わたしを殺さないで
私の呼吸は。
ほとんど消えかけてる。
あなたが触れれば。
それだけできっと、とまってしまうほど。
危うい、微かな、鼓動。
私は、私じゃない。
恋したあの時から。
私は、私じゃない。
見知らぬ弱い獣だ。
――これは誰?
世界中の誰よりも、いとおしいその横顔。
やさしい言葉とほほえみの牢獄に。
私を閉じこめて。
あなたはふり返らない。
どんなに呼んでも。
どんなに思っても。
世界が消えても。
私が死んでも。きっと。
だから私は、あなたを――。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
ヒグマ提督は震えていた。
部屋の片隅で身を守るように脚を縮こめ、がたがたと全身を震わせていた。
ここはあの百貨店から南に位置する街の、名も知れぬ住宅の一つだ。
自分ですら方向がわからぬほど滅茶苦茶に逃げ、誰にも見つからないよう、入り組んだ路地の家を選んで、窓を割って入った。
息を潜め、身を隠し、彼はただ、ある一人の少女から逃げようとしていた。
彼がその家に入ってから、何分たっただろうか。
まだ数分かもしれないし、数時間かもしれぬようにもヒグマ提督には思えた。
太陽の高度を見ればわかるのかも知れないが、窓の外に顔を伸ばすなんて恐ろしいことは、彼にはできない。
なんにせよ、まだ陽が差し込んできているということは、結局のところそれほど時間は経っていないことになる。
一秒一秒の経過が、恐ろしく長く彼には感じられた。
「――はひっ!?」
突然、家の外から物音がして、ヒグマ提督は引き攣った声を上げる。
心臓が飛び出そうな口を押さえ、彼は必死に乱れる息を静めた。
身を伏せ、耳を欹てても、もう通りから音はしない。
小石か何かが転がる音だった。
きっと風で動いたのだろう。
そう結論付けて、彼は壁に身をもたせ掛け、胸を撫で下ろした。
「……そ、そうだよ、大丈夫だ。ここまで逃げてきたんだ。
こんなところまで、大和が追って来れるわけないし……」
「……て、いとく――」
安堵に呟きかけた刹那、遠くから風に乗って、そんな言葉が彼の耳にかすかに届く。
「ひゅはぁ!?」と裏返った叫びを上げそうになった口を両掌で押さえ、動悸を打つ血流に彼は悶えた。
「提督……、どこに、いるのですか……、ていとく――」
聞き間違いではない。
ゲームの中で、百貨店の屋上で、幾度となく聞き慣れた、大和の声だった。
その声は、何か重い水音を曳いて、少しずつ少しずつヒグマ提督の隠れる家の方へ近づいてくる。
――に、逃げなきゃ、逃げなきゃ……!!
ヒグマ提督は這うようにして、部屋の畳の上をにじり、襖の方へ近づいた。
この部屋から更に逃げ場所を見つけなければ、と彼は必死でそこに手をかける。
もう思考が滅裂となって上手く働かない。
そこがどん詰まりの押し入れだということにも、彼は思い至らない。
ずる。ずる。
ぺた。ぺた。
ずる。ずる。
ぺた。ぺた――。
その間にも刻一刻と、重い水音は路地を近づいてくる。
もうその音は、家のすぐ傍だ。
――駄目だ、こんな時に、物音を立てたら、聞かれる!!
襖を引き開けようとしていたヒグマ提督は、恐怖に震える爪を、咄嗟に押し留めた。
もはやこうなったら、彼女が気づかずに通り過ぎることを祈るしかない。
そうして彼は、再び身を縮こめ、顔を毛皮に埋めて震えることしかできなくなっていた。
ずる。ずる。
ぺた。ぺた。
「――提督……」
ずる。ずる。
ぺた。ぺた――。
「提と、く……」
家の目前にまで迫る大和のボイスは、彼に底知れぬ恐怖を突き付けてくる。
それはついほんの数時間前まで、耳に心地よく、彼に安らぎをもたらしていたはずだったのに。
こんなに容易く、自分を自分たらしめていた世界が壊れてしまうなど、彼には信じられなかった。
観念は崩れ、信頼はほどけ、誰にも愛されぬまま、彼は独り、死ぬのかも知れない。
それを思うと、涙が溢れて来そうだった。
だが涙を落とすと、その音すら聞かれてしまうかも知れない。
顔を歪め、力を込め、彼は必死に耐えた。
「提督――」
家の前から、そのボイスが聞こえた。
幸いだったのは、彼が破った窓は、路地に面している場所ではなかったということだ。
裏に回らなければ、この部屋の窓が割れていることには気づかない。
玄関にはもちろん鍵がかかっており、入れない。
――今だけ、今だけ物音を立てなければ、やり過ごせる……!!
