私はいかにして掲示板を殺したか

私はいかにして掲示板を殺したか―Duke of York回顧録



「人間とは本質的に善いものであり、堕落しているのは社会のほうである。」(ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』)

はじめに

 私は掲示板を殺した。故意ではなかった。それよりも遥かに邪悪で、かつ遥かに浅ましい、過失によって発生した出来事だった。そしてそれはまた、全掲示板ユーザーと、潜在的に掲示板のユーザーたりえたかもしれない人々に対する、決して許されざる罪悪であった。
 私は傲岸だった。そしてそんな奴が―これは恥じ入るべきことだけれども、自信を持って言えることだ―掲示板に最も影響を与えた人物になってしまった。私は罪悪感をすべて押し殺し、自演だとか、偽旗作戦だとか、そういう非道を実行していた。狂信的な「掲示板のため」という文言が常に後ろにあり、それを正当化していた。それは「倫理を伴わない道徳意識」でもあった。病的だ。
 それで、気付いたころにはすっかり手遅れだった。掲示板は死んでいた。野蛮な正義は霞と消え、虚無と、漠然とした愛着だけが残る。それは今に至っても尽きようとしない。私は呪われている、私は呪われている…。


 本書は掲示板史の考察書ではない。というのも、掲示板史は掲示板の本質ではないし、ましてや私一人のものでもないからである。では本書は何者かと言うと、私、Duke of Yorkがいかにして掲示板を見、そこで活動し、そこを殺したかを主観のみで語る回顧録である。ただし、重要な時期と出来事に内容は絞る。本書の執筆にあたって、私は自らに規則を課している。嘘はつかない、ロマンも求めないということだ。すべて本当のことを―少なくとも、私の視点から見て本当に思えることを―淡々と書く。




序章 掲示板の生

 本書を始めるにあたって、簡単に掲示板の生とは何かを定義しておく必要がある。
 掲示板は、重要な二つの要素をその源としている存在である。その中身は次のとおりである。
①ゲーム本体
②ユーザーの多様性
 ①はゲームの掲示板なら当然のことである。主題は隠れん坊オンラインの掲示板なのだから、ゲームには隠れん坊オンラインが当てはまる。今や忘れ去られて久しいが、本来掲示板とはゲームの情報交換やユーザー間の連絡、あるいはゲーム内の人間関係の延長が展開される場所だ。それが無くなった掲示板は、少なくとも「ゲームの掲示板」としては生きられない。何か別のものでそれを代替しなければ、ユーザーはいなくなってしまう。
 ②は①よりも重要である。ゲームの喪失が直接的には掲示板を殺さない一方で、ユーザーの多様性が失われてしまえば、それは完全なる廃墟の完成を意味する。掲示板はある種の公共財であって、大勢が利用することを想定している。それを構成する単位は人間だ。したがって、基本的に人数は多ければ多いほどよい。単に過疎になりにくいし、人の数だけ多様な話題と感性が交わり、その場に厚みを持たせてくれる。物理的な面でも精神的な面でも、持続可能性が高まるのである。対してユーザーが少数だと、ふとしたことで過疎の危機が高まるし、そういう掲示板は「薄っぺらい」ものである。非常に感覚的な表現だが、場の魅力とは本質からして感覚的なものだ。薄っぺらい掲示板は魅力が低く、新規の流入は防がれる。それはユーザーの循環の停止、すなわち掲示板の死に他ならない。
 読者におかれては、この二つの要素を頭に入れて、これから先の文章を読み進めていってほしい。

第一章 掲示板の非隠れん坊化(2021年)


    (隠れん坊オンライン攻略Wikiのバナー)

†クランを夢見る

 Duke of Yorkは本当にろくでもないプレイヤーだった。隠れん坊オンラインをまともにプレイした回数は両手両足があれば数えられるほどだったと思う。2018年から2年ほどかけて、114514鯖、102鯖、105鯖、225鯖の4つの鯖を渡り歩いたが、その活動を彩ったのは馴れ合いと荒らし、そして偽物行為だった。下手だからこういう行為に走ったのか、こういう行為をしてばかりだから下手だったのかは知らないが、2020年の暮れになっても私のレベルは3桁にすら達しなかった。私はそんな自分を恥ずかしいとは思っていなかったし、奇妙にもむしろ誇りに思っていた。そういうどこか斜に構えた心があったのである。
 隠れん坊オンラインには大抵の時代、多種多様なクランが溢れている。ガチ勢で埋め尽くされ、Eスポーツ集団を気取っているような連中もいれば、遊び鯖を荒らす為だけに組織された盗賊集団のような連中もいる。あるいは個人崇拝のためだけに作られた、カルトじみた集団も。私はそれらに漠然とした憧れを抱いていた。
 クランの何が私を引き付けたのかと言えば、それは彼らに内在する一種の「政治性」だった。団長だの副団長だのめいめいの役職を作り、それを頂点としたヒエラルキーを形成する。そしてその下で人間を統制し、合意を形成する。私はこの種のことが昔から大好きだった。異なる人間の意志と意志が入力され、協調であれ対立であれ何らかの結果を出力する。その一連の流れや、そこに現れる人間性を観察することを愛していた。そして、あわよくば自ら参加したいとも思っていた。それは「私ならうまくやれる」という傲慢な考えに裏打ちされた、幻想性をも帯びたものであった。
 ところが、3桁にも満たないレベルの人間を受け入れるクランなど当然存在しない。というわけで「クランの夢」は叶わずじまいだった。しかし、私のこれからの行動の源流はまさにこれ―政治性への憧れと参加願望―だったのである。

†運賃子と羽虫

 Gamerchの掲示板に足を踏み入れたのは、2020年の12月29日だったと思う。私は14歳だった。掲示板に来た目的は最低なもので、遊び鯖への荒らしを促すための宣伝だった。ただ、その後私はゲームから離れ、徐々に掲示板に入り浸るようになった。ちょうどその時期に、掲示板クラン"Dear"に端を発する一連の乞食騒動が発生し、それを見るのが愉快だったからである。掲示板でアイデンティティを確立しようと、翌年4月辺りから「歴史解説Bot」を始め、それなりに成功した。このとき自分が作った「Bot」という存在が将来頭痛の種となるのは、また別の話である。
 「2021年7月29日」はターニングポイントだった。私はその日、掲示板を政治化することに決めた。それには背景がある。
 掲示板はそのひと月前からきな臭くなっていた。1鯖民だった運賃子が掲示板の編集を事実上独占し、それに少数の、しかし存在感のある人々が反発していた。その一人はのちに盟友となる羽虫だった。私も編集で細々と対抗はしていたが、それは暇つぶしの域を出ていなかった。運賃子は、率直に言ってユーザーから好かれていたとは言い難い人間だった。骨の髄までトロール仕草が染みついており、自称12歳とは言え、すでに救いようのない人間に見えた。それでも、積極的な反発は羽虫と私しか行っていなかったと思う。大多数のユーザーは消極的反対の姿勢のみをとっていた。
 7月29日、羽虫は突如として掲示板の首都、チャンネル掲示板のページを移転した。この行動は、ユーザーの大多数であった消極的反対民の心に火をつけた。いや、それは一種のお祭り騒ぎであり、群集心理の暴走にすぎなかったのかもしれない。ともかく、皆が極端な意見を口々に叫び始め、運賃子への罵倒が一斉にして飛び交った。
 私はこの瞬間、掲示板に政治性を見出した。羽虫という過激な、そして未熟な子供の意志が起こした行動が、ユーザーたちの意志を触発する。そこには一種の合意があった。彼らは意志の共同体であった。そしてそれは政治に他ならなかった。クランに求めてもかなわなかったものが、そこにはあった。
 私は極めて政治的な、「クーデター」という表現を多用した。幼気な羽虫少年は「クレデター」と誤植したが、その表現に感化されたようだった。その他大勢も同じだった。敵対者たる運賃子も、その構図の中に引きずり込まれた。それは掲示板の政治化の、そしてその絶命に至る道の第一歩であった。

†掲示板史の誕生

 29日の騒擾に私は深い感慨を覚えた。私は自分に酔っていて、自らがとても偉大に思えた。それで、その高揚を忘れるまいと、翌日にWikipediaの真似事で『29日クーデター』を書いたのが掲示板史の始まりだった。
 掲示板史観が嘘だらけというのは幾度となく私はぷえの名義で示唆したが、最初の記事から既に虚構が含まれていた。私は記事中で運賃子による編集の独占状態を「六月体制」と、まるで民衆の犠牲の上に存立する独裁体制かのように表現した。明らかな虚構であった。先述のように、人々は運賃子に好感は抱いていなかったが、積極的に反対はしていなかったし、直接危害を加えられもしていなかった。
 こうした嘘にもかかわらず、『29日クーデター』と「六月体制」は人口に膾炙し、そして「真実」となった。羽虫含む、ユーザーの運賃子への憎悪は増幅した。自分たちは抑圧されていたという被害者意識が付け足され、さらにひどい場合は新たに生み出された。
 私は歴史を記していたというよりも、新たにそれを書いていた。体制、心理、あるいは真実はその筆に縁取られる。これは誇張による大衆の記憶のコントロールであり、不健全な状態であることは言うまでもない。誤解しないでほしいのは、私自身はこのような効果を想定していなかったことである。なぜ私がこのような言葉を使ったかと言えば、それは単に私にとって耳触りが良かったからに他ならない。『29日クーデター』は政治ロマンと自画自賛という自己満足の産物であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。私は掲示板史の拡大を続けたが、少なくとも2021年の間は、これがユーザーに与える影響に無関心だった。そうした態度は無意識のうちに、有害なプロパガンダを量産していくこととなる。

†37鯖問題

 8月11日、私は運賃子と和平協定を結び、1週間以上続いたカオスを終結させた。流石の私も、この時は疲れ果てていた。私が無意識に扇動し、抑圧「されたことにした」民衆も同じだった。和平協定自体、これ以上の騒動の継続は利益がなく、むしろ掲示板とその政治に害を与えるだけだと判断した結果であった。(ちなみに、Duke of Yorkの名前を使い始めたのはこの時期である)
 それなのに私は、そのたった三日後には既に新しい騒動に加わっていた。遊び鯖の37鯖と荒らし団との対立に身を投じたのである。私は37鯖側について遊び鯖を擁護したが、結果は荒らし団の勝利だった。実際37鯖で何が起こっていたかは知らない。私のやったことと言えば、ただ遊び鯖の「合法性」について掲示板で私見を述べ、荒らし団の構成員を揶揄しただけであった。
 かつて私は、この経験を苦々しい汚点だと考えてきた。最終的に敗北したし、遊び鯖民の支持を得たとはいえ、一時的に肩身の狭い思いをすることを強いられたからだ。しかし去年になって、新しい見方をするようになってきた。それはつまり、この37鯖への関与は、私の隠れん坊オンラインのプレイヤーとしての、最後の抵抗だったのではないかということだ。
 思えば私はこれを最後に、自身を完全に隠れん坊オンラインから切り離し、掲示板に埋没させた。それは腐ってもゲームのプレイヤーだった私を、完全かつ不可逆的に変えてしまった。そしてまた、(運賃子関係の争乱で伏線は既に多分にあったとはいえ)それは掲示板の「非隠れん坊化」の未来をも示唆していた。私は最初の「掲示板民」になりつつあった。そして、37鯖がこの争いで敗北したことは、そうした方向を決定づけた。

†政治化する掲示板


         (掲示板旗)

 37鯖騒動のために、掲示板の政治化の波は8月中盤には落ち着いていたが、10月に入ると再燃し始める。時の管理人YUUTA_JPとGamerch運営によるコメント削除・編集規制が発生したのである。
 こうした規制措置、特に前者の措置が、荒れる掲示板情勢からの脱却を目指したものであることに疑いはほぼない。民度は低下の一途を辿り、大きな争いこそ発生しなかったものの、その無秩序は極まっていた。のちに私の因縁の相手となるれたんが身内ネタ(思えばあれも自演による茶番じみたものだった)を行ったり、荒らし団が勝手に内紛だのオープンチャットとの問題だのを持ち込んだり、といった状況だった。誰も隠れん坊本来の話をしないし、鯖番号連絡などを意図してつけたであろう「チャンネル掲示板」の名は踏みつけられていた。そこからの正常化は、YUUTA_JPにとって至上命題であったと思う。彼は何一つコメントを出さなかったため断言はできないが、時期からしてもやり方からしても、私はそうであったと信じている。そしてそれが、政治化されていない普通の管理人として至極当然な行動であったことも。
 思えばそれは掲示板の第一の生存チャンスだった。同様に、政治化を止める最後のチャンスでもあった。
 これまで私は支持を得てある程度政治的な権力を持つこともあったが、それはあくまでユーザー間の関係性としての話であった。もし私が物理的に、言い換えればシステムの上でも地位を手に入れたならば、それは掲示板の完全な政治化を意味していた。なぜならこのころの私は、政治を憧れの対象を超えた、あらゆる厄介ごとを解決する万能の道具とさえ認識するようになっていたからである。その裏にはやはり自己過信があったことを、私は深い反省と共に認めなければいけない。
 それで結局のところ、掲示板は第一の生存チャンスを逃すこととなった。11月12日、Gamerch内で自作したサイトにユーザーを移すという「掲示板革命」の強行で、私は物理的な権力まで手に入れてしまった。より予後を悪化させたことは、その後の政治が上手くいったことである。実はそれは「革命」後の高揚感による一種の集団幻覚に支えられた一時的な現象にすぎなかったが、私はますます自信を深めてしまった。掲示板の旗を自作し、掲示板史では自身を神になぞらえるなど、見ていられない程度の自惚れだった。そして、政治なき掲示板は消滅した。

