――どうしちゃったんだろう、私は?
天王寺深雪は今更ながら、そんなことを思っていた。
このたった数十分ほどの間に、天王寺深雪という人間の価値観や世界が、随分と変わったように感じられた。
言うなれば、灰色だった世界に色がついたような。
塗り絵の白い部分にちゃんと色を塗った後のような、どこか充実した感覚。
これがどこから来るものなのか、深雪にはまるで分からなかった。
彼女は幼い。
年齢もさることながら、体つきもそれと同じく幼い。
白いワンピースも子供っぽいチョイスだし、その下のスクール水着はもう意味が分からない。
けれどここで言うのは、彼女の中身の話だ。
深雪の人生は、実年齢と同じではない。
彼女は一度死んで、生き返ったも同然なのだった。
――『あの時』に。
自分が世界で最も偉大だと思うあのお方に拾われたあの時にこそ、深雪の人生は真に始まったのだ。
それから始まったのは、狂信的な人間たちとの共同生活だった。
感性も人並みで、力や技能も人並みのそれを出なかった深雪は役立たずと蔑まれた。
ただし、彼女の信仰は誰よりも厚かった。
神とされる男を何より貴び、彼へ危害を加えんとするなら許さない。
その姿勢は、真に狂信的であったと言えるだろう。
だがしかし、だ。
繰り返すが、深雪は人並みだった。
神である男への忠義は厚くても、幼い彼女には出来ることと出来ないことがある。
たとえば、力仕事は深雪にはまず無理なものだった。
深雪は非力だ。
他の信者たちと同じように動いていては、すぐにパンクしてしまうのが目に見えている。
また、彼女は人を纏め上げるカリスマ性は持っていなかった。
彼女が信仰の中に抱える幼さを、誰もが見抜いて軽蔑した。
彼女だけは自分が強いと信じたが、周りから見れば鼻つまみ者に過ぎなかった。
そして、何より。
彼女には、人が殺せない。
白鷺教は二分割されている宗教組織である。
ハト派と、タカ派だ。
深雪が所属しているのはタカ派で、その姿勢は攻撃的であった。
立ちはだかるなら裏から根回しして、殺してでも教団を守らんとする。
現に白鷺教が処分してきた人間の数は、既に相当数にのぼるとされていた。
――もちろん、その手の工作に深雪だって関わったこともある。
しかし、彼女は一度も殺せなかった。
結果その尻拭いを他の信者がすることになり、彼女はそれにずっと負い目を感じながら生きてきた。
けれど、尊敬する神は彼女のような落ちこぼれにも寛大だった。
挨拶をすれば返してくれたし、頭を撫でて貰ったこともある。
彼は彼女を可愛がった。
深雪はその度に彼の優しさへと心酔し、信仰はやがて絶対のそれへと変わっていった。
――それでも、殺せなかった。
殺せないまま、天王寺深雪はバトルロワイアルという殺し合いのゲームに巻き込まれる。
結果は、散々だった。
いきなり威圧に負けて、その後は半ば自棄になりながらどうにか一人を殺した。
その後は気絶させられたが、どうにか生きることはできた。
できたのだが――心は、弱っていた。
人殺しの重みは重く、同時にひどく底冷えしていて気持ちが悪かった。
きっと、一人だったらすぐに潰れてしまっていただろう。
狂いきれぬままに足掻き、狂った振りをしたまま死んでいた筈だ。
……でも、自分はこうして生きている。
傷もないし、行動に支障はない。
今からだって、殺し合いに乗るのは遅くない。
――まだ戻れる。
信仰の道に帰ることができる。
(帰れる……のに……)
一時的なだけだ。
白鷺教の教えを捨てることはきっと金輪際ないだろうし、考えたくもない。
そんなことをするくらいなら、この命だって投げ捨てよう。
あの方への裏切りを働くのに比べれば、この身体は安い。
あまりにも安く無意味で、価値のないものだ。
――いいや、多分自分は死ねない。
深雪は半ば諦めた風に、自分の限界に立ち止まった。
天王寺深雪は誰も殺せない。
それはさっき分かったことで――そして、恐らくずっと覆ることのない絶対の道理(ルール)。
自分を殺すことも、立派な殺人だ。
白鷺の教えを宿す深雪にすれば似非聖者の教えなど、チラシの裏の妄言にも等しかったが。
とある異教では、自殺した者は地獄へ落とされるという。
それは自分という人間を殺したことだから。
殺人は――許されない。
繰り返すが、深雪はかの聖者の教えを妄言としか思っていない。
それどころか、妄言以下の単なる音節にも劣ると思っている。
軽蔑しているし、哀れだとも思う。
だが、自殺が殺人であるというのだけは納得できた。
(帰れるのに――どうして私は、こんなに穏やかな気分なんだろう)
自分は殺人者だ。
一人の人間を殺めてもなお、のうのうと生き延びている。
きっと死んだら、業火に焼かれるだろう。
それくらいなら、自分の信ずる神の言葉だけに従えばいいのだ。
そうすれば、天王寺深雪は救われるのだから。
――分かっている。分かっていても、現実は変わらなかった。
深雪は今、とある少女を追っている。
どの方向に行ったのかは分からないが、少なくともまだそう遠くには行っていない筈。
そして隣には、彼女を信仰から外れさせた張本人がいた。
丹羽雄二。
阿見音弘之と比べれば品がなくて、神には遠く及ばないような有象無象。
しかし自分は、彼にまんまと砕かれた。
自分の盲信を砕かれ、阿見音へと背く道を選ばされた。
だから、本来は憎んで然るべき存在なのだが。
(……………………)
おかしい。
冷静になってみればやっぱりおかしい。
どうして自分はこんなに気を許しているんだろう。
あまつさえ、自分は彼に付いていくこの感覚を心地よくさえ感じているのだ。
……うう、なんだろうこれ……。
深雪は表情だけは澄ましていたが、内心では自分の変化に思い切り戸惑っていた。
だって、分からないから。
――深雪は、決して他人と関わった経験が豊富な訳ではない。
その極端なまでの信仰のせいか、日常会話すら場合によってはままならないこともある。
