに、時刻は八時を周っていた。もう外は真っ暗だ。
 ……そろそろ行くか。
 あの長門から貰った栞をポケットに突っ込んで、昨日の事もあるので親の目を盗むようにそっと玄関から外へ出ると、自転車に乗りこんで駅へ向かった。そこから学校へ続く坂道を上っていると、そこを通るのが決まって朝なだけに何となく新鮮な気分になる。流石にこの時間に下校してくる生徒はいない。肌をなぜる夜風はぬるかった。
 目の前には学校の校門、当然閉まっている。これを乗り越えなければいけないわけだが……こんな時間に学校に押し入るなんて泥棒みたいで門を飛び越えるのがなんだかはばかられる。
 しかし、ぐだぐだと悩んでいては仕方がない。もしかしたら今日が唯一のチャンスかもしれないし、逃したら機会があるかどうか分からんので俺は覚悟を決め、校門に足をかけた。
 北高には厳めしい警備員もいないし、有刺鉄線もない。光陽園なら即捕まるだろうなと思いつつ鉄扉によじのぼり、無理矢理向こう側へ飛び下りる。着地する際によろけてこけかけた。だっせえ、やっぱり運動神経は一ミリたりとも上昇していないじゃねえか。
 さて誰かに見られないうちにさっさと終わらせるかと体勢を立て直すと、
「ちょっと」
 と門の向こうから声が聞こえてきた。
 やばい。見つかった。制服を着ていないし後ろ姿だけなら校舎の影に逃げちまえば大丈夫かと逡巡しているうちに、
「ちょっと、キョンったら!」
 との声が飛んできた。知り合いか。ますますまずい。もう北高には通えなくなるかもしれないと絶望的な気持ちでぎぎぎと後ろを振り返ると、黄色いリボンを揺らした、恐らく今一番会ってはいけないであろう少女が仁王立ちしていた。
「げえっ、ハルヒ!」
「げっ、とは何よ。ほら、そっちへ行ったんならさっさとこの門を開けなさい」
 なんでお前がそんな所にいる? よく見ると後ろには他の三人までいた。なんだなんだ、皆で俺のあとをつけてきたのか?
「そんなんじゃないわよ。あんた放課後の団活で、なんか変な紙切れ見てすごく驚いてたじゃない。あのときは全然気にしなかったんだけど、家に帰ったら妙に気になってね。中身をちょっと見たらしい古泉くんに電話をかけて問い詰めたのよ」
 で、古泉があっさりと吐いてしまったわけか。いくらなんでも弱すぎるぞ古泉。ハルヒの力に振り回されない世界になってもお前のイエスマンっぷりはちっとも変わらないんだなちくしょう。しかしハルヒの隣にいる古泉は困ったようにへらへら笑っているだけだ。ああ、恨めしい。
「そんで話を聞いて、ピーンと来ちゃったのよ! キョン、これからあんたんとこの世界のあたしが七夕にやったらしいことをやるつもりなんでしょ!」
 ああ。だからなんだ。
「手伝わせなさい」
 この鉄扉がなければ今にもネクタイを掴みあげてきそうな勢いだ。
 まさかハルヒ、そのためにみんなをここまで呼び出したってのか。一体いつからここにいた?
「そうね、七時半ぐらいからかしら」
 随分長い間待ってたもんだな。付き合わされる奴の迷惑をちっとも考えない奴だ。
「ほら、さっさとこの鉄扉を開けなさいよ」
「……やなこった」
「なんでよ。こんなイベントまたとないわ! 本当の不思議に出会えるかもしれないなんて!」
「絶対に断る。第一、ハルヒ。お前は俺がこれから何しようとしてるのか分かってんのか?」
「分かってるわよ! 元の世界に戻ろうとしてるんでしょ?」
 ああそうだ。だが俺がここから別の世界にワープするわけじゃない。いやもしかしたらそうなるかもしれないが、お前らを巻き込むわけにはいかないんだ。それに。
「……俺は、この世界を消滅させようとしてるんだぞ」
 正確には消滅ではない。だがこの世界をこの世界たらしめている何者かによる改変を食い止めようとしているんだ。つまり、改変が修正されればお前らの持つこの世界での記憶は全部消えることになる。俺はそれが全て植えつけられたものと踏んでいるが、ハルヒ。お前には四年もの長い記憶なんだろう。
 もしかしたらこの世界は消えずに残るかもしれない。あの冬に俺が体験した世界だって今も続いているのかもしれない。だがな、ハルヒ。お前にそんなことを手伝わすなんて出来るわけないだろ?
「…………」
 俺の言葉にハルヒは押し黙った。これで諦めて帰ってくれれば俺にとっては万々歳だ。お前をこんなことに巻き込むわけにはいかないんだからな。
 しかしハルヒは俺をきっと睨みつけると、
「……でも、あんたはあたし達がこの場からいなくなってもその改変を止めようとするんでしょ?」
「…………」
 今度は俺が押し黙る番だった。
「あんたの話によると、ここはいろいろ情報が捻じ曲げられていて、あたし達はそれに合わせた記憶を持たされたって話なのよね。そりゃ、信じられないわよ。だってあたしは今まで自分なりの考えに基づいて行動をしてきたんだもの。それが全部偽物だったなんて信じられるわけない」
 ハルヒは怒りをあらわにさせて、言った。
「でもね、それが本当に偽物なら、本当のあたしはどこにいるわけ? どっかの誰かに勝手に捻じ曲げられて、あんたの言う本当のSOS団はどこに行ったの?
 確かにあんたの言うことは信じられないわ。でも、これが偽物だって言うんなら今の自分が無くなろうとしてでも、本当の世界がどうだったのか。知りたいと思って当然じゃないのよ!」
 俺は終始黙っていることしか出来なかった。
 そうか、俺はハルヒの知的好奇心を随分と舐めていたようだ。それだけじゃない。俺の長ったらしい事情説明はハルヒの興味をそそらせるだけじゃなかった。誰かに捻じ曲げられた世界。恣意的な環境設定。偽物のSOS団。
 そんなもんに、SOS団団長であるハルヒが黙っていられるわけが無かったんだ。


