森閑。
この空間に佇んだとき、耳にはその表現が残るだろう。
物音がしない。
木々すら死んでしまったかのような、無音の音が耳を打つのだ。
耳を澄ませた時、そこに微かに届くのは、ただ己の息遣いと鼓動。
そしてその隣に寄り添う者の、同じき血の巡り。
穴持たず34だったような気がするヒグマカッコカリ。
または、
デデンネと仲良くなったヒグマ。
または、ヤイェシル・トゥライヌプ(自分自身を見失う者)――。
外在的な名称でしか規定されていない、いまだ何者でもない彼は、その肩に乗って寄り添う小さな体温を感じている。
デデンネ。
または、フェルナンデス。
または、その黄色いの――。
彼らがまた外在的な名称で規定した、げっ歯類のような様相の命は、震えるのみで語らない。
みしり。
と、彼らの頭上で僅かに枝がたわむ。
極限まで無音に近いこの環境下でなければ、ヒグマである彼ですら間違いなく聞き逃していたであろう微かな音だ。
エゾマツ。
トドマツ。
シラビソ。
カツラ。
ミズナラ。
アスナロ。
ダケカンバ。
豊かな針広混交林は、何か天災に備えるかの如く息を潜めており、その中に更に潜む影のような者の姿を捉えることは、なかなかに困難だった。
穴持たず13。
または、ヒグマン子爵。
その雄ヒグマは、内在的にもその名称を自認していた。
ヒグマン子爵は、彼の頭上数メートルの木々の枝を、ほとんど音もなく、揺らめく雲の影のように渡っていた。
時折、微かに木漏れ日を照らして光るのは、そのヒグマが咥える二本の抜身の刀だ。
ヒグマン子爵は、そのぎらついた牙のような抜身をも、自身の漆黒の体に極力隠すようにして息を潜めている。
――なぜ、彼らは斯様にも張り詰めた空気の中に佇んでいるのか。
その答えは明らかである。
臭いだ。
生物が死に絶えたかのような無音の環境下で、それにもかかわらず――、いや、むしろそれだからこそか、甚だしい異臭がそこには立ち込めている。
ヒグマや、デデンネなどのポケモンには言わずもがな。
嗅覚の衰えた人間でさえも恐怖と吐き気を催しておかしくない、鼻を突くような血臭が辺りには充満しているのだ。
風の動きさえ遅鈍なこの森の中で、じっとりと湿った空気に拡散していく鉄分と蛋白質の香りは、その先に只ならぬ『死』の具現が控えていることを、自明のものとして示していた。
ヒグマン子爵の動きが止まる。
その下から様子を窺っている彼には、その視線の先にあるものがわかった。
――ヒグマンは、見つけたのだ。
この辺りに流れ出す血臭の根源。
キムンカムイ教現教主ラマッタクペ曰く、第四勢力の一体『ケモカムイ(血の神)』――。
人間なのか、ヒグマなのか、妖物のたぐいか。
ラマッタクペの主観をさらに伝聞で探る彼には、その者の正体は杳として知れない。
それでも先程から彼はこの血臭と共に、身を刺すような死の気配を濃密に感じ取っている。
恐らく、彼の肩に乗るデデンネもそれは同等以上に感じているはずだ。
――それでも、ヒグマンはこの者を相手取り、戦おうとしている。
一体、どのような心づもりでいるのか――。
先程からヒグマン子爵は、北方のある一点の周辺を中心に、死角を窺うように東西へ細かく移動していた。
風下から攻め入る隙を狙う、狩猟者の構えだ。
ヒグマン子爵の姿勢からは、恐らく相当に学ぶべきところが多い。
――フェルナンデスを守り抜くためにも、その手法を、観察させてもらう。
彼は先程から、そう考えてヒグマン子爵に追随しているのである。
下から見上げる彼に向かって、樹上に形作られた影が、微かに高い声を発した。
ほとんど可聴域スレスレの、HIGUMA以外には聞き取れないような音である。
そしてそれはまた、周囲の森林によって急速に減衰され、決して遠方には届かないような音でもあった。
ヒグマン子爵は、笑っていた。
『――おい、「見られた」ぞ』
『は――?』
『気付かれたんだよ。お前がな』
森の空気が動いた。
風上側から彼の方に向けて、血の臭いが急速に迫ってくる。
『そんなっ!? 馬鹿な――!?』
彼のいたのは風下だ。しかも、その者との距離は優に数百メートルないし1キロは離れていると見て間違いない。
HIGUMAの視力は、並の羆に比べ、多少増強されてはいる。
それでも、形態的な近視の傾向は依然として強い。
鬱蒼とした森の中。下草も厚く、風向きも有利。
視力はもちろん、聴覚、嗅覚、振動覚――。そういったもので探知されることはほとんど有り得ないに違いない。
いくら姿を隠していた訳ではないとはいえ、発見された理由に、彼は皆目見当がつかなかった。
『異常な視力だな。もはや生物学的な代物じゃない。ラマッタクペの言う所の「霊力(ヌプル)」か何かだ』
『そんな――』
『ほらどうした。そこに居たら死ぬぞ』
囁くような高音を残して、葉陰の闇は霧のように枝の上をどこへともなく去っていく。
ヒグマン子爵から鞭打つように置き去りとされた彼は、デデンネを肩に乗せたまま呆然とした。
――囮にされた!?
