転がり込むように、彼は隣の寂れた食堂に入った。
津波のせいで店の片側に寄ってしまった一群のテーブルの上に、
円亜久里の体を横たえる。
「デデッ!」
『えっと……、温めれば良いんだよな、温めれば……』
赤ん坊の包まれた少女のワンピースを、彼はまずどうにか外そうとする。
大きすぎる爪先が自分でも危なっかしい。
それに、少女の服を剥いで胸をはだけさせるなど、オスである自分がやっていいことだろうか――。
『いや、いや、俺はヒグマだぞ……。ヘンな知識に踊らされるな……。
そもそもこの子だって死体だし……』
「デネ、デネ!」
『わかった、早くするから……』
ラマッタクペに身の上話を語られたせいか、どうもこの死体の少女を意識させられてしまって仕方ない。
焦ったせいで、ワンピースのホックがいくつか弾けてしまった。
申し訳なさも措いて、彼はとにかく
デデンネにジェスチュアされるまま、その胸の赤子を毛皮の中に抱きかかえた。
濡れた肌を毛皮で拭い、デデンネと共にその肌をこすって復温を期する。
赤子は、女の子だった。
ハート型のように両サイドでまとめられた髪には、可愛らしい花形の飾りが留まっている。
彼女が、愛されて育ってきたことの証拠だろう。
だが黄色いロンパースによだれかけをしたその体には、何故か背中から真っ白な羽が生えていた。
『人間……、ではないのか? まさかあの二人組のような人型のHIGUMA……?
この少女は、明かな人間だというのに……。それでもこの異種族の赤子の、母となっていたのか……?』
視線を振り向けた先で、硬直しきった円亜久里の死体は語らない。
だがその、10歳かそこらにしか見えぬ少女がこの赤子の母親だったのだろうことは、状況から見て間違いない。
『アグリ母さん……、か……』
思い浮かんだそのフレーズを、彼はふと、口に出してみたくなった。
その語感が、なんとも舌先に、心地よく感じるのだ。
デデンネはその中、彼の胸の毛皮を静電気で起毛させ、帯熱させることで赤子の乾燥と復温を促し続けていた。
彼女の表情には、険しさがある。
だがその険しさや必死さは、初めて彼や隻眼、ヒグマードに向かった時などとは異なっているように見える。
見たことのない表情のはずだ。
デデンネのそんな顔を、彼は見たことがない。
だがそれにも関わらず、彼は不思議とどこかで、そんな表情を見た記憶がある。
あれはどこだったか。
実験が始まる前。
そう、その表情は、あの時窓の向こう側で見た表情だ。
愛されて育っていく赤子。
それを守ろうと立ちはだかった肉親の形相。
彼が喰らい、血肉とした者たちの顔だ。
怨みではない。
怒りでもない。
それなのに険しい。
ただ愛しさのために浮かべられる、戦いの表情だ。
『……姉……か。そうかフェルナンデス。お前は、お姉ちゃんになっているんだな……』
彼は赤子とデデンネの様子を見やりながら、ぽつりとそう呟く。
体格にしてみれば、デデンネとこの赤子とは大差もない。
だがデデンネの表情ははっきりと、彼女が年長者としてこの赤子を守ろうとしていることを示していた。
この赤子を助けようとしているデデンネの心理は、幾通りにも推測できる。
守られるだけだという自身の立場を払拭したいがためのものなのかも知れない。
彼がもし襲い掛かって来た時に、先に食わせる人身御供を確保しておくためのものなのかも知れない。
幾通りにも推測できる。
それでも彼は、確信する。
『……お前は、「家族」を、増やそうとしてくれてるのか……!?