「よいしょっと」
 ハルヒが鉄扉に足を掛ける。おい、お前ミニスカートだろ。危ないぞ、色々と。
「平気よこんなもん」
 側にいた古泉が慌てて駆け寄ったが、ハルヒはぴょいと器用に飛び越えて着地した。
 ぱんぱんと地面に手も付いていないのに汚れを払う。
「さて、白線引きやら石灰やらはどこにあるのかしら。ちゃんと準備してあるんでしょうね?」
 そう言ってハルヒがニヤリと嫌な笑みを浮かべた。
 ちょっと待て、まだ校門前に三人が残ってるだろ。朝比奈さんなんか必死に鉄扉を乗り越えようとして古泉を慌てさせてるじゃねえか。なんていじらしいんだ。
 内側からでかい錠前の鍵を開ける。この校門の鍵は部室の鍵を職員室に戻す際にちょろまかしたもんだ。本格的に常識人じゃ無くなって来てるな、俺。
「……ハルヒはああ言ってるが、いいのか本当に」
 ハルヒの言っていることも一理あるが、この三人はそれに付き合わされているだけだ。もしかしたら古泉あたりには力づくで止められるかもしれないと思っていたのだが。
「実はですね、このお二方に以前あなたのおっしゃっていたことを説明させていただいたのですよ」
 ほう、そりゃご苦労だったな。いつの話だ?
「昨日の日曜日です。やはり次の日が七夕だったので、色々と思うところがありまして。
 それで、僕達三人であなたの事に関して色々話し合ってみたりしたんですよ」
「俺を精神病院に連れていく方法でも考えてたのかよ」
 古泉は大げさな動作で肩をすくめると、
「違います。あなたの言っている話が信じがたいというのは事実ですがね。とりあえず、僕達の意思は一致していますよ。信じがたい話ではありますが、嘘と断定するべきではないと。あなたの言っていることは本当なのかもしれないという結論に至ったのですよ」
 俺は目を丸くした。本当かよ、お前はこの間まで全く信じている気配がなかったじゃねえか。一体どんな風の吹き回しなんだ?
「ええ、僕もそう思ったのですが……やはりあなたの話の中にSOS団にいないと知り得ない情報が多すぎるんです。確かなんですよね、長門さん」
 長門は古泉に一瞥さえよこさずに、俺への視線を固定したまま言った。
「あなたの三日前の朝比奈みくるに対する発言のほか、わたしたちが孤島や雪山へ行ったこと、映画撮影の詳細など、あなたの立場では関知することの出来ない情報がいくつも確認された。これらの情報はあの部室に来た一瞬では知ることが出来ないもの。ただしあなたの言う不可思議な超常現象は起こっていない。
 あなたの話と照らし合わせれば、全て納得がいく。よって決定的な証拠があるわけではないが、内容が全て嘘とすることは賢い選択ではないと判断した」
 ああ、悲しいぐらい俺のよく知るいつもの長門だ。今にも『思念体と接続して確認する』とか『同期する』とか言い出しそうな雰囲気を放っている。いや同期は無いか。
「それに、彼女の意見も興味深かった。朝比奈みくる」
「ひゃ、ひゃいっ!」
 長門の言葉に朝比奈さんが肩をはねさせた。なんだかどっちが先輩なんだかよく分からん。
「あ、あのっ、あたし、古泉くんや長門さんみたいに確固とした意見があるわけじゃないんですけど、でも、思ったんです。
