第 七 章


もはや俺に出来ることはなにもない。長門を信じて情報統合思念体と決着をつけるだけだ。
卒業式の三日前に俺たちは飛んだ。不穏な暖かさに別の寒気を感じる。
長門が俺の手を取り、俺たちは無言で閉鎖空間に侵入した。
これで三度目になる、ハルヒによる最後の閉鎖空間。最初に来たときからは既に七年近くの歳月が過ぎている。
当時はまさかこんな未来が待っていたなんて全く想像していなかった。俺は閉鎖空間の消滅により全てが終わったのだと確信していた。それが全ての始まりだったことなど、知る由もなかった。
ハルヒの情報爆発が始まり、長門が前と同じように情報統合思念体の抹消作業に入る。もちろんそれが成功するとは思っていない。
そして長門の予想どおり、そいつは現れた。
「お待ちなさい」
あのときと同じ、ゆったりとした口調。だが、次に発した言葉は以前とは違っていた。
「おやおや……これは驚きました。これが繰り返された歴史だったとは」
長門の言ったとおりだった。この野郎、もう俺の記憶を読みやがった。
「久しぶりだな」
「私はあなたと会うのは初めてですがね。なるほど。朝倉君の報告はどうやらあなたのことだったようですね。合点がいきました」
朝倉がどうのと言うのは前にも聞いた話だ。そして今の俺にはその意味も理解出来る。
「あなたが私どもですら越えられない時間断層を突破していたとは。さすがは涼宮さんに選ばれただけのことはありますな」
そう言うと、老人は朗らかに笑った。
「さて、おしゃべりはこのくらいにしておきましょうか。どのみちあなたがたはこれから何が起こるかはご存知でしょう」
「ああ。お前らの思い通りにはさせないがな」

「それは私どもも同じ。今度はあなたがたを確実に消し去ることにしましょうか。あなたがたには何やら秘策があるようですが、有機生命体とインタフェース端末の情報処理能力では何をしようと結果は同じこと」
「あなたは知らない。これがどういうものか」
長門は老人に対して一歩踏み出し、オーパーツを取り出した。
「これは情報統合思念体に対して与えられた選択。あなたたちはそれを選ぶことができる」
「聞かせてもらいましょうか」
「自律進化の可能性と引き換えに、涼宮ハルヒの殺害を諦め、今後地球に一切干渉しないことを約束するか」
長門はオーパーツを握った手を老人に向け、
「それとも今ここで消滅するか」
老人は目を細めた。実に愉快そうに。
「随分と強気ですな、長門君。ですがわたしどもは既に自律進化を放棄しています。そんな選択も約束も必要ありませんな。私は今この場であなた方を消滅させるまでです」
「この装置が自律進化の真の可能性になり得るとしても?」
「ほほう。自律進化の真の可能性ですと」
長門は話し始めた。あのマンションで俺が初めて長門の正体を明かされたときのように。
「情報統合思念体は全宇宙を知覚しあらゆる情報を得ることが出来る。逆に言えばそれは新たに得るべきものが何もないということ。それこそが自律進化の閉塞につながっている。情報統合思念体は進化のものさしを情報処理の能力、つまり速度と正確性に求めた。それはひとつの基準として間違ったことではない。だが情報を得ることと理解するということは同じではない」
「地球上の有機生命体は肉体を持つがゆえの物理的進化と物理的退化を繰り返し、主体的、客体的にそれを取捨選択した。その結果人類はここまでの自律進化を遂げた。進化と退化は本質的に同義。

情報統合思念体には退化といういう概念も客体的という概念も存在しない。情報統合思念体が自律進化の限界に達しているのは、硬直的な一方向のみの進化を続けたことが原因。つまり情報の取捨選択に関して自らの価値観、ものさしのみを基準にしていたということ」
老人は穏やかな表情を崩さずに聞き続けていた。

「情報統合思念体は長らく涼宮ハルヒを観察したにもかかわらず、幾度となく発生した情報の奔流に対してノイズ、ジャンク情報という判断しか下せなかった。それが情報統合思念体の進化の限界を表している。自律進化への道を開くには、今まで不必要な情報として切り捨てていたものに目を向ける必要がある。情報統合思念体が重要視しなかった情報にこそ自律進化の鍵がある。それは涼宮ハルヒにより断続的に生み出された情報に凝縮されている」
「情報統合思念体に必要なのは今までとは別のものさし。だがあなたたちは有り余る情報の全てを得ているがゆえに、その結論には至らない。涼宮ハルヒの情報は、肉体を持たない物にとって理解するのは難しい。私は肉体を得ることで情報処理能力に制限が課せられたが、同時に別の情報を理解する能力を得た」
「有機物などという器がどれほどのものだと言うのです」
割って入る老人に構わず長門は続ける。
「涼宮ハルヒによる第二の情報爆発により、情報統合思念体は未来との同期機能を失うことで時間の概念を得た。それは自律進化にとって大事なこと。あなたたちも一度はそれを認めたはず。でも結局あなたたちはそれを放棄し自律進化への道を自ら閉ざした。今の情報統合思念体が自律進化の可能性を得るには大きなきっかけが必要。情報統合思念体が今のものさしに縛られている限り、これ以上の進化はあり得ないもはやそれは客体的な退化を経験することでしか得られない。」
「空言ですな」
「この装置には、人間の持つあらゆる感情が蓄積されている。感情が我々に対して多大な影響を及ぼすことは、わたしや朝倉涼子の事例を通して知っているはず。感情こそが情報統合思念体を滅ぼす力であり、自律進化の可能性への真の鍵。感情が情報統合思念体に流れ込むことにより、無矛盾の秩序に矛盾を生み出し崩壊を誘発させる。それにより情報統合思念体に散在する無数の意識の淘汰が開始される。それに耐え、それを乗り越え、それを克服すること」
長門はきっぱりと言った。
「それこそが自律進化への道」