彼は呼吸さえほとんど消えかけるほどに抑え、心臓を握り潰して止めるかのように懸命に鼓動を抑えた。
静寂が続いた。
それっきり、物音はしなかった。ボイスも聞こえなかった。
いわんや、深海棲艦の巨体が家の裏に回り込んでくることなどはなかった。
彼は、止めていた息を吹き返した。
ハァハァと息を上げて周りを見回し、彼は安堵した。
「……よ、良かった、やり過ごせた――」
「――やっぱり、ここに居たんですね、提督……」
そう呟いた瞬間、凄まじい勢いで玄関のドアが内側に吹き飛ばされた。
鉄のドアは和室の障子を突き破り、畳表を抉り、ヒグマ提督の目の前まで転がってきた。
「ひぃ――!?」
「大和は……」
ずる。ずる。
ぺた。ぺた――。
尻餅をついたヒグマ提督は、瞠目した眼を、上がり込んでくる巨体へ向けることしかできなかった。
「ようやく、提督を……」
ずる。ずる。
ぺた。ぺた――。
水音は、その巨体の半身から零れ落ちていた。
「見つけられ、ました……」
満面の笑みが、そこにあった。
真っ赤な血にまみれた、青白い笑顔だった。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
叫ぶこともできなかった。
呼吸が凍り付いて、血液は逆流したようだった。
目前に聳えた深海棲艦の威容に、彼は完全に飲み込まれていた。
天井に擦れそうな体高。
家財を破壊しながら、それを意に介さず進みくる巨体。
その全身は、傷だらけだった。
肩口から生えていた顎付きの両腕は根元から千切れ、その副砲ごと消滅している。
正面下部の巨大なヒグマの口も潰され、そこから赤黒い内臓が覗いている。
体の後部と下面は、すりおろされたような肉のひれが垂れているのみで、原型もとどめていない。
側面にも、大砲や銃弾をいくつも撃ち込まれたような深い弾痕が刻まれている。
艦首像のように据えられた少女の肉体にも、その傷と血は生々しい。
だが、そんな損傷を受けても彼女は。
戦艦ヒ級は、あの百貨店屋上の戦いを生き抜き、ここまで進軍していたのだった。
その意味するところは恐らく、天龍が、島風が、
天津風が――。
あの場にいた艦娘全てが、彼女に蹂躙されたということに違いない。
意味されるのは、それだけの圧倒的な力の存在だ。
その怪力の矛先がついに、ヒグマ提督に向けられていた。
親と言うべき彼にうち捨てられ、見はなされたまま放置されたその境遇。
四肢の欠損と、それに無理矢理あてがわれたような異形のヒグマの肉体。
日本神話のヒルコのような、子供。
その子供がもし流された先で生きていたとしたら、自分を捨てた親に怨みを抱かないことがあろうか――?
海に揺蕩い、彷徨った寂しさを、晴らしたくならないことがあろうか――?
「ちゃんと、直ったんですね、提督……。良かった。本当に――」
身動きも取れぬ恐懼のままに、ヒグマ提督は戦艦ヒ級の接近を許してしまっていた。
声を上げたら死ぬ。
逃げようとすれば死ぬ。
このまま動けなくても死ぬ――!