†独立構想と荒らし団

 政治なき掲示板の次は、隠れん坊のある掲示板が消滅する番であった。
 やっとのことで成就した「革命」に、Gamerch運営は当然いい顔をしなかった。それから4日もたたないうちに、運営はコメントの削除を開始した。案の定、私や「革命」の戦友たちは、運営への反発を煽った。とはいってもその扇動は政治性を高めるための演技ではなくて、実際私は(サービス利用者の分際で)運営の存在に憤慨していた。私は決めた。もはやGamerchのようなプラットフォームの下では、政治は行えないし、それと一体化した掲示板も、ユーザーの幸福も存立できない。私のような「適任者」が絶対的な権力を持つことのできる、別サイトへの移行―すなわち、「独立」が唯一の選択肢だ、と。
 私はこの時、初めて政治の為の自演に手を出した。それは名無しを装った、独立に関する最初の提案であった。私はそれに乗っかる形で、独立支持を公然とした。故地の放棄という負担を強いた「革命」からほぼ時間がたっていないのに、さらに同じことを繰り返すよう要請するというのは、流石に私の口から言えることではなかったのだ。実際、羽虫の「性急過ぎるし、過激すぎる」という最初の反応が全てを物語っていた。それでも私は彼を独立へ説き伏せ、ユーザーもある程度は賛同させた。紅葉&三日月も私を助けてくれた。彼はこの時点で、私に次ぐ2番目の掲示板民だったと思う。
 しかし当然のことながら、独立に反対する人間もいた。なかんずく、荒らし団の反発は根強いものだった。私は「革命」に乗じて彼らから発言権をこっそりと奪っていたし、夏からの敵対関係も尾を引いていた。そして何よりも、彼らはこの時点の掲示板で最も「非政治的」で、「隠れん坊的」な集団だった。それは実は、掲示板の命綱であった。ともすれば政治談議が全てを覆いかねないこの状況下で、彼らは荒らしという迷惑集団ではありつつも、そのアイデンティティをしっかりと保持していた。その根拠は、他でもない隠れん坊オンラインだった。そして、彼らは政治化を進める私を嫌っていた。それは「隠れん坊オンラインと言うゲームの掲示板」から生まれた一種の抵抗現象かつ、原始的な凡人主義の様相をも呈していた。(ちなみに、彼らは『掲示板内戦』で書かれたような親運営の思想はまったく持っていなかった。)
 旧37鯖系のクラン、なつき団も掲示板に多くのユーザーを抱えていた点では同様だったが、私に無批判で、自殺的なことに非隠れん坊化に無関心だった。そして私たちの言葉を真に受けた、親独立派だった。当時の私ですら気づくことができなかったが、私が『掲示板内戦』で示した分断の実態とは、こういったものだったのだ。

†マトリョーシカ型の分離独立運動

 12月5日、私はみん作への「独立」を強行した。そこは画像が投稿できず、名前も付けられない、ゲームの掲示板としては最低の場所であった。一方で、運営はいないに等しく、ページの作成と編集ができ、IPアドレスから書き込み制限が可能という点では政治を行うにあたって最高の場所であった。それは政治と非隠れん坊の掲示板だった。私は当初、先述の低性能を糊塗するべく「この掲示板は臨時」と人々に説明していたが、それは嘘だった。というより、これ以上の掲示板移転は自殺行為に思えたし、単に面倒だったのである。少なくとも、私はやる気がなかった。
 もちろん荒らし団は反発した。そしてそこから「内戦」が始まるのであるが、思えばそれは内戦と言うより、旧ユーゴスラヴィア諸国で見られたようなマトリョーシカ型の分離独立運動の様相を呈していた。
 第一の構図は、掲示板のGamerchからの分離である。これは実を言えば、決定的でもなんでもなかった。Gamerch運営は直接介入を行うレベルで、自社のサービスを自治行為に悪用するユーザーに辟易していた。むしろ出て行ってくれてせいせいしたことだろう。
 決定的だったのは第二の構図、一部ユーザーの掲示板からの分離であった。それは荒らし団らが「保守派」と称して(といってもこの名称は私のレッテル張りを起源とするのだが)Gamerchに残留したことを指す。今思えば、これは独立を潰してやろうだとか、政府を打倒してやろうだとかそういった運動ではなく、ただ政治に乗っ取られた「正当なる掲示板」から離れたいという、切実かつ真っ当な願いの結晶だった。この分離が成功していたならば、少なくともGamerchの掲示板の非隠れん坊化は免れていた。隠れん坊オンラインはGamerchの中で保存されていただろう。それは実は、掲示板第二の生存チャンスだったのである。
 ところが破滅的なことに、その保存場所の管理人は私だった。私は掲示板の生殺与奪を左右する立場に置かれていたのである。そしてそれに私は気づけなかった。

†断絶

 『掲示板内戦』は数ある掲示板史記事の中で最も多くの虚構を含んだものだ。私は独立直後に争いが始まったかのような記述をしたが、それは真実とは言えない。たしかにみん作にサイバー攻撃があり、編集の荒らしもあったが、それは残留組の組織的な行動ではなかった。勢力間の衝突は基本発生しなかった。ただし、Gamerchの残留組は私たちにとって頭痛の種でもあった。彼らは潜在的な脅威に思えたし、サジェストの上で強力なライバルになる可能性もあった。そのため、放置はできなかった。
 私と共に独立を行った羽虫は、合意の上での解決を模索した。12月6日か7日だったと思うが、彼は「旧掲示板を破壊するかの投票」をGamerchに作成し、総意を出そうとした。この時点で「破壊」という強硬策が選択肢にあったことは忘れてはならないが、ともかく残留組の意志も汲んでやろうという良心的な行動であった。
 しかし、言うは易く行うは難し。それを尊重するかは別問題だった。12月10日時点で、この破壊投票は反対派が賛成派を上回っていた。ところが、それが都合の悪い我々は態度を急速に硬化させた。対する残留組も同じだった。彼らは私たち革命家気取りの連中に心底うんざりしていて、一刻も早く以前の掲示板が戻ってくることを期待していた。それなのに自分たちを勝手に腫れもの扱いし、Gamerch板の破壊まで仄めかすとは何様のつもりなのか。回帰を望んでいるのに、遮二無二事態を進めようとする羽虫の「良心」など、お門違いも甚だしい代物であった。破壊投票はもはや「あるだけ」の代物になっていたのだ。
 12月11日にほのぼの(れたん)がみん作への攻撃を匂わせたことを口実に、私はGamerchの破壊に踏み切った。常軌を逸した過剰な反応だった。そしてそれは掲示板の総意ではなく、みん作の、それも首脳陣のみの総意であった。こうして、我々は第二の分離運動と人民の意志を叩き潰した。この一連の流れは、私が『掲示板内戦』でひた隠しにした事実である。
 残留組やGamerchという存在を、私は掲示板から切り離した。それが意味するのは、かつて不可分であったはずの隠れん坊オンラインと掲示板との分離という、誰の意識からも隠されていた「第三の分離運動」であった。Gamerch封鎖のこの日をもって掲示板は完全に非隠れん坊化され、掲示板を支える二本柱のうち、「ゲーム本体」は失われた。2021年の12月時点で、掲示板は半殺しの状態に陥ったのだ。第二の生存チャンスも、こうして消えていった。

†独善と理想

 ここまで読んだ人間のうち何人がこれに気づいたかは知らないが、掲示板浮上から「独立」までの間、私の中にある変化が起こっていた。私は政治に対し、段々と憧れや参加願望を超えた執着を見せ始めたのである。
 はっきり言おう、私は2021年の勝者であった。冷静に考えれば逃亡のような方法だったが、運賃子、荒らし団、YUUTA_JP、Gamerch運営のいずれに対しても、私は最終的に勝利を収めた。その成功の秘訣が政治と自分の賢明さだと、私は信じて疑わなかった。私はかつてないほど傲慢になっていた。8月から12月の間、羽虫や紅葉&三日月、支持者と化していた遊び民は、私の「正しさ」をしきりに称賛してくれた。したがって私は、政治こそが―それも自らの政治理論こそが―人々を救うと思い込んでしまったのである。さらに悪いことに、その思い込みは政治の自己目的化とも表裏一体であった。成功体験は政治への憧れを一層強くした。人々を救うために政治をするというよりは、政治をすると自動的に人々が救われていくという感覚だった。
 あるエピソードを紹介しよう。翌年の1月だったか2月だったかよく覚えていないが、誰かが私を独善的と批判したことがあった。私はそれにこう答えた。「独善的でない指導者は、傀儡にしかなりえない」と。そもそも掲示板の指導者とは何なのか?何の傀儡なのか?意味が分からない。正論に対する、驕りを象徴する一言であった。
 並行して、私は理想主義的にもなっていった。初期の私は、8月11日の運賃子との和平にもみられるように、ある程度現実を見て妥協をする人間だった。しかしそこから、一度は不可能に思えた理想である「革命」、そして「独立」が実現するに至って、私は妥協を嫌うようになった。「成功するまでやれば成功する」という理論に私は取りつかれた。それは恣意的な帰納法に他ならないのだが、この信念のもとに、私は荒唐無稽な計画をこれからも推し進めていく。

†無情な現実

 ところが、そうした理想主義に反して、現実は悲惨なものだった。残留組を排除した後、私たちの側にいたのは遊び民。その彼らも存在を隠れん坊に依拠する集団であったこと、それから隠れん坊オンラインと言うゲームが掲示板の必須要素であったことを思い出してほしい。みん作は隠れん坊オンラインの掲示板として使用に耐えうるほどの性能を持っていなかった。加えて、非隠れん坊化が進んだ掲示板において私を始めとする首脳陣はもはやゲーム自体に全く関心を払っていなかった。そんな状況であるから、当然彼らは離脱していった。遊び民の漠然とした期待を我々は無意識に裏切っていたのである。彼らは去り際に至っても、私たちに非難の言葉一つ口にしなかった。それは私たちの過失によって生み出された、哀れな犠牲者の姿であった。
 こうして、12月も中盤を過ぎると掲示板は史上最悪の過疎状態に置かれた。盟友・羽虫は12月11日から管理人の任にあったが、彼でさえ失踪した。流石の私も事ここに至って独立の場所選びが正しかったのか疑念を持ち始めたが、いまさら引き返すのは無理な話だった。私はすっかり参ってしまって、しばらく「掲示板ナショナリズム」の名の下ロマン重視の行動を繰り返すようになる。なんとそれは2022年の5月辺りまで続き、掲示板史とも絡まって人々の精神に悪影響を与えた。そのあたりの話は『ゲームウィズ自治領 崩壊の道』が詳しいので、大部分の説明は省く。ともかくそれは虚しいものだった、とだけ記しておこう。

†掲示板民の創成

 ただ一つ記しておくべきであろう物は、「掲示板民」の創成である。
 これまた読者の意識に残っていないかもしれないが、私は本書で安易に掲示板民という言葉を使っていない。私自身と紅葉&三日月以外には、専ら「ユーザー」という言葉を使っている。現代(少なくとも2024年6月時点)では掲示板民との語は掲示板にいる人々全般という広義の意味でとらえられることが多いし、実際この用法はGamerch時代から存在していた。ただし、過疎期の私はそれとはまた別に、掲示板民の概念を再生成した。いわば狭義の掲示板民である。
 狭義の掲示板民がナショナリズムの一部ということは、話の流れから見ればすぐわかるだろう。私は狭義の掲示板民をこう定義する―集団としての掲示板に帰属意識を持つ人間、と。その意味で、先述の私や紅葉&三日月は紛れもない掲示板民だった。羽虫はそれに非常に近づいたが、最後の最後に失踪によって掲示板民になることに失敗してしまった。
 私は掲示板の全ユーザーを掲示板民とすることを志した。それは必ずしも叶わない願いではない。ユーザーというのは今も昔も、所属するクランだったり鯖だったり、とにかく多様な背景を持っている。その中に「掲示板に所属している」という認識を加えてもらうだけでよい。
 私は掲示板民というアイデンティティがユーザーを繋ぎ止め、掲示板上での人間関係の構築に寄与することを期待していた。そして、究極的には掲示板の恒久平和の実現をも―。実際それはうまくいった。しかしある時期を境に、掲示板民概念はこれまでの理想形から皮肉な形に変貌する。それは掲示板の死と時を同じくしていた。掲示板民の概念もまた、望まない未来への伏線であったのだ。

†「民主主義」

 さて、私は自分の能力に絶対の自信を持っていた一方で、民主主義者を自認していた。政治は出来るだけ大衆に開かれているべきだというのが私の持論だった。ところが、これは決して実現を見ることのない机上の空論にすぎなかった。
 ユーザーの大半は政治や「それらしきもの」に消極的だった。彼らにとっては隠れん坊オンラインの方が重要だったからである。掲示板に襲い掛かる種々の問題につけて、急進的な政治的行動で解決を図ろうとする私の姿勢は人々に支持こそされていたが、それが意味すること(例えば、掲示板の非隠れん坊化)は全く理解されていなかったといってよい。というか、彼らがそうしたことを理解していたならば、政治設立の試みなどその芽生えの時点で摘まれていただろう。私の持っていたものは完全なる支持ではなく、糢糊たる期待のみであった。言い換えれば、政治とは夢想家たちが無自覚にその他大勢に行った大規模な「詐欺行為」であった…というのは言い過ぎかもしれないが、要素として否定はできない。
 当然、そうした「詐欺行為」には加害者と被害者が存在する。民主主義の看板のもとで人々に政治参加を求めるというのは、詐欺の加害者が被害者に自分たちの側に加わるよう説得するようなものである。無論、それが上手くいくはずもない。そうでなくとも、ゲームの一要素に過ぎないはずのこの掲示板に対して、ゲーム自体以上の情熱を大したインセンティブもないのに注ぎこむというのは、ユーザーにとって理解しがたいことであった。私はそうした現実を無視し続けていたのである。

†テクノなカリスマ

 さらに、政治の大衆化にはもう一つの障壁もあった。技術的制約である。
 この時代、掲示板の政治とページの編集は非常に密接な関係にあった。それにはかつて運賃子が編集を独占していた時代を、私が執拗に独裁体制だと揶揄していた影響がある。したがって、私は「民主的な掲示板」をアピールすべく、革命後のGamerchにしろみん作にしろ官制のページ以外での編集の自由を保障していた。Gamerch時代はそれで問題はなかった。しかし、みん作は編集の勝手がGamerchに比べて難解だった。そのため私や羽虫のような一部ユーザーを除いて、誰も編集をしたがらなかった。もっと正確に言えば、技術上編集ができなかったのである。
 こうした背景により、掲示板に成立したのはデモクラシーでなく、テクノクラシー(技術官僚制)となった。先述の編集の勝手がわかるユーザーが、テクノクラートとして政治を独占することになったのだ。
 一般に、現実世界でのテクノクラートは地味な存在であり、名望や大衆人気などとは程遠い。しかし、掲示板では違った。扇動的な言動を多用する私や羽虫は一種のカリスマ的な人気を得る。それは大衆人気に下支えされた一種のエリート階級であり、また寡頭独裁の一形態と化していた。しかも羽虫の失踪後には残るテクノクラートは私と紅葉&三日月の二人だけとなり、紅葉&三日月は全く政治に口を出さなかったので、事実上私一人の独裁体制が打ち立てられた。
 この体制の実態は「六月体制」などよりもずっとディストピア然としていて、有害なレベルで私個人のカリスマ性に依存したものだった。そして実際、過疎の時代どころか、一年先のみん作滅亡のまさにその時まで有害な影響を与え続けた。テクノクラシー体制は、まさに掲示板政治の喉元に突き刺さった棘となったのである。