老人から笑みが消えていた。
「もし情報統合思念体が自律進化を望むなら今がそのとき。わたしの言葉を信じるべき」
老人は長門を睨むように見据えている。
「もう戯言は結構です。有機生命体の持つノイズで我々の進化が得られるなどと」
長門はゆっくりと首を振った。老人を見やるその表情が寂しげに見えた。
「あなたとの相互理解は不能と判断した。それはとても残念なこと」
「人間のような下等な存在に篭絡されおって」
長門はしばらくのあいだ目を閉じ、意を決したかのように老人に強い視線を送り、
「あなたが人類を語るなど」
そしてこう言い放った。
「五百万年早い」
老人があからさまに言葉を荒げた。
「所詮お前たちと解り合うことなど不可能ですな。では永遠に消えてもらいましょう。二人一緒に」
その瞬間、長門の手にしているオーパーツが輝きを放った。

「終わった」

長門の瞳がわずかに潤んでいた。
「……わたしは言葉を尽くした。でもわたしの言葉は聞き入れられなかった」
突然、老人が叫びだした。頭を抱え、苦しんでいるように見える。
「……わたしはあなたたちの理解を望んでいた。人類との共存によって得られる未来を。でもその望みは叶えられなかった」
老人の叫びは収まらない。
長門は俺に向きなおり、
「わたしとの会話で、統括者はインタフェース端末を通して怒りという感情を理解した。この装置の持つ情報を統括者に送り込むためには、統括者に感情を生み出させる必要があった」
老人の叫びが止み、俺は目を見張った。今度は老人の頭が目に見えて膨らんでいく。

「統括者には、この装置からの莫大な量の感情が流れ込んでいる。もはや彼にそれを止める手立てはない」
老人が長門のそれよりもはるかに速いスピードで呪文の詠唱を開始した。しかしそれでも頭部の肥大化は止まらない。
「怒りに目覚めた統括者は、既に統括者自身にも制御不能。最悪の場合……」
長門は静かに目を閉じ、
「宇宙は無に帰する」
頼むからそんな恐ろしいこと言わんでくれ。
巨大な風船が破裂するかのような音が周囲に鳴り響いた。
内圧に耐え切れなくなった老人の頭部が崩壊したのだ。
その破片とともに、老人の体全体が情報連結解除され、輝きながら消えていく。
いや、消えていない。
光り輝く粒子たちは、はじめ霧のような状態で老人がいた周囲を漂い、そして別の物を形作り始めた。
「これは……」
老人の怒りが具現化したものだろうか。次第に姿を明らかにさせてゆく目の前のそれは、高さ、横幅とも十メートルほどの、言葉では言い表せない物体だった。
俺が知る、怪物とか悪魔とか鬼神とか、そういった想像上の生物を含めた全ての物体の中で、それは最もおぞましいかった。
俺は恐怖で腰が抜けそうになり、かろうじて踏みとどまった。
ハルヒと出会って以来、今まで散々恐ろしい目に遭ってきたおかげで、俺は大抵のことには動じなくなっていた。
だが目の前のそれは、今まで起こったどんな出来事よりも俺に恐怖を感じさせた。
やがて、表現も理解も出来そうにないその物体は完成し、しばらくの間、時間が止まったかのような静寂が訪れた。

そして次なる恐怖がやってきた。
時空振動。
大規模とか超弩級とか、そういうレベルではなかった。以前の老人のそれとはさらに桁が違う。
宇宙に存在する全ての空間と時間が一点に凝縮されるような感覚。つまり、宇宙開闢の逆のことがおこなわれようとしている。
長門の予想が現実のものになろうとしていた。言わんこっちゃない。
「わたしたちに出来ることはもはや何も残されていない。これから何が起こるかは予測不能。人類の言葉を借りればこれから先のことは」
長門は天を仰ぎ見た。
「神のみぞ知る」
目の前の物体から触手のようなものが伸びた。
それは地面を鋭く蛇行しながら、一呼吸の間に俺たちの足元にまで到達した。
戦闘態勢を取るように、触手の頭部が目の前に屹立する。
まさにヘビに睨まれたカエル状態だった。足がすくむとはこういうことだったのか。腰から下は震えるばかりで俺の意思どおりには全く動いてくれない。
長門を見る。長門も完全にフリーズしていた。戦ってどうにかなる相手だとは思っていないのだろう。
赤茶けた触手が俺たちを見下ろすようにわずかに上下に動く。次にその先端に黄色い光の点が生じ、それが次第に輝きを増す。やばい。やられる。

突然、俺たちの目の前を光の壁が遮った。

鈍い音とともに地面が激しく揺れ、振動で倒れそうになった俺はなんとか踏ん張る。
背後からも、同じように眩いばかりの光が注がれていた。振り向く。そこにも光の壁が立ちはだかっていた。
違う。
壁ではなかった。俺はそれを仰ぎ見た。
青く輝く高さ数十メートルの巨大な人型。
神の人。