 初めて部室に来たときに、あたし達の様子を見て凄くショックを受けてるのが分かって、その時の表情が忘れられなかったんです。それに、それの何日か後キョンくんがあたしに何か確認しようとして、あたしの言葉を聞いてすごい落ち込んでたのも、なんだかすごく心に残ったっていうか、引っかかったっていうか……そこで初めて話したとき、本当に初めてなのかなって思ったの。ただの印象というか、あたしの感想みたいなものなんだけど、でもやっぱりずっと気になってて」
 朝比奈さんの表情は真剣だった。
「古泉くんから話を聞いて、ああ、そういうことだったのかって思ったんです。良く分からないけど、キョンくんは嘘なんかついてない。全部本当のことだって。信じられない内容なのに、本当にそう思ったの。
 キョンくんがあたしを信じられないかもしれないけど、でも、わたしはあなたが嘘をついてるとは思ってません。本当です」
 朝比奈さんがこちらをじっと見据えて言った。
 口にこそ出さなかったが、俺は朝比奈さんの言葉に驚くことしか出来なかった。
 だってあの朝比奈さんがだぜ? 俺の酔狂な話を信じているということこそ意外だったが、未来から派遣されたエージェントという肩書きに似合わずおっちょこちょいで、いざ不思議な出来事に出合うと泣いて取り乱してばかりだった彼女が、今こそただのいち女子高生ではあるが、ここまで確固とした意見をはっきり言い切ったことに俺は驚愕せずにはいられなかった。
「とまあ、我々の意見も大方一致しているんですよ。信じるというのも難しいが嘘と断定もできない。大体涼宮さんと同じですね。というわけで、僕らも手伝います。あなたの大仕事にね」
「っておい、ちょっと待て。信じる信じないは勝手だが、それと俺の勝手な行動を手伝うか手伝わないかは別もんだろ? さっきも言ったが、この行動によってこの世界が消滅する可能性だって無くはないんだ。それでもいいって言うのかよ」
 古泉はやれやれ、といった仕草をとって笑った。やめろ、無駄に様になっててむかつく。
「あまり僕達を見くびらないで欲しいですね。涼宮さんと同じように、僕らだって誰かによって意図的に捻じ曲げられた世界でのうのうと生きたいなんて思ってないんですよ。その書き変えられた情報を元に戻せるのなら戻したい。そう思っています」
 そう言ったって、俺の話を聞いただろ? 長門は宇宙人、朝比奈さんは未来人、古泉は超能力者。俺の世界の長門は、半分くらいは俺のせいだが降りかかる超常現象や異常事態に対処するのにいつも動き回っていたし、朝比奈さんは与えられた任務をこなすだけで組織の末端でしかないことに苦しんでいたし、古泉だってハルヒのご機嫌取りや閉鎖空間の対処に苦労していた。ただの平凡な高校生でしかない、今の世界の方が幸せだとは思ってないのか?
「そこの辺りもちゃんと話し合いましたよ。もしこの世界があなたの情報修正によって消滅するような事態になったらどうするか。まあ色々考えたのですが……涼宮さんの言葉を借りるなら」
 古泉は前髪を指でピンとはじいた。
「そっちのほうが断然面白いから、でしょうか」
 朝比奈さんはその言葉を聞いてくすりと微笑んだ。長門は黙っている。異論を挟むものはいないようだ。
 俺は思わず溜め息を吐いた。
「本当に……馬鹿ばっかりだな、このSOS団は」
 宇宙人未来人超能力者に、願望を無意識に実現しやがる暴走娘。
 本当に、イカれた奴ばっかりだ。

