善の研究

2-1 考究の出立点

{哲学的世界観、人生観(=知識的確信)}と{道徳宗教の実践的要求}は密接な関係を持つ。人は相容れない知識的確信と実践的要求とを持っては満足できないので、両者の真理は一致しなくてはいけない。まず、真の実在とはいかなるものかを明らかにしなくてはならない。
真の実在を理解するためには、疑いうるだけ疑い、全ての人工的仮定を取り除き、疑うにももはや疑いようのない、直接の知識から出立しなければならない。
物と心の独立的存在は、いくらも疑えば疑いうる余地がある。
  • (物について)目前にある机とは何かを考えると、視覚、触覚などであり、物の形状、大小、位置、運動ですら、私たちが直覚する所のものは、全てそのものの客観的状態ではない。私たちの意識を離れてそのものを直覚することは到底不可能である。
  • (心について)私たちが知るものは知情意の作用であり、心そのものではない。同一の自己があると思えることも、同一の感覚および感情の連続の結果に過ぎない。
「疑いようのない直接の知識」とは、直覚的経験の事実すなわち意識現象についての知識である。この直覚的経験を基礎として、その上に全ての知識が築きあげられねばならない。
ベーコンやデカルトの言う知識の大元や心理は、直接的経験ではなく、独断を伴っている。ここに「直接の知識」と呼ぶものは、全てこれらの独断を去り、ただ直覚的事実として承認することである。
  • ある人は、直覚的に経験する事実は仮相であり、ただ思惟(=判断)の作用により真相を明らかに出来るという。
  • またある人は、経験的事実を全て仮相とみなし、物の本体はただ思惟によって知ることができると主張する。
思惟と直覚は全く別の作用のように考えられており、直覚は受動的作用、思惟は能動的作用と考えられているが、直覚は直接の判断なのであり全く受動的というものでもない。両者は意識上の事実としてみたときには同種の作用なのである。
最終更新:2015年03月25日 01:32