俺のために、お前のために、そして、この子自身のために……』
彼は今度こそ拾った。
デデンネの心情を拾った。そう信じられた。
今までさんざん、彼はデデンネの言葉と心を捏造してきた。
しかし、彼の中の父が、母が、赤子が言っている。
彼が血肉とした家族が、彼の内側でデデンネと響き合っているのを感じる。
「私は家族を守るんだ」と、彼女たちが叫んでいた。
「ふえ……、え……、えぇぇ、えぇぇぇ……ん」
『おお、鳴いた……。赤ん坊が鳴いた、な』
赤子の血色が、戻ってきていた。
声を上げ始めたその子を見て、彼は口をぽっかりと開けて感心していた。
そんな馬鹿面で他人事のように呟いている彼の頬を、デデンネが腕に唸りをつけて引っ叩く。
「ネデェ!! デンデンネデネンネデ!? ネンデデデネンネッデデンネ!!」
『あ……、えっと、えっと、あ、お、俺は何をすればいいんだ?』
「デデネン、ッネネッデデネデ!? ネデネ、ネデネ!!」
デデンネは何かを求めていた。
それはわかる。
だが一体、それが何を求めての訴えなのか、彼にはわからない。
『えっと……、なんだ、この子のためのものなんだよな!?』
「ネデネ! ネデデネッデデ!?」
想像するしかない。
デデンネの表層の言葉ではなく、この場で、一体何が次に必要とされているのかを理解し、拾い上げなければいけない。
『何だ……、赤ん坊の欲しがるもの……』
泣く赤子。
亡くなった母親。
津波の襲来時から放置されていた時間。
――空腹。
『……ミルク?』
「ネデッ! ネデネ、ネデネ!」
『合ってるか!? 合ってるのか!? ミ、ミルク……』
彼のひらめきは、デデンネの強い頷きに何度も肯定された。
だが彼は再びそこで逡巡する。
『ミ、ミルクっつったって、俺はオスだし……、ああ、ど、どうすれば……』
食堂の中を見回しても、そんなものは見つからない。
湿った床。
散乱した椅子やテーブル。
その中に横たわる、死体。
彼の視線が留まったのは、先程彼自身が横たえた、円亜久里の遺体であった。
頭部は完全に破壊されているが、死後硬直しているものの胴体の損傷は少ない。
彼が先程はだけさせた胸元に、発育途中だった幼い乳房が覗いている。
幼いとはいえ、彼女はこの赤子の母親役だった少女だ。
その小さな乳首を見つめ、彼はごくりと生唾を飲み込んだ。
『い、一か八か、やってみるしか……、頼むぞ……』
それしか方法が思いつかなかった彼は、片腕に赤子を抱いたまま、恐る恐るそこへ手を伸ばした。
つんとした乳頭に、爪が触れた。
彼は躊躇した。
恐ろしいまでの背徳感が、彼の脳裏に渦巻く。
だが意を決して、彼はその10歳の少女の乳首を、揉んだ。
ミルクは、出なかった。
ヒグマの握力で潰れた乳首からは、どろりとした血がわずかに漏れただけだった。
『だよなぁぁぁぁ!! 当たり前だよなぁぁぁぁ!!
俺が変態のバカみたいじゃないか、くっそぉぉぉぉ!!』
「デネ!? デネ、デネ、ネデンネッデッデ、デネ!!」
地に転げたくなるほどの後悔と恥ずかしさに、彼は身もだえした。
やる前からわかっていたことではある。
それでも彼は、死体の幼女からミルクを出すという頭の悪い選択肢にすがりついてしまった。
――これでは、これでは、フェルナンデスの言葉を捏造するのと変わらんじゃないか!!