†第一章のまとめ

 第一章で掲示板は半殺しの憂き目にあった。
 2020年にクランを夢見た一人の少年は、その半年後には掲示板に政治を見出し、さらに半年後にはその首魁となった。傍から見たらそれは完璧なサクセス・ストーリーに思われたし、私自身もそう思っていた。ところがその裏では掲示板に紐づけられていた隠れん坊オンラインと言うゲームそのものや、荒らし団のような人々が透明化され、犠牲にされていた。それどころか、私を信じ、支持してくれた人々まで被害を免れることはできなかった。苛政は平等主義者だ。夏には(それがどんな意味であれ)あれほど賑わっていた掲示板が、冬には沈黙が支配しているなど、一体誰が予想できたことか。そしてそれが私の犯した犯罪なのだ。
 私は完全に図に乗っていた。私は掲示板とその住民をさらに「正しい」方向に持っていけると妄信していた。そうした自己過信の末路が「独立」後の過疎であり、不健全なテクノクラシー体制であった。「隠れん坊オンライン」という半身を失った掲示板は、過疎のせいでその代替を見つけることに手こずった。結局満身創痍で自己満足の「ナショナリズム」に縋り付いたはいいものの、それは効果的どころか気休めになったかさえ怪しい代物であった。その事実はさらなる過疎を呼び、事態の好転をただひたすらに遠いものとした。
 希望は2022年に託された。半分絶命していた掲示板は、実はまだ復活の余地があった。それはみん作でもなく、Gamerchでもない、「外」の掲示板だった。掲示板第三の生存チャンスである。しかしまたもやその生死は適任者からは程遠いはずの私にかかっていた。そして私は2021年の出来事を全く反省することなく、翌年へと突き進んでいくのである。


+ コラム 掲示板政治に欠けていたもの

コラム 掲示板政治に欠けていたもの

 本書では時々、章末にコラムを設ける。文章の本筋と直接関係のない主題に対して、私、Duke of Yorkの意見であったり、有益に思える情報を述べる場とする。軽い気持ちで読んでいってほしい。
 今回の主題は「掲示板政治に欠けていたもの」である。私は掲示板を政治化し、のちには掲示板を国家のように改造しようとする(詳しくは『ゲームウィズ自治領 崩壊への道』を参照されたし)。その目的は―少なくとも建前の上では―掲示板の治安維持とユーザーの幸福維持であった。この試みを現実の政治と比較してみよう。
 社会の平穏を維持し、人々の安全を確保するというのは、国家の政治の重要な役割である。その点、実情がどうであったかはともかく、掲示板政治と国家の政治は類似していた。ただし相違点、もっと正確に言えば国家にはあって掲示板には欠けているものもあった。
 非常に大きな点は、掲示板には経済が存在しないことである。現実の政治で大きな争点となるのは金銭であり、もっと一般化すればそれはあらゆる資源の分配である。政治の源は太古の時代、常に餓死の危機が隣にある中で賢明に食料を分配しなければいけないという状況に求めることができる。経済は生死に直結するのだ。ところが、掲示板には「無いと生きていけない資源」はおろか、分配が可能な物は皆無である。したがって、経済の欠如というものは、掲示板政治を複雑な経済理論であったり気まぐれな市場原理であったりとかいった煩雑な事物から解放した。ただし、それは同時に掲示板政治のある種の「必要性」を削ぐ結果にもなった。
 これと同様に、掲示板での民度の悪化は人の命を奪わない。現実での無政府状態は言うまでもなく危機的だ。ハイチなどを見ればわかる。治安機関の不在というのは、「荒れる」だとか「過疎る」だとかそんな問題ではなく、人が死ぬ。よほど腕っぷしと運に自信があったとて、そんな状態を望む人間は脳のどこかに異常をきたしている。だからどれほど小さな政府でも、それは文字通りの夜警国家以下のものには決してならないし、なってはならない。掲示板も夜警国家と言えたかもしれない。しかしながら、やはりかかっているものが違う以上「誰が夜警をわざわざ依頼するのか」という状況に陥りかねない。
 まとめると、掲示板政治は経済の欠如を始めとする深刻さの不足によって、現実世界の政治と決定的に異なる。そしてその相違が、掲示板における政治を人々の切望に値するものではない、まさしく「政治ごっこ」などと揶揄される厄介者へと貶めてしまったのである。


第二章 「夏の冷戦」(2022年7月~2022年11月)


      (「ゲームウィズ自治領」旗)

†無垢な共同体

 ゲームウィズにおける隠れん坊オンラインの掲示板は遅くとも2017年には成立し、長い先史時代を経て2022年の4月辺りから人々が活発な活動を開始した。335577鯖民と1鯖民がその主体をなしたが、カーボンやMr.黒白、紗奈といった2021年に活躍した人々とは微妙な世代のずれがあった。したがって、彼らは掲示板で何があったかはもちろん知らず、掲示板自体が初見の人間が大半を占めていた。
 ゲームウィズに成立した世界は非常に原始的なものだった。ログを見る限り初期のGamerchとも類似しており、それは「ゲーム本体」と「多様な人々」を兼ね備えた、完全に健全な掲示板の姿であった。アカツキやれみーのような少数の過去を知る人間がたまにGamerchを懐古することもあったが、その雰囲気がゲームウィズ板を覆い尽くすことは全くなかった。今や政治化されてしまった人間にこれは理解し難いかもしれない。いや、決して理解できまい。私だってずっと誤解していた。2023年2月の「ユートピアの夢」も、2024年5月の『ゲームウィズ自治領 崩壊への道』での平和的イメージの否定も、まったく本質ではなかった。近くすらなかった。いわゆる原住民世代期のゲームウィズ。そこには平和か平和でないかだとか、仲がいいか悪いかだとか、そういう域をとうに超越した、ロマンも思惑もない最高に尊い共同体―まさしく「無垢な共同体」が展開されていたのだ。
 いうまでもなく、それは掲示板第三の生存チャンスであった。みん作にて隠れん坊オンラインというゲームが死んで久しい掲示板の世界は、そこにサイト間の深い亀裂が横たわっているとはいえ、総合的にみると一時的な蘇生を果たしたのである。

†希望を握り潰す

 ここで話を独立直後の時点に移そう。これも何度も言ったことだが、私たちみん作の政治家気取りたちは、ゲームウィズを政治に向いていないという理由でプラットフォームとして軽蔑していた。そして隙あらば、この未開の地を「正当なる掲示板」の一領域にしようと画策していた。春が来てユーザーがゲームウィズで溢れているのを見ると、その拡張欲は啓蒙欲へと変わっていった。それが何かと言えば、ゲームウィズまで政治化してやろうという野望であった。去年の出来事を顧みない当時の私に、ゲームウィズの尊さを認識する力など、当然備わっていなかったのである。
 掲示板第三の生存チャンスも、あっけなく潰えようとしていた。7月から8月にかけて、みん作とゲームウィズは急速に接近した。それは私の意図的な接近ではあったが、向こう側も自発的にみん作を訪れた。私とは対照的に、彼らはどこまでも純粋だった。そしてやってきた8月7日、ゲームウィズの掲示板への併合によって、私は掲示板の希望を握り潰した。
 直後に行われたゲームウィズ自治領の設置はゲームウィズの政治化、つまりは無実のゲームウィズ民を政治の混沌へと強制的に巻き込むことを意味していた。なかんずく、政権を担当した2世とシノンはその最大の被害者となった。もともと仲が良いわけではなかったとはいえ、彼らは右も左もわからない中で、わずか一週間後にやってくる椿ゲート事件において敵対者とならざるをえなかったのである。しかもシノンに至っては作為的に反逆者の汚名を着せられた。
 最悪なことに、この過程の中でゲームウィズが持っていた隠れん坊オンラインも失われた。2世制定の憲法は、別ゲームの画像投稿を禁止することによって一瞬だけゲーム本体を維持するかに見えたものの、椿ゲート事件にはまるで歯が立たなかった。以降、隠れん坊オンラインのことは話されなくなってしまった。ゲームウィズの非隠れん坊化、掲示板の再度の非隠れん坊化であった。私は掲示板復活の芽を摘んでしまった。犯罪的な過失であり、その責任からは逃れられない。ただし、これが単独犯ではなかったことも記しておきたい。ライバルであり共犯者、本書第二の主人公となる人物―れたんについて。

†れたん

 れたんについて私が知っていることはそう多くない。私は彼が何歳かを知らない。そもそも代名詞を「彼」にするべきか、「彼女」にするべきかもわからない。経歴としては、1鯖と250鯖、荒らし団に関与していたことだけを知っている(これについてはもっと知っている人間がいくらでもいるだろうが、私にそんな人脈はない)。掲示板では身内ノリと保守派としての強硬な姿勢で若干面倒そうな人間だと私は思っていた。羽虫と掲示板内戦の講和を結びもしたそうだが、正直その内容は覚えていない。ただ、こうした保守派時代の行動が、彼の掲示板政治への第一歩であった可能性は大いにある。
 2022年の4月だったか5月だったか、彼はよく私に接触してくるようになった。ちょうど保守派の名誉回復と時期を同じくしていたことから、当時彼は保守派時代の名前である「ほのぼの」として活動をしようと思っていたと考えられる。ただ政治への関与を強めるにしたがって、それは都合が悪くなったようである。ほのぼのの名前は口にしなくなっていった。彼は掲示板クランに250鯖を引き渡すなど、私に非常に協力的で、親政治的だった。その点では政治に感化されたGamerch時代の支持者と変わらなかったが、決定的に違うことがあった。
 彼は―誤解を恐れずに言うが―私と似たタイプの人間だった。彼は史上三番目の掲示板民だったと言って、差支えのないように思える。"椿"という女子高生のキャラクターを演じ、さらに二基のサブアカウントを操りながら、彼はみん作政治の中枢に入り込もうとした。私はそれに得体のしれない不気味さを感じつつ、しかし少なくとも当初の所は歓迎した。私は政治をやる相手に飢えていたのである。二番目の掲示板民・紅葉&三日月は文字通り常にみん作にいてくれたが、なんと言うべきか、私は彼とあまり政治の話をする気になれなかった。というか、彼は私よりも掲示板に関してはるかに真面目な人間で、彼の手を煩わせることは気が引けた。それに対して、たとえ"椿"を演じるという変装ないしは女装紛いのことをしていようとも、れたんには程よい緩さがあった。これが私がれたんを厚遇した理由である。

†「予防措置」


      (保守党事件時のれたん)

 私は"椿"を急速に出世させた。ちょうどゲームウィズとの接近も進展しており、掲示板憲法の制定も成功するなど、それまで停滞していた政治がトントン拍子に動いていったので、私は上機嫌だったのだ。8月9日、私は"椿"を史上初の副管理人に任命した。
 しかし、ここで私は強烈な疑念に襲われた。急にれたんが政変を企んでいるかのように思えてきたのである。サブアカによる"椿"の個人崇拝、兄妹設定の茶番、民主主権党の設立、保守派としての過去、ゲームウィズでの不正選挙と"誤爆点C"としての言動など、理由は挙げればきりがない。ともかく、私は突然、自らの城にトロイの木馬を引き入れてしまったかのような感覚を覚えた。私はかなり悩んだ。隠れん坊のどこかの鯖に呼んで、腹を割って話し合おうかとも思った。しかしこんな自演を躊躇わずする人間なのだから、一筋縄ではいかなそうだ。ではどうするべきか?もしかして、「やられる前にやる」べきなのではないか…?
 8月14日、長い逡巡の末、私は予防措置をとるという結論に達した。それが正しかったのかは今でもわからない。
 予防措置の内容はこういうものだった―れたんから実権を奪い、反抗してきたところを摘発する。病気で寝込んだという嘘を口実に、私はれみーに"椿"のポストを無力化させた。それは彼を騙した上に、盾にするという最低な行動だったことを、私は認めなければならない。私はれたんに野心があることの最終確認を行った。その日の夜にGamerch回帰を訴える名無しになりすまし、みん作で少しばかりの騒ぎを起こしたのである。騒動の真っ只中に発せられた「Gamerchがよいのか、みん作がよいのか?」という扇動的な問いかけ―その返答は有名な上記の画像であった。私はれたんが保守派的思想を捨てておらず、掲示板に害を及ぼす存在であることを確信した。
 8月15日、れたんは想定通り反乱を起こした。しかも彼は私の予想にぴったりと合致するように、Gamerch板を占拠したのである。私は一通り彼に暴動を満喫させてやった。その後リーク情報を張るなどして反撃に転じ、翌日には自演を暴露してみん作から排除した。自画自賛だし、れみーのような前線に駆り出された人間からすれば無神経な一言だろうが、あえて言おう。これは完全なる勝利であった。

†地獄の門と"マキイフカ"

 ところが、ゲームウィズではそうはいかなかった。いや、それはむしろ地獄の門であった。Duke of Yorkとれたんの長い角逐―「夏の冷戦」の火蓋が切って落とされるのである。
 8月16日、れたんは自治領に逃走した。これは私にとって想定内ではあったが、その後の展開は想定外だった。私は可能であれば、掲示板の領域かられたんを叩き出したかった。この前日には政変が起こっており、管理人の座は2世からシノンに移っていたが、率直に言って私はどちらにも期待していなかった。むしろ私にはれみーを盾にした分際で「自分が起こした騒動なのだから自分がどうにかしなければ」という謎の責任感があり、とにかく対処に乗り出すこととした。それは、サブアカウント"マキイフカ"の動員であった。
 "マキイフカ"は元々"次はドネツクだbot"というbot専門のサブアカウントで、違うスタイルのbotもやってみたいという気まぐれから生まれたものだった。そのため数週間したら消すつもりだったのだが、私はなぜかそれを椿ゲート事件の際に自演の暴露に使用した(なぜそんなことをしたのか、いまいち覚えていない)。その時の名前から、"マキイフカ"の名が浸透し始めた。
 私は"マキイフカ"としてれたんのサブアカウントを矢継ぎ早に摘発したが、それは「少しすればあきらめて掲示板から去るだろう」という安易な考えに基づいた行動であった。彼の粘りは強靭だった。それでも私はそこまで深刻に事態をとらえることなく、"マキイフカ"をまるで「こいつはれたんだbot」のように運用しながら、みん作でのんびりと掲示板史を書いていた。みん作の安泰というぬるま湯に、私はどっぷりと浸かっていたのである。

†ゲームウィズ内戦への関与

 そうこうしている間に一番の割を食らったのは自治領管理人・シノンだった。彼は弱腰の烙印を押され、自治領民の反発に直面してしまったのだ。それを利用しないれたんではなかった。彼は8月22日に"ワロター"と"自動字幕bot"を動員し、シノンに反乱を宣言したのである。ゲームウィズ自治領の掌握を狙った行動であった。
 ︎︎本当に何故だかわからないが、私は"ワロター"と"自動字幕bot"がれたんであると最初気付けなかった。流れが明らかに不自然であることには気付いていたにもかかわらず、である。私はとりあえず"マキイフカ"として傍観の姿勢をとろうとしたが、勢いの激烈なさまを見て反乱側に加わらせた。その代わり、"SLAVA"というサブアカウントをシノン側につかせ、バランスを取った。両方のアカウントで過激な主張を断固として繰り返したり、「救済党」を作って構図を複雑化させたりして、時間を稼いだ。その間、私は密かにシノンとTwitterのDMで会談をした。そこで和解を勧め、譲歩をしてでも事態の解決を早めることを促した。彼はその場では生返事しか返さなかったが、実際その後和解に応じた。
 ︎︎ところがその後の講和会議で私の悪癖が出た。政治のロマンを重視するあまり、私は共和制の政体を新たに提案してしまったのである。言い訳をすれば、その人事でシノンが排除されることは私は想定していなかった。ともかく、シノン抜きでの第一共和政の発足により、私は和平反故の片棒を担いでしまった。しかも私はちゃっかりと共和制高官に"マキイフカ"を滑り込ませる。保険的な意味合いであったが、それは図らずしも今後の展開の布石となった。

