ジャン・キルシュタインは知っている。
 自分はもう助からないのだということを。

 胸を苛む激痛さえ薄れてゆくかすかな意識の中で、彼はそれだけは確実なことだと思った。
 ただ目の前にいる少女、星空凛の命さえ助けられたのなら、彼はそれで満足だった。

 だが彼が身を挺して守ったその少女は、動けぬ彼の元へとにじり寄ってくる。


 星空凛の体は、自然と動いていた。
 ボロボロになったその青年が、なぜそんなに、悲しいほど全身に傷を負っているのか、凛にはわかりようも無い。

 だが彼女が震える心で切望することと、今、目の前の彼へすべきこととは、奇しくもその時、ぴったりと一致していた。
 脳裏に思い浮かぶ、友と歌った歌詞が、進むべき道を示していた。

 ――やさしく目を閉じて。キミの頬を撫でる。
 ――伝えてふたりのミラクル。求めるこころ。


「――!?」


 朦朧としていたジャン・キルシュタインの身が、雷に打たれたように震える。
 それは柔らかく、暖かく、甘露にも思える温もりだった。

 星空凛の唇が、彼の唇に、重なっていた。
 深い深い、キスだった。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


 お互いの顔もほとんど見えないような、昏い地下の空間は、冷たい北海道の海水に半ばまで埋まっている。
 崩れた診療所一階の片隅、診察室だったはずの空間は、小さなベッドのみを残し、ほとんどが瓦礫の下敷きとなっている。
 そのベッドは、崩落し浸水していく診療所の中で、ジャンがその身を盾として確保した唯一の安全地帯だった。

 星空凛は、そのベッドの端から身を乗り出していた。
 脚を瓦礫に挟まれ、床上を埋める冷水に体を浸すジャンを、きつく抱きしめ、口づけしていた。
 ざり、ざり、と、呼吸のたびに胸を軋ませる彼の息を支えるような、力強く優しい、口づけだった。


 ステルスヒグマに叩き折られ、ポーンヒグマにタックルされ、瓦礫に潰されたジャンの肋骨とその奇異呼吸のことを、医学的には『フレイルチェスト』と呼ぶ。
 交通事故などで一側の肋骨に骨折が多発した場合、このようなフレイルチェスト(動揺胸郭)が発生する。
 本来の胸郭の動きとは正反対に骨折部が動いてしまうため、患者は激痛と呼吸困難とに苛まれ、肺の損傷も時を追うごとに悪化する。

 この傷病の治療に、陽圧呼吸というものがある。

 本来は胸郭が膨らむことで陰圧を作り、外気を肺に吸い込んでくるのが人間の呼吸だ。
 人工呼吸などで外から圧力をかけて空気を送り込んでくる陽圧呼吸は、本来の人体からすれば不自然なもので、肺に負荷をかける。
 だがこの圧力は、振りつけに反して動揺する胸を抑えるのには、ほとんど不可欠の治療に他ならない。

 今、星空凛の唇が、ジャン・キルシュタインの気道へと、その息を吹き込んでいる。
 彼の呼吸に重ね、リズムを合わせ、穏やかに、力強く意気を送る。
 決して離さない。
 ジャンの肺腑から漏れる命を取りこぼさぬよう、凛はその身を振り絞り、思いを込め、深く深くキスをする。

 ――マウス・トゥー・マウス。

 これすなわち、陽圧呼吸である。

 胸をきつく抱きしめる彼女の腕は、そのままバストバンドであり、胸郭の外固定だった。
 ジャンが息を吸えば、凹もうと揺らぐ肋骨を、凛の吐息が支える。
 ジャンが息を吐けば、膨らみ軋る胸の痛みを、凛の両腕が押える。

 激痛のために浅く、か細くなっていたジャンの呼吸が、優しく包まれてゆく。
 脳を蕩かし、痺れさせるような甘いファーストキスの温もりが、そのまま鎮痛薬のように彼の息を安定させていた。

「リ……ン……」
「ジャンさん……」

 ジャンは呆然と、鼓動を震わせて呟いた。
 重なった唇から二人の言葉が宙に溶けだしてゆく。
 見つめた少女の瞳は、暗闇の中でも煌々と、強い意志を以て光っていた。


「待ってて、ジャンさん……。今、凛が、絶対に、助けてあげるにゃ……!」
「リン、お前……!?」


 長い長いキスの先で、星空凛はその意志を吐息の中に燃やした。
 彼女の意図を読めずに息を詰めたジャンの前で、彼女はその手に、自分の点滴を支えていたガードル台を掴んでいた。
 凛はベッドの端から引き抜いたそのアルミパイプを、ジャンの右脚を押し潰す瓦礫の水面下へと突き込む。