血のついてしまった爪を舐め、呆れたデデンネから何度も蹴りつけられながら、彼は嗚咽を漏らす。
無力だ。
家族の言葉も、その望みも拾うことができず、誰でもない名無しのまま、暴走することしかできない自分の無力さが、嫌だった。
牙を噛み締めると、涙さえ滲んでくる。
どうすればいいのか。
その答えが、見えない。
彼は絞られるような胸の痛みに、眼を閉じ、蹲ろうとした。
**********
“若い父親ってのは、誰でも同じだねぇ”
その時だった。
彼の耳に、突然、朗らかな笑い声が響いていた。
視界の端に、浅黒い中年女性の腕が、映り込んだ。
“ほら、ミルクなら上の棚だ。お湯は左奥の給湯器を捻りな”
『なっ――』
それは、間違いなく人間の腕――。
この食堂で彼が来る以前から死亡していた、黒人調理師のおばさんが、指をさしている。
その腕は、確かにその女性のものに違いない。
その声も、その女性の頭部の形状から推測される声に等しい。
彼は瞬きをして振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
絶命した黒人女性の遺体は、変わらず奥の床に倒れ伏しているだけだった。
『い、今のは、一体――』
わからない。
自分がたった今、何を見聞きしたのか、その正体を理解できずに、彼は立ち尽くした。
だが彼の鼻はその時、この食堂に微かに乳の匂いが漂っていることに気付く。
『こ、こっちか……?』
そして彼は、食堂の奥、厨房の中へと歩んでゆく。
厨房の食材を仕舞っていたらしい棚、その上段の端。
そこから確かに、ミルクの匂いがしている。
扉を引き開けると、そこには業務用の粉乳の袋が入っていた。
あの声の、言う通りだった。
彼は袋を取り出しながら、微かに寒気のようなものを覚えて呟く。
『何だったんだ……。まさか俺は、霊を……、ラマッタクペのように、あの女の魂を見たとでもいうのか?』
「デネッ、デネッ!!」
『あ……、ああ、わかった……。お湯で……、溶かせばいいんだよな?』
彼が不気味な感覚に震える中、デデンネは彼から走り降り、厨房左奥の水道から彼を呼んでいた。
その隣には、ガス式の給湯器が設置されている。
全てあの声の言った通りだ。
デデンネに促されるまま、呆然と給湯器のダイヤルを回し、彼は考える。
『……違う。俺に魂などという、あるかどうかも分からぬものが見えるはずはない。
この袋だ。閉じられてはいるが、このポリエチレンを通ったわずかなミルクの匂いが、その存在を俺に伝えてきたんだ』
引き千切るようにして開けた粉乳の袋からは、濃厚なミルクの匂いが溢れてくる。
その間デデンネは、近くから適当なボウルを見つけてきた。
ぼんやりとしながら、だばだばと粉ミルクをボウルの中に投下し、彼はまた考える。
食堂内を今一度見回して、彼はその思考を、確信した。
『……そして、この給湯器も、この食堂の構造から、俺が配置を推測したんだ。
水場の寄せられている区画と、この建物の機能から、確実にあるはずだと……』
ボタンを押し込むと、給湯器からは熱湯が溢れ、容器内のミルクを溶かしてゆく。
熱いミルクが、ボウルの中に並々と注がれた状態で、出来上がっていた。
調乳もへったくれもあったものではないが、確かにミルクであることは間違いない。
「デデンネ~! デネッ、デネッ!」
『ああ、そうだな……! よし、できたぞ、お前、飲むといい……!』
喜ぶデデンネと共に、彼はホッと胸を撫で下ろす。
そして彼はそのまま、抱えていた赤子にミルクを飲ませようとした――。
否。
高温のミルクが溜まったボウルの中に、赤子を投げ落とそうとしていた。という形容の方が、正しい。
“ちょっとお待ちくださいませ!!”
『な――!?』
その瞬間、赤子を投下しようとしていた彼の前脚が、後ろから何者かに掴まれていた。
振り向いた彼の目には、ある少女の苦笑した顔が映っていた。
“いけませんわ。まずもってミルクは、人肌に冷ましてあげませんと。
それにこんなことをしたら、間違いなく溺れてしまいます!”