「ハルヒ、お前なのか!?」
神人の左手が、俺たちと触手の間を遮ってくれていた。
物言わぬ巨人は呼吸するように体を前後に揺らす。
「こっちだ、長門!」
俺は長門の手を引き、慌ててその場から離れる。
屈んでいた神人が両手をぶらりとさせたままゆっくりと立ち上がる。
老人の成れの果てを見据えるかのように、頭部がわずかに動いた。
神人の右腕が緩慢に振り上げられ、次の瞬間、それが異形の物体めがけて叩きつけられた。
「やったか?」
衝撃で舞った土煙の中から、老人の周囲を覆う赤黒い光の玉が見えた。神人の腕はそれに阻まれ本体まで到達していない。
神人は両拳でもって交互に球体を殴打し始めた。その度に、硬質の金属を叩くような高音と、雷鳴のような低音が響き渡る。
相手がビルであったらそれは既に跡形もなく粉砕されているであろう、凄まじいスピードとパワーでパンチを繰り出す。
だが光の球体はビクともしていない。それでも神人は攻撃の手を緩めない。
球体の正面から一本の触手が伸び出し、瞬時に神人の左足にまとわりつく。
あたかも羊羹を糸で切るかのように、あっけなく神人の足が切断された。
バランスを崩した神人が片膝をつき、地面が鳴動する。俺たちも立っているのがやっとの状態だ。
もはや俺には祈ることしか出来ない。俺は掌を合せ、それをしっかりと握りこんだ。
「頼む、ハルヒ」
神人の両手が触手を掴み取り、力任せにそれを引きちぎる。球体の中の物体が、内側に勢いよく激突する。金属音が耳をつんざき、思わず耳を塞ぐ。
球体の、触手が出ていた部分を神人がぶん殴った。そこを中心に球体に亀裂が走る。
亀裂に向かってさらに神人の右手刀が叩き込まれる。球体を貫通した。だが本体までは届かない。
即座に球体の修復が開始され、神人の右掌が挟まれる。

神人は素早く左手を亀裂に突き入れた。両掌を無理やりに返し、球体をこじ開けるように左右の腕に力を込める。
ガラス板に圧力をかけたようなミシミシという音と電流のショートするような音が同時に流れる。
球体の左右から無数の触手が飛び出し、神人の腕に向かって伸びる。
触手が神人の腕を締め上げる。だが切断されない。触手が絡まっている部分の周辺の光が青から赤に変わっていく。
両腕が球体をさらに左右に開く。限界点に達した球体が鈍い破裂音を伴って粉々に砕け散った。
中の物体めがけて神人が頭突きを喰らわせる。
触手は力を失ったかのように神人の腕を離れ、それらが地面に打ちつけられる。
神人は両手を組み、上半身全体を目いっぱい使って振りかぶる。そしてそれは振り下ろされた。

大気と大地が同時に揺さぶられ、辺り一面に轟音が鳴り響いた。

神人の手の先に輝きが生じ、無数の光の粒子が爆発するように周囲に拡散していく。
そして今度こそその粒子たちは光を失い、闇のなかへと消えていった。
それまで感じていた宇宙全体を揺るがす時空振動が、嘘のように消え去った。
老人の暴走が止み、宇宙消滅の危機が回避されたのだ。
役割を終えた神人もまた、中心部から外側にかけて粒子化していた。
頭部が消滅する寸前、神人は俺たちの方を向き、わずかに首を傾けた。
俺には神人が微笑んでいるように見えた。

こうして、おそらくこれが最後になるであろう閉鎖空間は消滅した。

閉鎖空間消滅の刹那、俺は微かな時空振動を感じた。それはなぜか俺にとって、とても心地よく感じられた。
今まで欠けていた何かが埋まるような、バラバラだった何かが急に整然とまとまるような不思議な感覚。
そうか。情報統合思念体によってハルヒを殺され、大掛かりに塗り替えられてしまった歴史、その歴史の歪みが解消されたのだ。

結局のところ老人の暴走は、朝倉が暴走したのと同じ理由だった。
朝倉は長門と同じく未来の自分と同期が出来た。だが朝倉は自分が消滅する結末を知ってか知らずか、結局は暴走した。
それはこのオーパーツの影響だった。
朝倉がオーパーツを手にした俺を殺そうとしたとき、朝倉にはある感情が芽生えていた。
変化のない観察対象、涼宮ハルヒに対する苛立ち。
自分のことなど全く歯牙にもかける様子のない涼宮ハルヒ、そしてハルヒに選ばれた俺に対する憎しみ。
同じインタフェース端末として、長門のバックアップに甘んじることへの嫉妬心。
それらが、俺を惨殺した際に複雑に入り混じった。
そして、その感情をきっかけにしてオーパーツからの感情の奔流に見舞われ、朝倉は最終的に暴走したのだ。
「私があの十二月十八日に世界を改変したのも同じ理由」
それについては、俺自身が以前出した答えと同じだった。
長門は長きに渡るSOS団での生活により行き場のない感情が蓄積し、それが飽和して暴走したのだ。
そして今回、老人にわずかな感情を芽生えさせることによりオーパーツの機能が有効化し、老人は消滅した。
「これから情報統合思念体がどのような道を歩むのかはわからない。ひとつ言えるのは、あなたと地球に対して今後も情報統合思念体からの脅威が迫る恐れがあるということ。そして、それらからあなたと地球を守るのもこの装置の役割」