†現実主義への転向

 第一共和政は短命だった。8月24日、私はやるーからDMを受け取った。彼から"ワロター"と"自動字幕bot"がれたんであると聞かされ、愚かにもそこでようやく気付いた。翌日、みん作への書き込み誘導でIDから真実であることを確信したのち、私は第一共和政を崩壊させた。そしてれたん以外の高官・2世とバイキングザリガニの合意を取り付け、速やかに政体を第二共和政へと移行させた。ゲームウィズでは"新れたん"が依然として喚いていたが、ゲームウィズ自治領はひとまずは守られた。
 この一件に私は寒気を覚えた。自分が自治領の深まる混迷を他人事のように思っている間に、れたんは密かに政権を奪取していたのである。しかも反乱ではなく、ゲームウィズ民にすり寄るような形で。第一共和政はみん作にあからさまには敵対しなかったが、8月24日の陰謀論拡散禁止法や名無しにより加熱する"ワロター"崇拝は明らかに不穏な兆候を示していた。介入前の時点でゲームウィズが乗っ取られるのは時間の問題だった、と私は強く思い込んだ。
 同時に、みん作で掲示板史だの政党集だの重要でないものにこだわる一方で、"マキイフカ"は片手間で操るだけだった自分の姿勢を私は深く反省した。もはや理想だけを追い求める時代は終わった。少なくともれたんの完全追放を果たすまでは、掲示板の防衛が私にとっての至上命題となった。れたんは掲示板とそのユーザーに対する脅威であり、管理人として私はそれに対処する義務があるという道徳意識が出現する。しかしそこに倫理観はない、「倫理なき道徳意識」だった。私はれたん追放の為に文字通りあらゆる手段をとる決意を固めた。理想主義から現実主義への転向である。マキャベリズム的な行動は、私の潔白に信頼を寄せてくれているユーザーたち―いや、彼らは今となっては掲示板民だ―を、裏切ることを意味していた(もっとも、"マキイフカ"の使用など既に汚点はあったが)。それでも私は病的なまでに本気だった。「れたんさえいなくなれば、すべてやり直せる」という言葉を自分に信じ込ませ、私は引き返せない泥沼に足を踏み入れていく。

†維持作戦

 この節で話すことは、今まで私が決して公にするまいとしてきたことである。中二病臭く言えば掲示板の最暗部と言うべきかもしれない。そして、れたん以外でこれを読んでいる当時かかわりのあった人間全員は、このことで私を糾弾し、絶交する権利がある。それぐらい最悪な計画だったし、私は申し訳なく思っている。
 私は次から次へと様々な策略を練った。その最終目的はれたんの完全追放で一致していた。当時からそう呼んでいたわけではないが、便宜上これらの策略群を「維持作戦」と呼ぼう。維持作戦は二本柱の戦略で成り立っていた。第一に緊張戦略、第二に弾圧戦略である。
 緊張戦略は"ワロター"の一件で明らかになった、れたんの自治領民への擦り寄り戦略に対抗するものである。れたんが過激な行動に出ず、擦り寄りを繰り返せば、いずれ自治領民の中でその排撃の必要性は薄まってしまう。それどころか「改心した不良」のようにもてはやされ、さらに悪くは自演や乗っ取りの行動自体が容認されてしまいかれない。だから、私はれたんをわかりやすい悪役に留めようとした。自分のサブアカウントを使って反政府的な暴動を誘発し、それにれたんを参加させる。それを繰り返すことで、人々に「れたんの脅威」を認識させようとした。
 暴動が広まった時点で作戦の第二段階、弾圧戦略が発動する。暴動に参加したサブアカウントを軒並み摘発し、れたんのレッテルを張るのである。サブアカウントの本体が自分かれたんかは問わない。こうして当座の治安を維持するとともに、つられて暴動に参加したれたんのサブアカウントを放棄に追い込んでいった。そのような汚れ仕事の主体は、第二共和政でも相変わらず高官に潜り込ませた"マキイフカ"であった。これを繰り返すことでれたんの心を折り、掲示板から自発的に出ていくように仕向けることが構想された。
 行為が露骨な後者の戦略は当時から評判が悪く、れたんは名無しを動員して「恐怖政治」と批判した。2世や波玖も"マキイフカ"は過激すぎると口にしていた。その悪評は現在まで染みついている。摘発時の威圧的な口調や殺伐とした雰囲気が人々の気分を害したことは認めなければならない。ただ、弁明もさせてほしい。戦略の対象となったアカウントはすべてれたんないしは私のサブアカウントで、生身の人間には直接危害を与えなかった。今となっては言い訳がましいだけだが…。ともかく、こうして「維持作戦」は開始された。

†鉛の時代

 作戦の開始は、掲示板大荒れの暗黒期―いわゆる「鉛の時代」の到来を意味していた。
 8月26日、私は早速"MEELINIK"を使い、保守派の反乱を起こした。以前の行動より、れたんに保守派的な傾向があると確信していたからである。やはりれたんは乗ってきた。ただしその主体が名無しであったこと、同じく旧保守派のれみーが同情的な言動を始めたことから、私はすぐに事態を切り上げた。そのため「"MEELINIK"の乱」自体効果的だったとは言えないが、以降れたんが保守的思想を匂わせることはなくなったので、牽制には成功したのだろう。
 その次の争乱はれたんから仕掛けてきた。9月初頭に2度に渡って発生した、ゲームウィズの分離主義運動・"キレナイカ"の乱である(もっとも、「分離主義」は8月末に私が発明したレッテルなので、100%能動的な反乱だったかは疑わしい)。9月1日の反乱は力で抑え込んだ一方、9月4日の反乱では別のアプローチを試みた。私はれたんが本当に分離を望んでいるのか検証したかったのである。名無しを使ってさらに運動を進めたところ、意外な結果が出た。れたんは名無しを動員し、みん作との統合を求める統合主義運動を展開しだしたのである。分離主義とは真逆のイデオロギーであった。このことから、私はれたんがゲームウィズの分離を望んでいないことを確信した。
 これ以降、れたんはゲームウィズでの浸透戦術を加速させてきた。「キン族」と称してヒカマニ関連のサブアカウントを大量に作ったり、紅ズワイガニを名乗ってズワイガニに接近したり、人々と衝突しない方法で頭数を増加させてきたのである。弾圧戦略は激しさを増した。やるーとも協力して国ゲームを大規模摘発に利用したり、"マキイフカ"の親宇設定を活かしてれたんに親露派の烙印を押したりもした。ところが、これは明らかにやりすぎだった。前記の行動はゲームウィズ民の顰蹙を買い、"マキイフカ"の消費期限を縮めてしまう。結果的に9月18日、私は"マキイフカ"を捨てなければならなかった。数日後に復帰にこそこぎつけたが、政府から追放されたため弾圧戦略は中断に追い込まれてしまった。

†友人、由紀、罪悪感


          (由紀)

 8月から9月にかけて、私はサブアカウントを使ってとても公にはできないような活動をしていた。しかし、ただそれだけをこなしていたわけではない。
 私はGamerch時代から、政治上以外での人間関係を築こうとしなかった。羽虫も政治上での盟友に過ぎなかった。ところがこの時、私はTwitterでれみーとDMを始めたことを皮切りに、2世、波玖、バイキングザリガニ、執事など、ゲームウィズの人々と友人になりつつあった。自分がまさに現在進行形で騙し続けていた人々と、である。彼らとの交流は計算の上などではなかった。あえて素朴な表現を使うが、本当に楽しかったし、温かみを感じた。
 私は冷酷ではない。強い意志があったとはいえ、維持作戦には相当のストレスを感じていた。はけ口が必要だった。そういう点で、8月末から始まったR-18ブームのわいわいとした雰囲気は、私を癒してくれた。由紀というキャラクターも、ストレスの反動であった。政治という複雑なことにのめりこみ、さらには陰謀紛いの自演にまで手を染めていたDuke of York。由紀はそんな破綻した人間に対して、なにもかもが真逆の存在だった。由紀でいる間はとても心地が良かった。忌々しきれたんなど忘れ、ただただ友人たちと遊興に耽ることができた。私は二重人格などでは全くなく、意識的にその快適さを噛みしめていた―。
 それでも作戦は続く。8月30日の夜だったか、よく覚えていないが、れたんがサブアカウントでその快適を妨げてきたことがあった。私は目を覚まさなければいけないと感じた。それで、翌日に由紀は病んだということにさせて、"マキイフカ"として「仕事」に専念した。そうだ、もう今更隠しても仕方がないし、告白しなければならない。複数回あった「病み」もすべて演技だった。
 2世や波玖は私を本当に気にかけてくれた。れみーも一回目は非常に心配してくれた。こんなにろくでもない人間をだ。その罪悪感の大きさ、重さ。ことさらに説明する必要はないだろう。私は政治という独善の為だけに、全員との友情に対する背信行為を働いていた。強烈に記憶に残っていることがある。ある時波玖がDMでこう言ってくれた。「歴史さん、最初は(おそらく掲示板の運営を指して)真面目な人かと思ったけど、話してみたら面白かった」と。違う、波玖は誤解している、俺は結局自己満足のためにしか動けない、人を平気で裏切り続ける底辺の人間だ―。果たして「底辺の人間」に、それを返信する勇気はなかった。

†和解の失敗

 閑話休題。時は9月18日から2日ほど遡る。"マキイフカ"への好感度が地に落ちていることを察した私は、弾圧戦略の再考を迫られていた。しかし私には有力なサブアカウントもなければ、他のゲームウィズ民にその役割を負わせるのも忍びない。よって、私は椿ゲート事件以降初めて正式にれたんと接触することにした。その目的はなんと、和解であった。
 なぜ私がこれほど急速に姿勢を軟化させたのか、正直今考えてもわからない。ポスト・"マキイフカ"戦術を考え出すまでの応急措置のつもりだったのかもしれない。ともかく、"降雨れたん"との隠れん坊内の会談で、私は自分の自演の一部を明かした。しかも、れたんであることを認めることと引き換えに、ゲームウィズ自治領の高官位を提示した。つまり、次の自治領選挙に立候補するよう勧めたのである。大きな譲歩であった。しかし、私はそれ以上のことを文字通り何も言わなかった。融和姿勢が露見し、足元を見られることを恐れる私は、和解という言葉を口にしたくなかったのだ。それは大きなミスだった。れたんは明らかに困惑していたようだった。どういう反応をされたか覚えてはいないが、対面なのにほぼほぼ黙殺に近いような形で会談は終了してしまう。
 手ごたえは散々だが、はっきりとNOを突き付けられたわけでもない。私は自分にそう言い聞かせて、会談以降もれたんに淡い期待を寄せていた。しかし、やはり意図は理解されなかった。9月25日頃かられたんは"ワロター"復権運動を組織し、矛先を相変わらず私や自治領政府に向け続けた。それだけでは飽き足らず、悪意に満ちたDMのコラ画像をゲームウィズに張り出したのである。私は憤慨した。そして、強硬な姿勢と維持作戦の継続を心に決めた。和解の試みは失敗してしまったのである。

†偽造された「母」

 さて、9月18日以降政権を担当した第三共和政は、率直にいえば無力であった。人々はもとより、残る高官であった2世とバイキングザリガニさえ、自分たちの政府高官としての力を疑問視しているようだった。つまり、自治領政府の存在意義がぐらついてきたのである。数週間前にれたんが発した「政治ごっこ」という揶揄が、掲示板の中を駆け巡っていた。これは悪い傾向だ。人々はれたんのプロパガンダに嵌ろうとしている。しかも、"マキイフカ"という弾圧用の暴力装置はもう使えない―。
 私が考え出した戦術は、風変わりなものだった。"インスブルック"という無政府主義者を装ったサブアカウントを使い、実際に無政府主義を実現させてしまおうという考えである。そしてそこで起こるであろう、れたんによる民度の低下と人々の失望を利用し、再び強力な政府の再編へ事を運ぼう、というわけだ。10月1日、私はそれを実行に移した。ゲームウィズ自治領にアナーキーが宣言される。選んだスローガンは「母なるアナーキーは息子たちを愛す」―その「母」は偽造されていた。
 民度の低下は実際に発生した。もっとも、それは私が望んだ形ではなかった。由紀関連が地雷となって、れみーが私に反抗し始めたのである。その対立は冷戦と名付けられ、れたんも興味津々で介入してきた。今思えばれみーとの絶交は自業自得だったが、当時の私は怒り心頭で、2世と執事を巻き込むなどいたずらに事を大きくした。そんな調子だから、掲示板は過疎と喧嘩を断続的に繰り返すようになる。したがって、過程はともかく結果的には人々は無政府状態を嫌い始めた。
 10月17日に私の戦術は成功した。ログイン勢が中核となって、臨時政府の設立が宣言されたのである。しかもその代表は"マキイフカ"だった。強硬な手段はもう使えないとはいえ、それはゲームウィズでの物事の主導権がれたんから私に移ったことを意味していた。れたんに対する、一つの勝利であった。

†揺さぶり戦略と迷走

 ところがこの成功体験は劇薬だった。不幸なことに、10月17日以降も政府の存在意義が安定を見ることはなかったのだ。
 緊張戦略も弾圧戦略も破棄される時期に来ていた。代替として、私は政府の正当性確保のために10月初頭のようなことを繰り返すという、非常に危険なことを考え始めた。「意図的に揺さぶりを与えることで政治の必要性を確保する」という「揺さぶり戦略」は、もはやれたんなど関係ない単なるマッチポンプになりかねない。実際、10月も終わりに差し掛かるとれたんは政治方面ですっかり鳴りを潜めていた。名無し動員による政治批判は続いていたが、それも本気ではなさそうだった。なのに逆に政治ごっこなる言葉は一人歩きを続ける一方だった。政治への嫌悪問題はれたんから独立し始めていたのである。
 戦略についてさらに言えば、揺さぶり戦略は揺さぶる幅を見極めないといけない。小さすぎると効果がないし、大きすぎると政府をそのまま自壊させてしまう。かといってあまり繰り返すと続く騒乱に人はうんざりしてやはり出て行ってしまう。全体的にリスクは大きかった。
 こうした経緯によって「維持作戦」は対れたんの臨時措置的な防衛作戦から、自治領政治の介護行為へと急速に成り下がりつつあった。私は明らかに迷走していて、完全に作戦の本来の目的を見失いかけていた。私は自らの策に溺れていたのである。
 何事にもれたんがこびりついていた共和制期とは異なり、私が臨時政府期に煽ったことは「私刑の恐怖」と「名無しの恐怖」であった。"マキイフカ"や同じくサブアカウントである"ノヴォアゾフスク"に、私はその役割を担わせた。それらを原動力としたのが自治領憲法制定運動である。法治主義の名のもと、恐怖を一身に憲法が引き受け、それを実行する政府の権威を増加させることが狙いであった。反政府的な言動に専ら名無しを使うようになっていたれたんへの対抗という面もあった。ただ、それが単独の目的とはなり得なかったことは作戦の変質を象徴していたのかもしれない。
 しかも、それらも効果的でないと分かると私はさらに激しい揺さぶりを加えることを画策する。それは悪名高い"菜"による揺さぶりだった。臨時政府成立以降、軽率にも私は掲示板でこうした危険な賭けを繰り返し続けた。