『おま、えは……』
つぶらな瞳で微笑んだ、亜麻色の髪の少女。
赤いワンピースを着たその少女は、驚きに硬直する彼を措いて、湯気を吐くミルクのボウルへと歩み寄っていく。
“ご覧くださいな。哺乳瓶も無いんでしたら、こうやって……”
少女は熱いミルクをわずかに啜り、口内の温度まで冷ます。
そのまま彼女は、彼の胸に抱かれる赤子へと、口付けをするようにしてミルクを与えていた。
“ほら、口移しであげれば宜しいのです。できますでしょう?
――あなたの、欲していたことでも、ありますわ”
にっこりと、そう言って少女は笑った。
円亜久里という少女の、笑顔。
彼の知るはずのない表情と声で、頭を砕かれて死んだ少女は彼に、微笑みかけていた。
「デネ! デネデンネ!!」
『――はっ』
デデンネの声に、瞬きをして彼は辺りを見回す。
その時既に、あの赤いワンピースの少女の姿はそこから消えていた。
眼をやれば彼女の死体は、やはり顔面を砕かれたまま、カウンターの向こうのテーブルに横たわっている。
デデンネが、彼の毛皮を引いた。
見れば、彼女は小さな舌を外に突き出して涙目になっている。
やはりミルクが熱すぎたのか、口に含もうとして火傷しかけたようだ。
『俺……、か。やはり俺が、口移しでやれということか、フェルナンデス……!』
「デネェ……、デネデネ!!」
お前以外に誰がいる、というような表情で、デデンネは彼を睨みつけた。
ためらいに、彼は眼を逸らす。
『い、いや……、だってな。俺たちの口なんか雑菌だらけだし、口移しとかこの子にも悪いんじゃ……』
「デンネネデッデンデデンネ!?」
確かに、口内細菌を与えてしまうことになる口移しは、赤ん坊にとって勧められることではない。
だが、デデンネに呆れられるまでもなく、彼は解っている。
彼が口移しをためらう真の理由は、そんな雑菌ごときではない。
「デデンネ! デデンデデデデンネデデンネ!!」
デデンネにさえ、その理由は薄々察せていた。
だからこそ彼女は、彼の前脚の毛皮を引き続け、強く彼を見上げた。
『わかっ、た……。わかったよ、フェルナンデス……』
自分の愛する者からの言葉に、彼は折れるしかなかった。
酷い脱力感に襲われながら彼は、ミルクの中に口をつける。
温かい。
その味は、心の奥を抉るような暖かさを持っていた。
昇華された血液の味。
あの日、薄い境界の窓の向こうに満ち溢れていた味。
円やかで、柔らかく、それでいて舌に響く鋭さと強さを内包する味だ。
口の周りに白くミルクの跡をつけながら、彼はそのマズルを、恐る恐る赤子の方へと差し出す。
抱え込んだ赤子が壊れないように、そっと、彼は口づけをした。
唇が触れるのを感じる。
その柔らかさと、体温を感じる。
口に含んだミルクが、少しずつ、少しずつ吸われ、舐め取られ、赤子の咽喉に飲み下されてゆく。
何故かその行為は、彼の胸に、痺れるような切なさをもたらすものだった。
「うぅー……、あーぃ……」
『ああ……。もっと、もっとか……』
赤ん坊が、声を上げた。
眼を閉じながらも、頬の赤みを取り戻しつつ、その子は身じろぎ始める。
知らず、彼の眼からは、涙が零れていた。
彼はまたミルクを含み、赤子に与える。
その度に、涙が深まった。
デデンネと交互に、ミルクを口移しし、その背をさする。
げっぷが出て、赤子の泣き声に張りが戻る。
「あぅー……、あーい、あぁい――!」
赤ん坊が、笑顔を浮かべていた。
『ああ……』
感嘆と共に力が抜けて、彼は床にへたり込む。
『笑った……。笑ったぞ……。こんな俺に向かって、笑いかけて、くれた……』
デデンネに背を撫でられながら、彼は暫くその場に、嗚咽を漏らしていた。
**********
『……フェルナンデス』
「デネ?」
『……お前は何故、わかったのだ?』
「……デデンネ」