全てはこれで終わった。
俺は一刻も早く、あの頃のハルヒに会いたかった。
長門とともに、ハルヒが命を落とした日へと移動する。俺とハルヒが暮らしていた新居へ。
だが、そこにハルヒの姿はなかった。
なぜだ? まさか歴史が変わっていないのか?
俺たちはハルヒが入院していた病院の個室へと向かった。
ベッドに横たわったハルヒが確かにそこにいた。
その横にはハルヒに付き添う過去の俺の姿があった。
なぜだ? 俺は何か失敗してしまったのか?
長門が言った。
「情報統合思念体の仕業ではない」
だったら、どうしてハルヒはまだ病気にかかっているんだ。
長門はわずかに首を振った。
「原因不明」
医師の話を盗み聞きしたところ、ハルヒは最初に倒れて以来、一度も目を覚ましてないのだという。
それって前より状況が悪化してるじゃないか。

あのときの俺には祈る以外に出来ることは何もなかった。ハルヒが回復することだけを願い、日々祈り続けていた。
そして、それは今の俺も同じだ。俺が出来る全てのことを、俺は既にやり尽くしていた。
後は、朝比奈さんの言葉を信じるしかない。
『涼宮さんが死ぬことは既定事項ではありません』
ハルヒがこの世を去る時間が、刻一刻と迫っていた。
目の前には、ハルヒに先立たれる直前の疲れきった俺がいた。
過去の俺がそうしてしまったように、目の前の俺もいつしか眠ってしまっていた。
ハルヒが死に、その先の数日間で俺は一生分とも思えるほどの涙を流し続けた。
俺はもう一度あの辛い想いを繰り返さなければならないのか?
もうすぐ運命の時がやってくる。
永遠とも感じられるほどの時間が流れた。

そして、ついにそれは起こった。

ハルヒは何の前触れもなく、突然目を覚ました。

「キョン!?」
勢いよくその上半身を起こし、不安そうな声で叫ぶハルヒ。
驚きのあまりしばらく硬直していた俺は、やっとのことで、かろうじて呼び返すことが出来た。
「ハルヒ……」
大きく息を吸い込み、俺はもう一度、はっきりとした声で呼んだ。
「ハルヒ!」
ハルヒは俺に気づかない。どうしたんだハルヒ? 俺はここにいる! 
俺はハルヒに駆け寄ろうとし、長門の腕がそれを制止した。
「彼女には私たちの声は届かない。姿も見えない」
そうだ。遮蔽フィールドが俺たちを包んでいるのだ。
もう一人の俺がようやく目を覚ました。
「ハルヒ……」
さっきの俺と同じセリフだった。
二人はしばらく目を合わせ、そしてしっかりと抱き合った。
医師たちが病室に駆けつけ、呆然とした表情で二人を見守っていた。
今まさに、奇跡が、この場で起こったのだ。感動的な光景が俺の目に広がっていた。
今までの俺の苦労はこれでようやく報われたのだ。
俺は目の前の二人の姿を、我がことのように祝福した。片方はまさに俺なんだからな。
涙で視界が次第に霞んでいった。

病室を出た俺たちはいつもの公園に移動し、ベンチに座っていた。
俺は今まで薄々ながら気づいていたことが、はっきりと現実になったことを悟った。
ハルヒが蘇った喜びをハルヒと共に分かち合えるのは、さっき俺の目の前にいた俺であって、この俺ではない。
このままでは俺はハルヒと軽口を交わし合うことも抱き合うことも出来ないのだ。
俺が再びハルヒとの生活を取り戻す方法はないのか?
そして俺は過去の出来事のひとつを思い出した。
この状況はよく考えてみれば以前長門が世界を改変したときと同じではないのか?
俺が朝倉のナイフによって倒れたとき、その時間平面上には刺された俺、未来から世界を元に戻すためにやって来た俺、それ以外にもう一人俺がいたはずだ。
これから起こることなど何も知らず、自宅のベッドでいつもどおりぐっすりと眠っていた俺が。
その後、未来の長門によって世界が再改変されたとしても、そいつの存在は消えないはずだ。
では刺された俺は、眠っていた俺といつ入れ替わったんだ?
そのときと同じことをすれば、今回もこの俺ともう一人の俺が入れ替われるんじゃないのか?
長門はゆっくりと首を振った。
「あのときは暴走した私によって改変された三日間を残し、脱出プログラム起動直後から世界を再改変した。あなたを除く他の人に架空の三日間の記憶を与えて」
そうか。つまりは、あの時眠っていた俺はその後、朝倉に刺された俺がそうしたように、改変された世界に混乱しつつも三日後の夕方になんとか脱出プログラムを起動し、当時から三年前の七夕へと移動したんだ。
そうしてその次の瞬間から世界は変わり、刺された俺は夕方の病院のベッドで目を覚ましたということだ。
『いったん暴走したわたしに世界を改変させておいて、それから修正プログラムを撃ち込む。そうでないとあなたが脱出プログラムを起動させる歴史が生まれない』
当時の長門の言葉の意味を、俺は今になってようやく理解した。