†正式政府の死産

 揺さぶりのエスカレーションは続いた。私はすっかり錯乱していた。10月30日、"菜"による大規模介入は第二次掲示板内戦を誘発し、遂に別サイトへの攻撃という一線も超えてしまう。内戦というまさしく「青天の霹靂」の事態に際し、"Микароков"を除きれたんはほとんど関与してこなかった。代わりに巻き込まれたのは政治の冷笑主義者たち、れみーと群青で、内戦後に公職追放の仕打ちを受ける。とはいえ、私は平然としていた。方針転換前の9月にこういうことが起こったならまだしも、10月末になると私はれたんのことなど二の次状態で、むしろ掲示板に大きな揺さぶりを与えたことに満足までした。何と浅はかな人間だろう。
 鉛の時代は2か月目、時期は11月に突入していた。内戦の衝撃は10日以上に渡って持続した。それは政府の存在意義がほんのわずかに安定することを示していた。私はこの機を逃すまいと、今まで臨時状態だった政府の正式政府への改変に動いた。
 11月10日ごろだったか、正式政府の政体が「管理人=公安委員会制」になることが決められ、行政と司法の分離が掲げられた。私はその人事を決める選挙にサブアカウントを総動員して臨んだ。従来の"マキイフカ"、"ノヴォアゾフスク"に加え、「反政府だが親政治的」という新たなキャラクター・"kak?"を加えた。政府の定員は合計で3人だったが、管理人位を"マキイフカ"と"kak?"が争ったことからわかるように、サブアカウントで役職を埋める気はさらさらなかった。とりわけ"kak?"の野党勢力的な思想がゲームウィズ民を触発し、人々が政治への関心を取り戻すことで、揺さぶり抜きでも自治領政治が自立(自律)することを期待していた。
 しかし、すべてが手遅れだった。繰り返される動乱と内戦の衝撃が裏目に出て、あきれ返った大部分のゲームウィズ民はとうに政治への関心を捨てていたのだ。蓋を開けてみれば"kak?"は公職追放者を除いて、誰の関心も触発していなかった。一応公安委員会には"ノヴォアゾフスク"に加えて2世と執事が立候補したが、やはり誰も興味を持たなかった。この酷い有様により、正式政府は生まれる前からその死産を確約された状態に陥っていた。

†最後の賭け

 11月13日、私は追い込まれていた。滑稽にもそれはれたんのせいでもなく、冷笑主義者のせいでもなく、単に自分の戦略のせいで。
 正式政府に望みを託すことができないと知った今、私は遂に最終手段に出ようとしていた。それは「Duke of Yorkの廃棄」である。民衆の政治への関心が枯死した11月のこの時点でも、政府支持者と見なされる人々は残っていた。いや、それは正確には、政府の支持者などではなかった。私と良好な関係があり、そこから辛うじて政治と関係性を保っている人間のことである。維持作戦では一貫してサブアカウントを使用していたのに、民衆の意識の焦点は結局私その人に収斂してしまっていた。当時でさえ「親歴史・反歴史」という表現が使われていたほどである。それは逆に言えば、私の失踪が掲示板にとって最大の揺さぶりになることを意味していた。しかしながら、これでさえ不発だった暁にはもう本当に後がない。メインアカウントを犠牲にする以上、「案外反応薄くて草」では済まされないのである。言うまでもなく、最大かつ最後の賭けであった。
 奇しくも時を同じくして、れたんは名無しによる反政府活動を活発化させ始めた。私も失踪の序章にと"菜"をひっさげ、やけっぱち気味にこれに便乗した。
 選挙はまだ続いていた。ほぼ相互推薦状態であったため介入は容易であったが、人事にこだわる必要性は消滅していた。私は管理人に"マキイフカ"をつけ、公安委員には執事と"ノヴォアゾフスク"を当選させた。2世を選ばなかったのは―身内びいきかつ偽善臭い話になるが―私は彼に政治から離れていてほしかったからである。この無関心と脅迫の時代に政府高官に就くというのは、半ば自傷行為の域に突入していた。対して執事は、彼も友人ではあったが、正直私は彼にあまり信を置くべきでないと思っていた。(私が言えたことではないが)当時の彼は明らかな中二病で、背信行為に憧れているきらいがあった。実際9月には離反未遂を起こすなど、ふとしたことで敵側に寄っていきかねない危うさがあり、多くの人々に指摘されていた。それは逆に言えば、彼が離反したとて彼自身はもとより、ゲームウィズ民にも心理的影響はほぼないだろうということでもあった。いわば蜥蜴の尻尾である。
 11月14日に正式政府は発足したが、それは重要でもなんでもない。"菜"とれたんの名無しによる扇動で暴動は激しさを増し、自治領の緊張は急速に沸騰していった。「親歴史・反歴史」の議論の熱も頂点に達していた。2022年の11月16日、午後11時過ぎ。Duke of Yorkは、400日余りにわたる掲示板での活動に「終止符を打った」―。

†第二章のまとめ

 第二章は中々に重い内容となった。まとめに入ろう。
 掲示板希望の星であったゲームウィズは、併合という私の愚かな決断によってあっけなく政治化された。そこに椿ゲート事件後のれたんのゲームウィズ逃亡が非隠れん坊化までもを引き起こし、ゲームウィズ民の無垢は完全に失われた。
 予防措置としての椿ゲート事件は成功した。以降、満足した私は自治領について、片手間でれたんの相手をした。ところが"ワロター"の一件は私に衝撃を与えた。私の強迫的で歪んだ道徳意識がレアルポリティークへと方向転換を迫った。その結果が対れたん「維持作戦」であり、鉛の時代であり、踏みにじられた友情と親切心であった。私は自分のやったことを淡々と書いたが、その裏には常に友人への裏切りがあることを忘れてはならない。本当に申し訳のないことをした。心から悔いている…。
 まとめを続ける。れたんから一般へと広がった政治的無関心を背景に、維持作戦は10月初頭に転機を迎えた。以降採用された揺さぶり戦略では、対れたんよりも自治領政府の存在意義擁護の側面が強まった。それでも、政治への不信と無関心は止められなかった。小手先の「戦略」、それも迷走の末の戦略が、人間の意思を変えることなど到底能わないことであった。正式政府に寄せられた期待も全くの無。そうした中私は自身の失踪という最後の博打に乗り出す。
 次章では博打の結果が明かされるだろう。しかし、それ以外も明かされる。読者は第二章の大部分の間、私が意図的にみん作や「掲示板の生」について話を全く及ぼさなかったのを気付いていたか?そうだ、あなた方が今それに気づかなかったように、私含む当時の人々もゲームウィズのみに気を取られていた。それは実はこれ以上ないほど致命的なことだった。それも文字通りに。本書の主題である「掲示板の死」―臨終の瞬間は、静かに間近に迫っていた。


第三章 掲示板の死と「復興」(2022年11月~2023年3月)


      (ゲームウィズ板のバナー)

†ゲームウィズ自治領の自殺

 「Duke of York失踪」の報が飛び交い始めたのは11月18日、失踪から二日後であった。人々がこれに関心を向けるか、それとも無関心のままかですべてが決まる。この一世一代の大博打がどう出るか、私は神経をとがらせて翌日を待った。
 結果は予想の斜め上を行くものだった。人々は関心を寄せた。嘆く者さえ見受けられた。その後、人々が選択した行動は政府の下での大同団結―などではなかった。いわゆる政府支持者は次々と姿を消していったのである。
 私は完全に誤解していた。自分自身の政治性を過大評価していたのに、それ以外は過小評価していたのである。私の認識は歪んでいた。政府支持者と目された友人たち―彼らはもとよりDuke of Yorkの主導する掲示板政治なんかどうでもよかった。それよりもずっと、Duke of Yorkという「人間」そのものを見て、価値を置いてくれていたのである。荒れる掲示板にいてくれたのもその温情の部分があったと思う。それなのに、維持作戦だの夏の冷戦だのどうだっていいことに熱中する私は、それを見逃していた。結局最後まで他人を裏切り続ける邪悪だ。TwitterのDMに溜まってゆく安否確認。それを目にして私は罪悪感でいたたまれない気持ちになった。あらゆる負の感情が一斉に心を揺さぶる。ちょうど、どこぞの馬鹿者が固執した「揺さぶり戦略」のように!
 とても冷静ではいられない。いや、すでに冷静でいる必要はない。私があそこまでやって維持しようとしたゲームウィズの政治もこれで終わりだ。これ以上新しいことをやる精力も、それに価値を置く気力もことごとく尽きた。すべてが台無しになった。
 崩壊は急速だった。11月22日には公安委員会が離反。執事の去り際の一言は、多分それ自体は即興の思い付きの産物だったのだろうが、今でも心に突き刺さる。実験であったならどれだけましだっただろう。驕り高ぶったうえでの「戦略」だなんてそこにはなかっただろうに…。11月30日、奇しくも自治領史中、政治家としては不死鳥状態だった"マキイフカ"として、私は自治領の崩壊を宣言した。ゲームウィズ自治領の3か月と23日に及んだ歴史は、自殺のような形で終焉を迎えたのである。

†掲示板の死

 ゲームウィズ自治領の崩壊は、掲示板の一地域の損失にとどまらなかった。掲示板全体の死を直接的に引き起こしてしまったのである。
 それには理由がある。私も、れたんも、その他掲示板のユーザー全員も、ゲームウィズに気を取られるあまり、本体であるはずのみん作を等閑にしてしまっていたのだ。そもそもみん作の存立を支えていたのは政治に他ならなかったのに、最大の政治問題であったれたん問題が自治領への逃亡で「ゲームウィズ化」してしまったために、「政治抜きのみん作」というあってはならない存在が生まれてしまったのである(しかもこれは政治向きでないゲームウィズに政治が本格的に導入されるという由々しき事態とも表裏一体だった)。新たな政治問題をみん作で提起すればどうにかなったのかもしれない。だがテクノクラシーによって政治参加者が事実上私一人で、その私が自治領に没頭しているようではお話にならない。
 よって、11月も終盤になるとみん作は激しい過疎に見舞われていた。それが何を意味するか。自治領崩壊時の人口的なセーフティーネットの消滅である。ゲームウィズ自治領は、その崩壊の約一週間前から激烈な人口減少を引き起こしていた。掲示板の存立条件で唯一残っていた「多様な人々」は急速に崩れていったのだ。11月30日に掲示板に定住を続けていたのは、私とれたんそれからズワイガニと紅葉&三日月のたった四人だけだった。しかも、紅葉&三日月に関しては私から自動的にみん作の管理人を継承したものの、その活動は活発ではなかった。つまり、掲示板人口は三人だけとなっていたのである。
 悲劇はいつだって急に訪れる。「歴史とれたん」という、現在では一種の劇画化さえ施される対立構造の中で、掲示板は踏みつぶされた。その劇画化の罪深さは置いておこう。とにかく、ここからの掲示板はもはや遺骸に過ぎない。

†れたんの政治蘇生方針

 さて、ここで掲示板の生は終わったが、その後の時代が待っている。ここから掲示板は奇妙な展開を迎える。私とれたんはずっと敵対していたが、こと「掲示板殺し」、そしてその後においては協力者となったのである。その経緯を説明しよう。
 そもそも11月30日時点での掲示板の実質人口は三人であったが、見かけの上ではもっと多かった。れたんは「鉛の時代」ほどではないにせよ少なくない数のサブアカウントや名無しを使用していたし、私も名無しとして掲示板にいた。この間、れたんは自治領崩壊を嘆くようなそぶりをしながら、恐らく今後のプランを練っていた。
 12月1日、"経済産業省"というアカウントが突然にして現れる。この名前についてはややこしい経緯があった気もするが、ともかくそれはどうでもよい。彼女はこれまた都合の良いタイミングで復活した"ワロター"や、活動を活発化させた"親露文化派"(のちの"極東")と共に、速やかに一種の活動団体を形成し始めた。異常なタイミングと言い、手際の良さと言い、明らかにそれはれたんであった。逆に言えば、この自演で結合した活動団体の行く末こそがれたんの意志そのものだと言うことができた。それで彼らが何を目指したかと言えば、それは掲示板政治の再開であった。れたんは自らもその一翼を担った掲示板政治の破壊行為の直後に、その蘇生方針をとったのである。
 後世における「復興世代」の源流はまさにこれに宿っていた。のちには私もこうした潮流に便乗し、仇敵のはずのれたんと一時代を築くことになる。その主体は何を隠そう、かの有名な"出雲"である。しかし、そうなるにはまだ一波乱必要だった。

†新無政府主義と新年待機主義の浮上

 れたんが掲示板政治復活を目論む隣で、私もただ手をこまねいていたわけではない。掲示板を蘇生し、再びれたん以外の人を―あわよくば、私が裏切った旧友たちを入れるべく、私も様々な構想を立てた。
 "出雲"に関して言えば、彼は元々政治に対しては懐疑的なキャラクターだった。それには当時の私の価値観が反映されている。掲示板政治へののめりこみを一通り後悔した私は、その反動で政治へ権威を集中させることに懲りていた。したがって"出雲"は最初、「権威ある政府は崩壊時に掲示板をも滅ぼす」と、れたんの活動団体を厳しく戒めていた。それは掲示板の蘇生という文脈の上では、「余計なことをせず新規が入るのを待て」という意味である。私はそうした思想を「新無政府主義」と、かつて政治に固執しながら意図的に無政府状態を作りもした自分への皮肉を込めて名付けた。
 一方で、私は新年待機主義というイデオロギーも生み出していた。もっとも、このイデオロギーの誕生は意図的ではなかった。"新年おめでとう!"という私のbotに、れたんのサブアカだか名無しだかが、年始のDuke of York復活を予言しているとこじつけたのがきっかけである。れたんによる当時の終末的な雰囲気の風刺といえばそれまでだが、私はこれを「新年まで待てばDuke of Yorkによってすべてが救われる」カルトじみたものに改変した。その内情は、新年までとにかく今後の方針を熟考するという元も子もない引き延ばし戦術なのだが、Duke of Yorkの復帰という行動について真面目に検討したのも事実である。
 このように、一言で掲示板を蘇生するといっても、れたんと共に「復興世代」を形成することは数ある選択肢のうちの一つに過ぎなかった。私にしてみれば、掲示板の自然治癒力にすべてを任せようが、カルト宗教のもとに故人を復活させようが、不倶戴天の敵と政治を再開しようが、全部が私の勝手だった。それではなぜ、私は「復興世代」の道を選んだのだろうか。