そもそも、ヒグマン子爵は彼を守るとも彼に同行するとも発言してはいない。
『ラマッタクペたちといるよりか幾ばくかマシ』という『打算』で彼を助け、『自分の安全を確保しながらやつらにゲリラ戦闘を仕掛けて戦力を削ぐ』と言っていただけである。
それを不用心に後追いしていたのは、完全に彼自身の落ち度だ。
戦場で姿を隠しもせずノコノコと着いてくるデカブツなど、邪魔以外の何物でもない。
むしろ、去り際に危機を知らせてくれただけヒグマン子爵は有情だとも言えた。
――クソッ……! ラマッタクペの話で思い知ったばかりじゃないか、何をしてるんだ俺は!!
自身を叱咤した彼は、急速に濃くなってくる血臭に焦りながら、肩のデデンネに呼びかけた。
『に、逃げるぞフェルナンデス! 掴まってろ!!』
「デデンネェ……!!」
叫ぶや否や、彼は脇目も振らず南方に向けて走り出した。
しかし突如、その彼に不可解な現象が襲い掛かる。
血臭が、一気に彼の両側方に回り込んできたのだ。
『なっ――!?』
「ヒィ――!?」
デデンネが、彼の横で喉を詰まらせるようにして鳴いた。
彼が、地面に自分が倒れたのだと気付いたのは、それを耳にした後だった。
肩から振り落とされたデデンネが、下草にバウンドして倒れ伏す。
『な、んだ――!? なんだ、これはぁッ!?』
すぐさま彼は、自分の左後脚を見やる。
そこには、赤黒く血臭を放つ、綱のようなものが絡みついていた。
それはそのまま信じられない怪力で、ずるずるとヒグマの巨体を北側に引っ張ってゆく。
地面に爪を突き立てて曳かれまいとするも、彼を引く何者かの力は、それを遥かに凌駕していた。
倒れたまま動かないデデンネの姿が、彼の元からどんどんと遠ざかってゆく。
『なっ、フェ、フェルナンデスッ!! クソッ、離せッ、離せぇえぇ!!』
『何を人間のように未練がましく騒いでいる。お前もヒグマなら、目の前に来てやった闘争の機会に、歓喜で咽ぶくらいしたらどうなんだ――?』
もがく彼の耳にほどなく、場違いに朗らかな声が届いた。
錆びて割れた鐘のような、ひどくざらつき、至る所で歪みが反響したような音だった。
彼の周りは、既にほとんど血臭の只中にあった。
そして慄きながら振り向く彼の目には、美しく微笑む神の姿が映る。
その神は、慈悲の色に染めた貌を、柔らかく傾けていた。
『――心配せずとも、あの小動物はすぐに取り込んでやるさ』
歯牙を群れ立たせて、血の神はそう息を吹いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
蛸。
海に生息する、赤い色をした軟体動物だ。
実際に見たことはあらねど、『それ』を見た時、彼は最初にその生物の姿を思い浮かべた。
若しくは、カビ。
放っておいた喰い残しや、島の木々の間に生える、赤かったり黒かったりする何か。
『それ』の有様は、巨大な蠢くカビのようにも見受けられた。
さもなくば――、肉。
何頭ものヒグマの死肉を捏ね合わせて、内臓も骨も毛皮も一緒くたに、血液で和えた混ぜ物。
全容積にして約4メートル立方に余る大量のヒグマの肉塊――。
それが、最も『それ』の形容として正しいものであっただろう。
森の木々の間に“ぬた”を引いたその和え物が、へらでなすり付けられたかのように盛り上がっている。
その和え物が進んできた道は、一面が錆びたように枯れ果てて荒れ地となっている。
べたつく肉がたった今取りついている木も、養分を吸われているかのように萎れて枯れていく。
ぶるぶると蠢くその赤黒い肉の真ん中に、ヒグマのような、ヒトのような顔が浮かんでいた。
――これが、『血の神(ケモカムイ)』――!