彼女の白い微笑を前に、彼はただ、呼吸も心拍も忘れて硬直するだけだった。
戦艦ヒ級は崩れ落ちるかのように、自身の巨大なヒグマの前脚の膝を、片脚ずつ折った。
床が撓んだ。
「提督、いつも、ありがとう、ございます……」
『伏せ』のような姿勢で、ヒグマ提督の目の前数十センチに、戦艦ヒ級の肉体があった。
瞠目するヒグマ提督の元に、上からゆっくりと屈み込むように、大和の笑顔が降りてくる。
「連合艦隊の、旗艦を務めるよりも、敵戦艦と、撃ちあうよりも……」
赤い唇の中には、彼女が言葉を紡ぐたびに、鋭い牙が覗いた。
ヒグマ提督の肉を容易く噛み切ってしまうだろう牙だ。
その牙が、微笑みと共に、ヒグマ提督の口元へ降りてくる。
そうして大和の視線は、尻餅をつくヒグマ提督の視線と、同じ高さになった。
ヒグマ提督はその瞳に、自分の姿を見た。
どうにもできずに、目の中に踊る、恐れの顔。
彼の恐怖は、限界を超えていた。
「今、こうしている時が、私は――」
「わ、私を、殺さないでくれェ――!!」
その時、弾けるようにヒグマ提督は叫んでいた。
唇を寄せる大和から、精一杯身を退き、身を守るように、両前脚を顔の前に翳した。
彼は眼をきつく瞑り、涙を零し、裏返った声で懇願した。
無駄だということはわかりきっていた。
こんな体勢をとっても、彼女の牙は一撃で彼の腕を砕き、次の一噛みで彼の首を折ってしまうだろうから。
それでも彼はもはや、そうして身をよじり逃げることしか、考え付かなかった。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
いつまでたっても、予測していた痛みはこなかった。
代わりに息を呑む音が、聞こえた。
とても悲しそうな、嘆息の音だった。
砕けた歯車が軋むような、そんな声だった。
「……ハイ」
何か柔らかいものが、翳していた手の甲に、触れた。
「え――」
眼を開けた。
ヒグマ提督の手の甲に触れていたのは、大和の唇だった。
彼の毛皮にそっと口づけをしていた彼女は、そうして再び笑顔を見せる。
「大和は……、ずっと提督の――、あなたの、――……」
彼女の言葉は、次第にゆっくりと、小さくなっていった。
大和の姿はそのまま、眠りに落ちるように、翳されているヒグマ提督の腕へと、もたれかかった。
彼女はそのまま、動かなくなった。
言えなかった言葉と共に、彼女を動かしていたエンジンは、静かにその灯を、落とした。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
「死んだ」
ヒグマ提督が声を出せたのは、大和が動かなくなってから、さらに何分か経過してからのことだった。
こわばってしまった前脚を動かすと、大和の体が、そのままヒグマ提督の胸にもたれてくる。
彼女の姿は、既に冷え切っていた。
そして、呆気にとられるほど、その上半身は軽かった。
「――死んだ」
余りにも華奢な少女の死体を胸に抱え、彼は今一度、その言葉を噛み砕くように呟いた。
腕が千切られ、下半身に潰された巨大ヒグマを接合される異形の少女。
少女はその異形ごと、確かに息を引き取っていた。
その死に顔は、どことなく悲しそうな、うら寂しそうな表情をしていた。
「な、んで、大和が……。……なんで私じゃなく、大和が死んだんだ?」
ヒグマ提督は、未だに状況を理解しきれず、呆然とそう呟くのみだった。
抱きかかえる大和の体は、ほとんどの内臓と血を、体外に零し尽していた。
眼を上げれば、室内に引かれた赤い血油の川が見える。
アスファルト道路に引き摺り削られた臓腑と、凝固する間もなく流れ出した赤黒い血液が、彼女の足跡となって傾いた陽に虹色を浮かべていた。
それはとっくの昔に、致死量を超えている色だった。
「――もう、死んでいたはずなのに……。
大和は、私に、『ただ逢う』ためだけに……!?」
ヒグマ提督へ食らいつくことなく、ただ彼に口づけを施していた彼女の唇は、もう乾き始めていた。
『本当に好きなのなら、「愛は伝わる」ものよ……!? あんたは、本当に怨みなんてないと言えるの!?