それゆえ、他人と過ごして居心地の良さを覚えるなど本当に、初めてのことだった。
ちなみに阿見音弘之は神様なので除外とする。
(……とにかく、丹羽さんのせいで私はおかしくされた。これは確定です)
ふん、とちょっと強めに息を吹いて、深雪はあまりに身勝手な決め付けを行う。
それはまるで、初めて玩具を与えられた仔犬のような反応だった。
困惑しながらも、その困惑に好意的なものが少なからず混じっている。
深雪にその感情の意味は分からなかったし、きっと辞書にも載ってはいないだろう。
――言葉で表せない、感情の波だった。
こうして人が悩んでいるというのに、当の本人は何も憚ることなく歩いている。
がさつだ。女の子へのエスコートなんて欠片もない。
子供だからって馬鹿にされてるのだろうか。
馬鹿を言え、私は決して子供じゃないっ。
小学校は出てる。
中学二年生だ。
……そういえば、卒業式には教団のみんなも来てくれたっけ。
ふと懐かしい記憶を思い出して、深雪はその心を少しだけ暖かくした。
とても優しい、微睡みのごときメモリー。
これからも、それを抱いて生きていく。
あの方に救っていただいたこの体を、大切に抱いて生きていくのだ。
……なんだ、自殺なんて最初からできっこなかった。
だって、それはこの体を冒涜すること。
天王寺深雪の体とすれば、これはいくらでも使い潰して構わない。
元より終わった筈の命、もう一度取り零すことも覚悟しよう。
が、これは天王寺深雪であって天王寺深雪ではないんだ。
阿見音様に救われた命。
阿見音様に救われた体。
――それを傷付けるなんて、なんて自分は愚かしい考えをしたのだろう。
……がんばります。
深雪は口には出さずに、しかし瞳に確かな意志の光を宿して宣言した。
がんばる。彼に背くことになるのは分かっているが、今はこの試練をがんばって遂げよう。
そうしたら、きっとあの方は分かってくれると思うから。
あんなに優しくて素晴らしい人だから――うん、きっと大丈夫。
心配なんてしなくていい。
今は前だけ見ればいい。
信じることを信じればいい。
――そうでしょ、丹羽さん?
◇ ◇
狭山を追う。
まさかあんなことになるなんて、欠片も想像しなかった。
須藤が狭山に感情をぶつけたことが――俺には、あまりにも意外だったのだ。
だけど今は狭山を見付け出して、保護しないとならないだろう。
見たところじゃ、あいつは決して強そうな奴には見えなかった。
良くも悪くも年相応の、天王寺とそんなに変わらない女の子だった。
……不味いぞ。
早く見つけてやらないと、取り返しのつかないことになるかもしれない。
――俺は、自分の正しいと思うことをする。
今の俺が正しいと思うのは、
狭山雪子という女の子を助けることだ。
彼女を取り戻せなかったなら、丹羽雄二は一生後悔する。
自分が彼女を助けられたら、須藤凜との間に生じたいざこざを解消することもあるかもしれない。
なればこそ、尚更――諦めるわけには、いかない――!
(どうせ、俺は一度死んだ身だ)
その時の記憶も、感覚も未だにはっきりと覚えている。
格好つけてみせはしたものの、二度と味わいたくない苦痛だった。
死の感覚は思っていたよりもずっと、気持ち悪い。
死に方が他殺だったのもあるかもしれないが、思い出すだけで薄ら寒くなるほどのものがあった。
しかし、自分はこうして生き返っている。
丹羽雄二は確かに存在している。
死人が蘇るなんて、今日びファンタジーの物語でさえタブーとされているのに。
いとも容易く――世界のルールがまた一つ覆された。
(ならいいさ。この命、精々有意義に使ってやるよ――!)
狭山雪子を探すことは危険な賭けだ。
この市街地は安息とはかけ離れた危険地帯と化している。
殺人者と遭遇する可能性は、恐らく他のどのエリアよりも高い。
その中をこんなに無用心に進むなど、殺してくれと言っているようでさえあった。
天王寺の方を、ちらりと見やる。
彼女は、決して救えないところまで落ちぶれた少女ではない。
壊れきれない彼女なら、まともに戻ることだってできるはず。
罪の十字架は重たいだろうけど、それにも耐えられると丹羽は思う。
彼女は、ちゃんと自分が悪いことをしたと分かっている。
反省して許されることではないのだろうが、その全てを糾弾して否定するのは間違っている――。
彼女は生きるべきだ。
こんな亡霊紛いの存在よりも、ずっと尊くて輝ける存在なのだから。
(天王寺を守る! 狭山も連れ戻す! どっちかを諦めろってんなら、俺はそいつをぶん殴ってでも先に行く!!)
自己犠牲の精神は、時に見苦しい。
しかしながら、捨てるものを無くした人間はとても強い。
自分の目的のためにどこまでも走れる、そういう強さを持っている。
そして丹羽雄二もそうだった。
一度の忌まわしい死が、彼を突き動かす原動力となってくれる。
代償は、少しばかり人間らしくなくなったことだろうか。
自己犠牲は――機械的だ。
(…………河田)
前の殺し合いで共に行動していた彼女の顔が、頭をよぎっていく。
彼女は、今頃どうしているのだろうか。
そう思うと――すぐに、まとわりつく偶像(イメージ)を振り払う。
振り払って、頭の片隅に追いやり、徹底的に縮小してやる。
(今考えるのはあいつのことじゃない。あいつじゃなくて、目の前のことだ)
狭山雪子。
天王寺深雪。
彼女たちを守る。
あまりにも弱すぎる少女たちを――この手で、守る。
意地でもやり通してやる。
この手には、特別な力なんて宿っちゃいない。
この体には、何の神秘も内包されていない。
ここにいるのは、ちょっとばかし力仕事に縁のあった若者だ。
ヒーローとは程遠い、バトルロワイアルが無ければ今も何となく日々を過ごしていたようなノーマルだ。
しかし。ノーマルがアブノーマルを超えられないなんて道理はない。
精々胡座をかいて待っていろ、人無結。
行くぞ、支配者。心の準備は十分か?