彼は『それ』の姿を目の当たりにして、ぞっと身の毛をよだたせた。
自らの脚に絡みついているのは、『それ』から生じた、毛のような血管のような何かが縒りあがって形成された縄だ。
そしてその縄は、脚の肉に喰い込み、同化しながら彼の血を啜っている。
『血の神(ケモカムイ)』は、この触手のような赤黒い毛を高速で射出し、一気に体を引き寄せることで接近してきていたのだ。
『んっふっふ……。私に気付いておきながら、付け狙うように遠間をうろちょろしていたのは、何か勝算でもあったが故なんだろう?
どうした……。早いところその何かを見せてくれよ。早く(ハリー)、早く(ハリー)、早く(ハリー)!!』
抑制する親のいなくなった子供のようにはしゃいだ声で、『血の神(ケモカムイ)』は哭いた。
気ままに増殖した細胞塊のようなその姿は、次第に巨大なヒグマのような形状に収斂し、赤黒い毛並みとしてその表面を揺らしてゆく。
ヒグマード。
もはや確固たる個体を弁別しえなくなった『それ』の総体を、当座のところ、そのような外在的な呼称で規定する。
アーカードと呼ばれていた始原の吸血鬼がヒグマと同化し、そしてそれが更に多数のヒグマを吸収合併したものが、このヒグマードである。
ヒグマードは心底嬉しそうな微笑を湛えながら、思索を廻らすようにその首をぐるりと捻った。
『ああ――。だが、お前の勝算は、ともすればあの小動物だったのかも知れんな。
それはすまないことをしたなァ。はて、そうとなればどうしてやったものか――』
呟きと共に空を仰いだヒグマードの隙を、彼は逃さなかった。
彼は地面から小さな石を掴み上げ、それを思いっきり放り投げていた。
投げた先は――、気絶したデデンネである。
ぱらぱらとその身に当たる土くれと石つぶてに、デデンネは微かにその身を動かした。
「デ、デ……」
『フェルナンデスッ!! 逃げろ!! 今のうちに、早く、逃げろッ!!』
『――んん?』
彼の口から発された言葉に、ヒグマードは怪訝な表情を呈した。
ヒグマードはてっきり、彼が気絶している小動物を起こして攻撃に転ずるものだと思っていたからこそ手出しをしなかったのであり、この彼の思いもよらぬ発言は、ヒグマードを心底失望させるものだった。
『……おい。貴様は人間にでもなったつもりか? ヒグマが自ら相手の言葉を捏造し、分かったつもりになろうというのか?』
『起きろっ!! フェルナンデス!! 起きて、走れッ!!』
愕然としたヒグマードの言葉を無視し、彼はデデンネの身を思い、ひたすらに叫び続けた。
彼の体を赤黒い毛に掴んだまま、ヒグマードは身を抉るような嘲笑で体を震わせる。
『度し難い……。度し難い愚かしさだ……。保護や愛情など、誰が求めているものか……』
『うるさいぃッ――!! 求めているのは、俺だ!! 俺がフェルナンデスを好きで、何が悪い――ッ!!』
『グオッ――!?』
響き渡る震えを裂いて、彼は、その身を反転させていた。
掴まれた片脚を軸に上体を翻し、地面から掴み上げた枯れ枝を、彼はヒグマードの頭部に深々と突き立てていたのだった。
手ごたえはほとんどない。
それでも、不意の衝撃に拘束を緩ませた毛を引っ張り、彼は最大限の速さで逃げ出そうとした。
ヒグマードの首が、即座にひゅるひゅると伸びて彼を追う。
『オォオオオオオオォ――!!』
『くぅ――!』
だがその瞬間、ピン、と、空間に一本、透き通った弦が弾かれたような音が通っていた。
彼の脚を引いていた圧力が、消える。
振り向いた彼の目の前で、空中を追いすがっていたヒグマードの頭部が、パアッと赤い華を咲かせて首から落ちていた。
遅れて、その首の切断面を延長したような位置で、周囲の木立が次々と切断されて地に倒れていく。
この不可解な現象を目の当たりにして、彼はハッと樹上を振り仰いだ。
『――ヒグマン!!』
『……上出来だトゥライヌプ(見失う者)。汚名の返上はもう少し先だろうがな』
木漏れ日の雲のような影の中で、牙のような光の反射が答えた。
数十メートルは離れた木々の枝から、ヒグマン子爵が『羆殺し』の一撃を放っていたのである。