ならば、今回の歴史改変はそれとは決定的に違うことがある。
今の俺はハルヒが死ぬことによってTPDDを得て過去に飛んだ。ハルヒが死ぬという歴史があって初めてこの俺は存在している。
そしてハルヒが死なない歴史での俺、つまりさっき目の前にいた俺は、TPDDを得ることもなくその生涯をハルヒとともに過ごす。
つまり、この歴史では俺のいるべき場所はどこにもないのだ。
「長門、お前の力でなんとかならないのか?」
「今の私にはその力はない。私は既に情報統合思念体とは決別している。涼宮ハルヒの能力も既に失われていて利用出来ない。唯一残された手段は、もう一人のあなたを殺してあなたが入れ替わること」

目の前が真っ暗になった。
あいつは俺自身だ。俺が最も望んでいた、ハルヒと平穏な生活を送り続ける、幸福に満ちた理想の姿だ。
ハルヒの病気に誰よりも心を痛め、ハルヒの回復を誰よりも待ち望んでいた、ほんの二年前の俺なんだ。
そんな俺を、この俺が殺すなんてことが出来るわけないじゃないか。
俺は絶望していた。これで本当にハルヒとは永遠にお別れなんだな。
「こうなることはわかっていた。でも涼宮ハルヒを蘇らせるには、他に方法はなかった」
あらためて俺は朝比奈さんや長門の言っていた代償の意味を知った。
俺はハルヒを救うために、今までの人生もこれからの人生も全て捨ててしまわなければならなかったということだ。
こんなことなら代償が俺の命だった方がよほどマシだとさえ思えた。俺はこれから先どうやって生きていけばいいんだ?
俺には既に生きる目的が見えなくなっていた。
「……もう今すぐにでも消えちまいたい気分だ」
無意識に気持ちが口を伝って出ていた。

しばらくのあいだ頭を抱えていた俺は、強い意思が込められた無言に気づかされた。
長門が真っ直ぐな視線を俺に送っている。
その瞳に、明らかな非難の色が浮かんでいた。
「私にもあなたの悲しみが理解出来る。だから……」
長門は目を閉じて言った。
「自分を消すなんて言わないで」
俺は凝然とした。これは俺が長門に言った言葉じゃないか。
長門は今の俺に、あのときの自分の姿を重ねているのだ。
そして長門は、ためらいがちに、だがはっきりと俺に告げた。
「こんなことを言うべきではないのかもしれないけれど……私は涼宮ハルヒとは別の道を歩むことになったあなたという存在を嬉しく思っている」
この言葉を聞いて、俺はようやく長門の気持ちをはっきりと確信した。俺は本当にバカだ。
そして、俺は今までの長門に対する俺の振る舞いに対して呆れ、悔やみ、そして叱責した。

――お前は長門に何と言った?
どこにも行くところがないなんて二度と言うんじゃない、だと?

――お前は長門と約束したんじゃなかったのか?
俺がお前を地球でずっと生きていけるように努力する、と。

――お前が高校生の頃に思っていたことは嘘だったのか?
長門との約束なら俺は死んでも守ってやるつもりだ。

俺に生きることを放棄する資格など、どこにもありはしない。
自分とハルヒのことに精一杯で、俺はこんな大事な約束すら忘れていたのだ。長門の気持ちなど考えもしないで。
長門は始めて会ったときからこの今まで、ずっと何の見返りも求めずに俺のために尽力してくれた。
俺は数え切れないくらい長門に救われてきた。それだけじゃない。ハルヒの命をも救ってくれた。そして一度は俺のためにその命さえ捨ててくれたのだ。

ならば、俺は残りの人生は、全て長門のために費やすべきじゃないか。
いや、それでも全く足りないかもしれない。それほどのことを長門は俺にしてくれたのだ。

「ひとつ頼みがある」
俺は意を決して言った。
「俺の記憶を消すことは出来るか? 俺のハルヒに対する恋愛感情だけを全て」
目を閉じた長門が静かに否定した。
「私には既に記憶改変の能力はない」
しばらくの沈黙。
「でも……」
長門はとまどいを見せ、そしてこう言った。
「恋愛感情を変化させることは、あるいは可能かもしれない」
「少しでも可能性があるなら」
俺は長門を見つめ宣言した。
「ためらわなくていい。思いっきり、盛大にやってくれ」
これから自分の身に起こるであろう何かに対して、俺は覚悟して目を閉じた。
俺は激痛とともに意識を失ってしまうのか。
あるいは突然頭の中が操作され、何かが変わってしまうのか。