――これから俺は徹底的にお前の計画を台無しにする。
筋書きも目的も、何もかもメチャクチャにしてやる。
お前が期待していたような展開は潰す。
見ろ、俺は天王寺深雪を助けたぞ。
彼女は殺し合いは出来なかった。
でも、あんな風に震えながら全てを見失っていたら、彼女はきっと長生きは出来なかった。
早速、筋書きを狂わせたぞ。
そして最後は――お前のバトルロワイアルをぶち壊して、何もかもを終わらせる。
……待ってろ、バーカ。
◇ ◆
少女は自分の変わりように戸惑い。
青年は自分を貫くために決意する。
二人とも自分の確固たる思いと願いを抱えて、もう一人の弱い少女を探すべく走る。
互いに、裏切りや策謀があるなんて疑うことはしなかった。
時間にすればとても短いのに、彼らの間にはもうある種の信頼関係が出来上がっている。
二人はもう、明確に心から繋がっていた。
「……丹羽さん」
暫く会話のない時間が続いていたが、先に会話を切り出したのは深雪だった。
静寂に耐えられなくなった、という様子ではなく、単純に話したいことがあったようなそれだ。
ただ、その声色はどこかばつが悪そうでもある。
申し訳なさそう、とも言うのだろうか。
とにかく、複雑そうな表情をしていた。
「どうした? 悪いんだけど、急がなきゃならないから後で――」
「丹羽さんは」
後でにしてくれるか、と言いかけた丹羽を遮って、深雪は自分の話を無理に通す。
自分勝手と言われても構わない。
彼女にしてみれば、わがままを言ってでも彼に聞いてほしいことだった。
自分を灰色の世界から連れ出した丹羽雄二なら、答えをくれるのだろうかと思って。
心の中に丹羽雄二と『神様』の顔を同時に描きながら、彼女は絞り出すように問う。
「……私は、白鷺の教えを捨てられません。きっと、これからもずっと阿見音様についていきます」
阿見音弘之の存在は、重い。
重いなんてものではなく、もはや一つのルールとして深雪の中に刻み込まれている。
確かに、丹羽は自分を助けてくれた。
阿見音がしたのとは別の形で、助けてくれたのだ。
――でも。
それで簡単に捨てられるほど、阿見音弘之は軽くない。
彼は優しくしてくれた。
頭を撫でてくれた。
こんな自分を認めてくれた。
教えを守れば、褒めてくれた。
――神様だった。
「私はこれから――どうしたらいいんでしょうか」
深雪には、それが分からなかった。
バトルロワイアルを無事に生き抜いて、果たしてそれから自分は元通りになれるのか。
仲間の暴挙を、黙って見ていられるのか。
白鷺の教えは戦いを救いの道標とする。
だから、殺人も破壊も何でもやる。
ありとあらゆる戦いを行うことで、初めて真の救いが得られるのだ。
……けれど、深雪は丹羽雄二に触れてしまった。
触れてしまったことで、戦いを拒む自分に気付かされてしまった。
ころせない。
今はそれだけでも、いずれは『こわせない』になるかもしれない。
そうなったら――自分は、白鷺にいられない。
「……いいよな、天王寺はさ」
「はい?」
予想だにしない言葉が返ってきて、思わず拍子抜けした返事を返してしまう。
しかし丹羽の表情は真剣そのものだ。
真剣に――羨んでいる。
その意味を深雪が理解するよりも早く、丹羽は溜め息混じりに言った。
「俺達の神様ってのはさ、高い高い天の上にいるんだよ。だから、俺ごときじゃ姿さえ拝めない。
何か言葉を届けるなんて、出来るわけがない。そんな馬鹿みたいなこと、誰も考えたことはないだろうさ」
『俺達の神様』という言い方は、普段なら反論するべきところだった。
神様は唯一。八百万の神など、所詮は幻想だと。
普段なら反論するべきだった。
が、今はそのお決まりの反論が出てこなかった。
それが冒涜的な言葉だと理解することにさえ、わずかとはいえ時間を要した。
それだけ、彼の言葉は響いたのだ。
そうだ――丹羽さんは、神様と喋れない。
阿見音様といつも話していた自分は、その当たり前に気付けずにいた。
普通は、神様の姿を見ることさえ出来ないんだ。
じゃあ、尊い存在といつも顔を合わせていた自分はすごく幸運だということになる。
そんな深雪の表情を見て、丹羽はもう一度、深く溜め息をついた。
全然分かってねえな――彼が小さく呟いたのを、深雪は聞き漏らさなかった。
覚えの悪いペットに躾をするような口ぶりだった。
「あのなあ、お前のいう阿見音様って神様は、すぐ近くにいるんだろ?」
「……はい」
「じゃあ、当然会話も出来るんだろ? 言葉が届くんだろ?」
当たり前だ。
今まで、彼とは何度も話している。
白鷺の拠点の掃除プランを提出して、誉めてもらったこともある。
小学校の卒業式にも、彼は来てくれた。
天の上なんかじゃない。
ちゃんとすぐ近くに――存在していた。
言葉も届く。
話すことも触ることも、もちろんできる。
「なら――お前が神様に説教くれてやれよ、バカ」
「――あ」
思いもしなかった。
神様に説教するなんて、失礼どころの話ではない。
破門も通り越して、熱心な信者たちに殺される可能性だって十分ある。
「届き、ますかね」
「ああ、届くだろうよ。天王寺、お前は凄くいい奴だ。会ってから少ししか経ってないけどさ、俺にはよく分かるよ。そんなお前が、心から尊敬する神様なんだろ?
……まあ、正直俺もムカついたよ、お前に負担を掛けるクソ野郎だって思った。
だからさ、そんなとんでもなく素晴らしいクソ野郎を正してやれ。……できるよな?」
届く。深雪はそう確信した。
阿見音様は優しいお方だ。
彼なら、私の話をきっと聞いてくれる。
話を聞いた上で――何かを変えてくれるかもしれない。
彼もきっと、この殺し合いに心を痛めているだろうから。
希望を抱いて、深雪は笑う。
――しかし、彼女は何も知らなかった。
自分が信じる神様のことすらも、何も知らなかった。
彼が内に孕ませる邪悪も、彼が自分に対してどのような感情を抱いているのかも。
天王寺深雪にとって最も善い未来は、阿見音弘之が彼女の目の届かない場所で死亡することだ。
どんな死に様でも構わないが、なるだけ綺麗に朽ち果てることだ。
そうすれば――深雪は幻想を守られたまま、悪夢から抜け出せる。
だが。
ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。
最悪の神様は、すぐそこにいた。
あまりにも近くで、いつものように笑っていた。
銀髪白衣に義眼の奇人・阿見音弘之は、そこに君臨していた。
丹羽と深雪の会話の一部始終を聞いて、心から感心した様子で拍手をしている。
彼は、心から丹羽雄二に感心していた。
その理由は彼にだけしか、分からない。
ただ、阿見音の興味に丹羽は引っ掛かった。
面白いくらいに――。
運命の悪戯はこんなところにまであるのかと、笑った。
「あ、阿見音様っ!? …………え?」
深雪は喜びと驚きに満ちた声をあげたが、すぐにその表情を固まらせる。
それは丹羽も同じだった。
驚きのあまり、硬直していた。
「――――…………狭山?」
狭山雪子が、阿見音弘之の隣にいた。
須藤と別れた時とは比べ物にならないほど、吹っ切れた顔をしている。
だがその瞳には、異質な光があった。
だから丹羽も深雪も、喜びより先に固まらざるを得なかった。
「ごめんなさい、迷惑かけてしまって。私、須藤くんのところへ戻ります」
笑顔で彼女は言う。
相変わらず物腰は柔らかい。
でも、彼女はこんな表情をしていたか?