そんなもの当然に決まってるじゃないか。とでも言いたげに、デデンネは眉を寄せて首をかしげた。
食堂のテーブルの元へと歩み戻りながらの問いは、『彼が欲しているもの』についての問いである。
名も知れぬ赤ん坊は、ふたりから口移しされたミルクを飲み干し、ようやく安堵した表情で、寝息を立てていた。
顔の砕けた母の遺体の前で、彼はその子の幸せそうな寝顔に眼を落す。
『……そう言えば、俺はお前の、名も知らなかったな』
呟いた彼の唸りに、応じる声があった。
“この子の名前は、アイちゃんですわ”
眼を上げれば、死体の円亜久里が身を起こして、あの時のように彼へ微笑みかけていた。
その破壊された顔面は復元され、前髪を上げた利発そうな少女の表情が確かに彼の目の前に見えている。
だがもう彼は、その現象について、驚くことはなかった。
『……あいあい泣くからアイちゃんか。随分安直なネーミングだな』
“そう言うあなたは、デデンネさんにフェルナンデスなんて名前を付けるとは、一体どこから思いついたのですか?”
『そう言ってくれるな。俺にだってわからん』
彼は少女の声に、自嘲と共に首を振った。
デデンネが怪訝な表情を浮かべて、円亜久里と彼を見比べている。
彼女には、起き上がっている円亜久里の姿が、見えない。
円亜久里の死体は、依然としてピクリとも動かずテーブルの上に安置されているだけだ。
だがなんとなくデデンネにも、彼が何と話しているのかだけは、察せていた。
『……お前の血は、茶の味がした。作法と礼節に厳しいが、同時に深い慈悲も湛えた味……。
酷く手がかりが少ないが、わかる。わかるのだ。
お前の顔面の骨格がどんな整った表情を作ったのか。その構造から発せられる声がどれだけ清んでいたのか』
“ありがとうございます。お褒めの言葉は、素直に嬉しいですわ”
『……ああそうだ。お前の血の味が、この状況でお前がどのように応答するのかを、語っている……』
彼は、テーブルに腰かける円亜久里の言葉に、答えるともなく呟く。
彼は理解した。
その姿は、彼が見聞きし感じた情報から、脳内に再構築したイメージだ。
砕け残った下顎骨から、後ろ髪から、骨や肉の細片から、その少女の生前の姿が明確なビジョンとなって想像される。
舐め取った血液から、彼女の好み、性格、日頃の行動規則といった、凝縮された情報が読み取れる。
煙草を吸う者の血と汗は、煙草の臭いがする。
酒を好む者の血と汗は、酒の臭いがする。
コーヒーを飲む者の血と汗は、コーヒーの臭いがする。
明らかに生物の肉体は、その者の積み重ねてきた歴史によって構成されている。
その肉体を喫することは、その人物の膨大な歴史情報を手に入れることに他ならなかった。
彼は固唾を飲み、円亜久里の横鬢に爪を伸ばす。
そして彼女の髪を掻き上げるようにして、そこから一本の毛を取り出してくる。
それは、亜麻色の彼女の髪とは異質な、一本の黒い、動物の毛だった。
『……お前を殺したのは、猿だ。ニホンザルだが、それにしては異様なほど大柄だ。
しかも銃を扱うなど、並大抵の者ではあるまい……』
“そうでしたわ。明らかに邪悪な者だと思い、戦おうとしましたが、返り討ちでした。
ですが、別にそのことについては、私の力不足ですから今更しかたないと思っております”
彼女の被害状況、そしてその毛の臭いで、彼はこの少女を手にかけた犯人の様相をかなり正確に思い描く。
それは、推測や憶測を超越した、五感の膨大な情報から演算された確実な推論だった。
ミルクの所在も、給湯器の位置も、彼はそうして突き止めた。
『アイちゃん』というこの赤子の名前も、高い確証度を持ってそう推せる。
この円亜久里という少女や、彼女を取り巻いていただろう友人たちの匂いは、この赤子に対して、そのような名付けをするだろうことが、彼には読み取れていた。