……身構えている俺の口元に、唐突に、柔らかく暖かいものが触れた。
予想外の出来事に、恐々と開かれた俺の目は、さらに見開かれることになった。

目を閉じた長門の唇が、俺の唇に不器用に押し当てられていた。

俺はしばらくの放心の後、ゆっくりと、再び目を閉じ、そしてこう思った。

――なるほど、確かにこれは恋愛感情の変化には効果的かもしれない――

生き続けることを決心した俺は、ハルヒの高校卒業に併せて執りおこなわれた機関の解散パーティーに出席した。
お世話になった人たち、そしてもう会えなくなってしまう人たちに、別れの挨拶をしなくてはならない。
「皆さん、大変お待たせしました。ただいま戻りました」
卒業式後のSOS団解散式から会場に駆けつけた古泉が盛大な拍手で迎えられ、それと同時にパーティーは開始された。
それはSOS団解散式に勝るとも劣らない、壮絶な盛り上がりっぷりだった。会場の全体が常に笑いと涙で占められていた。
ハルヒによる理不尽極まりない数々の試練に対して、六年もの間苦楽を共にした仲間たちが集まっているのだから、それは当然のことだった。
晴れやかな笑顔を振りまきながら祝い酒を次々に飲み干す森さん。
静かに涙する新川さんと、抱き合って喜びを表現する田丸さん兄弟。
他の能力者たちに囲まれながら、意外にも大泣きしている古泉。
俺が機関に関わったのは実質的にはわずかの間だったが、それなりの思い出はある。間接的に関わっていた高校生の頃のこともある。俺の目にも涙が浮かんでいた。
機関の大部分のメンバーは、俺がどういう立場の人間なのかを知らなかったが、それはそれでありがたかった。いまさら創設者だと紹介されて、挨拶なんかさせられるのはご勘弁願いたかったからな。
俺は会場の片隅でパーティーの成り行きを見守る鶴屋家当主に挨拶に向かった。
「お世話になりました。あらためてお礼申し上げます。おかげで無事に役目を果たせました」
俺は心の底からの感謝を込めて最敬礼をおこなった。俺の歴史改変の全ては、当主がいてくれたからこそ成し遂げられたのだ。
本人を前にして感謝の意を表すのはこれが最後になる。当主はこの三年後に、急な病で命を落とすことになるのだ。
「こちらこそ、楽しいひとときを提供していただいて感謝しております。気が向いたらいつでも当家にいらしてください。娘もあなたが来るのを楽しみにしております」
当主は愉快そうに笑った。この人と出会わせてくれた運命にも、俺は心から感謝した。

俺はその四年と半年後、つまりハルヒが復活してしばらく後の時空に戻り、鶴屋さんに会いに行った。
「お久しぶりです鶴屋さん」
「ジョン兄ちゃん、久しぶりっ! いや、キョン君って呼んだ方がいいのかなっ?」
「ええ、どちらでも構いませんよ。今日は先代と鶴屋さんにご挨拶をと思いまして」
俺は当主の葬儀に参列出来なかった。昔の俺やハルヒと対面するわけにはいかなかったから。
当主の遺影に向かい、手を合わせた。あの時は言えませんでしたが、ようやく全てが終わりました。俺が今こうしていられるのも全てあなたのおかげです。
「先代と鶴屋さんには本当にお世話になりました。何とお礼を言っていいか。俺に出来ることなら何でもしますよ。何だったら未来のアイテムか何かを買ってきましょうか?」
「いいっていいって。あたしもジョンにはいっぱい世話になったからねっ。ところで、これからどうすんだいっ?」
「ええ、実は少し歴史がこじれてしまいまして。この時代にいる、鶴屋さんと同じ時間を過ごした俺と、今ここにいる俺は別の道を歩むことになっちゃいました」
「それは何となく感じてたよ。キョン君とジョン兄ちゃんは同じであってどこか同じじゃないなって」
「これから俺は少し未来に行こうと思ってます。この時代で生きていくには何かと不便が多くて。この時代の別の場所で暮らすのもいいんですが、別の時代のこの場所ってのも悪くないなと思いまして」
「そっかー。いよいよお別れなんだね」
「俺としても名残惜しいですが。この時代に残るもう一人の俺とハルヒをよろしくお願いします」
「あははっ、まかせときなっ」
鶴屋さんは俺のよく知る笑顔で答えてくれた。
「それにしても不思議なもんだね。中学生のあたしの前に現れたジョン兄ちゃんに、高校の下級生として北高で再会するなんてね。ジョンがまさか年下の男の子だったとは思いもよらなかったよっ」

そして鶴屋さんは俺に思いがけないことを告げた。
「今だから言うけど、あたし結構ジョンのこと好きだったんだよ。ううん、正直に言えば初恋の人だったの。結ばれない運命ってのは最初から解ってたことだけどねっ」
想像もしていなかった告白に俺は言葉を失った。
「でも、それはあくまでジョンのこと。キョン君じゃないの。私、年上が好みなのかなっ?」
鶴屋さんの瞳に涙が浮かんでいた。俺はまたしても鶴屋さんを泣かせてしまったのか?
「せっかくだから、じゃあひとつだけわがままさせて貰おうっかな?」
そう言った鶴屋さんは唐突に俺にキスをした。
「未来でも元気でね。あたしはジョンのことずっと覚えてるからねっ」
すっかり狼狽していた俺はかろうじて「ありがとうございます」とだけ言えた。
鶴屋さんもどうかお幸せに。俺はこれからの人生、長門とともに鶴屋家をずっと見守り続けます。