「さあ……、夢を……。叶えるのは、みんなの勇気……!」


 息を整えて呟く。
 ベッドの縁を支点として置いたアルミパイプに、凛の両手がかかる。

「負けない」

 彼女の双肩に、力が籠る。

「心で」

 ガードル台のパイプが、ジャンの肋骨の代わりに、ぎちぎちと重い軋みをあげる。

「明日へ駆けて行こう……ッ!!」

 そして彼女は、力の限り、てこの原理を用いてそのパイプを押し下げていた。


「にゃあああああああぁぁぁぁぁ――!!」
「リン……ッ!」


 ジャンは震えた。
 自分のために気焔を上げて奮闘するその少女の何もかもが、たまらなく愛おしかった。
 嬉しかった。
 彼女の思いを無にすることだけは、できなかった。

「ぐ、あ……!」

 足元の瓦礫をどうにかどかそうと唸る凛の声に呼応して、ジャンは冷え切った体に鞭打ち、潰された右脚を水面下から引き抜こうとにじった。
 だが、動かない。
 星空凛がその細い腕にいくら力を込めても、ジャンの脚を押し潰す瓦礫の山は、びくともしなかった。

 腕が痺れる。
 息が上がる。
 涙が零れる。
 それでも、動かない。

「……き、聞け……、リン……!」

 ジャンが、あばらを押さえながら呻いた。
 凛は、眼を潤ませる。
 もし自分を放っておけなどという言葉などだったら、聞きたくなかった。

 しかし、ジャンの口から紡がれた言葉は、そんな辞世などではなかった。
 それはまるで教官のような激しい語気の、叱咤だった。


「てこを使うなら……、支点を、力点からもっと離せ……!!」
「……うんっ!!」


 自他を激励するような、身を絞るその語気に、凛は強く頷いた。
 凛はその素足で、ベッドから水に浸かる床へと降りる。
 その瞬間、芯まで凍りそうな海水の冷たさが、足先から背骨を駆け上がった。
 それでも止まるわけにはいかない。
 ジャンはこの冷水の中に、もうずっと浸かりっぱなしなのだ。

 凛はその手を水底へ差し入れ、一抱えもありそうな瓦礫の破片をずらす。


「……強い、強い……、願い事が……。
 僕たちを……、導いてくれた……」


 パイプを差し入れているジャンの足元へそれを近づけ、ベッドの縁よりも更に作用点側へ接近させた新たな支点として、その破片を据え付ける。
 その作業だけで、水中につけていた凛の指先は感覚がなくなっていた。
 光の下で見れば、きっとその手足は蝋のように真っ白になっていただろう。

「……次は、絶対、ゆっ、ずっ、れなッ、いッ、よ……!
 残さーれたっ、時間をにっ、ぎっ、りしーめて――!!」

 だが凛は、それに構わず、指先を冷えたパイプにつけた。
 握り締めたその時間は、まさしく、ジャン・キルシュタインに残された命の猶予なのだから。


「ただの、思い出……! そーれだーけじゃ嫌、だよッッ……!!」
「……ああ。そうだな」


 見つめた彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。
 友と歌っていた奇跡と力の歌詞が、二人の思いに、呼応した。


「精一杯、ちかーらのー、かーぎりぃ――……!!」
「ぐ、お、お……!!」


 星空凛のしなやかな双腕に筋肉が張り詰める。
 高く掲げられていたガードル台の端が、ぎちぎちと音を立てて押し下げられてゆく。
 極大にとったてこ比から生み出される思いの力が、アルミパイプを通って瓦礫の山を鳴動させる。
 水底に手を突き、軋む胸を抑え、ジャンがその間隙に己の脚へ血を巡らす。


「走るんだ、Chance for me――!! ――Chance for you!!」

 Bメロのコーラスが、弾けた。


「おおっ――!!」
「ひゃうっ!」


 ほんのわずかな、数センチだけ開いた瓦礫の隙間から、ジャンは自分の脚を引き出していた。
 解放された反動で飛び出したその身は、目の前に立っていた星空凛の体ごと、ベッドの上へと倒れ込んでいた。