†れたんを再考する

 12月初頭、私はれたんという人間について再考した。そこで導き出したものとは、れたんと自分は掲示板の復興に向けて協力できる、といったものだった。
 この結論に至った理由を話そう。といってもそれはそう小難しい話でもなく、単に掲示板の再生という目標が一致していたからである。私は8月以降、れたんを一貫して掲示板の脅威と認識していた。個人崇拝の為に繰り広げられる自演や保守党事件・"MEELINIK"の乱で開陳した根強い保守派的思想、「鉛の時代」中行った私へのネガティブ・キャンペーンはその認識を補強していた。ところが冷静になって考えると、それが本当でもこの状況下でれたんは脅威にはなり得ないのではないか。れたんは政治ごっこの語を発明したとはいえ、本質的には親政治的だった。だから彼による被害は無差別の暴言だとかハッキングのような外部的なものではなく、政治を通じたものであることが予想されていた。ところが、今この廃墟と化した掲示板で政治を興したとして、それで失うものはない。
 ゲームウィズを完全に非隠れん坊化したうえ、政治の中心を移したという点で、れたんは主犯格ではないにせよ掲示板殺しの共犯者だった。ところが、それは私と同じく意図してやったことではないだろう。「第三の掲示板民」たる彼にとっても掲示板の死は不本意だった。少なくとも私はそう信じている。もしこんな状況を本気で望んでいたのなら、私はありったけの憎悪とある種の敬意を込めて彼をサイコパスと呼ぶだろう。ともかく、利害関係の一致が明らかになったことで、私は復興世代という、対れたん妥協の道を歩み始める。

†仮政府参入と「復興世代」


        (「復興世代」の旗)

 私は第三の選択肢、れたんとの政治復活の協力を選択した。"出雲"としてアナキズム的な言動は控えるようにし、代わりに"経済産業省"らに協力的な姿勢を見せた。「新年派」として知られるようになっていた名無しでの活動も徐々に弱めていった。
 政治復興の動きは加速していた。れたんはゲームウィズ自治領からの政府経験者・2世と"ワロター"や"経済産業省"の名で協力し始める。2世に関しては自治領崩壊の少し前から浮上と失踪を繰り返していたが、ちょうどこの時期には浮上していたのである。12月3日に「掲示板仮政府」が設立され、二日後には臨時的な憲法が制定された。2世は放棄されていたGamerch板のページに、この政治復興の第一歩を刻み込んだ。仮政府の政治体制は高官3人の共和制と定められ、かつての「自治共和国」を髣髴とさせるものだった。
 12月4日に私は"出雲"を仮政府に参加させた。れたんの諸サブアカウントと同じく、"出雲"も客観的にみれば都合の良すぎる存在だ。なので、れたんもこの時点で"出雲"が私であることなど容易に分かっていたと思う。だが、彼は私を拒絶しなかった。彼も私も12月2日から12月5日までの間に、"十勝"(れたん)、"ゴロド"(私)に代表される、複数のサブアカウントを作成した。仮政府憲法でBotの複数所持禁止が取り沙汰されていたにもかかわらず、私は"嘘出典bot"や"全エンディング:掲示板"、れたんは"墜落しろ"や"歴史解説ネタ提供bot"といったBotを浮上させる。自治領時代の、関係者全員にケチが付くような政治状況の中で、それらに無関係かつ文化の一部と目されるようになっていたBotの存在は大きかった。それは実は両者の間のアキレス腱ともなるのだが、今は本題ではない。
 ︎︎12月初頭のたった数日の間に、掲示板は悲劇の暗黒時代から狂乱の黄金時代へと目まぐるしく移ってゆく。かつて私一人の自己満足に過ぎなかったナショナリズムは、れたんの政治復興によって新たな局面に突入した。サブアカウントの演技に物理的に支えられた「復興世代」というプロパガンダが急速に発行される。私は新たな掲示板旗を公表した。こうした一連の「復興セレモニー」が放つある種現実離れした熱気は、掲示板の雰囲気を大いに盛り上げた。それは宿敵同士の協力の象徴であった。一方で、何も知らない2世やズワイガニに対しては裏切りでもあった。しかし、2世はそれを知る由もなかっただろう。彼は数日経過するととまた失踪してしまったのだから。

†自演支配体制の成立

 2世の失踪の結果、仮政府は事実上れたんと私の連合政権となった。この連合は、(少なくとも私にとっては)掲示板を蘇生するための「政治カルテル」であった。
 しかし協力体制が構築されたとはいえ、2世の失踪のために、掲示板の実質人口は結局三人にとどまっていた。それなのに政府の頭である両者が大量のサブアカウントを抱えていたために、この政府の体制は常軌を逸したレベルで不健全なものとなった。「自演支配体制」が成立したのである。
 この頃の掲示板では異常なサブアカウント数のため、それらを操るどちらかがいなくなった場合には、掲示板の見かけ上の人口の実に約半数が消滅するという危機が常に付きまとっていた。こうした状況の安定のためには、両者に限って自演を容認すること、さらにはサブアカウントと分かっていても一人のユーザーのように演技し、またそのように扱うことが暗黙の了解であった。ディストピア的な人形劇の世界である。
 自演支配体制は首脳陣だけの密約であると同時に、「民衆」間の一般意志でもあるという二重性を持っている。何度も言うがこの時代の実質人口は三人だった。しかし、我々が所有する大勢の名無しや役職についていない「復興世代」のサブアカウントたちは、掲示板という奇跡の復活を果たしたミニ国家における国民を演出していた。数日前まで大暴れを繰り広げていたはずの名無しは急に別人のようにかしこまる。あるいは「改心しました!」「名前つけます!」といったことを次々に口にし始める。この茶番劇こそが、掲示板復興の形だった。この流れの中で、自治領時代まではどうにか純粋な形を保ってきた「掲示板民」の概念も偽装される。この時代の民衆は、ズワイガニを除く全員が完全に掲示板民だった―本体の二人が筋金入りの掲示板民だからという身も蓋もない理由で。一年前の理想主義的な私が聞いたら卒倒するだろう。しかも、私自身がその片翼を担っているなどと聞いたなら…。
 ただし、この体制下でも双方の懸案は存在した。中でも特筆すべきは"ワロター"である。サブアカウント自体は2世と同時期に消えていたが、その正体は議論となった。れたんは強情にも否定を続け、私はその真逆だった。想定される先代がみん作であれ自治領であれ、掲示板政治の復興とはそれすなわち、掲示板史観をはじめとする過去の掲示板の遺産すべての継承者を作り上げることを意味している。掲示板史観において"ワロター"はれたんという絶対悪であり、それを自分と認めることは復興者としてのれたんにとって自殺行為に等しかった。しかし同時に、それを見逃すことは復興者たる私にとっての自殺行為でもある。このジレンマに代表されるれたん問題については、いまだに両者の間で埋めがたい溝が存在していたのである。

†「歴史的妥協」

 『時系列でみる掲示板の歴史』によると、仮政府が"経済産業省"を首班とする正式政府に改組されたのは2022年12月5日のことである。とは言っても2世の失踪からたったの一日後に発足とはさすがに見切り発車がすぎるので、これは誤情報の可能性が高い。私の記憶としては、仮政府からの移行は極めてゆっくりと行われていた。実際に正式政府が実体を伴って発足したのは、Gamerch板に『第四立憲君主制憲法』が刻まれた12月22日とするのが妥当であろう。
 この間、ゲームウィズでは掲示板史を揺るがす出来事が起こっていた。私とれたんの間に「歴史的妥協」が結ばれたのである。
 先ほど書いたように、この時期の我々の懸案は専ら"ワロター"を始めとするれたん問題であった。掲示板政治の復活を企図する我々にとって、この問題の解決は急務であった。
 我々は掲示板の復興で協力していたとはいえ、なあなあで解決策は決まらない。12月17日、"ワロター"の正体についての議論はさらに過熱する。沸騰した私は遂に禁忌のはずの"経済産業省"の正体にまで話を及ぼそうとした。対するれたんは"出雲"と"ゴロド"の同一人物説を引き合いに出す。「復興」以降初めて流れる物々しい空気に、我々は互いに矛を収めなければならなかった。逆に、これが妥協の第一歩となった。我々は"ワロター"をはじめとするれたん問題に対して、その棚上げを行うことで合意したのである。さらに踏み込んだことに、れたんの名誉回復まで行われた。
 この出来事は一時の喧嘩を収拾するための方便にとどまらない。私とれたんという掲示板史に深く刻まれていた歴史的対立構造に解決を見出した、まさしく「歴史的妥協」だったのである。私はこの日をもって、「復興世代」の掲示板が先代の自治領やみん作の継承を開始したとみなしている。そしてまたこれ以降、継承の完遂のために私はみん作との統一交渉に本腰を入れ始める。れたんの方がどうかは微妙なところだが、私に限って言えばこの妥協の瞬間から、"出雲"は出雲になった(これが意味するところはわざわざ文字にするのも野暮なので、読者の考察に委ねる)。

†妥協後の世相

 「歴史的妥協」は掲示板の政治を推進した。すでにそれ以前から"経済産業省"は仮政府の共和制にもかかわらず管理人位を宣言していた。私は妥協後、自身の共和制高官位から副管理人位への横滑りを提案し、承認された。
 ︎︎『第四立憲君主制憲法』が12月22日に執筆され、そこで体制が正式に立憲君主制へと決定した。「歴史的妥協」を反映し、憲法第三十条ではれたん問題を始めとするスキャンダラスな出来事に対する公言の禁止が明記される。実際のところ、この憲法はあまり存在感を発揮しなかったが、少なくとも第三十条については暗黙の了解として記憶された。また、管理人に「物事の最終的な決定権」を与えるという憲法第十五条は、管理人の力の及ぶ範囲が大きすぎる点で暴挙ともいえる条文であったが、種々の思想が乱立した12月初頭や、歴史問題が再燃した12月中旬の混乱の残滓でもあった(そして実際この条文を参照した権力の行使は1度も行われなかった)。
 ︎︎私が紅葉&三日月と行っていた掲示板統一の交渉も12月27日には合意に到達。2023年1月1日にみん作との掲示板統一が行われ、「隠れん坊オンライン統一掲示板」は事実上も、掲示板史上も、唯一の正当な掲示板となった。統一によって掲示板人口も一人(紅葉&三日月)増加した。
 一方で社会的には、文化的交流が盛んにおこなわれた。12月初頭から始まった第三回国ゲームは自治領時代の第一回・第二回よりも長く続いた。ただしプレイヤーはやはり三人だけで、サブアカウントで水増しはしたもののかえって虚しさが強調された。なので私は一週間ほどたった辺りで、ゲームを半ば放棄してしまう。
 ︎︎代わりに私は架空国家「北カフカス連邦」の創作に取り組み始めた。復興世代の文化の一角を占めるこのミームはわざわざサブアカウントでくだらない演技をする必要がなかったので、私たちはかなり楽しんだ。
 ︎︎その他、出雲と"経済産業省"の百合関係を擦ったこともある。おそらくその発端はれたんで、馴れ合いの一部であったが、今思えば私は男性だし、れたんもその可能性はある。それをサブアカウントで煽ったことを思うと、控えめに言ってもかなり寒気を感ずにはいられない。

†排外主義

 この時代にはのちの大問題も生まれる。排外主義である。12月末には復興の甲斐もあってか、長らく姿を消していたアカツキや自治領以来の執事が復帰する。しかしアカツキはネカマ、執事は自治領末の離反者といったように、彼らはいわくつきの存在であった。我々はそうした背景を攻撃し、あろうことかせっかくやって来た彼らを排除しようとしたのである。大規模自演という自分たちのやっていることの方がはるかに悪質なはずなのに、だ。
 なぜこんなことが起こったのか。それは、歴史的妥協はあくまで私とれたんの二者間の関係に生じたものであり、他の人間の問題まで棚上げすることは許されなかったからである。冷めた目で見れば歴史的妥協とは「個人向け贔屓協定」であった。よって、彼らは「自分たちの不正はいいが、お前たちの不正は許さない」という耳を疑うような論理によって排除された。その裏にあったのは「自分たちが掲示板の正統な統治者であり、害悪は排除しなければならない」という、維持作戦開始時の私にも似た一種の強迫観念であった。
 興味深かったのは、私に比較してれたんの方がこうした「害悪」に過敏に反応していたことである。私が過去の経験を通してそういった対処にすっかり辟易していたこととの対比もあるが、この頃のれたんはとにかく掲示板民としてのエネルギーに溢れていた(それがいい意味か悪い意味かはともかくとして)。「害悪対策にお熱なれたん」というのはひと月前なら実に滑稽な光景である。しかし、今やこれは笑い事ではなく、しかもこの先の展開の重要な伏線になるというのだから、人間というのは分からないものだ。
 話を戻そう。12月20日、執事は我々に強く反抗し、みん作での編集にも手を出した。その結果激しい編集戦争が勃発し、執事はまるで大犯罪者のようにみん作ページに晒し上げられた挙句、退場を余儀なくされる。対してアカツキは明確な抵抗の意思こそ見せなかったが、年末から年を越してもなお頑強に掲示板に残留し続けた。それは自分たちの非を棚上げした理不尽な弾圧に対する、当然の行動だったのかもしれない。

†平行する収斂

 長かった2022年も終了し、掲示板統一を号砲に2023年が幕を開けた。相も変わらず私とれたんの提携は続いていた。しかし、このころから両者の関係は妙な変調をきたし始める。1月3日の"極東"によるモンスト掲示板親露画像連投事件は、私にそうした不吉な前触れを予感させた。1月4日に政府の任期が切れ、第四立憲君主制は自然消滅を迎える。これ以降徐々ではあるものの確実に、私とれたんの間のゆがみは大きくなっていった。
 「北カフカス連邦」のミームは順調に発展を続けており、私はその一環で年末からbotの"ソユーズ通信"と創作を連携させ、ストーリー性を持たせていた。ところが1月5日にこのストーリーの方針に"経済産業省"やれたん側の名無しが介入し、さらにその後もそれを繰り返したため、私と意見の不一致が発生した。れたんは名無しについてはすぐ引っ込めたが、「復興世代」のリーダー格である"経済産業省"については汚点がつくことを恐れたのか、はっきりとしない姿勢を見せる。最終的にこの問題は、1月20日に掲示板単位での「北カフカス連邦」の禁止が審議されるまでにエスカレートした。私の強い抗議でそれは取りやめになったが、以降ミームは失速してしまう。
 次節で詳しく解説するが、階級問題(名無し問題)やアカツキへの対応でも意見は対立した。「歴史的妥協」の効果は想定よりも長続きしなかったのだ。というより、こうなるのが我々の運命であったのではないかとも思う。私とれたんも所詮は他人だ。しかも、どちらも平均より幾分我が強い。「鉛の時代」を通じて、掲示板は表面上ではあるものの、徐々にDuke of Yorkら政府系とれたんら反政府系の二つの系統に収斂していった。その二つの距離は歴史的妥協で多少は近づいたが、2023年1月以降は決して交わることのない平行の軌道を描く。「平行する収斂」という、非常に微妙な関係が形成されていたのである。その間にあるのはやはり長きにわたった相互不信であり、思想の相違であった。この平行は掲示板に直接の不和をもたらすこととなる。

