悪夢の聲が鳴り響いた。
一瞬、時が確かに停止したと思う。
同時に、ぴしゃりと冷たい水を浴びせられたような悪寒が走った。
『×××』。あの忌まわしい主催者の声が機械的に告げた名前の一つを聞いた瞬間、
青木百合の中の何かがぴきりとひび割れた。
同姓同名だとか、そんなふざけた言い訳はありえない。
これが現実だと、頭の中の何かがあざ笑う。
(お兄ちゃん…………!?)
驚いていることを、なるだけ同行者の二人には悟られないように努める。
ああ、そうだ。元々、危惧してはいたのだ。
自分をゲームから離脱させて愛する兄と引き離されたその時から、ずっと『こうなるのではないか』という恐れはあった。
それが、たった今現実になった。
ただそれだけのことだから、大袈裟に悲しむ必要はないのだ。
兄の死は確かに悲しいことだ。
あってはならないことだと、断言しても良い。
兄――
青木林に比べれば、ほかの総ての生命などちり紙も同然のクズ。
愛しているからだ。
唯一の存在である兄を愛しているから、わかる。
この状況で自分という『妹』が何をすればいいのかと、考えるまでもなく悟ることができる。
「土御門さん」
「…………はい」
綺麗な女性、
土御門伊織がひどく真剣な表情で百合へと向き合う。
百合は知らないことだが、伊織と一輝は水面下で彼女という不安因子をどう処理していくか、話し合いを続けていた。
だから彼女は、覚悟を既に決めている。
青木百合が殺し合いに乗ってでも兄を生き返らせる道を選ぶのならば、容赦なくその命を奪い取って止めてやろうと。
しかし、百合はそれを知っていても止まらなかっただろう。
彼女もまた――覚悟を決めている。
ディパックから斧を取り出す。
滑らかな動作で取り出したそれを、伊織の首筋へ向けて一息に振り抜く。
手応えはない。伊織はまるで予期していたかのように狂気の斬撃をかわし、髪の数本をかすめ取られるだけに被害を止めた。
その目は鋭く、容赦のない殺意へと燃えている。
「――死んで下さい」
百合の瞳は既に輝きをなくしていた。
最愛の存在を失ったことで、危ういバランスの上にどうにか成り立っていた壊れかけの心は崩れ、彼女を魔狂姫へと変貌させていた。
彼女に容赦を期待するのは間違いだ。
どんな言葉も、心を一寸でさえも動かせまい。
「土御門ッ!」
「下がっていなさい、一輝!」
伊織はもう、百合を仲間としてなど見ていない。
そりゃあ彼女だって、百合を殺すことなど望んではいなかった。
けれど、ここで自分が情けをかけたことで彼女がほかの誰かを殺し、あまつさえ疑心暗鬼の起爆剤になる危険を省みれば、致し方ないことだ。
それに、伊織の個人的なムカつきもあった。
目の前の少女は兄を失ったことで、壊れている。
その『悲劇のヒロイン』然とした態度が、どうしても癪に触ったのだ。
「”自分”に酔うなよ、青木百合――」
仲間であるはずの一輝でさえもゾッとするほど冷たい声色で、土御門伊織は目の前の少女に向けて言い放った。
悪しき教祖を前にしたときよりも、怒りの度合いでいえば間違いなく上だろうと断言できる。
伊織は、単純にムカついたのだ。
自分よりもずっと幼い少女が、まるで世界の不幸をすべて背負っているような瞳をして、その主張を他者に押しつけようとしていることに対して。
「――哀しい思いをしているのは、貴様だけではないぞッ!」
――土御門伊織もまた、心に一抹の哀しみを抱えていた。
理由は先程の放送だ。彼女の知り合いである青年・
鬼一樹月の名前が、まるで有象無象を数えるように読み上げられた。
自分だけではないはずだ。
この会場には、そういう”寂しい思い””哀しい思い”をしている人たちが、山ほどいる。
それなのに、自分のみを悲劇のヒロインとして振る舞うこの少女へと、
伊織は怒りを覚えずにはいられなかった――。
「…………黙れ!」
伊織の鬼のような気迫に臆することもなく、百合は逆にその可愛らしい声で彼女へと怒号を返してのけた。
大の男である一輝さえ怯ませる一喝に百合が屈しなかった理由など、改めて言うまでもない。
彼女の兄へ向ける愛は、人外の存在である伊織をも戦慄させるほどに深く重く、彼女の全てを変えてしまう力さえ持っていた。