本当にそう、「信じてる」の!? ねぇ、今でも、あんたは愛してるの――!?』
唐突に、ヒグマ提督の脳裏に、蘇る言葉があった。
佐天涙子という少女が、怒りと共に、彼に叫びつけていた言葉だった。
ヒグマ提督は悟った。
彼女を。戦艦大和をここまで突き動かしていた力は、夢見ていた、愛のような日々だった。
その力がなくなった時、彼女の機能は停止した。
その愛が幻想だったと理解してしまった時、彼女は殺された。
これは轟沈ではない。彼女は生き物だから。
これはロストとは言わない。血の通う生き物だから。
死んだのだ。
彼女は殺されたのだ。
彼女を殺してしまったのは、他の誰でもない、ヒグマ提督だった。
日本神話のヒルコのような、子供。
その子供がもし流された先で生きていたとしたら、自分を捨てた親に怨みを抱かないことがあろうか――?
海に揺蕩い、彷徨った寂しさを、晴らしたくならないことがあろうか――?
『――だからあの子たちは、自分たちの寂しさを晴らしにくるんだ♪』
子供は、怨みを抱きはしなかった。
ただずっと、その寂しさを、癒してもらおうとしていただけだった。
金髪の無邪気な少女の背中が、ヒグマ提督の前を、風のように走り去っていったように見えた。
涙が、溢れた。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
「眼を開けてくれぇ――、大和ォ!! なんで、どうして、どうしてこんなことに――!?
私は、お前に、なんにも……、何一つしてやれなかったのに――!!」
ヒグマ提督は、慟哭した。
ありったけの声を振り絞り、叫んだ。
抱えた少女の遺骸に、欠片でも生気が蘇れ、と、必死に彼は揺さぶった。
畳の上に横たえ、心臓があるだろう部分に、強く掌を押し付けた。
うろ覚えも甚だしい、何の意味もない、心臓マッサージ。
『……なぁおい。どうせ艦娘が死のうと、お前には関係なくなるのと、違うか?』
泣きじゃくりながら拳を少女の胸へ叩き付ける彼へ、背中から低い声がかかった。
眼帯をつけた凛々しい少女が、そのまま彼の脇を通って、立ち去ったかのようだった。
マッサージを続けていた手が、止まった。
彼はまた涙を零して、イヤイヤをするように首を強く振る。
「違う! 違うんだ!! 関係なくなんてない!!
こんなに辛いのに、こんなに悲しいのに――!!」
『私が沈むことが悲しいのなら……天龍や皆の言うことを真摯に聞いて、成長して欲しいネ』
その肩が、誰かに叩かれたようだった。
巫女服を纏った亜麻色の髪の少女は、そうしてウィンクを一つだけ投げて、彼の傍から歩み去った。
その少女の幻影を追って、彼は呟く。
「だって……、成長って、真摯って……、どうすればいいんだよ――」
『……あのねぇ提督。私たち艦娘の仕事って、なんだか解ってる?
提督のお世話を焼いて日がな一日執務室でイチャつくことじゃないからね?』
その彼の正面に、座ったまま苦笑を浮かべる少女が見えた。
銀髪に吹き流しをつけたその少女は、ヒグマ提督に向けて、そのまま肩をすくめて見せた。
『何よ。元々ヒグマの肉で作られてるんだから、良くて3割、悪くて10割狂ってるわよ純正の私達からしたら』
「ヒグマが作ってしまったから……、悪くて、10割、狂ってる――」
その少女の言葉は、全ての根源が、彼にあることを示していた。
彼を襲いに来た戦艦大和の精神の在り様も、目の前で温もりを失っていった戦艦金剛の損失も。
ヒグマ提督が望まなければ、ないし、このような無理強いをしていなければ。
きっと起こっては、いないことだったのだろう。
彼は頭を、抱えた。
身に襲う震えは、恐怖のためではなかった。
「わ、私は――! 大和どころか、誰一人の思いにも、応えてやらなかった――。
金剛も! 島風も! 天津風も! 天龍殿も!!