ヒグマードに発見された彼を疑似餌として、ヒグマン子爵は遠方からずっと、その『血の神』の首を断ち落す機会を窺っていたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
だが、そのヒグマン子爵と彼の前で、切断されたヒグマードの生首はなおもざわざわと蠢いていた。
その様子にヒグマン子爵は、ほう、と嘆息を漏らす。
『なるほど、殺し切れんのか。これはラマッタクペが危惧するはずだ――』
『なに――っ!?』
『撤退だな。お前も勝手に逃げろ』
地に落ちた生首は、溢れ出た血液を介して胴体に繋がり、再び一個の生命体として機能を取り戻していく。
ヒグマン子爵の声を聞いて、彼はすぐさま掴まれた自分の後足を掻き毟った。
赤黒い毛に侵食された部分は筋肉層にまで及び、腐ったようになった皮膚表面はほとんど痛みも感じなかった。
侵された肉を完全に抉り落とし、新鮮血が覗くほどになったことを確認して、彼は走り出す。
その時には、既にヒグマン子爵は樹上を駆け、ヒグマードは自己再生を完了させていた。
『クククククッ――、別働隊か……。面白い。やってくれるではないか――!!』
森林に立ち上がったヒグマードの纏う空気が、変質していた。
その悪寒に似た感覚を、逃げつつあったヒグマン子爵と彼は、鋭敏に捉えていた。
ヒグマードは両の前脚を広げ、空を仰いで朗々と何かを吟じる。
『オリバーも去れり、リチャードも去れり。我が拘束(コモンウェルス)特に死にたり。
然れば私は、荒れ樫の花に林檎を結びてこの身を宣らん――』
呪文のような文句を唱えながら、熊の形状を取っていたヒグマードの全身はどろどろと融け始めていた。
その冷ややかな詠唱を慄然と聞いた彼とヒグマン子爵は、振り向いた視界に、それを見た。
『――「一式解放」』
ヒグマードの体が、弾けていた。
鳳仙花か、ウニか、ハリセンボンか――。
その赤黒い巨体から、無数の針のように毛が伸びた。
全身から弾けるように、赤黒い毛の触手が噴出し、逃げてゆくヒグマン子爵と彼とを追っていた。
――俺に超高速で迫って来たのは、これかッ!!
彼は、意識を取り戻したデデンネを咥え上げ、彼は木々の中を滅茶苦茶に走った。
しかし、彼を追う触手の速度は、それよりも遥かに早い。
木々を枯らしながら飛電のように迫り来る赤色は、瞬く間に彼とデデンネの周囲を取り囲んでいく。
それはまた、ヒグマン子爵にも同様であった。
アーカードの有する特性の一つに、『拘束制御術式(クロムウェル)』というものがあった。
第3号から第零号までが存在し、それらはアーカードの吸血鬼としての強すぎる能力を段階的に封印しているものである。
これにより、彼の能力は大幅に制限、制御されていた。
しかし――、この術式は、彼が野生の象徴である穴持たずと融合してしまった際に、既に消滅してしまっている。
ならば彼は果たして如何様にして、自身の能力を支配下に置いているというのか――。
その答えが、これである。
彼は、自身の呈する様態の一つ一つを、『名付けた』。
『名』とは、言わばその『モノ』の存在を外在的に規定し、縛る、一種の呪いである。
名称があるからこそ、意識はその『モノ』を厳然と認識でき、そしてその『モノ』は、名称によって際限なく他者の認識間に共通の像を結ぶ。
最上級に簡単で、それでいて最上級に強力な効果を有するその呪いで、アーカードは自分の有様を細分化し、再定義した。
『ヒグマード』という化け物を定義し、その用いる必殺技として、自己の能力の一部を区切り取る。
その第一弾こそが――、『一式解放』であった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『フフフハハハ――! さぁ! 血だ!! 血だぞ!! 来たまえ、モンスターたちよ!!』
『くぅっ、フェルナンデス――っ!!』
全身が血肉の縄になったかのようなヒグマードの半身に、彼はただちに追いつかれていた。
籠のように隙間なく彼らを取り囲む赤黒い毛の勢いに、ついに彼は逃げ道を失って立ち竦む。
そこから一斉に彼らへと向けて、槍衾のように血管の針が射出された。