「もう、そこっ! 話が長いわよ! いつ人が来るか分かんないんだから、行動すると決めたらさっさと動きなさーい!」
 やや遠くから団長様の怒号が飛んできた。確かに、勝手に校門を開けて侵入している姿を見られたら一大事だな。
「ほらキョン、あたしが指示出すから、さっさと例の栞を出しなさい! んで男子はさっさと石灰と線引き持ってくる!」
 きびきび仕切りだす団長様の指示に従って古泉と二人で体育館倉庫の裏から言われたものを運びだす。放課後俺が運動部の目を盗んで倉庫から出してきたものだ。いよいよ俺は前科持ちになるのか。ますますハルヒみたいになってきたなと苦笑しつつ、俺は線引きをグラウンドまで引き摺って行った。


「で、そこ九十度曲がって……キョン! そこは真っ直ぐ!」
 ハルヒが栞と校庭を見比べながら指示を飛ばし、俺はその指示に従ってあくせく校庭を右往左往する。線引きが一台しかなかったので古泉は石灰を運ぶ係だ。長門は俺の描いた白線のところどころに修正を施しつつ、朝比奈さんはハルヒの隣で頼りない声援を送り続けてくれていらっしゃる。
「だからそこはもっと真っ直ぐ! そんな小さく描いてどうすんのよっ!」
「み、みなさーん、頑張ってくださーい」
 今にも誰かが聞きつけて学校まで来ちまうんじゃないかというぐらいの音量でハルヒが叫び、朝比奈さんの力が抜けてしまいそうな声援が飛んでくる。はい、朝比奈さんがそう言うんなら何時間でも頑張れます。しかしですね、そのせいでハルヒがみくるちゃんにチアの服を着せればいいんじゃないかしらとか言って部室に乗り込もうとしてますよ。と言っても部室の鍵が置いてある職員室は鍵が閉まっているだろうし、俺は校門と体育館倉庫の鍵しか持ち合わせちゃいないが。
「ちょっと待てハルヒ、石灰が切れた」
 校庭に奇怪な記号を描き始めてから二十分ほどの時間が経過し、全体の三分の二ほど描けたところで満杯に入れておいた石灰が無くなった。ここまで大きく描くと石灰の減りも早い。この減り具合で誰かにバレやしないだろうか。いやその前にこの描いた記号はどうすんだ。もしかして翌日までそのまま?
 線引きに石灰を入れてしまうと、あらかじめ外に出しておいた分の石灰が無くなってしまった。古泉に体育館倉庫の鍵を渡して石灰をとりだしてくるように頼む。ずっと同じ体勢でいたので腰が痛い。頭を上げて周りを見渡すと、チアを諦めたらしいハルヒが朝比奈さんとやいのやいの話していて、長門はやや遠くの方で曲がった線を正していた。
 そうやって顔をあげて周りを見渡していたのが幸運だったのだろうか。視界の端で一瞬何かが光ったような気がして、校門の方へ視線を寄越す。夜の学校だ。電灯も何も無く辺りも暗くてよく見えないが、何かがこちらへ向かってきているような気がした。
 やばい、誰かに見つかったか? そう考えた直後に背中に凍てつくような冷たい感覚が走って、思わず俺はその場から飛びのいた。瞬間、目の前を銀色のナイフが一閃する。
 それに合わせて、長い髪がなびいた。
「凄い勘ね。あなた本当に人間?」
 揺れる短いスカート。そいつの顔は、笑みを形作っていた。
「……あさくらっ……!?」
 俺に助言をしてくれたはずの朝倉涼子が、目の前でアーミーナイフを片手に笑っている。
「そうよ。あたしね、もう我慢ならないの。ここはあなたを中心に構成された世界。わたしもあなたのためだけに存在させられているの。他人の都合で再構成させられて、あなたの目の前に現れればはい終わり。そんなの我慢できるわけ無いじゃない」
 ゆっくりこちらへ歩いてくる我がクラスの委員長。スカートから覗く白い太ももと、手に持った怪しく光るナイフが妙に目についた。
「でもあたしは今ただの人間。だからあなたに色々吹き込んでみたら、勝手なことはするなだって。概念も共有できないような得体の知れない相手に有機生命体としての行動さえ制限されるのよ。あなたはそんなことされて我慢できる?」
 俺は茫然とした。朝倉の言っていることがちっとも理解できない。分かるのはこいつが俺に明確な殺意を持っているということだけだ。
 とっさに体勢を整えようとすると、顔面に強烈な膝蹴りが飛んできた。
 地面にたたきつけられ、口の中に血の味が広がる。痛い。それでも立ち上がろうとすると、何かが上に圧し掛かった。腕も動かない。見ると、朝倉が俺の上に乗りかかり、腕もまとめて脚で固定されていた。びくとも動かない。なんだよそれ、お前は本当に人間か?
「でもね、この世界には涼宮ハルヒがいるの。しかも願望実現能力はそのままでね。だからあなたが消滅してもこの空間の均衡は保たれる。向こうがこの世界を廃棄しようとしても、彼女の力でそれは叶わない。まあ、どうせ向こうも用が済めばこんな世界、どうでもいいんでしょうけど。だからあたしはあたしのやりたいことをさせてもらう。あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る」
 待て、意味が分からないし笑えない。ここは改変世界のはずだ。俺を殺して何の意味があるんだ。もしそのせいでお前が消滅することになってもいいのかよ!?
 そんな俺の言葉を発することさえ叶わず、喉元めがけてナイフが振り下ろされた。やばい、死ぬ。次の瞬間にやってくるであろう衝撃にそなえて俺は目を閉じた。

