zakki140810-1

  • 家族が上野に来た。自分の作品が展示されるのは初めてなので、皆で観に来たというわけだ。僕は先回りして、自分の絵を見た。
  • 僕は、初めて美術館の中に配置されている自分の作品を見て、衝撃を受けた。僕は、僕自身と生で向かい合い、観察をしている気持ちになった。そこに色々の粗を目の当たりにし、未熟を感じ、精神の矮小さを発見した。それは他人の視線を僅かでも引き留める程の存在感がなかった。伝えたいテーマの発露がなかった。僕は恥ずかしさのあまり、目を背け、そこから離れた。
  • 「いやしかし、これが正に今の自分なのだ。ここから立ち去ってしまっては、僕は居た堪れない。全てが無駄になってしまう…。」そう思い直し、堪えて観た。すると気持ちが落ち着いてきて、正々堂々と戦って負けた時のような清清しい心持になった。家族にも、決して言い訳などしないようにしよう。
  • 以上の、自分自身を冷静に見るという新鮮な驚きを味わった後で、次のように思った。僕が目指すものは、冷静に自分を発見して、それを超える事なのだ。そうすることにより、僕は自由になることができるのだろう。


  • 翌日、僕は「僕が描きたい絵とは何だろうか」ということに、ある直感を感じた。何かが分かる気がする予感があり再び上野へ向かった。
  1. 分かったことの一つは、「ただ綺麗な風景や、見たままの風景」は、特殊な事情が無い限り詰まらないということ。それから、「ただ奇を衒ったものや、偶然で埋め尽くしたもの」もまた僕の目指すものではないこと。なぜかというと、そこにはテーマが欠けているからだ。意味のあるモチーフが無いからだ。つまり、描き手の意思があまり影響していない。
  2. 次に絵の観方。それにはまず完全に絵の中に入り込む。心を可能な限り空にして、「自分はこの絵の中の世界にやってきた」という気持ちをなるべく満たす。すると、そこが面白いものかどうか、また重要かどうかが分かってくる。絵の世界に入り込んだとして、そこで自分は何を経験するだろうか?ということに集中する。すると、「ただ綺麗な風景や、見たままの風景」「ただ奇を衒ったものや、偶然で埋め尽くしたもの」は、それ以上でも以下でもないから、ほぼ何も経験しないことが分かる。せいぜい、「こんな風景の所があるのかぁ」と言う程度。そうではなく、描き手がきちんと伝えたいことを持って、しかも、目的に必要なものを揃え、不必要なものを削る努力をしてくれたものならば、何らかの経験をもたらす。
  3. 捨てることが、とても大切に思われる。捨てるということ自体、能動的な行為なのだし、何かの意図を持たなければ、正確な目的を持たなければできないことだから。不必要な物は、邪魔になるので描かない。となると、捨てることにも色々な可能性が見えてくる。例えば、色を捨ててしまったら?形を捨ててしまったら?等。
  • そのようにして見直してみると、まるで昨日から目を取り替えたかのように、面白い作品、詰まらない作品が判ってきた。
  • 最後に、自分の作品と再び相対した。そして、上記のように鑑賞し直して見ると、決して悪くないことが判った。構図や色、テーマを伝える技法…足りない物は沢山あるが、見込みはありそうに思われた。こうして初めての展覧会は終局した。
最終更新:2014年08月11日 02:07