 はぁ、はぁ、と上がる互いの息遣いだけが、暫くの間そこにあった。

 凛が、ジャンの体を抱きしめた。
 また軋む肋骨を支えるように、その唇が、呼吸を重ねてジャンの唇と触れ合った。


「――さぁ。夢を……、抱きしめたら上を向いて。
 君の世界が大きく、変わるよ――」
「……ああ。本当に……。ありがとう、リン……!」


 涙と共に囁かれたCメロに、ジャンは凛の体を、抱きしめ返していた。
 そして今度は自分から、その唇を凛のものに重ねた。
 彼のまつ毛に触れたのは、とても熱い、涙だった。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


 凛が懸念していたジャンの脚の出血は、思いのほか、大したことはなかった。
 瓦礫に潰されていたこと、冷えた海水に浸かって血管が収縮していたことが、却って出血を少なくしていたらしい。

「……ジャンさん。体が氷みたいだにゃ。濡れた服、脱がないと……」
「……あ、ああ……」

 だが、互いの体を抱きしめている間、ジャンの肉体は、細かく震え続けていた。
 シバリングだ。
 下がり切った体温をなんとか上昇させようと、筋肉が震え、体力を消耗させている。
 海水に濡れそぼった彼の立体機動装置と訓練兵団の制服が、彼の体温を奪い続けているのだ。


 脱がさなければ、ならない。


「……一人じゃ脱げない、よね……」
「……い、いや……」
「ダメだにゃ。ジャンさんが動いたら、また胸が、壊れちゃうにゃ……」


 凛は、咄嗟に首を振ろうとしたジャンに、また深くキスをする。
 言葉の合間ごとに、ずっと呼吸を重ねながらの会話だった。

 不用意にジャンが動けば、折角痛みの落ち着いてきたフレイルチェストが悪化することは明らかだ。
 凛がやらなければならないのは、彼女もわかりきっている。
 そして、その下に。
 彼の服を脱がした後に現れるだろうものも薄々想像がついている。
 だが不思議と、それほど嫌な気持ちは、なかった。


「それじゃ……、ぬ、脱がすね……?」
「……わかった。それじゃせめて、よく聞いてくれ」
「ん?」

 それでもわずかに恥じらいながら身を起こした凛に、ジャンは静かに呟く。
 もう一度唇を重ねた後、彼は真剣な眼差しで言った。


「立体機動装置の着脱方法を説明するから、今覚えろ」
「……うん」


 有無を言わさぬ口調だった。
 どうして、と尋ねかけた言葉は、口まで上がって来なかった。
 抱き合いながら指で服を探る間に間に、口づけの息を吐きながら、ジャンは淡々と凛に説明を始めていた。


「超硬質ブレードのトリガーはそれぞれこう、ワイヤーとガス噴射、刃先の交換に対応してる。
 氷瀑石のガス残量には気をつけろ。吹かすのは一瞬だけにして慣性を活かすのがコツだ」
「……うん」
「この固定ベルトが、立体機動装置を扱う要だ。
 凄まじい負荷がかかるから、両脚と胸のベルト位置は絶対間違えるな」
「……うん」
「くるぶしでクロスさせ、鐙みてぇに土踏まずで踏ん張れるように。
 片脚にかけた体重は逆サイドの腰骨に伝わってバランスが取れるようになってる」
「……うん」


 詳しすぎる説明だった。
 工学的に、力学的に、ジャンは自身の持つあらゆるノウハウを、凛に注ぎ込もうとしているかのようだった。

 初めこそ、凛は戸惑っていた。
 しかしその戸惑いよりも、この講義を決して聞き零してはならないという、胸騒ぎのようなものが先立った。

 ――そんなことは有り得ない。

 ジャンさんは自分が助けるのだから、と、凛は思う。
 だが、胸騒ぎは払拭しきれなかった。

 そして、細い息ながらも、彼がその立体機動装置の物理と要略を説明し終える頃には、彼の装置や衣服も、全てきれいに解きほぐされた形となっていた。


「うっ――」


 目の前に晒されたジャンの裸体を前にして、凛は、自分の感じていた胸騒ぎの原因に気づく。
 ベッドの上に力なく横たわり、寒さに震える青年の、筋骨逞しい肢体は、全身が真新しいアザに覆われていた。
 内出血と挫滅と阻血とで、形容しがたい青紫に変色して張りを失った皮膚が、彼の体のそこここを埋めている。
 瓦礫の下敷きとなっていた右脚などは勿論、折れ曲がり捻じれ、早くもどす黒い様相を呈しかけている。
 冷え切った体温と身体機能を元に戻せるだけの正常組織が、果たして彼に残っているのか、わからない。
 それは降り注ぎ崩れ来る診療所の瓦礫から、彼が星空凛を守り通してきたことの、紛れもない証拠だった。