「デネ……、デネェェーー――ッ!!」
『なっ――』
『――!?』
瞬間、空間を割るように叫んでいたのは、デデンネであった。
彼の口元から白々と、赤黒い闇に閃光が踊る。
『10まんボルト』。
源静香を一撃のもとに殺傷した技――。
ポケットモンスター界の発足当時より、『でんきタイプの信頼高き攻撃技』という共通認識を定義された、必殺の技である。
高温を生み出すその電流と抵抗は、ヒグマードの放つ赤黒い毛を、一瞬にして焼き焦がしていた。
『フェルナンデス――』
「デデンネッ!」
彼の口元から、デデンネは身を振るって逃れた。
そしてデデンネは、もう、彼の肩に昇ってくることはなかった。
それは勢いよく駆け出して、血の綱が焦げた隙間の森へと走って行く。
「……デネッ!」
デデンネは、そしてしばらく進んだところで、呆然と立ち尽くす彼の方へ振り向いた。
その瞳に、彼はまるで、先程デデンネを石つぶてで起こしていた時の自分を、見たような気がした。
『――ああ』
息を吐いて、彼はデデンネの後を走った。
――わからない。
――フェルナンデスの真意など、俺にはわからない。
――『俺の愛情に気付いて、「おんがえし」してくれた』なんていう解釈は、俺の都合のいい幻想に違いない。
――それでもきっと。
――言葉も、名前も要らないどこかで、俺たちに共通のこころが、できたんじゃないか……。
そう、彼は思って走った。
一帯の赤黒い毛が焼け焦げた後、追撃の手は来ない。
そしてデデンネと並走する彼の目が振り返るのは、遥か樹上のヒグマン子爵である。
ヒグマードの攻め手は、完全にそちらへと集中したようだった。
『ヒグマン――!』
木々の間から窺えるその様子は、ほんのわずかだ。
しかし彼らの、文字通りに血腥い戦闘の状況は、彼とデデンネにも、手に取るように分かった。
『感謝するぞ――! 必ず、お前も生き残ってくれ――!!』
【H-3 枯れた森 日中】
【デデンネ@ポケットモンスター】
状態:健康、ヒグマに恐怖、首輪解除
装備:無し
道具:気合のタスキ、オボンの実
基本思考:デデンネ!!
0:デネ、デネ――!!
1:デデンネェ……
【デデンネと仲良くなったヒグマ@穴持たず】
状態:顔を重症(大)、奮起、左後脚の肉が大きく削がれている、失血(小)
装備:無し
道具:無し
基本思考:デデンネを保護する。
0:フェルナンデスと、共に行く。
1:フェルナンデスだけは何があっても守り抜く。
2:俺はどうすればいいんだろうなぁ……。
3:「穴持たず34だったような気がするヒグマカッコカリ」とか「自分自身を見失う者」とか……、俺だってこんな名前は嫌だよ……。
※デデンネの仲間になりました。
※デデンネと仲良くなったヒグマは人造ヒグマでした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『フフフハハハ――! さぁ! 血だ!! 血だぞ!! 来たまえ、モンスターたちよ!!』
同刻、ヒグマン子爵の方へも、ヒグマードの半身は奔っていた。
針のような、槍のような、鞭のような綱のような俊敏な機動性を有する赤黒い毛の群れに、ヒグマン子爵は樹冠を跳びながら相対する。
見る間に四方から肉薄してくる赤黒い毛へ向け、ヒグマン子爵はその瞬間、逆に自分から身を躍らせていた。
『ギィ――……ル』
その保有する二本の刀のうち、正宗を口に咥え、羆殺しを両前脚で把持したヒグマン子爵は、空中でそのまま身を捻る。
ヒョン――。
という、空気を掬い上げるような風切り音が鳴る。
瞬間、ヒグマン子爵の周囲に殺到していた赤黒い毛は、何者かに舐め取られたかのように消失した。
『ほう――!』
赤黒い毛を伸ばし続けるヒグマードの本体が、森の地上で感嘆を漏らした。
蠢動する不定形の肉塊となっている彼は、ヒグマン子爵の行なった攻撃に多大なる興味を抱く。
その後も、ヒグマン子爵はヒグマードの放つ毛の槍を、悉くその刀捌きで接触前に消去せしめていた。
ヒグマードはその巨体全体をげろげろと震わせて、錆びた割れ鐘のような声で笑う。