こんなにも――狂気を含んだ顔を、していたか?
「狭山……おまえ、どうしたんだ……?」
丹羽は思わず聞いていた。
阿見音弘之は傍らでにやにやと、にたにたと笑っている。
愉悦。人の苦痛がもたらす美酒に酔っているのは、誰の目から見ても明らか。
神の本性を露知らない二人は、狭山に釘付けにされる。
そして、彼女は言う。
儚げな笑顔に狂気を孕ませて、言う。
「もう大丈夫です。何も心配はありません。だって――」
彼女は、
「――阿見音様が、私を助けてくれたんですから」
――白鷺の祟り神に、魅入られていた。
◇ ◆
「かみ…………さま…………?」
狭山は、息も絶え絶えの状態で小さく呟く。
走ったせいか、ぜえぜえと女らしくない息遣いが口から漏れていた。
そんな彼女にも、銀髪の男――阿見音弘之は変わらず微笑み掛ける。
微笑んで、彼女の呟きにゆっくりと頭を縦に振った。
肯定の意。阿見音は、少女に自らが救いの神であると自称した。
「くふふ――信じられないのも無理はありません」
狭山は弱っているとはいえ、決して馬鹿ではない。
いきなり現れた怪しい男に神を自称されて、すぐに信じるような真似はしなかった。
ちゃんと彼女なりに冷静な目で目の前の男を見て――その結果として、疑いを持っていた。
神様を名乗るなんて時点で胡散臭いのに、この男の風貌はその段階を通りすぎている。
不審者然とした容姿。
信用するには、あまりにも危険だ。
本来なら今すぐ走って逃げるべきなのに、動悸は治まってくれない。
これでは、逃げられない。
「では、こうしましょう。私は神様などではない。ただし、貴女のどんな悩みだって聞いてあげます。武器を隠していないかは、こればかりは貴女の信用に任せるしかありませんが」
男は笑う。
嫌らしい笑いだ。
楽しむような笑顔の意味は狭山には分からない。
でも、こんな風に笑う人間を狭山雪子が見たことがないことは、確かだった。
この人は、なんだ――
心がざわつく。
恋なんて甘い感情じゃなくて、心という土台を根本から揺さぶられているような感覚。
これも、初めての感覚だった。
阿見音は笑っている。
武器を取り出す様子はないが、安心はできない。
いつ自分を攻撃するか分からないのだから、油断は禁物だ。
禁物――といっても、この様じゃ何もできないのだけれど。
(…………あれ?)
と、そこで狭山はふと思った。
阿見音弘之が殺し合いに乗っているというのなら、どうして彼はすぐに自分を殺さないのかと。
自分で言うのもなんだが、今の自分がひどく弱っている自覚は狭山にあった。
体力的にも、精神的にも、今は衰弱している。
殺すなら簡単も簡単、赤子の手を捻るようなものだろうに――この人はどうしてそれをしない?
阿見音の危険性を知っている者なら、こんな疑問にはそもそも至らなかっただろう。
彼が人間の不幸や感情の破綻を尊く思う怪人であることを、知っていたならば。
狭山雪子がそれを知っているわけがない。
だから、彼女が阿見音を信用とまではいかずとも、少しだけ気を許してしまったのは仕方のないことだった。
仕方のないことで――しかしそれは、確実な破滅の始まりだった。
狭山にとって最善の一手は、とにかく阿見音を信用しないこと。
彼に気を許さないこと。
それを破った彼女は、まんまと神の毒牙にかかる。
「……友達と、喧嘩して」
喧嘩。
そう言っていいのかどうかは疑わしかったが、間違ってはいない筈だ。
あれは喧嘩だった。
互いの感情がちょっと擦れ違っただけで、崩壊が起きた。
雪崩のように、全てが崩れてしまった。
その光景を見ていない筈の阿見音は、しかしまるで張本人のように哀しそうな顔をした。
それから狭山は、クラスメイトが死んだことを話した。
そして、須藤との一件のことも。
「私は、彼から逃げたんです。でも、考えれば考えるほど――どうしたらいいのか、分からなくなって……。だから、走って、走って、走って……それで、阿見音さんが」
成る程、そういうことでしたか――阿見音弘之は心を傷めた様子で、うんうんと頷く。
もちろん、今の話は随分と端折っている。
全てを語れば長くなることは請け合いだったし、何よりそれを正確に語れば、自分が壊れてしまいそうだった。
須藤との一件。
クラスメイトの死。
立て続けに起こった二つの出来事は、少女の心を蝕み、すっかり衰弱させていた。
今の狭山は弱いし、脆い。
あとちょっとのきっかけがあれば簡単に壊れてしまうだろうし、きっかけが無くても同じかもしれない。
それは、目の前に立つ阿見音弘之からでも簡単に見てとれることだった。
「辛かったでしょう、お察ししますよ」
阿見音は悲痛そうに目を細める。
もちろん、これは彼の演技だ。
内心では、ひどい落胆を覚えていた。
"そんな面白いことが起きていたのなら、是非私も見届けたかった――"。
友人同士の決裂などありふれた話に見えるが、ありふれたものであるからこそ良い美酒となる。
それに、ここは殺し合い。
酒の肴として、もってこいのシチュエーションが揃っているのに。
なのに、肝心なところを逃してしまうとは、不覚だった。
「――ですが、私になら貴女たちをもう一度《繋ぐ》ことが出来ますよ」
「……え?」
阿見音弘之は転んでも只では起きない男だ。
美味しい酒を逃してしまったなら、もう一度瓶の蓋を開ければいい。
すなわち、狭山雪子とその友達、須藤凜を再会させる。
そこで何が起きるかは知らないが、仲直りなどされては興醒めも甚だしい。
……その瞬間に銃撃してみるのも面白そうではあるが。
「言ったでしょう。私は神様なのですよ」
だから、ここで一つ仕掛けを施す。
料理番組でよく、味を良くするために一手間を加えるだろう。
それと同じだ。