 …………。
 しかし、いつまで経ってもその衝撃はやってこない。あまりにも一瞬でその到来を察知することさえ出来なかったのだろうか? 俺はおそるおそる瞼を上げた。

 ―――目の前で、ナイフの切っ先が震えている。

 いや違う。俺とその上に圧し掛かる朝倉のすぐそばに、もうひとつ人影があった。
「……邪魔する気?」
 朝倉はなおナイフを俺の喉に埋めようとしている。だが俺の喉元の数ミリ近くまで迫ったナイフを持つ朝倉の腕を、小柄な少女ががっちりと掴んでいた。
「朝倉涼子。あなたの行動の意味が理解できない。あなたはわたしと同じ一般的な人間であるはず。彼を殺そうとする意図は何」
「意図? そうね、一般的な人間のあなたには理解できない理由よ。だから放っておいてくれると嬉しいな。だめ?」
 なお俺の喉元にナイフを突き刺そうとしながら笑顔で長門の質問に答える朝倉。一方の長門は無表情のままぎりぎりと音がしそうなくらいがっちりと朝倉の腕を固定している。どうやら見た目以上の力の攻防があるらしい。
「それでは質問の答えになっていない。あなたの行動を許可することはできない」
「なによそれ、この世界でもあたしはあなたのバックアップってわけ?」
 切っ先の震えがみるみる大きくなる。何だこれ。本当にやばい。
「有希! 朝倉!」
 かなりのスピードでハルヒが走ってきた。朝比奈さんもやや後方で息を切らせながらこちらへ走ってくる。
「朝倉! どうしちゃったのよ! キョンにそんな物騒なもん向けてどうするつもりっ?」
 しかし朝倉は顔色一つ変えずに、
「どうするって、この人を殺すの。ちょうどいいわ。あなたも目の前で見ていなさいよ。こいつが息絶える姿をね」
 そう言って俺の方へ向き直り、ゆっくりと腰を上げた。
 長門が立っていて、朝倉が座っているという体勢が悪かったのだろうか。朝倉が全体重を乗せるようにナイフを俺に向かって押さえ込んできた。みるみる切っ先との距離が埋まっていく。
 畜生、目の前のこいつはただの人間なのに。なんで俺はこいつを止めることが出来ないんだ。視界の隅でハルヒの顔色がみるみる青ざめていくのが見える。やめてくれ、お前のそんな表情なんて見たくない。そう願うと、朝倉の長い髪が垂れて何も見えなくなった。
 今度こそ死を覚悟して目を閉じる。ゲームオーバーだ。喉に冷たいものが当たる。
 ああ、ごめんな、ハルヒ。世界を元に戻せなくて。
 そしてゆっくりと、その冷たい金属が俺の皮膚をつき破ろうとしたその瞬間。
「なにやってるんですか!」
 どすん、と鈍い音がして、俺に圧し掛かっていた重みが消えた。
 目を開けると、若干雲が多めの夜空が飛び込んでくる。なんだこれ。何が起きた?
ふと横を見ると、朝倉が倒れこんでいて、そのそばにぶちまけられた石灰の袋を抱えたままの古泉が倒れていた。どうやら古泉が朝倉に体当たりをかましたらしい。しかも重い石灰の詰まった袋を抱えて。
 朝倉が起き上がろうとするより先に、長門が朝倉の手からナイフを奪って遠くへ投げた。
 その方向にいたのは朝比奈さんだ。まずい、とも思ったのだが長門はそれも計算済みで投げたのか、朝比奈さんの目の前で数回バウンドしてからナイフの動きが止まった。
「き、きゃあっ!」
 泣きそうな顔で慌てる朝比奈さん。目の前に刃物が飛んで来れば当然の反応だ。
「みくるちゃん! 拾って!」
 ハルヒが凄い勢いで朝比奈さんに叫ぶ。その言葉に朝比奈さんが顔をあげて、慌ててナイフを拾い上げた。
 朝比奈さんからナイフを奪い取ろうと立ち上がった朝倉の前に、ハルヒが立ちはだかる。
「……ゲームセット、ってわけ?」
 朝倉が降参、とでも言うように両手を上げた。
「どういうつもりなのよ! あんた、今キョンを殺そうとしたわよね!?」
 ハルヒが激昂して朝倉に掴みかかった。
「安心してよ、涼宮さん。もうあたしに彼を殺す気なんてないから」
「殺す気がないって……!」
「いいから放してよ。ナイフが無ければ、今あたしに彼を殺す方法なんてないじゃない」
 教室で俺に掴みかかろうとしたハルヒを宥めるのと同じ笑顔で朝倉がハルヒの手を押さえて言う。ハルヒはそれに動揺したのか朝倉の胸ぐらを掴む力が弱まり、朝倉がやさしくその手を放した。