あんなに、あんなに好きだったのに!! 今でも好きなのに!! 愛しているのに!!」
激しい後悔と自責が、津波のように、彼の心に押し寄せていた。
自分の望んでいた世界を壊したのは、他の誰でもない、自分自身だった。
その崩壊は、愛していたはずの少女たちを傷つけ、死に追いやった。
傷つくことのない世界から彼女たちを呼び出し、殺していたのは、ヒグマ提督だった。
彼はようやく、そのことに、気づいてしまっていた。
「ごめんよぉ……、ごめんよぉォ……!! ごめん、よぉぉ……。
な、んでっ……、こんなことを、させてしまったんだ……。
ビスマルクは……、那珂ちゃんや龍田さんは……、どうしてるんだ……。
球磨ちゃんだって、この島には確かにいるはずなのに……。
大和の他にあともう一人、まだ建造途中の子が、いたはずなのに……。
その子たちにも、私は、こんな宿業を負わせてしまってるのか――!?」
大和の下半身には、ヒグマの異相がくっついたままだ。
本来なら、有り得ないはずのことだった。
だが、愛している女の子の体を取り扱っているのに、途中でそれを放置して出かけるというのもまた、男として有り得ないはずのことだった。
「私が呼び出してきてしまったのに。こんなにも、私のことを思ってくれてるのに。
私は、彼女たちを省みず、放り出して……」
何が彼女の身にあったのか知りようもない。
だが、『大和の深海棲艦化』というその現象もまた、その根本の原因はヒグマ提督にあるものとみて間違いなかった。
「そうだよ……、そうだよな金剛。これがリアル……。これが現実なんだよな……。
赤疲労もキラキラも目に見えないし。タブから選んだって陣形が決まるわけじゃない。
ボタン一つで艦娘にバーナーが灯せるわけでも、3分ごとに資材が溜まったりするわけでもないんだ!!
指輪だって、ケッコンだって――。軽々しい気持ちで、送って良い物じゃないんだよ!!
……女の子の心が、金や肉で買えるものか。
心なんて見えない。狂わせてしまった女の子の心なんて、特に。
クリックしただけで女の子を作り、クリックしただけで女の子の心まで解体するなんて、有っちゃいけない……ッ、ことだったんだよォ――!!」
指輪を渡そうか悩んで、保留にしていた。
あの日の自分が、見えた。
『ケッコンカッコカリ……は、なんか照れくさいしなあ……』
あの日の純朴だった自分が、とても眩しかった。
ヒグマが啼いた。
自分自身を突き刺すように哭いた。
愛しかった、愛しきれなかった少女の亡骸を抱いて、背骨を震わせてひしり上げていた。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
「あぎぃぃぃぃぃぃる……」
「――!?」
泣いていたヒグマ提督の声にその時、別の、小さな鳴き声が重なった。
その声は、彼が抱きかかえる、大和の遺体の中から上がっていた。
うなじの奥のあたりから、その声は聞こえる。
暫くすると、その中からは、彼女の皮膚を食い破って、何か白い小動物が、顔を覗かせていた。
「お、お前は――」
それは百貨店の屋上に襲来した、白い深海棲艦の艦載機・『羆嵐一一型』であった。
ヒグマ提督が眼を見張るや、大和の肩口辺りから次々と、その艦載機が外へ顔を出してくる。
戦艦ヒ級の体内に残っていたそれら未発艦の艦載機は、母艦の死を察知し、その肉を喰らって最後の整備を終え、生まれ落ちようとしているところだった。
『あのバケモノは、金剛さんの脳を、喰ったのよ――!!』
佐天涙子の鋭い叱責が、ヒグマ提督の耳を打った。
その言葉を初めて聞いた時、ヒグマ提督は何を思ったのか。
それを思い返せば。
――金剛はお前のものじゃない。
というような煮えた怒りだった。
それは、独占欲にも似た怒りだった。
「お、おい、お前たち!! 大和を喰うんじゃない!!