「リン……。オレがいなくなっても、ちゃんと生き延びろよ。
 オレが今言ったことを思い出して、アケミたちと、絶対に生き残れ……」

 絶句してしまった凛の様子に、ジャンは震えたまま笑顔を作りながら、諦めの混ざった表情で呟く。

 海水から引き上げられ、呼吸困難の痛みを少しばかり和らげられても、この状況では結局自分は死んでしまうだろう――。
 そう思っていた。
 だからこそジャンは、今この場で、自分が星空凛の生存に供せる全ての知識と技術と経験とを、伝授しようとしていたのだ。


「……ジャンさんは、ここで終わりなんかじゃない……!」
「リン……?」
「凛が、力になる……! ジャンさんも、一緒に生き延びるもの……!!」

 だが凛は、ジャンの言葉に首を振る。
 そして意を決したように、自分の纏う薄い病衣に、手をかけた。


「ジャンさんの体……。凛が、温めてあげるから……!」


 浴衣のような緑色の病衣の襟に、指がかかる。
 結んだ紐が解かれ、その白い胸元が露わになっていく。
 ジャンはその様子に息を詰め、生唾を飲みながら叫んでいた。

「や、やめろ……ッ!」
「なんで……?」

 彼は眼を覆い、激しく後悔するような悲痛な声で、胸を軋らせる。
 そんな彼の行動に凛は、意識から外れていたある事実を思い出さざるを得なかった。

 ジャン・キルシュタインは、星空凛のことを、男だと思い込んでいるのだ。

 胸元で密着したにも関わらず、だ。
 いくら凛の胸が小さいからといって、それで気づかないのならば、恐らくキスしたさっきの今でも、この青年は凛の性別に気づくわけがないのだろう。

 凛は情けなくなった。


「……男同士でしょ? 何か恥ずかしいことがあるにゃ?」


 そして、眼を逸らしながら、自嘲的に吐き捨てる。
 はだけた胸元に覗くのは、確かに大胸筋の方が目立つかも知れない、余りにも貧相でなだらかな胸板だった。
 だが、ジャンは眼を覆ったままだった。
 彼の叫びもまた、自責を吐き捨てるようだった。


「お前は――、お前は、女の子だろうがよ……!!」


 凛はその言葉に、ハッと眼を見開く。

「……いつ、気づいたの、にゃ?」
「……最初からわかってたよ。お前みてぇに可愛い男が、いるもんか……ッ!!」

 後悔で泣き叫ぶようなジャンの声は、軋みと苦痛で途切れた。


「ジャンさん!?」


 声を荒げたせいで再び胸郭の動揺に悶える彼を、凛は病衣をはだけさせたまま抱きしめた。
 乱れた互いの呼吸を重ね、また何度も、キスを繰り返す。

 凛は耳まで熱気を感じるほど、自分の体が火照っているのを感じた。
 ――女の子だと、理解されていた。
 その事実を受け入れられるまでに、暫くかかった。

 その意味するところを尋ねたかったが、それよりも、唇を重ねることの方が先だった。

 鼓動が、早かった。

 だがその早さは、ただ興奮のせいだけではない。
 肌で触れ合ったことで、凛にはわかった。

 ジャンの肌には、張りがない。
 全身の打撲傷に水分を取られ、脱水になっているのだ。
 彼の足りなくなった循環血液を心臓が代償するために、脈が早くなっている。

 冷たい彼に体温を戻してあげるように、凛は彼を一層強く抱きしめながら、思考を巡らせる。
 この場で彼に与えられる水分は、どこにあるのか――。


「そ、そうだ! この点滴をジャンさんにあげれば……!」
「――バカ! それはお前のだ。お前の治療に必要なものなんだ!」

 凛は、ガードル台から自分に繋がっている点滴ボトルへのラインを、引き抜こうとした。
 だがそれと同時に、間髪入れずジャンがそれを差し止める。
 彼は泣きそうだった。だが泣く涙も出ない。