『良いな! 貴様が記憶に聞く「上位個体」とやらかな! うん、そうだろう。
さっきまでの奴らとは大分違う。貴様を「上位個体」の穴持たずと認識する――』
ヒグマードの周囲の空気が更に淀み、歪んでいくのを、ヒグマン子爵は捉えていた。
最後に迫った毛束を何本か断ち落し、ヒグマン子爵は舌打ちをする。
――まだこの『上』があるのか。
ほとんど不死に思える再生能力。
接触した者の生気を吸い、吸収する能力。
高い速度と精密動作性、長距離射程を兼ね備えた『赤黒い毛』。
明らかにこの時点で、ヒグマードはヒグマン子爵独りの手に余っていた。
――恐らく、逃走させてくれるようなぬるい攻撃は来るまい。
――こちらも、手札を一枚、切らざるをえんか……。
ヒグマン子爵は、あすなろの樹冠の上に立ち、その前脚でしっかと『羆殺し』の刀身を構えた。
その時、100メートル近く離れた地上において、4メートル立方に余る赤黒い肉塊が、ゆるゆるとそこから空へと口吻を伸ばして、涼やかな声で謡い始める。
『荒れ樫の君は既に亡く、国境の岸もまた姿を隠しぬ。我が制御(ヴォケィション)疾うに消ゆ。
然れば私は、赤色の塔に宇宙を掘りてこの身を宣らん――』
どぶん。
と、水上に何か重たいものを落としたかのような、粘度のある低音が、ヒグマン子爵の耳にまで届いた。
その目に映ったのは、100メートル先で立ち枯れていた木々が、一気に溶け落ちるように地面へ吸い込まれるところであった。
『――「二式解放」』
直後、その地点から、噴水のように、上空へ向けて真っ赤な柱が立ち昇った。
しかしてそれは、そのまま天上に身をくねらせた後、一匹の蛇のように、樹冠のヒグマン子爵へと襲い掛かっていた。
その太さ――、直径約3メートル。
その長さ――、全長約20メートル。
ウツボか、滝か、龍神か――。
周囲の樹木を吸って肥大した体積は、ヒグマをそのまま一飲みにして余りあるだろう。
そのような獰猛な様態を持った血と肉の塊が、その大顎を開いてヒグマン子爵の頭上に降りかかる。
『ウルォォオォオオォォオォオオ――!!』
赤い牙に満ちた口腔内に風を鳴らして、ヒグマードの滝が猛る。
ヒグマン子爵は真っ直ぐにその襲撃に向かい、平突きをするかのように『羆殺し』の切っ先を突き出していた。
『ひり出せ――。「飲みながらの糞(ゴクウコロシ)」』
微かな唸り声が、ヒグマン子爵の口から突きと共に吹き出された。
その瞬間である。
今にもヒグマン子爵を丸呑みにしようとしていたヒグマードの滝が、内側から弾けていた。
爆音と共に吹き散ったその血肉の中から噴き出したのは、真っ白な閃光である。
大口径のレーザー砲のような様相のその光線は、ヒグマン子爵の突き出す『羆殺し』から放たれていた。
――ゴクウコロシ。
参加者への見せしめのためにも招聘されたその穴持たずの能力は、あらゆるエネルギーを飲み込むというものだった。
その能力は『ブラックホール』と形容されることが多かったが、それは必ずしも真実ではない。
その能力は、エネルギーを飲みはするが、きちんとそれを消化吸収し、しかもその余剰分を肛門から放出して空を飛ぶことに利用できるなど、広範な応用性を持つものであった。
同様に、ゴクウコロシと同じキムンカムイ教徒であるヤセイの場合も、『ブラックホール』と形容される攻撃を行うことができたが、これも実際に天文学的に観測されるブラックホールとは明らかに質を異にするものなので注意されたい。
今、ヒグマン子爵が放った攻撃は、このゴクウコロシの能力を利用したものだ。
今までにゴクウコロシが『羆殺し』として吸収した数々の事象――。
人体、空気、津波、砲弾などなど、その一切が保有するエネルギーを、ヒグマン子爵は一気に光線として解放したのであった。
樹冠に立って残心を行なうヒグマン子爵の周囲に、焼け残ったヒグマードの血液がぼとぼとと散乱する。
危機的状況を脱しても、ヒグマン子爵の表情は晴れない。
苦々しく牙を噛み、その白濁した眼で辺りを見回して、即座にヒグマン子爵は移動を始める。
『……仕留めきれなかった。弾き飛ばしてしまっては全肉塊を処分するなど不可能だ……!!