以前から、確かに彼は食べたものからその対象の来歴を慮ることができた。
だが、これほどまでにはっきりとそれを意識できてしまったことは、過去にない。
一体何がきっかけなのか。
『お前の姿は、俺が勝手に自分の中で作り上げてしまったものだ。
……勝手に見ておいて申し訳ないが、消えてくれないか』
彼は円亜久里の幻影に向けて、目を伏せながらそう吐き捨てた。
自覚してしまえば、この幻影は彼自身の心が見せている映像に過ぎないのだ。
こんなものと自問自答しているのはおかしいし、余りにも恥ずかしい。
茶番だ。
逃避だ。
こうして幻影に向けてクソ真面目に嘆願していることすら、本来なら馬鹿馬鹿しいことだ。
“どうしてですか? あなたのこの能力こそが、あなたとデデンネさんをここまで生き延びさせたんでしょう?”
円亜久里の姿は、腕組みをしてそう言った。
彼自身の一部であるはずの、その再構築された心は、彼ではない少女の声で、毅然として彼に語る。
“隻眼のヒグマとの戦いも、
パッチールとの戦いも、
駆紋戒斗の救出時も『血の神』との戦いも、あなたが咄嗟の判断と大胆さによって窮地を脱せたのは、こうして様々なことを無意識のうちに拾い上げていたからでしょう。
思い出しなさい。私は、あなたの無意識の気づきによってこの場に顕れ得たモノです。
その能力は誇りに思いこそすれ、決して、恥じるべきものではありません!”
10歳の少女とはとても思えぬ口調で、円亜久里は威風堂々と弁舌を揮った。
その声に促されるまま、彼は思い返す。
そもそもの発端は、デデンネとの出会いだった。
あの場で、
源静香の体を先に食べていなければ。
『ともだちづくり』というあやふやな繋がりを、それでも強い絆にしようとし続けていなければ。
ミズクマと出会った際、その場の状況を的確に拾っていなければ。
今の彼はない。
あの家族との出会い。
デデンネとの出会い。
隻眼との出会い。
パッチールとの出会い。
劉鳳との出会い。
ミズクマとの出会い。
駆紋戒斗との出会い。
扶桑と
戦刃むくろとの出会い。
浅倉威との出会い。
ヒグマン子爵との出会い。
ラマッタクペとの出会い。
それらは全て、彼にかけがえのない経験と成長をもたらした。
それらは全て、偶然に偶然が重なったものに過ぎないようにも思える。
だがその巡り合わせの妙が、もしも彼自身によって引き起こされたものだとしたら。
恐らくその能力は、こう呼称されるべきだろう。
『――「出会い」を、拾う力?』
“あなたは、以前からその能力を持っていました。ですがその原石は磨かれぬ荒玉のままでした。
それがこの実験のさなか、切磋琢磨され、ここまで明確な像を結ぶようになったのでしょう”
彼の無意識に内在する声が、円亜久里の姿を取って、そう語っていた。
食べたものからその対象の来歴を慮ること。
その精密な感受能力は、味覚以外のあらゆる感覚器にも波及し、彼に知らず知らずのうちに適切な行動を取らせていた。
混乱のさなかにも、デデンネを蹴り飛ばさずに済んだこと。
浅倉威に反応も許さず、駆紋戒斗を回収しとげたこと。
『血の神』ヒグマードに、一瞬でも不意を突いて攻撃を加えられたこと。
アイちゃんという赤子を、煮えたぎるミルクに投下せずに済んだこと。
それらは他者の一挙手一投足から状況を読み取り、味わい、出会いを引き寄せる、無意識のコントロールがあったせいに違いない。
磨かれていなかったその感覚は、生来の彼の衝動性の下に埋もれ、明らかには見えなかった。
元々彼の性格は、デデンネの言葉を理解できなかった時に、それを自分勝手に解釈するような利己性で動くものに過ぎない。
だがこの感受能力と利己性が同時に働くことで、爆発するような大胆さと勇敢さを彼は発揮し続けて来たのだろう。
『――俺は、俺は勝手に、自分勝手な願望で、お前の姿を見ているわけではないのか!?