「でも……、でも……、このままじゃジャンさんの体が……!」

 凛はうろたえながらも、必死に抱きしめた彼の背をさすり続けていた。
 少しでも彼に体温を戻してあげようと、密着させた肌を離す気配もない。
 そしてしきりに、飲ませられる水を探し続けている。

「無理するな頼むから……。頼むから自分を大切にしてくれ……!」

 ジャンは情けなさでいっぱいだった。
 彼は凛を守りたかったのだ。
 だがこれ以上心が乱れれば、自分の理性も命も、どこに吹っ飛ぶか分かったものではない。
 彼の鼓動は、脱水のせい以上にどんどん加速せざるを得なかった。

 その時、はた、と、辺りを見回していた凛の動きが止まる。

 彼女は自分の点滴以外の飲める水を、見つけてしまったのだ。

 もちろんそれは、ベッドの下を埋めている海水などではない。
 海水の浸透圧は血液より遥かに高く、人間の腎臓はそこに含まれる塩分を排出しきれない。
 飲めば飲むほど脱水が進んでしまう。

 彼女が見つけたのは、それよりも生体の浸透圧に近い、新鮮な水だ。

 それは彼女の脚の間から、カテーテルで繋がって、ベッド脇のバッグの中へと、溜め置かれていたものだった。
 彼女は震える指先で、そのカテーテルの先を手繰る。


「……り、り、凛の……、おしっこ……」


 ジャンは鼻血を吹きそうになった。
 だが幸か不幸か、体温も血圧も低かったために、そんな衝撃的なセリフにも、彼の鼻の血管は切れずに済んだ。
 凛は頬を真っ赤にしながら、ベッド脇に吊るされていた採尿バッグを取り上げた。

 その中には薄黄色い液体がたっぷりと、まだ人肌の温かさを保った状態で入っている。

 凛もジャンも、なんでこんな状況で尿が溜められているのだ、と疑問を抱かざるを得なかったが、これは実のところごくごく一般的な処置である。
 特に星空凛の場合、彼女は電撃傷の治療として運び込まれてきたため、点滴で輸液をすると同時に、その水分がちゃんと十分行きわたっているかを判断するために、尿の量を計測する必要があったのだ。
 もし尿量が少なかったり、色がおかしかったりすれば、それだけ病態が重篤であることの証になる。
 なお、今回の星空凛の尿は、色調も量も十分正常であり、良好な状態であると言えた。


 凛は震えながらも、ジャンに問わざるを得なかった。

「こ、これも、お水だよね? これなら、もう、凛に必要なものじゃないよね?
 別に凛が無理するようなものじゃ、ないもんね……?」

 ジャンは答えに窮した。
 その沈黙は、肯定以外の何物でもなかった。


「飲むよ、ね……? このままじゃジャンさん、お水が足りなくて死んじゃうもの……。
 凛はジャンさんに、いなくなってほしくなんて、ないもの……!!」

 凛は、自分で言いながら、もう何が何だかわからなくなってきた。
 とにかく彼を助けたい一心で言葉を紡ぐと、涙ばかりが溢れてくる。
 そんな彼女の様子に、もうジャンは、眼を見張ったまま頷くしか、なかった。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


 凛は自分の股から、膀胱カテーテルを引き抜こうとした。
 だが、体の中で引っかかって、抜けない。
 通常、膀胱カテーテルは、バルーンカテーテルになっているため、生理食塩水で膨らまされた風船が尿道で引っかかって抜けないような構造になっている。
 注射器があれば、カテーテルの外側から刺して風船の水を抜くことができるのだが、残念ながら崩れ残ったこのベッドの周囲にそんなものはない。


「……ジャンさん。ちゃんと合ってるか、見てて……」
「リン……?」


 だがその時凛は、ふと思い至って、脱がせておいたジャンの立体機動装置の方を探った。
 そして取り出したのは、超硬質ブレードの一本である。

「……このトリガーが、刃の交換、だよね」

 彼女はそこからカッターナイフのような刃を取り外す。
 そうして、はだけさせていた病衣を、一息に下まで完全に脱ぎ去っていた。


「リン――!?」


 彼女は顔を真っ赤にしながら、ジャンの上で膝立ちの姿勢となり、腰を前に突き出していた。
 白磁のような素肌を晒し、尿道から出るカテーテルを切断すべく、出来る限り股を開いてそこにブレードを通す。