 ぽんぽんと服に付いた石灰や砂埃を払う。
「あーあ、あなたの目の前でなら向こうも手出しできずに彼を殺せると思ったんだけどな。長門さんも古泉くんも普通の人間なのに。詰めが甘かったかしら」
「向こう……って朝倉、あんた何を言ってるの?」
「ううん、こっちの話よ。あたしは帰るね」
 ひらりと朝倉がハルヒをかわし、校門へ向かう。
「え、ちょっと朝倉!」
「おい待て! お前、やっぱり知ってるんだろ? この世界を改変した犯人を!」
 俺の言葉に朝倉の足が止まり、振り返った。くすりと笑って、こちらへ歩いてくる。思わず足がすくんでしまいそうになるが、何とかこらえる。こいつにもう殺意がないのは恐らく本当だ。
「残念ながらそれは言えないわね。元は情報統合思念体に所属していたんだけど、ちょっと今は違うの。だから、ごめんね」
 顔の前に手をやって、困ったように微笑む。そして、俺の耳に顔を近づけた。
「あとね、あたしは恐らくこれから処分される。でも彼女……涼宮ハルヒの前ではちょっとできないから、あたしはさっさとこの場から離れなきゃならないの。彼女が追いかけようとしたら止めてあげてね。
 それに、もうひとつ忠告しといてあげる。向こうは今にもこの落書きを消そうとしているわ。でも彼女の力がはたらいていてなかなか消せないの。時間をかけて作り上げた空間をまだ利用したいみたい。だからさっさと描いちゃった方がいいわよ?」
 くす、と笑ってウィンクをする。お前を消す? 作り上げた空間? 何のことだ。説明しろ。
 朝倉は俺の耳から顔を離した。
「残念ながら言えるのはここまでよ。じゃ、頑張ってね」
 そう言って朝倉はその場を離れる。
「ちょ、朝倉! まだ話は終わってないわよ!」
 ハルヒが朝倉を追いかけようとするが、俺はそれを止めた。
 闇の中に紛れていく朝倉。
「このことについては明日あいつに聞けばいいじゃねえか。それより、また誰かがここへ来る前にさっさと落書きを書き終えちまおう」
「明日聞くって……朝倉のやったことは殺人未遂よ? あんたはそれをほっとくっていうの?」
 ハルヒが俺を睨みつける。そうじゃない。俺は朝倉の言ってることに分からない点の方が多いが、朝倉の言いたいことは大体理解出来た。まだこの世界が一体どういう状態なのかについて把握も出来ちゃいないがな。俺を一時は錯乱させようとした朝倉だが、恐らくあいつの言った通りにした方が賢明だ。
「涼宮さん、もしかしたら彼の世界で起きたことが関係しているのかもしれません。確か、あなたを宇宙人急進派の方が殺そうとした、と……彼女がその犯人ですか? 長門さんに消されたという」
 古泉もよく覚えてるな。その通りだよ。我がクラスの頼りになる委員長であり情報統合思念体急進派。それがあいつだ。朝倉はこの世界を作るにあたり再構成された。あいつの言葉を信じるならな。
「彼女の放つ雰囲気が、あまりにも異常でしたからね。だからこそ体当たりなんて暴力的な行為が出来たわけですが」
「ああ、感謝してるよ。そんな石灰まみれになってまで俺を助けてくれてな」
「…… はは、これはこれは」
 古泉は苦笑いをして服に着いた石灰を払った。
「とりあえず、さっさと終えちまおうぜ。石灰もまだあるだろうし」
 ハルヒは俺の言葉に不服そうにしていたが、考え込むように腕を組むと、「そうね」とさっきまで指示を飛ばしていた場所に戻った。
「あのー、こ、これはどうすれば……?」
 朝比奈さんがおそるおそるナイフを差し出した。
「それ、は……」
 思わず言葉に詰まる。どうすりゃいいんだ。その辺に置いとくのも嫌だし、俺が持っておくしかないか。
「わたしが預かる」
 そう言って朝比奈さんからナイフを受け取ったのは長門だった。刃先をぱたりとしまう。こいつも、それなりに近所付き合いしてきたはずの人間の豹変で何か思うところがあるのだろうか?
「ほらー! やると決めたらさっさと動く! ちゃっちゃと線引きに石灰を入れちゃいなさい!」
 遠くからまた野次が飛んできた。切り替えの早い奴だな、少し羨ましいよ。