だからこそ、優先される。
恐怖や後悔、裏切ったことに対する罪悪感、それらの人間として当然な感情の全てを無視して、愛が先走る。
ゆえに彼女は止まらない。
「もう、あなたと語ることはない」
伊織の声が一転、低く冷たいものへと変化する。
先程の喝が純粋な力だとすれば、この冷たい声は搦め手だ。
一撃の威力では遥かに劣れど、秘めたる威力は大きい。
つまり、何が言いたいのかといえば。
「青木百合。最後通告です。武器を捨ててひざまずきなさい。そうすれば、最低限あなたの命だけは守ってあげましょう」
「それでお兄ちゃんは帰ってきますか?」
「百合……あなたは、まだそんなことを……! あの人無が、本当に願いなんてものを叶えてくれるとでも!?」
「叶わないなら、どうにかするだけです」
まるで、山を相手に相撲を取っているようだ。
伊織があまりにも明確な殺気を籠めた口調で百合を半ば脅しに近い形で『説得』しているのに、彼女にはまるで通じていない。
それだけに強い想い――一輝はどこかで聞いた、ヤンデレという言葉をぼんやりと思い出していた。
偏執的な狂愛。それが、青木百合のカタチ。
「なら、ここで死になさい」
最早一瞬たりとも躊躇することなく、伊織は手持ちの投げナイフを百合の額めがけて投擲する。
頭蓋骨は硬い。貫通は出来なくとも、怯んだ隙があれば今度は確実にその首を貫くことができる。事実上の王手だ。
かきん。そんなくだらない音がした。
「な、にっ!?」
百合は、笑っていた。
足下にはついさっき投げたばかりのナイフが、そのままで落ちている。
血液の一滴すら付着していない小綺麗な様相が示すのは単純明快、ナイフが青木百合によって弾かれたことに他ならない。
百合は普通の少女だ。
その普通の少女がこんな芸当を行えたのは単なる偶然。
だがその何てことのない偶然は、伊織のような年輩者にも畏れを抱かせるほどの要素に昇華する。
特に――”こんな状況”ならば尚更だ。
「不用心すぎるんですよ、土御門さん。あなた、私を警戒していたんでしょう? 今まで気づかせなかったのは大したものですけど。
でも、私なら支給品くらい奪いますよ? それなのに――ほんとうに、不用心なひと」
文面だけで見れば静かに語っているようだが、事実は異なる。
少女の可憐なシルエットに不似合いな斧を振り回して、百合は伊織を殺すために全力を注ぎながら話していた。
投げナイフも、これほど肉薄されては意味を為さない。
ただの近接武器として、あまりに不細工な使用法をするより他にない。
更に、伊織にはもう一つ不利が重なっていた。
それは、悪意の権化、終末の教祖。
阿見音弘之が青木百合という『火種』へ火を灯すために行った、銃撃による傷だ。
最低限の処置はしているにしろ、まったく痛みがない筈がなかった。
「土御門、任せろ!」
伊織が背筋に寒いものを覚え始めた丁度その時に、これまでずっと外野から傍観に徹していた一輝が鋭い蹴りを百合の横っ腹に叩き込んだ。
如何に狂乱の最中にあっても、少女の肉体に成人男性の打撃が直撃すればまったくの無損害とはいかない。
百合の身体は容易く崩れ、斧こそ取り落とさなかったものの、伊織から結構な間合いを引き離されてしまった。
攻める好機と一輝は判断したが、伊織は彼の手を強く引いた。
彼女はしっかりと見ていた。
百合は蹴られて崩れ落ちても、すぐに攻撃に移れるような体勢をぎこちないながらも作り、敢えて苦しんでいる振りをしているのだ。
「ここは一度体勢を立て直します――早く!」
「あ、ああ」
普通は逆だろうに、伊織が一輝の手を引っ張って、豪邸の上階へとせわしなく二人はあがっていく。
一人残された百合は、蹴られた腹部を少し押さえて表情をしかめた。
だがそれも数秒。骨がやられているような感触はないようだし、内出血をもよおすようならあの二人を殺してから処置すればいい。
優先順位を、間違うな。
「……逃がさないわ、誰一人」
少女の口元は、邪悪な三日月を象っていた。
◆ ◆
豪邸内で今まさに殺し合いが勃発していることに気付く様子などなく、ただ自然に何となくやってきた男がいた。