「そ、それで、こうやって……、引き切るんだよ、ね……?」

 息を詰めて、指を引いた。
 それだけでほとんど抵抗なく、プツリとカテーテルが切れる。


「あ、あ、ああぁぁ――」


 切れたカテーテルから、水が溢れる。
 恥ずかしさに股間を押さえた凛の指の隙間からも、お漏らしのように透明な液体が溢れ続け、下のベッドに横たわっているジャンの裸体にかかった。
 ジャンも凛も、脳髄が沸騰して爆裂するかと思えた。

 バルーンに溜まっていた生理食塩水であるからして、致し方のないことである。

「んっ……う……」

 そうして萎んだ風船とカテーテルの断端を、凛は股間から引き抜く。
 抜けた先に、カテーテルはわずかに糸を引く。
 だが、恥ずかしがっている場合では、なかった。


「ジャ、ジャンさん……。は、はい……、これ……!」
「……お、おう……。おう……」


 凛は、ジャンの口元へ、必死に採尿バッグとカテーテルを差し出した。
 ジャンも差し出されるがまま、そこに口をつけざるを、得なかった。

 生温かい風味が、口いっぱいに広がった。


「ど……、どう……? り、凛のおしっこ……」
「……飲める。確かに飲める。……これ以上感想を聞かないでくれ」


 飲める。
 飲める水分である。
 それだけで必要十分だ。
 これ以上何か言ってしまうと、自分の人間性が崩れてしまいかねない、と、ジャンは口を閉ざす。

 だがその唇の端で、一口、二口と、ジャンはそのバッグの液体を飲み続ける。
 体が欲していた物質であることには、間違いなかったのだ。


    ≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠


 凛が、ベッドの毛布を引く。
 彼女は、冷えたジャン・キルシュタインの体に、ぴったりと身を重ねていた。

 体温が行き交うのがわかる。
 呼吸が一致するのがわかる。
 鼓動が響き合うのがわかる。

 胸を抱きしめ、体を重ね、キスを続ける、その行為は、間違いなく彼の命を救うのに、必要なことだった。
 唇は、しょっぱい味がした。

 何分たったのか。
 何時間たったのか。
 わからなかった。

 すぐそばで、地響きのようなものがあった。
 床の水面が揺れた。

 この空間の外では、戦いが続いているのだ。

 ぽつぽつと、陽圧呼吸の合間にジャン・キルシュタインは、ここに至るまでの経緯を凛に説明した。

 気絶した凛を救うために暁美ほむらが立案した作戦。
 その最中に出会った、凛のファンだというヒグマ。
 診療所の制圧と、新たに出会った人間やヒグマたち。
 そして治療中に襲い掛かって来た、大量の潜水艦のようなヒグマたち。
 そうして部隊が、散り散りになってしまったこと。

 いろんなことが起きていたその話は、スピードについて行くだけでもう精一杯だった。
 凛は困惑するしかなかった。
 そうしてただ、皆の無事を、祈るしかなかった。
 二人が持っている物品では、この瓦礫の山を崩し脱出することなど、出来そうもない。

 今の彼女にできることは、こうして、愛しい青年の命が零れ落ちないよう、その身に寄り添い続けることだけだった。


「……ねぇ、ジャンさん。聞きそびれてたにゃ」
「……なんだ、リン……?」

 呼吸の合間に、二人は口を開く。


「凛のことを女の子だと気づいてたなら、なんで出会った時、あんなこと、言ったの……?」


 時間感覚も忘れてしまう、暗いベッドの上で、凛はふとその疑問を、思い出していた。

『お前が怖いのはわかる。あいつら巨人に、立体機動装置もないオレらが勝てるわけがない。
 だが、お前も男だろ? ここは戦場だ。次も助けてやれるとは限らねえ。
 自分自身で、しっかり考えて行動しろ!』

 星空凛は、出会い頭、ジャン・キルシュタインにその命を救われた直後、このような言葉を掛けられていた。
 男に間違えられる。
 それは凛にとっては、直前にヒグマ型巨人に襲われていた恐怖すら吹き飛びかねない、余りにも衝撃的なことに他ならなかった。