愉悦の美酒もまた、一手間を惜しまなければ最高の酒へと化ける。
「――かみ、さま」
「ええ。貴女にお教えしましょう。私の教えを」
ここで阿見音弘之が施す一手間は、彼にとってはとても慣れたことだった。
それは、『布教』である。
疫病の蔓延して絶望した国が、宗教にすがるように。
弱っている者こそ、見えない何かに頼りたくなるものなのである。
「白鷺は――戦うことによって、多くを救う」
◆ ◆
教えを語るといっても、阿見音にしてみれば然程時間をかけることではない。
それこそ何度も何度も、何度も何度も繰り返した行為だ。
必要ない形式だけの教えを全て省き、一刻も早く目の前の少女を『白鷺』に染める為の教えだけを説く。
失敗などそもそも考えてはいない。
神を名乗るからという自信もあるが、何より阿見音弘之はちゃんと頭を使う。
懐柔できる人物と無理そうな人物くらい、ちゃんと判別してから言葉を吐く。
「――このくらいですね。そして私は、このゲームには乗らない。何故なら、不毛だからです」
最後に自分の立場を付け足して、阿見音は話を締め括る。
しかしそれは、狭山雪子の胸へと届いた様子はなかった。
それもそうだ。彼女には、あまりに多くの情報を一度に詰め込んだ。
これで堕ちるかどうかは、彼女の精神力次第といったところだろう。
ここで堕ちなければ一度は愉悦を諦めねばならないだろうが、決して無駄にはならない。
一度吹き込んだ希望は、忘れた頃に手を差しのべてくる。
白鷺の教えは厳しくもあるが、この殺し合いの中では十分希望とよべるものだ。
(……勝ちましたねぇ、これは)
阿見音の人間を見る目は、卓越している。
人の本質を誰であろうと一瞬で見抜き、その人物に何が有効かを即座に理解する。
その彼が見たところ、狭山雪子は絶対に希望の誘惑を断てないという結論に至った。
何しろ――狭山は、弱かったから。
彼女は一人で殺し合いの過酷を背負えないほどに、弱かったから。
「白鷺…………」
「どうです? 私の教えはお気に召しましたかな?」
狭山は、不思議な感覚に捕らわれていた。
嫌悪や不快感ではなく、しかし高揚ともまた違う感覚。
宙を浮いているような感覚といえば、それが最も適切だったろう。
白鷺教の教えは、狭山雪子にとって格好の支えだった。
支えが無ければ立てない少女が、己の重さを託すには最も適当な希望。
――もう一つ変化はあった。
ついさっきまでは不気味だった阿見音弘之の笑顔が、慈愛に満ちたものにさえ見えてくる。
当初の嫌らしさはまるで感じず、胡散臭そうな見た目もすっかり彼の一部として捉えるようになっていた。
どうして私は、彼を疑ったのだろう?
弱っている私に素晴らしいことを教えてくれた人を。
そんな優しい人を疑うなんて――そんなこと、あってはならないことだった。
けど、彼はきっと自分を許すだろう。
優しいから。
白鷺教を開きし者として、笑って許してくれるだろう。
ああ、違う。
彼は人ではない。
彼は神様だから、『さん』付けで呼ぶなんてあまりにも失礼だった。
私はなんてことをしていたのか。
気付くと――頬が真っ赤に紅潮するような感覚さえ覚えた。
そんな当たり前を間違ってしまうなんて、迂闊にも程がある。
「あの……」
「言わずとも分かりますよ。……いえ、むしろ此方からお頼みします。――私と来てください」
阿見音は手を差し出す。
握手を求めていた。
狭山はそれに戸惑ったが、それは決して困惑ではない。
恐れ多いというような、謙遜の動作だった。
やがて彼女は両手で阿見音の握手に応じる。
まるでアイドルと握手をするように、丁寧に。
「こちらこそ、宜しくお願いします――――阿見音様」
神隠しは完了した。
少女は神の手に堕ちた。
駒は一体。
当然、神は笑って彼女に言う。
「それでは、早速須藤くんを捜すとしましょうか。……彼にも、希望を与えましょう」
「はい。白鷺の教えを、是非須藤くんにも」
「勿論ですよ、ええ」
狭山は酔う。
希望に溺れる甘美な感覚に。
だから気付かない。
隣の神様を名乗る男が、邪悪に笑んでいることに――。
自分の選んだ道は逃げずに問題と向き合うことなんかじゃなくて、問題から目を背けているだけだということに――。
気付かぬまま、歯車は廻っていく。
錆び付いた歯車は、二度と正しく回らない。
◆ ◇
――阿見音様……!?
狭山の変化に、丹羽と深雪は驚きに身を強張らせる。
何があったのかは分からない。
丹羽はそもそも、阿見音弘之という人物とはこれが初対面なのだ。
彼の孕む闇の大きさなんて知る筈がなく、故に状況をすぐに理解することができなかった。
もしかすると、彼女は元より彼と何らかの関係にあったのか?
そう思いはしたものの、どうにも納得できない。
狭山雪子は、あんな風に笑っただろうか。
あれが彼女の本質なのか。
丹羽には何も分からない。
分からないまま、二人の人間を黙って見ていることしかできない。
不甲斐ないとさえ思えない。
事態がどういう経緯を辿ってここまできたのか――何も知らないからだ。
「…………?」
天王寺深雪はこれまでに、今の狭山のように憑き物が落ちたようになった人を何人も見ている。
白鷺の教えに救われた人々はみんな幸せそうだった。
阿見音に仕える名誉を誇っていたし、深雪もそう思っていた。
逆に、彼を胡散臭いだとか怪しいだとか評する連中を憐れんですらいたのだ。
なら、ここは狭山が救われた事実に喜ぶべき局面の筈。
しかし、深雪はどうしてもそう思えずにいた。
以前なら彼女も救われて幸せだろうと笑うべきところだったのに、今はとても笑えない。
この気持ちは、何なのだろう。
丹羽と一緒にいて感じたものとは明らかに違う、もっと居心地の悪い感覚。
――分かんない……!