お前は、現れるべくして現れ、俺に語り掛けてくれているのだというのか!?』
“そのどちらでもあります。いずれにしても確かなことは、あなたと出会わなければ。
そしてあなたが気づかなければ、私が再び誰かに語り掛けることは、出来なかったということです”
円亜久里の姿は、はっきりとした口調で言った。
目の前の死体が、こう語るのだ。
彼の声に対する彼女の応答が、彼の頭の中で明確に演算されて返ってくる。
“本当に感謝の限りですわ。アイちゃんも、お世話して下さいましたしね”
『やめてくれ……、好き好んでやったわけじゃない! こいつはお前に返す!』
彼は幻聴を振り払うように首を振る。
円亜久里の姿に向け、彼は眠るアイちゃんを押し付けた。
実際は彼が、赤子を死体の腕の中に押し込んだだけだ。
アイちゃんはその気持ちの悪い冷えた感触に、ぐずり始めてしまった。
潤んだ目を見開き、辺りを見回したアイちゃんは、その目の前に彼を見つけ、微笑んだ。
「ぱ……、ぱぁ……」
『なぁ……!?』
両手を伸ばし、アイちゃんは彼を求めた。
その笑顔に彼は、心臓を掴まれたような熱い感情を覚えた。
円亜久里が、苦笑と共にアイちゃんを差し出してくる。
アイちゃんは今一度、彼にこう呼びかけた。
「……ぱぱぁ!」
呆然とする彼の首筋を、ぺしんとデデンネがはたく。
『彼が欲しているもの』は、もはや誰の目にも明らかだった。
それこそ死体にも、彼自身にも、それは理解できる。
一方的な、盲目的な信頼ではない。お互いが自分の意志を保ちながら、絶妙な距離と繋がりで助け合う。
そんな一叢の、愛の関係性。
“……既に死んでしまっている私より、アイちゃんもあなたの方が良いみたいです。お父さん”
『俺、で。こんな俺で、良いのか……』
彼は震えながら、赤子を受け取った。
円亜久里から引き取ると、アイちゃんは彼の前脚の中で、再び満面の笑みを浮かべた。
デデンネはその赤子の髪を、ゆっくりと撫でてやっている。
「ぱっぱぁ~」
「……デデンネ」
彼はその光景を、身じろぎもできずに見つめた。
倒れた劉鳳に施しを与えたのは。
デデンネに仲間を与えようと奔走したのは。
こうして赤子に、慈しみを与えていたのは。
全てがその一つの理由に、帰着する。
『……すまない。身勝手だということはわかっている。
同胞からしてみれば気持ち悪いことだろうというのもわかっている……』
彼は目を伏せ、震えながらその言葉を紡いだ。
『だが、頼む、お願いだ――』
彼はついに認めた。
腹を括って、自分の願望を正直に吐露した。
『どうかみんな、俺の、「家族」になってくれ――』
その願いは、デデンネにすら酌まれるほど、彼の心意気から滲み出ていたものだった。
それでも外在する羞恥と叱咤とが、彼をその願いから遠ざけていた。
パッチールの声。
ヒグマードの声。
だがもう彼は、そんな幻惑に縛られない。
本当の声はたった今目の前に、彼自身の内に、見つけられたからだ。
「きゅぴ~!」
「デデンネ!」
“ふふ、わかりましたわ。不束者ですが、よろしくお願いいたします”
すれ違いも、辛いことも、沢山あるだろう。
それでも彼は憧れるのだ。
あの日、薄い境界線の向こうにあった憧れ。
『家族』という愛への憧れが、彼の中には綻んでいた。
仮初でもいい。
まやかしかも知れない。
それでもその憧れは、彼の心の奥を暖かくする。
飢えた妹。
言葉の通じぬ姉。
頭を砕かれた母。
それでもいい。
そんな欺瞞の家族でも、彼の心には沁みるのだ。
『……貴様に子供がいたとして、デデンネと子供が同時に危機に立たされたとしよう。
どちらも海で溺れかけていて、舟に乗っている貴様は、浮き輪をひとつだけ持っている。
片方に浮き輪を与えれば、もう片方は溺れ死んでしまう。そんな時、貴様はどうする?』
『……勿論俺はデデンネを助けに行くぞ』
『ほう、ならば子供を裏切るというのか?