「ハルヒー、これでもう終わりかー?」
 それから十分後。試行錯誤しつつの校庭の落書きはほぼ終わりに近づいていた。ハルヒが真剣に栞と校庭を見比べている。校庭をじっと睨みつけると、腕で大きくマルを作った。大丈夫ってことか。
 長門ももういいか? といった視線を送ると、長門も何も言わなかった。やれやれ、これでやっと終了か。
「お疲れさまでした」
 古泉と二人で、体育館倉庫に線引きと石灰の袋を片づける。夏の暑さに汗が滲み、手も石灰まみれだ。よく手伝ってくれたよお前も。
「なかなか大変な仕事でしたが、これで何かが動くでしょう。朝倉さんの行動から考えても……ね」
 ああ、そうだな。色々巻き込んじまってすまなかった。
「いえ、それは……涼宮さんに言ってください」
 俺は黙って体育館倉庫の鍵を閉めた。鍵を盗んだのがばれなきゃいいが。


 ハルヒのもとまで戻ってみると、校庭にあの見覚えのある記号が大きく校庭に踊っていた。おお、良く出来てるもんだ。
「これで、もうやることは無いの? 後は待ってるだけかしら」
「ああ、多分な」
 時間跳躍をしてハルヒにこれを手伝わされた時も、これを描く以外には恐らく何もやってなかった。何かが起きるのかは分からないが、とりあえず待ってみるしかない。
「おつかれさまです。これ、お茶どうぞ」
 目の前に差し出されたのは透き通った玉露だった。なんとありがたい。数十分の頑張りもこれで全て報われたってもんだ。蒸し暑いのに渡された紙コップから湯気が立ち上っていることさえ気にならんね。
 ハルヒは朝比奈さんから手渡された緑茶を一気飲みすると、
「はー、まだなのかしら?」
 と、どかりと地面に座り込んだ。おい、汚いぞ。
「そう簡単に何か動かないだろ。それに、もしかしたら何も起こらない可能性だってあるしな」
「でも、これで駄目だったらまた振り出しでしょ? あんたの世界の宇宙人からのメッセージだって届いたんだし、何かない方がおかしいわよ」
 確かにそうだな。それに、朝倉が言っていた『向こう』がこの文字を消そうとしているってんなら尚更だ。『向こう』とは誰の事を言っていたんだろうか。ハルヒか、長門か。それとも……
「あたしね、みんなに言ってなかったことがあるの」
 ハルヒが夜空に視線を固定したまま言った。言ってなかったこと?
「あのね、あたしと古泉くん付き合ってるのよ。今まで秘密にしてきてごめんね」
「ふええっ!?」
 大きく肩を跳ねさせて驚いたのは朝比奈さんだった。ちょうど自分の分らしきコップにお茶を注ぐところだったらしく、あとちょっと注ぐのが早かったら今頃大惨事だったろう。
 長門は無反応。こいつならとっくに気付いててもおかしくないな。その古泉はと言えばお茶を軽く噴き出していた。おい、きたねえぞ。
「なによその反応、キョンはもう知ってたの?」
「知ってたも何も……ああ、まあな」
 あの映像がまたフラッシュバックしてきて、俺はごまかすようにお茶を口に含んだ。正直、ハルヒの口からは直接聞きたくなかった話だ。
「……それでね、一番最初にあんたが部室に飛び込んできたとき、新しい団員が欲しかったって言ったじゃない。でも、男女のバランスとか全部言い訳よ。あんたをSOS団に入れれば、みくるちゃんと有希に対する罪悪感が少しは薄れるかなって思ってたのよ。要するにあんたを利用したかったの。謝るわ」
 そこまで自分をけなすことは無いと思うが……初めて聞いたんじゃないかと思うハルヒの謝罪を、俺は受け入れることにした。まあハルヒもただの人間だし、そんなもんだろう。むしろ皆の前で本音をさらけ出した事におれは拍手してやりたいよ。
「でも、今は違うの。さっきの朝倉を見て、あんたの話は全部本当だって分かったわ。あんたはやっぱりこの世界の人間じゃない。
 それでね、この世界があんたの言う元の世界に戻るまででいいの。SOS団に入って欲しいのよ。別にあたしの求めてた不思議をあんたが知ってるからじゃない。あたしも誰にも捻じ曲げられてない、本当の世界が知りたいのよ。そのためにはキョンが必要なの」
 ハルヒが立ち上がり、俺を見据えた。
「あたしからお願いするわ。……SOS団に、入ってくれないかしら?」
俺もハルヒの目を見る。強制的に団に入れるか、希望者を試験で振るい落としていたはずのハルヒ。……なんてこった、ハルヒは自己中で我がままな奴とばかり思っていたんだがな。こいつもこいつなりに、SOS団という不可思議なお遊び団体で変化する部分があったんだろう。
「いや、お断りさせてもらうよ」
「……理由を聞かせてくれるかしら」
 理由か。そうだな、俺がこのSOS団に入りたくないって訳じゃない。ハルヒも朝比奈さんも長門も古泉もいる。だが、この世界が消滅せずに、俺だけがいなくなるっていう可能性が充分にあるということもあるんだ。それに、理由はそれだけじゃない。
 何故なら。
「なぜなら、俺はSOS団の団員その一だからだ」