 だからこそ彼女は、この島でジャンに同行するにつけて、ずっと彼に、女の子として認めてもらおうと、それとなくアピールしてきたつもりだった。
 だがどんなに可愛らしい仕草をしてみても、柔らかな声音を使ってみても、ジャンは徹底的にそれを無視して意識から外しているようだった。よそよそしかった。

 その理由を、凛は、知りたかった。


「……男だとでも思い込んでなきゃ、あの時……。
 オレはお前を、襲っちまいそうだった……。最低な、変質者だ……」


 ジャンは苦々しく言葉を漏らす。
 言いながら、彼は申し訳なさそうに、凛の身から下半身をずらそうとした。

 そこに触れるのは、凛の膀胱から零れた水を浴びた前後から、ずっと熱を持ちっぱなしの部位だ。

 凛は覚えている。
 そこは間違いなく、ジャンが暁美ほむらとの勝負の前に、熱を帯びさせていた部位だ。
 立体機動装置に残ったほむらの体温を意識して、帆のようにズボンの股下で屹立していたものに間違いない。

 先程、ジャンの衣服を剥いた時には、余りに必死過ぎてよく見ていなかった。
 そもそも暗くてよく見えようがなかった。

 だが今それを、凛は確かに、自分の肌で感じた。
 あの時ジャンがほむらのことを意識してしまったように、今、自分が意識されている――。
 『女の子なんだと認めてもらえている』ことの、紛れもない証拠だった。

 凛はただそれだけで、満足だった。


「ううん……。元気が戻ってきて、良かった……」


 自然と、体が動いていた。
 ずれていたジャンの体に、再び、凛の体が、ぴったりと重なった。
 ジャンの体温は、もう凛と同じように、上がりきっていた。
 唇は、凛の味がした。

「ジャンさんがそうしたいなら……」

 視線が、重なっていた。
 鼓動が、重なっていた。
 ただ耳を澄ませるだけで、体を預けるだけで、凛は、幸せだった。


「……襲っても、いいよ」


 ジャンは眼を閉じる。
 何も言わずに彼は、強く彼女を、抱きしめ返していた。

 いつまでもこのままでいたい。
 ずっとずっと、一緒にいられたらいい。と、二人は心からそう思った。


【C-6 地下・ヒグマ診療所の崩れた診察室/午後】


【星空凛@ラブライブ!】
状態:胸部に電撃傷(治療済み)、ジャンと重なっている
装備:病衣、輸液ルート、点滴、包帯
道具:基本支給品、メーヴェ@風の谷のナウシカ、手ぶら拡声器、ほむらの立体機動装置(替え刃:3/4,3/4)
基本思考:この試練から、高く飛び立つ
0:ジャンさんと、ずっとずっと、一緒にいたい……。
1:ほむほむ、どうか、生きていて……。
2:自分がこの試練においてできることを見つける。
3:ジャンさん。凛を女の子なんだって認めてくれて……、ありがとう。
4:クマっちが言ってくれた伝令なら……、凛にもできるかにゃ?
[備考]
※首輪は取り外されました。


【ジャン・キルシュタイン@進撃の巨人】
状態:右第5,6,7,8肋骨骨折(フレイルチェスト)、疲労、全身打撲、右下腿挫滅、出血、凛と重なっている、『体温や循環状態が戻ってきてしまっている』
装備:ブラスターガン@スターウォーズ(80/100)
道具:基本支給品、超高輝度ウルトラサイリウム×27本、永沢君男の首輪、凛のカテーテル、凛の採尿バッグ
基本思考:生きる
0:リン……。
1:許さねぇ。人間を襲うヤツは許さねぇ。
2:アケミ。戻って来た以上、二度と、逝かねえでやってくれ。
3:オレは弱い人間だ。こんな女一人守るのにも、手一杯だった……。
4:リンもクマもみそくんも、すごい奴らだったよ。ありがとな。
5:リンのステージ、誰も行く気ないのか? そうか……。
[備考]
※ほむらの魔法を見て、殺し合いに乗るのは馬鹿の所業だろうと思いました。
※凛のことを男だと勘違いするよう、必死に思い込んでいました。
※首輪は取り外されました。

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最終更新:2016年03月04日 23:52