それからしばらく経ったある日、未来への移動の準備で色々と買出しをしていた俺は、思いもよらない人物に声をかけられた。
「お久しぶり。随分探したわ」
そいつの笑顔を見て、俺の体から否応なしに冷や汗が噴き出してくる。
それは、消えたはずの朝倉涼子だった。
「お前、どうして……」
それ以上は言葉にならなかった。
「あなたにずっとお礼を言いたかったの。迷惑だったかな?」
お礼にアーミーナイフなんて欲しくないぞ。
「安心して。もう襲ったりしないわよ」
朝倉が場所を変えようと提案し、俺たちは近くの喫茶店に入った。
やれやれだ。朝倉と喫茶店でお茶だと?
席についた朝倉は、昔を懐かしむような表情で語り始めた。
「あのとき長門さんによってわたしの肉体は消滅したけれど、わたしの意識は情報統合思念体に回帰したの。そしてあの二度目の情報爆発の日、わたしは他の意識とともに感情の奔流を経験した。情報統合思念体はあの日以来すっかり変わったわ。今や生き残った意識は数少ないの。わたしが今こうして存在しているのは涼宮さんや長門さん、それにあなたのおかげ。あなたたちがわたしにあらかじめ感情を萌芽させてくれたからこそ、わたしはあの感情の奔流を乗り越えることが出来たの」
「そのおかげで俺は二度も殺されかけ、実際に一度殺されたんだがな」
「お願い。それはもう言わないで」
片目を閉じて両の手を合わせる朝倉を見て、俺は正直に失言を詫びた。
「長門さんがあの閉鎖空間で言ったとおり、人間の持つ感情がわたしたちに与えた影響は絶大だったわ。そして情報統合思念体は多くのものを失い、多くのものを得たの。これが自律進化の可能性と言うのであれば、それは多分そうなのかもしれない」

朝倉は運ばれてきたアイスレモンティーをストローで愛おしそうに飲んだ。
「今のあたしはね、毎日が楽しいの。この先自分に何が起こるのか解らない、そう考えるだけでワクワクする。あたしはこれから自分の求めるものを自分自身で探しながら生きていくの。感情とともに。これって素敵なことだと思わない?」
「ああ、その通りだと思う。人間は常にそうやって生きてきたんだ」
「そうよね。あの頃のわたしには想像もつかなかった。今思えば、あの頃のわたしは確かに涼宮さんや長門さんに嫉妬していたのだと思うの。何も解ってないわたしなりにね」
朝倉はそう言って笑ったあと、表情を真剣なものに変え俺に告げた。
「情報統合思念体の中では、今の状況を自律進化への道として受け入れている意識が大多数なの。つまり今はわたしも主流派。でもね、一部の意識は人類、特にあなたと長門さん、涼宮さんに対して未だに恨みを持ち続けているの。だからこれから先気をつけて。あの装置があればあなたと長門さんは多分大丈夫だとは思うけど。それと、涼宮さんともう一人のあなたのことはわたしにまかせて。わたしが彼らを陰ながら守ってみせるから。これはわたしの、あなたたちへのせめてもの恩返し。わたしはそれをあなたに伝えたかったの」
そして朝倉は元の笑顔に戻った。
「長門さんに会えなかったのは残念だけど、よろしく伝えておいてね」
俺たちは喫茶店を出て、その場で別れた。
「前にもお別れの言葉は言ったけど、今度は本心で言うね」
朝倉はあの時と同じ、そしてあの時とは違う笑顔で言った。
「長門さんとお幸せに」
そう言って朝倉は俺に歩み寄り、あろうことか俺の頬にキスをした。
「一応言っとくけど、これは長門さんへのあてつけね。それじゃあ」
なんだか最近みんなが俺にキスをしてくれる。
これが長門に知れると、俺はしばらく口をきいてもらえなくなるんだがな。ちなみに、鶴屋さんのときは三日間だった。
そしてこれは必ず長門の知るところとなる。俺が長門に隠し事なんて出来るわけないからな。
今度は何日間になるんだろうな、そんなことを思いながら俺は朝倉の後姿に笑みを投げかけていた。

俺は少し迷ったが、古泉にも会うことにした。
古泉とは機関の解散パーティーで少しばかり話はしたが、やはりこいつには全てを話しておかなくちゃいけないという気がしたからな。
「そう言うわけで、既に解っちゃいると思うが、俺が機関の親玉だ」
「ずいぶんと今更ですね」
そう言って古泉はいつもの笑みを俺に向けた。
「お前はいつから気づいていたんだ?」
「それはもう、部室で最初に会ったときからですよ。あなたには他の人にはない独特の雰囲気がありますからね」
やれやれだな全く。
「解散式の時にも言いましたが、あなたには本当に感謝しています」
「今はほぼ同い年だ。その言葉遣いはやめてくれ」
「いえ、機関の創設者であるあなたにはそれは無理です。たとえあなたの命令であっても」
「なら、せめてもう一人の俺には今までどおりタメ口を聞いてやってくれ」
「それはこれからもそうですよ。向こうのあなたと私は友人関係です。それに私はあちらの彼にはお世話になってませんしね。いえ、全くと言うわけではなくてそれなりにお世話にはなりましたが」
「そんなに気を遣わなくていい。あっちの俺は同一人物だが既に別人だ。それと、解っているとは思うが、ハルヒともう一人の俺には、この俺のことは話さないでくれよ。あいつらに余計な心配はかけたくない」
「それはもちろんですよ。いたずらに混乱させるだけでしょうからね」
「何か困ったことがあったらいつでも呼んでくれ。と言ってもお前から俺に連絡する方法はないか。俺が困っているお前を見つけたらすぐさま助けに行くさ。少し行くのが遅れるかもしれんが、それは俺の時間軸で遅れるだけであって、お前の時間軸ではピンポイントで行ってやる」
「ありがとうございます。その節は是非よろしくお願いします」
「それと、最後に」
俺は少し照れくさかったが、本心を言った。
「今まで苦労した分、幸せになれよ」
古泉は俺に感謝の言葉を述べ、涙を浮かべた。俺も涙ぐんでいた。
でも、頼むからお前はキスなんかしてくれるなよ。長門は怒らないかもしれないがな。