深雪はこれほど、自分の無知を嘆いたことはなかった。
この感覚の意味を知っていたなら、自分は正しい行動を取れるだろうに……!!
「どうしたんですか、二人とも?」
狭山と阿見音だけが笑っている。
狭山は相変わらず淀んだ瞳で。
阿見音は何を考えているのか分からない笑顔で。
異質な光景だった。
危機感さえ忘れてしまいそうな、とても現実からかけ離れた景色。
「……ああ、深雪。貴女とまた会えた幸運を、私は喜びますよ」
阿見音は深雪に笑いかける。
深雪も笑い返した。
でも、上手く笑えているかどうか心配だった。
このゲームが始まるより前の自分とは、何もかもが違っているから。
阿見音様に、嫌われてしまうかもしれないと思った。
「……私もです。また会えて嬉しいです、阿見音様……!」
だけど、やっぱり嬉しい。
彼は自分に人生を与えてくれた。
感謝してもしきれない、偉大な偉大な私の神様。
その彼が、自分ごときとの再会に喜んでくれることが嬉しかった。
だからこそ、深雪はやらなければならないと、決意を固めた。
こんなに優しくて暖かい人だから――正しくあってほしい。
「あの、阿見音様」
深雪は勇気を出した。
ただ話を切り出すだけでここまで心臓がはちきれそうになったのは、生まれて初めてだ。
緊張と恐怖を乗り越えて、でもちゃんと口にできた。
「ちょっと、お話があるんです……聞いて、いただけますか……?」
最後の方は、もう声が震えていた。
今ならまだ彼の僕に引き返せると、心の中で悪魔が囁いた。
けども、丹羽雄二がくれた一つの『答え』の方が、そんな逃避の一手よりもずっと尊く美しく見えた。
選び取ることができたのだ。
深雪の勇気を間近で見た丹羽は、どんな混乱も一瞬消えるのを感じた。
ずっと操り人形だった少女が、大好きな人に道を説く。
しかも相手は彼女にとっての神様。
あれが神様だとはどうしても思えない丹羽だったが、悪いやつではないのかもしれない、とも感じ始めていた。
確かに狭山の様子が急変したのは気になることだ。
しかし、深雪との再会に心からの喜びを見せていた。
彼なら、受け止めてくれるだろう。
一人のちっぽけな女の子が振り絞った勇気の言葉を、受け止めてくれるだろう。
そして、すぐにとはいかずとも、必ず改善してくれる。
――だって、天王寺があんなに想っていた人なんだから。
だとしたら、狭山も救われただけなのか。
彼の教えを聞いて、希望を得たのではないか。
確かにちょっと極端なことにはなっているけど――自分の思い過ごしなのか。
そんな安堵さえ覚える。
「――ええ、分かりました。私からも伝えたいことがありますし、あちらの方へ行きましょうか」
阿見音は笑顔で頷くと、結構離れた方向を指差した。
少し不安感を覚えた丹羽だったが、その不安を汲み取ったらしい阿見音はまた笑った。
「心配ご無用。同じ教団の仲間ですからね、神に誓ってでも手はあげませんよ」
神様ジョークです、と陽気な一面を見せる銀髪白衣に、丹羽は考えすぎだという結論を下した。
この胸騒ぎも何もかも、自分の考えすぎ。
二人のシルエットが小さくなっていく。
やがて、曲がり角を過ぎて消える。
狭山と丹羽だけが残された。
「天王寺さんと阿見音様って、お知り合いなんでしょうか」
「あー……天王寺も阿見音様にご執心みたいだよ」
――丹羽雄二は、この時の自分の行動を後悔することになる。
救いといっても、一概にそれが良いものであるとは決め付けられない。
精神操作(マインド・コントロール)――深く深い精神への病毒。
狭山雪子が、既に精神を冒されているとは思わなかった。
それに気付くとき――
神の傲慢は、当に手遅れなところまで進んでいるのに。
◆ ◇
「丹羽雄二を殺しなさい、深雪」
――阿見音弘之はいきなり、何の前振りもなく言い放った。
その声も顔色も真剣そのもので、冗談で言っているようには毛ほども見えない。
突然の展開に、深雪は用意していた言葉を忘れ去ってしまう。
どうして。どうして、阿見音様がこんなことを言うんだ?
困惑する深雪の姿を見て、阿見音は瞳の奥でせせら笑った。
阿見音が深雪に同行者の殺害を命じたのは、ひとえに彼が最も愛する愉悦を得るためだ。
河田遥という少女と出会い、阿見音は彼女に洗脳とまではいかずとも、適度な毒を注いでおいた。
毒が彼女を冒し尽くすか、それとも打ち勝つかは分からないが、それは最早どうでもいい。
そんなことよりずっと簡単に、毒を凶暴化させる手段は転がっている。
彼もそれを考えたが、あまりに望みが薄いこと、手間が大きすぎることを理由として断念したのだ。
間違ってはいない。
河田遥にとって、丹羽雄二という存在は間違いなく重荷になっていたのだから。
そう、阿見音弘之は丹羽を殺害すれば、河田は完全に崩壊すると考えた。
それは凄く愉しそうなことだと思うし、是非見てみたかった。
だから、諦める時の悔しさは彼にしては珍しいほどのものだった――のだが。
まさか向こうから転がってきてくれるとは。
天王寺深雪という駒の一体が、最高の美酒の材料を連れてきた。
「彼女は苦しんでいました。丹羽雄二に傷つけられたと泣いていて、とてもいたたまれなかった」
嘘だ。が、深雪は信心の深さに限っては実に優秀だ。
何も知らない子供だというのもあるが、彼女相手じゃあ騙すために小細工をする必要もない。
真っ向からこんな風に嘘をついても、彼女は疑わない。
神の言葉を疑うなんて、最大の無礼だと心得ているからだ。
自分が間違っているのだと勝手に納得して、こちらの語る全てを信じる。
深雪は人を殺せないが――そうならない為に、銃がある。
《百発百中》――これでならば、下手な鉄砲を数撃たずとも当てられる。
「私は丹羽雄二が赦せない。一人の少女を傷付けた男が赦せない。……さあ、深雪。銃を取りなさい。戦うことでこそ救われる。お前の信心でなら、もう誰かを救うこともできますよ」
深雪には、普通の銃は扱えそうにない。
彼女は信じる心は強いのに、肝心なところがまだまだ子供すぎる。
未熟者というしかない、扱いにくい駒なのだ。
だから、そんな彼女にこそ四字熟語を冠された拳銃は輝く。
引き金一発、どんな下手糞でも一定以上の確率で弾丸を当てられる。
その効果は既に実証済みだった。
土御門伊織たちを銃撃した時にも、全くのノーリスクで勝利を勝ち取った。
丹羽雄二はここで死なねばならない。
何故なら、それが祟りの意志だからだ。
神の選びし贄は、大人しく供物として捧げられるが良い。
そうして朽ち果てるまで――苦しめ、足掻け。
それが、最高の美酒になる!