再生される前に、逃げ切って潜伏に徹するのみ――』
この一撃は、ヒグマン子爵の有する切り札の一つであり、ゴクウコロシの最大攻撃でもあった。
ゴクウコロシの能力解放時の威力は、純粋に、それまでに吸収していた事象のエネルギー総量に依存する。
カズマの攻撃を喰らっていたからこそ空を飛べたのであり、津波や砲撃といった高エネルギーの事象を取り込んでいたからこそ、今回はヒグマードの襲撃を退けることができたのである。
――二度目はない。
未だ再生のために蠢き続けているヒグマードの血飛沫を後にし、ヒグマン子爵は再びその行方を晦ませた。
【H-2 枯れた森 日中】
【ヒグマン子爵(穴持たず13)】
状態:健康、それなりに満腹
装備:羆殺し、正宗@ファイナルファンタジーⅦ
道具:無し
基本思考:獲物を探しつつ、第四勢力を中心に敵を各個撃破する
0:撤退だ。
1:狙いやすい新たな獲物を探す
2:どう考えても、最も狩りに邪魔なのは、機械を操っている勢力なのだが……。
3:
黒騎れいを襲っていた最中に現れたあの男は一体……。
4:この自失奴を助けてやったのはいいが、足手まといになるようなら見捨てねばならんな。
5:『血の神』は手に余る。誰か他の奴が相手してくれ。
[備考]
※細身で白眼の凶暴なヒグマです
※宝具「羆殺し」の切っ先は全てを喰らう
※何らかの能力を有していますが、積極的に使いたくはないようです。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『――おおっと。できるだけ敵(ゲスト)を待たせぬよう、早急に戻ったのだがな……』
羆殺しから放たれた光線に大部分を蒸散せしめられたヒグマードは、その数分後にはもう、もとの赤黒いヒグマの姿にまで再生を果たしていた。
ヒグマン子爵の臭跡を追おうとするも、自分の撒き散らした血臭が強すぎて、ろくにその所在は解らなかった。
吸血鬼としての特殊な視力を用いて索敵しようとするも、つい先ほども、直近に潜むヒグマン子爵は発見できなかったのだ。
恐らく今回も無理であろう。
今まで走ってきた、赤く枯れ果てた道を戻りつつ、ヒグマードは朗らかな笑みを零す。
『やれやれ……。折角少しは楽しくなってきたところだというのに、お早いお暇だ。
まぁ、またすぐに会おうじゃあないか!』
ヒグマードはざわざわと自身の毛並みを揺らし、新たな敵を自ずから引き寄せるように、大声で笑っていた。
【H-1 枯れた森 日中】
【ヒグマード(ヒグマ6・穴持たず9・穴持たず71~80)】
状態:化け物(吸血熊)
装備:跡部様の抱擁の名残
道具:手榴弾を打ち返したという手応え
0:また私を殺しに来てくれ! 人間たちよ!
1:また戦おうじゃあないか! 化け物たちよ!
2:求めているのは、保護などではない。
3:沢山殺されて、素晴らしい日だな今日は。
4:天龍たち、
クリストファー・ロビン、ウィルソン上院議員たちを追う。
5:満たされん。
[備考]
※アーカードに融合されました。
アーカードは基本ヒグマに主導権を譲っていますが、アーカードの意思が加わっている以上、本能を超えて人を殺すためだけに殺せる化け物です。
他、どの程度までアーカードの特性が加わったのか、武器を扱えるかはお任せします。
※アーカードの
支給品は津波で流されたか、ギガランチャーで爆発四散しました。
※再生しながら、北部の森一帯にいた外来ヒグマたちを融合しつくしました。
最終更新:2015年01月25日 18:52