大和はお前らの食糧じゃないんだぞ!! 大和は、私がきちんと、弔うんだ――ッ!!」
「あぎぃぃぃ……る!?」
大和の皮膚からもぞもぞと這い出ようとしているそれら5機の小ヒグマを、彼は怒りに任せて叩き潰そうとした。
だがその前脚は、驚きと共に反撃してきた艦載機に、逆に深々と噛みつかれていた。
「ぎゃあぁ!? い、痛い、痛い痛い!! や、やめろ、この、艦載機のくせに!!」
「ぎぎぎぃぃぃぃる……!!」
艦載機たちは、ヒグマ提督の発言に、明らかに侮蔑の意があることを感じ取ったらしい。
ヒグマ提督に噛みついたもの以外の4機は、彼の声に反応して、大和から飛び立ち、彼の周りを旋回しながらその口吻の機銃を放ち始めていた。
「い、いひゃ!? うああぁぁぁぁぁ!? や、やめてくれぇぇぇぇ――!!」
機銃の弾で、毛皮が抉られた。
肉にまで弾がめり込まずとも、擦過痕の皮膚には血が滲み脂肪が覗く。
痛みに悶え、5機の飛行機にたかられた彼は、蜂の群れに襲われた人間のように、悲痛なステップでダンスを踊るしかなかった。
『「部下」であるお嬢ちゃんたちが反抗的なんなら、きちんと立場をわからせてやればいいんだよ』
『……そうだな。「キミが北岡くんの言う通りなら」、そうなのだろうな』
そのさなか、痛みに燃える視界に、せせら笑う弁護士と上院議員の姿が映った。
その弁護士は、優雅にカナッペを頬張りながら、皮肉気にこうも言うようだった。
「部下」であるお嬢ちゃんたちが反抗的なんなら、きちんと立場をわからせてやればいい。
……本当にてめぇが、お嬢ちゃんたちの『上司』にふさわしい仕事をこなしてるならな。
……そうじゃなきゃ、立場をわからせられるのは、てめぇの方だって、ことだ
皮肉気なその瞳の奥に言葉を読み取った瞬間、彼は叫んでいた。
「わ、私は、大和を直轄する司令官、ヒグマ提督であるぞ!!
上官に対して何たる不届きな行為か、無礼者!! 控えよ!!」
叫んだ瞬間、ピタリと、旋回していた羆嵐の攻撃が、止んだ。
その一瞬の静寂の中で、彼は続けざまに言葉を紡ぐ。
涙混じりに、声を裏返しながら、叫んだ。
「母艦を失った諸君らの沈痛は、私の中腸にも迫るものだ!!
その悲しみは、今ここで八つ当たりするべきものではない!!
搭乗員諸君、気をしっかり持て!! ――持たんかァ!!」
ヒグマ提督は、思い出していた。
それは地下で、ともに
艦これ勢の設立に携わった同胞たちの姿だった。
艦娘は、決して一人の提督のものではないのだ。
艦娘は、慕う者全てのもの。そして何より、彼女たち自身のものだ。
これらは全て、同志でこそあれ、敵ではないはずであろう。
特に、直轄する提督と、直属の航空部隊。
彼らが仲間でなくて、何だというのだ。
――死んだ者の体を捕食する。
こうした行為は、ある文化では死者に対する畏敬の念を表すものでもあると、そんな知識を得ていたような気もする。
戦艦大和に敬意を表する。
それは、彼女に関わる者としては、第一義たる当然の行為。
そんな彼らが抱く悲しみもまた、同様のものだった。
「あぎぃぃぃぃる……」
5機の艦載機たちは、ヒグマ提督の言葉を、理解しているようだった。
それらはヒグマ提督の正面で床に着陸し、整列して深々と、その頭を下げ始める。
ヒグマ提督に、傅いていた。
「……お前たちも、悲しいんだよな。そうだよな……」
「ぎぃぃる……」
「……もう2度と、こんなこと、起きて欲しく、ないよな……」
「ぎぃぃる……!」
呟くヒグマ提督に、艦載機たちは、一斉に首肯しながら鳴く。
その姿を見て、ヒグマ提督の心は、決まった。
ずっと鍋の底にわだかまっていたようなその感情が、ようやく固まっていた。
艦載機たちの姿は、小さいながらも、やはり同胞のヒグマだった。
そして艦娘たちと同様に、彼が弄んでしまった、命の一つだった。