「……それは出来ません、阿見音様」
聞き間違えたかと思った。
阿見音弘之は間違いなく、このバトルロワイアルが始まって初めての驚きを覚えていた。
有り得ないことだったからだ。
天王寺深雪が、阿見音弘之の言葉に異を唱えるなど。
彼女はマリオネット。
神の言葉通りにしか動けない、操り人形だった筈なのだ。
なのに――今、彼女は何と言った?
「……深雪」
「何度でも、言います……! 私は丹羽さんを殺しません……あの人のことを、阿見音様は勘違いしています」
笑い声は漏れない。
これは愉快なことではなかった。
腹立たしく思いはしないが――驚きという感覚は、あまり好きではないようだ。
「阿見音様は私にとって、神様です。あなたが居なければ私は今ここに居ない……でも」
深雪はもう、無我夢中だった。
嫌われることを恐れながらも、けれど止まることはなかった。
丹羽雄二の名前が出たとたんに、勇気の炎は真っ赤に燃え上がった。
火柱さえ立てて――赤く赤く。
「――戦わなきゃ、誰かを傷付けなきゃ救われないだなんて。そんなの、絶対に間違ってるんです……!!」
丹羽雄二。
彼の評価を改める必要があるようですね――と、阿見音は心から感心する。
河田遥の重荷になるだけの存在かと思えば、一つの道理を覆してのけるとは。
見たところ『理想主義者』のようだが、それを他者に伝染させるとなれば面白い。
愚かで、粛清されるべき所業。
白鷺の存在そのものへ楔を打ち込むがごとき、悪徳。
「……ねえ、阿見音様。今からでも、変えましょう? 誰かを助けて救われる――そんな世界も、悪くないんじゃないかって思うんです。だから――」
深雪が内に燻る恐怖を圧し殺しながら喋っていることは、明らかだった。
人間の心に深く精通している阿見音には、勿論それが手に取るように分かる。
状況が状況なだけあって、流石にそれを愉悦とすることはできなかったが。
人の信心さえも動かす丹羽雄二の可能性を知れただけでも、収穫はあった。
潰すか否かは知らない。
まだその時ではないし、メインディッシュは後にとっておくものだ。
だから阿見音弘之は、左手を出して深雪を制した。
「……優しい優しい深雪。貴女は、頑張りましたね」
ああ、認めよう。
阿見音は現実主義の人間だが、誰かの努力に感嘆できるだけの神経は持ち合わせている。
彼女は恐らく、人生で一番の勇気を出した。
頑張った。頑張って、神の定めた戒律を揺るがそうと戦ったのだ。
「もう苦しまなくてもいいですよ――貴女の言いたいことは、分かりました」
そう言って、阿見音は笑った。
彼自身は気付かなかったろうが、それは紛れもなく慈愛に満ちた心からの笑顔だった。
深雪でさえも、彼のそんな顔を見たことはなかった。
深雪は心が温かくなるのを感じた。
彼は、分かってくれるんだ。
こんな無礼者の言葉でも、聞いてくれる。
「阿見音様……!」
嬉しい。
嬉しくて嬉しくて、涙が瞳を濡らす。
そんな深雪に阿見音弘之は変わらず微笑みかける。
「貴女が不要だってことは、よぉく分かりましたから」
がきゃん。
そんな音がした。
それは鈍い音で、何かが砕ける音もした。
深雪が崩れ落ちる。
彼女はしばらく、頬に走る熱い感覚の意味が理解できなかった。
理解なんて、できる筈がなかった。
それは夢の終わり。
分かったらすべてが終わってしまうと頭では分かっているのに、真実は深雪の前に存在していた。
阿見音は、冷たい表情で立っている。
笑っていない。怒ってもいない。伽藍。
右手には、拳銃を持っていた。ただし、変な持ち方で。
阿見音は、深雪の右頬を思い切り銃床で"ぶん殴った"のだった。
銃床は、意外と硬い。少なくとも、人間の骨くらいなら砕けるくらいには。
だから、深雪は頬の骨を砕かれなかっただけ幸運だった。
ただし、歯は何本かいってしまっただろう。
「今だから言いますがね、私は貴女を然程必要としてはいなかったんですよ」
呆然とへたりこむ深雪の今度は左頬に、再び銃床が叩き込まれる。
口の中が切れて血が口の端々から垂れる。
地面に倒れて、しかし立ち上がろうとは思えなかった。
口の中で、何か硬いものがいくつも転がっている。
それが自分の折れ、抜け落ちた歯であることに気付くのに、時間はかからなかった。
「人は殺せない、おまけに力もない」
「そんな貴女のどこの期待をしろって言うんです?」
「ええ、正直なところ。貴女はこのゲームで死んでもいいと思っていましたよ、私は」
「だってそうでしょう。穀潰しは必要ないのだから」
「死んでくれた方が、教団としても助かるのです」
「出来れば私の目につかないところで野垂れ死んでくれればよかったのに」
「折角良い玩具を拾ってきたかと思えばこれだ」
――止めて。
深雪は薄れる意識の中で願う。
これが全て夢であることを。
夢なのだったら、いくらでも耐えてやる。
「私の教えに異を唱えた時点で、貴女にはもう一円の価値もありません」
失われてゆく。
今まで積み上げてきたものが、何もかも。
「――どうぞ何処へなりと消えなさい。そして、出来れば無価値に死に晒すがいい」
最後に残った夢の欠片は。
「言い忘れていましたが、私は他人の不幸を悦とする『人間』でして。私の教えを信じて踊る馬鹿どもを見て日々楽しんでいました……くふふ、それではさようなら。『誰かさん』」
――がきゃり。
そんな音を立てて、今度こそ粉々に砕けて消えた。
◇ ◆
丹羽雄二は、一瞬意味が分からなかった。
阿見音弘之が、戻ってきた。
その表情はどこか晴れ晴れしていて、まるで善行を働いた後のようにさえ見える。