最後にもう一度だけ行きたいと言う長門とともに、俺たちはあの図書館に足を運んだ。
思い起こせば、本当に色んなことがあった。
ハルヒに振り回され続けた高校時代。
ハルヒとともに人生を歩むようになった数年間。
そして、ハルヒを救うために超能力者の機関を作り、未来に飛び、歴史を改変した日々。
俺の今までの人生は幸せだったんだろうか?
そんなこと、今更問いなおすまでもない。普通の人間では決して体験出来ない波乱万丈な人生を送れたんだ。不平不満など言おうものなら天罰が下る。
高校生の頃の俺も思っていたじゃないか。こんな面白い人生を提供してくれたハルヒに感謝する、とな。
ハルヒと離れ離れになったのは正直なところ今でもわだかまりが残っているが、それに関してはもう一人の俺が、俺の代わりに幸福を満喫してくれればいいことなのさ、きっと。
読書に集中している長門の横で、俺はそんなことを考えていた。
ふと、俺たちの背後に人の気配を感じた。
何の気なしに振り返った俺は、次の瞬間には絶句していた。
俺はその姿を見てあからさまに驚き、それを取り繕う余地など全く与えられなかった。

そこに立っていたのは、紛れもなく涼宮ハルヒだった。

しまった。ハルヒは長門を見つけてここに来たのだろうか。
考えろ。この状況からどう逃れればいい。まさか俺に気づくとも思えないが、果たして長門はうまく誤魔化してくれるだろうか。
長門を見た。俺と同じように絶句してやがる。いやその表現は正しくないな。絶句こそが長門の基本モードだ。
ええい、そんなことを考えている場合じゃない。さあどうする。
そんな俺の狼狽を知ってか知らずか、ハルヒは俺をさらに混乱させるようなことを平然と言ってのけた。
それも、長門ではなくこの俺に向かって。

「髭生やしたあんたもなかなかのもんじゃない。サングラスも似合うようになったわね」

俺は呻きとも言えない声を上げた。ハルヒは共に人生を歩んでいる俺とは別の、この俺の存在を当然知っているかのような口ぶりだった。
ハルヒはさらに絶句している俺を気遣うように、
「あの時も言ったけど、あんたのおかげで本当に幸せだった。ううん、もちろん今も幸せよ。あなたらしい人影を見かけたから……。あの時はお別れの言葉になっちゃったから……。どう
してももう一度伝えたくて」
「ハルヒ……」
俺はそう言うのが精一杯だった。
「病院のベッドの上で、ずっと夢を見てたわ。あんたがあたしを助けてくれる夢。あたしがあんたを助ける夢」
やっぱりあれはお前の仕業だったんだな。俺はお前を助けるつもりで、実はずっと助けられてたんだな。
あらためて思った。やっぱりお前はすげー奴だ。時間どころか次元まで越えて俺のことを見守ってくれていたんだからな。
「有希」
ハルヒに呼びかけられた長門が、緊張の面持ちでハルヒを見た。
ハルヒは柔らかく目を細め、長門に微笑みを投げかけた。
それは俺が今まで見たハルヒの表情の中で、最も穏やかで最も深い、そんな微笑みだった。
「ずっと有希のこと心配だったけど、もう安心ね。幸せになるのよ」
長門の目がわずかに見開かれた。その瞳が潤んでいた。
「こっちのキョンをよろしくね」
長門は緩やかに首を傾け、
「……ありがとう」
そしてハルヒに微笑みを返していた。
改変された世界の、あんな贋物の微笑じゃない。本当の長門の、本当の感情が生み出した、偽りのない本当の微笑だ。
「時間がないから行くわ。もう一人のあんたを待たせてるの」
歩き出したハルヒは思い出したように振り返り、人差し指を突き立てた。
「キョン、しっかりやんなさいよ。有希を泣かすようなことしちゃだめよ!」
ハルヒはそう言い残し、図書館の外へと走り去っていった。

それにしても、別れ際もさっぱりとしたもんだ。それでこそハルヒらしい。俺は以前と変わらないハルヒに自然と顔が綻んだ。
ハルヒが見えなくなるまでその後姿を見送った俺たちは、顔を見合わせ、お互いの唇を重ねた。
ハルヒのおかげで、踏ん切りがついた。
ハルヒはもう一人の俺とともに、朝比奈さんが言ったように平穏な人生を送る。そして俺は長門とともにさらなる波乱万丈の人生を歩む。
それでいい。これから先のことは、これから考えればいいさ。

――そうだろ、ハルヒ?

こうして、俺たちはこの時空に別れを告げた。
俺はまだ朝比奈さんに会いに行く約束は果たしていない。
だが俺は確信していた。いずれまた遠い未来で彼女に会う日がきっとやってくると。そして彼女に会いに行くべき時が今でないことを。
俺たちにはまだ、これからやらなければならないことが残されている。
最終更新:2009年05月29日 16:00