「…………」
 それきり辺りを包みこむ沈黙。夜空の星は依然雲に隠れたままだ。
「……何それ。つまり、向こうの世界のSOS団を捨てるわけにはいかないから、こっちには入らないってこと?」
「まあ、そうなるな」
「………あっそ。……でも、」
 ハルヒはビシっと俺を指差した。ニヤリと笑う。
「あんたをこのSOS団に入れること、あたしは絶対諦めないからね!」
 ああ、是非そうしてくれ。明日から一体どんな手を使ってくるんだろうな? 微妙そうな顔で古泉が俺を見ていた。


 ハルヒがまた座り込んで、夜空を見上げた。
「……大分時間が経ったわね。あーあ、せっかく彦星と織姫にお願いしてるんだから、ちょっとぐらい顔を出してくれたっていいんじゃないの? 折角何十年もかけて星まで願いが飛んでくはずなのに、雲に隠れてちゃ意味がないんじゃないかしら?」
 ああ、確かにそんな気がしないでもない。しかし、世界改変を正そうとするのにお星さまがどうこうとか関係するわけが無いとは思うんだがな。
「あーもう、うざったいのよこの雲! どっか飛んできなさいよ馬鹿!」
 ハルヒの叫びが空へ吸い込まれていく。そんな叫んだって、雲が都合よく退いてくれるわけないだろ。
「わあ、本当に雲が割れてきましたよ!」
 朝比奈さんが歓声をあげる。はあ、そりゃすごいですね。朝比奈さんにつられて、ぼんやりと顔をあげる。
「……っておい。マジかよ?」
「どうやらマジのようですね。いやあ、これがあなたの言っていた、涼宮さんの持つなんだか訳の分からん能力ってやつですか?」
 大きく空を覆っていたはずの雲が風もないのに凄い勢いで割れている。なんだこりゃ。本当にハルヒの願いが届いたってのか?
 『この世界には涼宮ハルヒがいるの。しかも願望実現能力はそのままでね』
 ふと、朝倉の言葉が頭に蘇る。そうか、このハルヒはあの冬みたいに能力を奪われてなんかいない。ハルヒが願ったから。この大きな雲がどいたんだ。って、こんなんアリかよ。
 ついに顔を出した恒星は、恐らくベガとアルタイル。
「ねえ! 文字が光ってる!」
 ぴょんと立ち上がったハルヒの指差す先を見ると、もし蛍光塗料が混じっていたとしても異常なまでの光を、石灰で引いただけの落書きが放っていた。おい、マジにお星さまに願いが届いたってのか?
 再び夜空を見上げると、まるで金属の網でもかぶせられたみたいに、空全体にひびが入っている。ひどく見覚えのある光景。

 ―――これで俺は全てを理解した。造られた空間が割れる。俺の行動は間違っちゃいなかったんだ。

 同時に大きな地震が襲う。地鳴りと言った方がいいのだろうか。よく分からんが、立っていられない程の大きな揺れだった。
「きゃあっ! なに、何よこれ……どうなっちゃうのよ! ねえ、キョン!!」
 ハルヒの叫び声が地鳴りの音に紛れて聞こえた。世界の崩壊。俺はハルヒの肩を掴んだ。
「何!? キョン、何が起こってるのよ!」
「ごめんなハルヒ、お前の折角の入団の誘いを断っちまってよ。でもな、俺はこのSOS団なんかより宇宙人、未来人、超能力者が揃ったSOS団にいたいんだと言いたいわけじゃない」
 古泉が近くにいた朝比奈さんと長門を支えていた。さすがの紳士だな、お前は。
 空に走るひびがどんどん細かくなっていく。
「俺はな、なんとなく確信しているんだよ。お前らが俺のよく知る、俺のSOS団だってな。俺は元からここにいた。お前らが記憶を曲げられただけだ。それ以外は何も変わっちゃいないんだよ」
 そうだ。お前らの世界が崩壊するとかそんなんじゃない。
 捻じ曲げられたものが元に戻るだけだ。
「何それ、意味が分かんないわよ! あんたはこの状況を見て何も思わないのっ?」
ハルヒがよろけつつも辺りを見回し、不安そうな顔を俺に怒鳴った。
「最初からSOS団はここにいるんだ。そうさ、ここにはお前と長門、それに朝比奈さんに古泉もいる。それだけじゃない。俺をわざわざ迎え入れる必要なんかないさ」
 校庭に描かれた落書きの光量がみるみる増していく。
「俺は……」
 結局はあの冬と同じことじゃないか。


「俺は、ここにいる」



 そのとき、空が割れて、視界は白い光に飲み込まれた。







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最終更新:2020年07月07日 10:33