それだけならいい。
だが、一つだけ解せないことがある。
「……なあ、阿見音さん」
狭山とは何となく気まずくて、会話がまるで弾まなかった。
恐らく、文字に直せば三十文字も喋っていなかっただろう。
だからだろうか、ひどく久々に声を出したような気がした。
声は自分でも見苦しいと思えるほど、震えている。
その意味は恐怖。
嫌でも頭の中をよぎっていく最悪の結末を、必死に脳内で払拭する震えだった。
そんな丹羽の最悪への恐れを知ってか知らないでか、阿見音は事も無さげに言う。
まるで何でもないことのように。
言葉にするのも無駄とでもいうように、彼は適当な調子で言った。
「深雪なら、来ませんよ?」
阿見音は笑っている。
その笑顔の意味を、丹羽はすぐに理解した。
最悪の予想は――あまりに呆気なく、炸裂したのだ。
天王寺深雪。彼女は、この男のことを大好きだと言っていた。
一生ついていくに値する偉大な方だと誇らしげに語っていた。
それなのに、この男はこんな風に笑っている。
ふざけるな。
こんな野郎の、どこが神だ。
神様ってのがいるとしたら、そいつは随分性格の悪いやつなんだろうとは思う。
けれど、こいつだけは。
こいつだけは、その名前を名乗るにも値しない。
最悪の外道――自分を信じた少女を平気で裏切る、打倒されるべき害悪なのだ。
「痛め付けておきましたが、心の傷は深いでしょう。すぐには来られませんね」
事も無さげに言ってのけた阿見音の胸ぐらを掴もうとして、そこで見た。
阿見音の持っている拳銃は、自分の胸のど真ん中に向いている。
丹羽は、燃えるような激情に満たされていた。
それでも、どうにか命を守るためにそれを押し止めた。
ここで阿見音に撃たれれば、誰が深雪を支えてやれる。
自分が死んだら――誰が今のあいつを、守ってやれるんだ……!
「阿見音様っ!」
「大丈夫ですよ、雪子。彼は私を殴らない」
嫌らしく、目の前の外道は笑う。
丹羽雄二のやり場のない怒りを煽りつつも、自分の身を守る備えは万全。
引き金一つで、丹羽は死ぬ。
それを分かっていて、それでも愚を犯させようとしているのだ。
とことん腐った野郎だと、丹羽は思った。
「丹羽くん。貴方を一度だけ見逃しましょう。どうやら、貴方はまだまだ面白い可能性を秘めていそうだ。
このバトルロワイアルで貴方がどう化けるのか、どんな末路を遂げるのか楽しみですよ。
でも、出来れば全てを失い、理想の果てに朽ちなさい。――それは、きっととても素敵な美酒になる」
ぽん、と一度丹羽の肩を叩いて、阿見音弘之は丹羽の視界から消えた。
背後で、狭山と会話をしている阿見音の声が聞こえる。
彼は何の罪悪感も抱いてはいないのだろう。
救いようがない。
阿見音を殴れないことが、今の丹羽雄二にはひどく、ひどく悔しくて歯痒かった。
「天王寺……っ!!」
丹羽は走る。
それはまるで、スプリンター。
憐れでも道化でも、今だけは構わない。
どんな謗りを受けようとも、この足を止めることだけはできない。
丹羽雄二の誇りと意地に懸けて、あの弱い少女の元へ辿り着くまで、一度だって止まってはやれない――!!
メロスの気持ちが分かったような気がした。
彼もきっと、セリヌンティウスを助けるために必死だったのだろう。
今の自分は、作品の中のメロスと同じだった。
事態は一刻を争う。
一秒の遅れが、深雪を殺してしまうかもしれない。
そんなことになるくらいなら、この肉体を壊してでも走ろう。
(もう、一生走れなくなったっていい――――)
地面を蹴る。
風は嘲笑うように過ぎていく。
けれどそんなものはどうでもいい。
全部どうでもいい。
大切なのは傷付いた彼女。
彼女を助けるために、走るのだ。
(――――だから、あいつを助けさせてくれッッ!!!!)
そんなに長い距離ではなかった。
なのに、千里の道を駆け抜けるが如く長く感じた。
辿り着いたその場所に、彼女は倒れていた。
瞼を閉じて、両の頬を僅かに腫らして。
目の下に涙の跡をくっきりと残して、意識を手放していた。
「おい、天王寺……! 気絶してるだけか……」
見れば、少女は口の端々から一筋の血液を溢していた。
丹羽はそれを見て、思わず心臓がドキリとなるのを感じた。
吐血だったら。
内臓が傷付いて吐血したのだとしたら、それは本当に不味い。
仕方ない。
眠っている女の子の口に手を入れるなんて、気が引けたが。
血液が口内からの出血なのかどうか、丹羽は見極めようと彼女の口を開かせた。
悲痛そうな顔で眠る少女の姿が、どうしようもなく痛ましかった。
深雪の出血は、口の中を切ってしまったことによるものだった。
ひとまず安心するが、丹羽は阿見音弘之へと更なる怒りを燃やす。
深雪の歯は、硬い銃床で殴られたことで何本もが折れ、抜け落ちていた。
女の尊厳の一つが、あんな外道のせいで破壊されている。――その数はちょうど十本。
目を背けてはいけないと丹羽は思った。
彼女を無警戒に送り出したのは自分だ。
だから、彼女がこんな目にあったのは自分の責任でもあるのだ。
彼女の口の中に溢れていた歯を、飲み込まないようにそっと口から出させてやる。
ディパックの中に入っていたウェットティッシュで、その歯を包んだ。
「ごめんな……天王寺……ごめんな……!」
男の涙は、悔しさだ。
丹羽雄二は、己の無力さに――ただ、涙した。
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最終更新:2013年01月05日 12:16