†思想軸の形成と裏切られる幻想


       (復興世代期の思想軸)

 1月から2月にかけて、掲示板内では階級社会が実現しつつあった。上位とされた順に、復興世代が改組した「著名」、その後に流入した人々を指す「無名」、そして「名無し」である。もちろんその中身は私とれたんの二人だけで、階級どころか社会すら偽物だったのだが、なぜかここから名無しの存在が問題化していく。恐らく本体同士が対立したときにどちらも増援に名無しを使ったことが理由なのだろう。
 また排外主義のために、年末から残留し続けるアカツキもこのころには立派な社会問題と化す。政府は1月4日を持ってすでに風化していたのに、まるで「アカツキ追放条例」が可決されたかのような空気が充満した。この現象は、世論と個人の意思が強力に結合する自演支配体制の弊害でもあった。
 ︎︎こうした諸問題に対し、各サブアカウントの思想的立ち位置は一貫していた。それはいつしか思想の軸を形成してゆく。上の図を参照してもらえればわかるが、特権階級たる著名でも、その下の無名でも意見の不一致が起きていた。
 ︎︎全体的な傾向として、れたんは過激派に偏り、私は穏健派に偏っていた。れたんの過激派急先鋒は"極東"で、12月にはそれほど政治にかかわらなかったが、1月になると飛ぶ鳥を落とす勢いで浮上していた。より過激な無名のサブアカウントに迎合するような姿勢だったので、私はそれを「大衆迎合主義」と呼んだ。対して出雲こと私は穏健な立場をとっていた。私は害悪への過剰な対処(維持作戦)が自滅を招いた経験から、あれこれと手を出すのは間違っていると考えるようになっていたのである。ゲームウィズで実効性のある政治は到底出来ないことを、私は身をもって知っていた。
 ︎︎思想の分断は時が進むにつれてますます顕著になっていき、敵対行動も露骨になっていった。名無しと著名が、あるいは過激派とアカツキが騒々しく衝突する中で、「復興」の幻想は黄昏を迎える。復興世代は、2022年12月初頭の特殊な掲示板情勢に対応した政治カルテルの「方法論」でしかないことを、我々は忘れてしまっていた。それで我々は、あたかも掲示板の新たな「政治理念」、ひいては新たな「時代」の構築に成功したかのような錯覚に陥っていたのである。こうした己惚れの帰結として、「掲示板の蘇生」という本来の目標は忘れ去られていった。

†「疑似的」理想主義政権

 我々の迷走を体現するかのように、自演支配体制の枠内で政治は再活性化する。2月3日は選挙の実施日であった。管理人一人を選ぶこの選挙に私は立候補したが、驚いたことにれたんは自分から候補者を出さなかった。結果、投票で運賃子が荒らし行為を行うなど荒れはしたものの、"経済産業省"などの投票を受け、無事私は管理人に選出される。
 私はこの出来事を次のように解釈した―「お前はお前で好きにやれ」という、ある種の白紙委任状であると。これが路線対立を鎮めるとは当時ですら到底思えなかったが、私は穏健路線を堅持することを心に決める。
 結果、成立した政権は穏健主義と宥和政策を柱とした理想主義色の強いものとなった。ただし、この理想主義は昨年の妥協と調整という現実主義に依拠した偽物であり、そのため「疑似的」理想主義政権ともいえる。私はアカツキであれ何であれ、あらゆる害悪は抱き込みないしは放置によっていずれ消えるものだと考えた。先述のように、Duke of York時代の反省の産物である。実際、今でも一般的にはそうした理論は正しいと思う。
 ところが、理論だけで物事は語れない。ほかの人間―言い換えればれたん―の協力は不可欠だった。しかし、アカツキの問題に限っても、深刻な思想対立の下でれたんの協力を得るのは不可能に近い。穏健主義のような理論上の正しさにこだわる方針は、自分と反対者一人、傍観者二人という過疎の実態を踏まえたならば個人的なナルシシズムに他ならず、やがては私の失踪と同時に消滅してしまう代物だったのである。もちろんそれはれたんの過激主義にも言えたことだったが、愚かにも私は自身の使用期限を設定してしまっていた。3月5日というそう遠くもない日に、「そろそろ掲示板から離れないとまずい」という今思えばこれ以上ないほどふざけた理由で、である(一応高校受験という嘘が口実ではあった)。要するに、「疑似的」穏健主義政権は一時的で儚い運動であり、長期的な持続力は皆無であった。
 極めつけには、自演支配体制の特殊な状況下の為、理論自体にも欠陥があった。アカツキは確かに放置によって消えはするが、名無しはどうなのか。"極東"が主導していた名無し差別は、もはやかつての揺さぶり戦略のようなマッチポンプに突入していた。理論がどうであれ、問題を向こうが再生産しているようでは話にもならない。しかも相変わらず"極東"や過激な無名は、それをダシに政府を批判する。憤慨した私は反撃に出ようとするが、自ら手を下すわけにはいかないので、差別反対を掲げる名無しを使い始める。両者の関係は完全に負のスパイラルに陥っていた。

†モラルハザード

 常識的に考えると、ここまで政治的不一致が生じたならば、出雲政権どころか「復興世代」自体いつ崩壊してもおかしくなかった。ところが現実には、内部の深刻な対立にもかかわらず我々が全面戦争に突入することはなかった。自演支配体制のためである。もし片方を抜けさせれば、過疎があらわになって抜けさせた側も手足を縛られた状態になる―「復興」の理念が消え去りつつあった2月でも、こうした相互確証破壊は残っていた。
 限界までやってしまおう、相手が本当に消えることはないのだから。こうした意識が我々の間で蔓延し、2月中盤からはモラルハザードが発生し始めた。次に見るような数々の筆舌に尽くしがたい凶行が連発されていく。
 2月12日、反アカツキの暴動の中、私は公然とアカツキを擁護し、さらに絡みを持った。これを発端に、れたんは過激派による恫喝を含む、政府への異議申し立てを開始する。2月13日頃、私は"経済産業省"の今でもなお思想軸や政治問題とは無縁であるかのような扱われ方が鼻持ちならず、ネカマ説を提唱して大規模な叩きを始めた。"極東"も動員して防衛に走るれたんを横目に、穏健主義のはずの政府としてはこれを放置した。
 数日後にれたんは反撃に出て、"比力"という過激派無名のサブアカウントを利用して政権へのクーデタをちらつかせた。私は名無しや"VITAS"のような穏健派サブアカウントを結集し、逆にクーデタに同情的ととれる発言をした"経済産業省"を追求した。クーデタは取りやめになったが、れたんは名無しから「出雲=経済産業省冷戦説」を提唱して対決姿勢を公然のものとし始めた。数日後には二度目のクーデタ未遂を起こし、さらに2月17日だったかにはかつての"マキイフカ"を匂わせるサブアカウントまで過激派として投入してきた。
 対立の暴走は止まらない。2月18日、"極東"は遂に自分が差別主義者であることを公言した。さらにその後、「何があろうと名無しに著名を叩く権利はない」といった趣旨の暴言を吐き、私の名無しや無名を牽制する。これを口実に、私は大規模な名無しの暴動を継続的に組織し続けた。
 私は矛先を新規サブアカウントにも向けた。"Noah."というれたんのサブアカウントは階級を問わない個人崇拝の傾向がみられ、れたんがそれを著名入りさせたがっているのは明白だった。しかし、私は"7"というサブアカウントで原住民世代期の懐古を煽り、"Noah."に適当な予言を背負わせたうえ、名無しや無名で崇拝を始めて著名への道を塞いだ。
 自他問わずこうした行動は、今ならわかるが、書いているだけでも恥ずかしいものだ。復興の理想などどこへやら、掲示板は表面上でも、内実でも、12月の雰囲気からは考えられない、地獄の様相を呈していた。

†「復興」の終焉

 道徳的シニシズムはもはや歯止めが効かない状態に陥っていたが、「3月5日」が迫るにつれて30基以上に膨れ上がっていたサブアカウントは徐々に収縮していく。一時代の終焉が訪れようとしていた。
 収縮の始まりは2月20日に始まる。れたんのロシア趣味叩きに私がヒカマニ叩きで反撃したところ、罵倒の応酬が巡り巡って「二大bot」としてれたんとの合意の上で文化的な頂点に立っていた"嘘出典bot"と"墜落しろ"の廃棄にまで発展した。私自身、"嘘出典bot"のコンセプトを気に入っていたので昔なら捨てるなど考えられなかったが、時期を考慮して失踪させるに至った。
 この翌日、れたんは"経済産業省"を破棄する。私にとって、これはかなり意外だった。れたんは"経済産業省"を明らかに大切にしていたからである。これ以降、れたん側では過激派無名が次々に破棄されていった。3月に入ると私もサブアカウントを失踪させはじめ、3月4日の大規模レスバトルの後には残すは私自身―出雲のみとなった。
 3月5日の日曜日、前日の喧騒が嘘のように掲示板は静まり返っていた。それは既に絶命しつつも我々によって生存を偽装された掲示板の真の姿を如実に表しているようで、思い出すと今でも心が痛む。れたんがこの日まで残したアカウントは"極東"だった―"マキイフカ"よろしく、過激な有力アカウントは無駄に長く生き残るというジンクスでもあるのだろうか。
 読者は失笑するかもしれないが、私はこの時本気で引退するつもりだった。夜10時ごろ、スレッドとアカウントのフィードで「全員」への感謝を伝えたのち、推し歌手であったオレグ・ガズマノフの"Мы Вместе(ともに)"の和訳をみん作に張り付けた("経済産業省"も引退直前に曲の歌詞を張り付けていた)。さらに、そのページにGoogle Driveと紐づけた隠しドキュメントのリンクを張り付けていたが、今思うと寒気がするような痛い内容なのでれたんが気付かなかったことを祈っている。
 ︎︎このような万全の「終活」の後、私は掲示板を引退した。重なるようにれたんが"極東"を引退させたのは、容易に想像ができるだろう。全サブアカウントが退去し、そしてこの日をもって、12月初頭から三か月余り続いた一つの時代が終わりを告げた。

†第三章のまとめ

 ゲームウィズ自治領は、みん作から政治だの掲示板史だのあらゆる事物を三か月かけて引き付けるだけ引き付けておいて、その果てに私の迷走によって自爆した。それが意味するところは大量の人口流出―つまりは紛れもない掲示板の「死」という悲劇であった。
 私は反省したが、結局何も有効なことは学ばなかった。仇敵・れたんの政治復興に掲示板そのものの蘇生という希望を託し、"出雲"として「復興世代」の名声に甘んじた。掲示板復興を見据えた自演支配体制の形成というのは狂気的ではあれど我々の協力の象徴であり、「歴史的妥協」も掲示板史上の負の遺産を撤去し前進する画期となった。そういう意味では、この時代の掲示板には「挙国一致内閣」が成立していたといえるのかもしれない。
 ところが、1月から「復興世代」の行く末は暗転する。我々は結局、過去の因縁抜きでも対立を避けられなかった。掲示板民意識に依拠した苛烈な害悪排撃運動、自己満足以上のものにならなかった穏健という偽の理想、そして挙句の果てにはモラルハザードの発生。もちろん、それら自体は私とれたんの間の演劇であって、大した話ではない。ところが、その演劇がアカツキら貴重な復帰ユーザーを、さらには目標であったはずの掲示板の蘇生までもを踏みつぶして上映されていたとなると、話は変わってくる。
 結果、そのある種当然の帰結として、2023年3月5日に復興世代の時代は当初の志を置き去りにしたままで終わりを迎える。掲示板は蘇生どころか、その遺骸を散々弄ばれただけだった。悲劇というにはあまりにも馬鹿らしすぎる、そんな最期であった。
 それで、結局「復興」とは何だったのか。敵対者が手を取り合った奇跡の時代とも言えるし、自演支配体制による腐敗の時代とも表現できる。あるいは、当初の志を忘れるなという教訓を伝えるお話かもしれない。しかし、この時代にいた当事者としては、「茶番」という言葉に集約できると思う。好きでこんなシニカルな言葉を吐いているのではない。ただ、振り返ってもこれ以上の適当な言葉を見つけることは、私にはついぞできなかった。我々は協力するには遅すぎた、妥協をするにも遅すぎた、そして蘇生をするにも遅すぎた。そもそも我々は蘇生に適任では全くなかった。陶酔し、排撃し、内紛し、最後にはそれを放棄してしまうとは…。
 それでも掲示板は死なない。とうの昔にその息は絶えてしまったから。目的は失われ、それでも我々は演技を続ける。蘇生の希望を失いつつも、遺骸への漠然とした愛を抱きながら。3月5日は掲示板史の結びのページにならなかった。空白の、もしくはそれに近いページが、この先も虚しく付け加えられてゆく。


+ コラム 自演の見分け方

コラム 自演の見分け方

 「掲示板史とは、自演の歴史である」―というのは私が即興で考えた言葉だが、実際掲示板と自演は切っても切れない関係にある。相手の関心をひくためだけの可愛らしい自演なら何も問題はない。ところが現実には、私やれたんがやったような全ユーザーを混乱の底に叩き落しかねない危険極まりない自演も存在する。こうした自演に騙されないためには、自演に使われるサブアカウントを見抜く力をつけることが肝要である。二つの自演の見分け方を紹介しよう。
 第一に、これは鉄則だが、名無しを人間だと思ってはいけない。名無しを使う理由は自演がその99%を占めると言っても過言ではない。冷静になって考えてみてほしい―純粋な名無しユーザーとして、掲示板を利用することにメリットはあるのか?名前がなければ知り合いがいても誰にも認知してもらえないし、売名にもならない。自分を喜んで透明化しに行く人間がどこにいるというのか、という話だ。もちろん名無しの用途をひねり出せば、誹謗中傷や陰口に使えそうではあるが、そうしたコメントに人間的な対応をする必要はないだろう。
 第二に、隠れん坊関係の背景が皆無のアカウントは自演である。今であれば古参の間で「隠れん坊をしていない掲示板ユーザー」という存在は一般的だが、初浮上時からそれは常識的に考えてあり得ない。掲示板に来るような人間は、最初からそこが「隠れん坊などほぼ関係ない馴れ合い場所」だなんてことを知らないだろう。隠れん坊プレイヤーとしては失格そのものの私ですら、掲示板に最初に訪れた目的は荒らしの宣伝だった。いわんや他の人間をや、である。実際、私のサブアカウントは誰一人として隠れん坊の背景がなかったし、れたんについてもそれはほぼ同じであった。
 誤解しないでほしいのは、こうしたアカウントを人間だと思わないことは、それらをむやみやたらに攻撃することを推奨するものではない、ということである。ただ静かに放置し、干からびるのを待つのが最良の行動だ。もっとも、それが簡単ではないことは耳が痛くなるほど言われてきたし、「復興世代」期には放置に携わるのが二人という極めて少人数にもかかわらず失敗していたが…。
 最後に、今回示した見分け方は十分条件であって、必要条件ではない。やろうと思えば隠れん坊における立派なバックグラウンドを持ったサブアカウントなど、理論上はいくらでも作成できる。結局のところ、自演なき掲示板を目指すのであれば、不自然さを敏感に感じ取る懐疑主義を涵養することは避けては通れないだろう。あなたが自演なき掲示板を本当に望むのかは別の話として。