天涯孤独だった貴様に出来た、血の繋がった家族を捨てるというのか?』
あのパッチールの問いにも、今ならはっきりと答えられる。
フェルナンデス。
彼女こそ、彼の子供だった。
彼は彼女を、デデンネを、家族にしたかったのだ。
デデンネを助け、子供を助けること。そこに一切の矛盾はない。
――俺は子供たちを、家族全員を守る。
胸の奥の声に応えて、彼は心に誓う。
天使をまた飢餓にさらすものへ、ヒグマの父は勇敢に、大胆に立ち向かうだろう。
円やかで、柔らかく、それでいて鋭さと強さを内包する、『愛はいかが?』と――。
その勇敢さを支える『名前』も、彼はもう少しで、拾えそうな気がした。
【G-4とG-5の境 寂れた食堂/午後】
【デデンネ@ポケットモンスター】
状態:健康、ヒグマに恐怖を抱くくらいならいっそ家族という隠れ蓑で身を守る、首輪解除
装備:無し
道具:気合のタスキ、オボンのみ
基本思考:デデンネ!!
0:デデンネデデネデデンネ……!
1:デデンネェ……
※なかまづくり、10まんボルト、ほっぺすりすり、などを覚えているようです。
※特性は“ものひろい”のようです。
※性格は“おくびょう”のようです。
※性別は♀のようです。
【デデンネと仲良くなったヒグマ@穴持たず】
状態:顔を重症(大)、奮起、左後脚の肉が大きく削がれている、失血(小)
装備:円亜久里の遺体、アイちゃん@ドキドキ!プリキュア
道具:クルミと籠
基本思考:俺はデデンネたちを、家族全員を守る。
0:家族と、共に行く。
1:フェルナンデスと家族だけは何があっても守り抜く。
2:こんなにも俺は、素晴らしい出会いを拾えた……。
3:「穴持たず34だったような気がするヒグマカッコカリ」とか「自分自身を見失う者」とか……、俺だってこんな名前は嫌だよ……。
※デデンネの仲間になりました。
※デデンネと仲良くなったヒグマは人造ヒグマでした。
※無意識下に取得した感覚情報から、構造物・探索物・過去の状況・敵の隙などを詳細に推論してイメージし、好機を拾うことができます。
※特に味覚で認識したものに対しては効力が高く、死者の感情すら読める可能性がありますが、聴覚情報では鈍く、面と向かっているのに相手の意図すら大きく読み間違える可能性があります。
**********
- フェルナンド=Fernando(ポルトガル語、スペイン語)
- フェルディナンド=Ferdinando(イタリア語)、Ferdinand(英語、フランス語、ドイツ語)
東ゲルマン語(ゴート語)における、『大胆なる保護者』『勇敢なる旅人』を意味する名。
最終更新:2015年11月18日 12:52