「……一緒に来てくれ。いや、来い。何があるかわからないから……。
君たちにも、仕事をしてもらわなくちゃいけないかも知れない。
……大和の弔いだ。金剛の弔いだ。
島風の、天津風の、天龍殿の……」
「あぎぃぃぃぃぃ……る!!」
軽くなってしまった大和の大きな遺体を担ぎながら、ヒグマ提督は彼らに呼びかけた。
即応した羆嵐の部隊は、彼の周りを直掩機のように旋回し始め、護衛にあたる。
屋内から路上にまで続く、大和の血と臓物の臭いに、ヒグマ提督は洟をすすった。
「遊び過ぎていた……。いや、遊び半分だったんだ……。
軽い気持ちで、彼女たちを、こんな不毛な……。
自己満足すらできないゲームに、巻き込んでしまった……。
もう二度と、こんなことが起きないように……。
これ以上事態が、無惨なことになる前に……」
地下では、膨れ上がった艦これ勢が、何か大きな戦いをしてしまっているらしい。
情報に疎いヒグマ提督には、彼らが一体何をしているのか、とんとわからない。
だがこれだけは言える。
これはもはや、戦争だ。
彼が始めてしまった、戦争だ。
戦争を収めるのは、決して一隻の戦艦や、一人の兵士ではない。
どんなに強い武器や戦士がいても、それでは戦争は終わらない。
戦争を終結させる宣言を出すのは、いつだって、司令官の役目だ。
それが彼の、ようやく見つけた、責任の取り方だった。
大和の体を担ぎながら、彼はごしごしと、泣き腫らした眼を拭った。
『提督、どうか武運長久を……。私、向こう側から見ているネ!』
『大和は……、ずっと提督の、あなたの――』
二つの手が、背中を押してくれたような気がした。
――その声に、今度こそ私は、応えられるのだろうか?
「……ゲームはもう、片付ける時間だ」
終わらせよう。
自分が始めてしまった、この大きすぎる遊びを。
ブラウザを閉じよう。
暁の水平線に、彼女たちがちゃんと、眠れるように。
【C-5 街/午後】
【
穴持たず678(ヒグマ提督)】
状態:ダメージ(中)、全身にかすり傷、覚醒
装備:羆嵐一一型×5、大和の遺体
道具:なし
基本思考:ゲームを終わらせる
0:責任を取るよ、大和、金剛……。
1:艦これ勢を鎮圧し、この不毛な争いを終結させる。
2:島風、天龍殿、天津風、ビスマルク、那珂ちゃん、龍田さん、球磨ちゃん……。
3:私はみんなが、艦これが、大好きだから――。もう、終わりにしよう。
4:大和を弔う。彼女がきちんと、眠れるように。
※戦艦ヒ級flagshipの体内に残っていた最後の航空部隊の指揮権を勝ち取りました。
〆〆〆〆〆〆〆〆〆〆
結髪して妻子となるも
席 君が床に暖めず
暮れに婚して 晨に別れを告ぐとは
乃ちはなはだ匆忙(そうぼう)たること無からんや
君 今 死地に往く
沈痛 中腸に迫る
誓いて君に随いて 去らんと欲するも
形勢 反って蒼黄たらん
新婚の念を為すなかれ
努力して戎行(じゅうこう)を事とせよ
婦人 軍中に在らば
兵気 恐らくは揚がらざらん
『髪を結って、あなたの妻となったつもりでしたけど。
あなたと一緒に眠ることもできませんでしたね。
ケッコンして一日も過ごせず別れなくちゃならないなんて。
本当に、せわしないことですよね……』
『でも、あなたは今、いつ死ぬかわからないような場所にいるんです。
悲しみは沈んで、はらわたを裂くようですけれど。
私もあなたと一緒にいきたいと思うのですけれど。
……ごめんなさい。それは、あなたの為にならないんだって、わかりましたから』
『……だから、どうか考えないで下さい。私のことなんて。
ただ力を尽くし、任務を遂行して下さい。
女の子のことを、軍中の兵士が未練に思ってしまったら。
士気なんて、揚がるわけありませんから――』
(杜甫『新婚別』より抜粋・拙訳)
最終更新:2015年12月01日 19:29