終章 「自演支配体制」から「自演の放縦」へ(2023年3月~現在)


          (掲示板連邦旗)

†長い過渡期

 れたんは掲示板を去るつもりなどなかった。または、去ることができなかった。わずか二日後の3月7日には"極東"を復帰させ、"十勝"などの従来のサブアカウントに加え、"Xiah."という"Noah."を踏襲したアカウントを浮上させるなど、陣容を急速に立て直す。ただし、過疎はみん作初期を髣髴とさせるレベルで激烈なものだった。本当に消えるつもりだった私は、3月下旬まで掲示板を開かなかったからである。
 もっとも、その決意も長続きしなかった。結局3月の終わりころには私も戻ってきてしまった。私はこの時点で―というか、それよりもずっと前の時点で、深刻な「掲示板中毒」に罹っていた。3月末には政治などとうに消え去り、みん作もサーバーが崩壊していたにもかかわらず、である。
 再び両者が出そろったとは言え、「復興世代」に代わるアイデンティティを発見することは難航した。私に関して言えば、掲示板が復興することなどないのだし、れたんと新たに何かやる意味もないと思っていた。れたんは二回ほど新たな政府を作ることを宣言していたが、私はそのいずれも無視した。これ以上二人で何か大きいものを作ったかのような演技をするのは苦痛だった。すっかり頭を冷やした私にとって、「復興世代」はトラウマになりつつあったのである。
 心無い人間はDuke of Yorkが今でも政治という虚栄に溺れた小人だと言うが、それは大嘘だ。2023年3月以降、私は政治参加を一貫して拒否し続けた。その態度がこれまでの罪を贖うとは思わない。自分の信条の問題だ。しかし、誤った理解によって尊厳を踏みにじられるのには耐えられない。それにおとなしく甘んじようとも思わない―。
 話を戻そう。私のこうした冷淡な姿勢も相まって、前時代からの過渡期は長引いた。3月に始まり、気付けば12月になってもそれが続いていた。その間に定着した新規ユーザーは一人もいなかった。サブアカウントですら、れたんの"極東"以外は継続的に使用されず使い捨てられていた(そういう意味では、"極東"も極東だったのかもしれない)。私は自分たちの存在、それ自体が掲示板にとって有害なのではないかと疑い始める。それでも離れることはできなかった。れたんもずっと掲示板から離れない。私たちは呪われていた。

†「連邦政府」と進む神話化

 12月9日、れたんは"極東"を首班とし、独力で「連邦政府」設立を宣言する。永遠に思われた過渡期は終わった―少なくとも、政治上は。とはいえ、「連邦政府」は非常に薄っすらとした存在だった。設立と同時に発布された仮憲法はあっという間にスレッドに流れてしまったようで、数日で忘れられた。2024年2月に大規模なチーター合戦が掲示板で勃発した際、"極東"は政府権限を振りかざし関係者に出入り禁止を宣告したが、当然相手にされなかった。そんな彼らも当然掲示板にとどまることはなく、3月に入れば1年前と同じような過疎が始まる。「連邦政府」の設立は、結局何の影響も与えなかったのである。私も当然それを無視していた。
 ただし、その年の4月から6月には、私は歴史の編纂に"ぷえ"として携わることとなる。「考証学派」を自称した私は、『ゲームウィズ自治領 崩壊への道』は自治領の歴史と崩壊の要因を前史を含めて詳細に追っていくという、あまりにも巨大なプロジェクトに着手する。その過程で、Twitterにて2世にも再会し、協力を仰いだ。そうして出来上がった内容は今までの掲示板史よりも具体的で、かつ真相に近しいものであった。ただし、本書の読者が見ればわかるように、椿ゲート事件の内情やゲームウィズ内戦における介入は隠されていたし、「維持作戦」についてもありのままを書く気はなかった。冒頭に「私は新たな掲示板史を作りたいわけではない」と言いつつも、それは掲示板史の枠内に完全に収まっていたといってよかろう。
 れたんについても、"サカモト"の名で掲示板史評論を展開し始める。こうした考証学派の諸運動は、掲示板史観批判の形をとりながら、結局はそれを強化することに終始していた。その中で、れたんは以前から口にされてきた「歴史とれたん」の二名を等身大の存在ではなく、まるで規格外の天才のように誇張し始める。どうしてただのネット中毒者を天才と言えるのだろうか、どうして彼らの確執を神話のように語ることができるのだろうか、どうしてその間で他人や掲示板自体に被害を及ぼしておいて、それを誇れるのか。私は強い困惑を覚える。しかし、それもある意味自然なことなのかもしれない。掲示板の復興に失敗し、一年たっても離れられずに馴れ合いを続ける人間の成れの果てとは、案外こういうものなのではなかろうか。

†サブアカウント使い捨ての横行

 6月29日、れたんは冷笑主義に転じ、私を嘲笑し始めた。もっとも、これは唐突なことではなく、前節の「考証学派」の試みも「痛さの一線」を超えないように細かな調整がなされたものだった。この日もなんてことはない、ただ私の手元が狂っただけだ。しかし、私はこの時頭に血が上っていた。結局私は掲示板から出ていく。それで、そのまま2025年の3月まで戻ってくることはなかった。決心を重ねて離脱した2023年3月よりも、気まぐれの今回の方がずっと長く外にいられたのは、一体どういう皮肉だろうか。
 さて、2023年の3月から2024年の6月までという私が観測できた範囲だけでも、私とれたんの両者によって大量のサブアカウントが作られ、その独自のキャラクターを演じた。私のものだと、"ロシェン"、"Isaiah."(2023年時点)、"ぷえ"などがまず思い出される。ところが、先ほども少し似たことを書いたが、こうした新規に作られたサブアカウントのうち長期的に運用されたものは、私とれたんの双方で全く存在しない。それらはこの1年余りの間、完全に個人的な演劇の為に使い捨てにされていたのである。サブアカウントの「大量生産・大量消費」という正気とは思えない事態が発生していた。
 もっとも、そういったこと自体は「復興世代」期にも共通していた。異なるのはその自演に確たる目的も、合意も存在しないことである。掲示板の復興を最終目的とした「自演支配体制」は崩れ去った。以降も自演と分かってもそれを晒しあうことはなかったが、自己完結性が高まり、絡みをかけることも少なくなった。どちらも好き放題に自演をやるが、同時にどちらも相手の自演を冷たい目で見る。そのうちに本人も馬鹿らしくなって、サブアカウントごと破棄する。「自演の放縦」が繰り広げられていた。
 新規は定着せず、やってきては消えていく。それはひとえに我々がサブアカウントで演劇をところかまわず上映し、大きな顔をしてやれ民度が低いだのやれ掲示板の歴史がなんだの放言をまき散らしているせいだ。掲示板第四の、あるいはそれ以降の生存(蘇生)チャンスは、2022年12月であれ2023年3月であれ、我々がおとなしく消えていたならいくらでもあったはずだった。我々がいる限り、掲示板は生き返らない。そして何よりも悲劇的な事実は、そうした現状を理解してもなお、2025年3月26日現在、私はここにいるということである。れたんもここにいる。私を冷笑し、同時にサブアカウントを「連邦政府」の旧高官として大切に扱いながら。

†イザヤ


           (Isaiah.)

 「掲示板の自由と栄光はいまだ滅びず。」第二次掲示板内戦時に、私がGamerch板のサブメニューに書き込んだ言葉だ。今となっては皮肉でしかないこの言葉だが、別の場所にも刻まれていた。私が"Isaiah."として作成した「隠れん坊オンライン 攻略wiki(新Gamerch板)」である。
 最後に話すのは、Isaiah.―イザヤとしての活動だ。"Isaiah."は2023年9月ごろに浮上した、数あるサブアカウントの一つであった。名前を見ればわかるだろうが、古代イスラエルの預言者・イザヤに由来している。キャラクターは無知で活発。ただ、それ以外にこれといった特徴はない。
 2023年9月は毒きのこや上級者、あまねなどの復帰民並びに新規民によって、一時的に掲示板が賑わった時代だ。しかし、掲示板が「賑わう」とは「荒れる」とも同義。挑発や荒らし、憤怒に満ちたコメントが飛び交っていた。
 そんな中、私はGamerchに新たな掲示板を立ち上げた。一時、私はこの新Gamerch板に自分とれたん、ズワイガニ、そして紅葉&三日月といった古参たちを移そうと考えていた。ゲームウィズが荒れているからだとか、あるいはただの気まぐれだとか、いろいろな理由があったが、一番の目的はゲームウィズでの新規の活動を自分やれたんが阻害してしまうことを防ぐことであった。私にとって、「復興世代」のトラウマはまだ新しかった。"Isaiah."というかつて救世主と称された"Noah."と同系統の名前を使えば、その手の茶番を好むれたんは寄ってくるかもしれないと思っていた。ただし、この計画はあまりにも大それたもので、私自身どう切り出すべきかわからなかった。そうしてぐずぐずとしている間にタイミングを逃してしまい、結局計画はお蔵入りとなった。
 2024年6月29日に掲示板から飛び出したのち、"Isaiah."はIsaiah.になった。なぜか知らないが、れたんは新Gamerch板のことを知っていた。それで、8月9日に私は新Gamerch板でれたんに向けて『掲示板民の尊厳について』という文章を書いた。「掲示板にこれ以上居座るのはやめよう」という内容だった。しかし、れたんには響かなかった。代わりに受け取ったのは「こんなにガチになってるとは…」という冷笑と、「俺とお前以外にもう一人いる」という茶番の誘いだった。それ以降も彼は掲示板に残留したようで、政治や自演学の権威のごとく振舞っている。2025年に入った今でさえも、私の偶像を掲示板史に張り付けて、遺骸を踏みつぶしながら。
 それにしても、掲示板の亡骸は一体、いつまで野ざらしにされることになるのであろうか。ひょっとするとゲームウィズやゲームウィキが、みん作のような運命を辿らない限りは、だらだらと、いつまでも放置され続ける他ないのかもしれない。



あとがき

 なぜ、掲示板はこうなってしまったのか?
 「復興世代」が終わって以降、しばしば疑問に思う。「自分が悪い」というのは薄々分かっていた。しかし、それを自覚してあとはのうのうとしているだけではただの開き直りになる。自分の歩みと掲示板の生を絡めて記述した本書は、そうした問題を解決しようとする中で生まれた。
 本書を最初に書き始めたのは遠い昔、2024年の6月のことである。その時は別の前書きがあり、内容も現在のように特別踏み込んだものにする予定はなかった。今の形にしようと決めたのは実にわずか三週間前ほどだ。ただ、その執筆の動機は決して即席のものではない。
 私はこのくだらない場所の為だけに多くの人を騙し、裏切った。それで、私は真実を自白し、また自分の過ちを認めたかった。十分に分かっている。自分の愚かさをつらつらと悔いるのもまた贅沢であり、形を変えた自己満足に過ぎないと。結局、私は骨の髄からこういう人間なのかもしれない。ただ、その目的が本心からのものであることのみは、どうか分かってほしい。私を信頼するか、しないかは私の関与できるところではないし、そうした権利がある身分でもないが、それを重々承知の上で願う。そのうえで、許すなり、許さないなり、あるいはこれを見ていない他の私の旧友に真相を広めるなり、判断を下してほしい。
 今日、掲示板史は終了した。私が制作し、私がそれに没頭するあまり友を裏切り、のちにはれたんが執着し、自らや私を神格化した負の遺産は、内実の公開によってその存在意義を失った。私は本書以外のページをこのサイトから消去する。掲示板史観を源泉とし、カードゲームのキャラクターのように勝手に分析を加えられた「Duke of York」も、それにふさわしいよう印象操作された「れたん」も、そこには存在しない。哀れな二人のネット中毒者だけがそこに存在する。
 れたんに関しては、なんと言うべきか。あなたはここに書かれた、人によっては括弧つきの真実を、容易に否定できる。それは嘘だ、根拠なき中傷だと言い張ればよい。それで、自分だけの真実を育て続ければよい。あるいはそれを公然の秘密とするか、「イタい」とお得意の冷笑をかますか、「Duke of Yorkは統合失調症で妄想にとらわれた哀れな人間だ」と主張するか―。いずれにせよ、勝手にすればよい。"極東"でも、"HideEdit"でも、なにを言おうと私の知ったことか。もう二度とあなたは痛々しいお人形遊びを見なくてもよいし、掲示板史も二度と元に戻らない。
 私はかつてれたんと友人になれると思っていた。それは違った。2世のような善良な人々が私の政治性でなく人間性を見てくれた一方、れたんはその真逆だった。私のことを掲示板史の一人物としかとらえていない。解釈違いを起こせば、「頭がおかしい」と罵倒する。冷笑主義を振りかざしたかと思えば、次の瞬間には『~の自演について』で、自分たちや新規の自演を批判する。まるで他人事のように。そして掲示板は死に続ける。彼に一寸たりとも期待するべきではなかった。彼に最低限でも人間性を認めるべきではなかった。「人を騙す天才」―全くその通りだ。これからも自演で自らを悪評で表彰し続ければよい。返ってくるのは虚無だけ、というのはあなたの素晴らしい持論だろう。だが、こんな話はこれくらいにしておこう。
 私は掲示板が、過去のようにその生を取り戻すことを夢見ている。だから私は消える。自分はこの場所に害でしかないから。中毒者ではあるので、また戻ってきてしまうかもしれない。それでも、少なくとも意志を離脱の方向へ運んでゆく。そして、まだ見ぬ新規の人々、あるいは2世のような復帰勢が、これからの真新しい掲示板を創っていくことを心から願っている。「掲示板の自由と栄光はいまだ滅びず。」―願わくば、この言葉をいつか皮肉抜きで発することができるようになりますように。
 最後になったが、今ここにいても、いなくても、これまで私に優しく接してくれた親愛なる友人たちに、心から感謝する。そして、どんな形であれ、これまでかかわったすべての掲示板ユーザーに、心からのお詫びを申し上げる。


 2025年3月27日 Duke of York
最終更新:2025年03月27日 21:48