こちらもまた口元に邪悪な笑顔を浮かべて、この状況を楽しんでいると暗に宣言しながら、楽しむように一歩一歩を歩いている。
最悪の犯罪者・
佐々木竜也にしてみれば、今はまさしく最高にハイな状況だった。
放送を聞いたところ、自分の壊した青髪の少年を初めとした、20人以上もの人間が既に命を落としているというではないか。
これで感情を抑えろという方が無理な話だ。
上機嫌を隠そうともせずに、佐々木はにたにたと笑う。
「さぁて、俺もそろそろ頑張っか」
こんなに楽しい祭りなのに、まだ一人も殺せていない。
間接的に破滅に追い込んだ奴なら一人いるが、あれは放っておいても長生き出来なかっただろうからノーカウントだろう。
飢えている。人を殺した時のあの爽快感に、鮮血を浴びた時の快感に、どんな音楽より甘美な断末魔の悲鳴に。
幸い先立つものはあるのだ、何も恐れることはない。
好きなように殺して殺して、前回のように間抜けな油断が原因で殺されるなんてことにならないことだけ気をつけてやればいい。
あとは楽しく愉快に遊んでいれば良いだけだ。
幸い――遊び道具なら、まだまだ沢山あるのだから。
(ワクワクすんなぁ。やっぱり最高だぜ、バトルロワイアル)
犯罪者は水を得た魚のように上機嫌だ。
そして向かうのは現在進行形で波乱の起きている豪邸。
これで、何もおきないわけがない。
◇ ◆
伊織と一輝は結局、打開策と呼べるほど上等なものを編み出すことは出来ず仕舞いに終わっていた。
なにぶん、二人の武器といえる物は大鋏と三本の投げナイフだけなのだ。
一撃で制圧することは出来ないし、接近戦をするにはどちらも手負いで決して万全の状態であるとは言い難い有様である。
勿論、伊織の退却は英断だった。
僅かにでも体勢を立て直せた、ただこれだけのことでも戦況は大きく変わってくる。
あらかじめ襲ってくるのが分かっていれば、いくらでも迎え撃って仕留めてやることは可能な筈だ。
もう和解の道は考えていない。
万一彼女に偽りの降伏で欺かれるようなことがあれば、後々最悪レベルの崩壊を招いてしまうことにも繋がりかねないだろう。
そして百合は、それをやる。
彼女にとっては罪悪感だとか呵責の前に、兄への愛情が優先されるのだ。
そんな相手と、話が通じる道理がない。
だから、ここであの少女を容赦なく殺す。
決して理由なき殺人ではない。
罪のない人々へと彼女による危害が加わらないための措置だ。
ただ命が惜しくて乗ることを決めた相手ならまだ無力化の可能性はあれど、伊織さえ怯ませる異常な愛を抱いた狂愛者を生かしたままにしておくのはあまりにも危険が過ぎる。荷物どころか、とんだ爆弾だ。
「来ますよ、一輝!」
伊織が叫んだのと、豪勢な扉が破られるのはほぼ同時のことだった。
その向こうにいるのは、当然ながら青木百合だ。
しかしながら彼女は、少女とは思えない乱暴さで施錠がされていなかったとはいえ扉を蹴破り、言葉を交わすこともなく一輝へと襲いかかる。
一輝は斧の一撃を辛うじて避けるが、その頬に浅い切り傷が一筋浮かんだ。
たらりと垂れてくる血液が、これが紛れもないリアルであることを実感させてくれる。だるがってはいられない。
二度目の大振りは間髪入れずに頭めがけて振り上げられ、振り下ろされる一撃を一輝は、両目を瞑って大鋏で止めようとした。
当然ながら危険な行動だ。
最悪指を切断されかねない、防御と言うにはあまりにお粗末な動作。
でもその判断は結果として彼を救った。
振り下ろす際の隙を見逃さなかった伊織は、彼女の腕めがけてナイフを放ったのだ。
狙いに気付いた百合がギリギリで身を反らし、直撃だけは避けたが、肩の少し下をナイフの冷たい質感が通り過ぎていった。
血液が出てくる感覚が心地悪い。
さしもの百合も続けて攻めるのは不利と悟り、ナイフをしっかり拾い上げつつ転がるようにして一輝から距離を取る。
次に百合は、拾った二本のナイフの内の一本を窓際の伊織へと、お返しだとばかりに不細工なフォームで放り投げた。
それでも投擲用のフォルムがお世辞にもいいとはいえない姿勢で放たれ刃を、立派な凶器となるまでに修正しながら伊織を狙う。
むろん、伊織だってそれを読めないわけじゃない。
百合は決して周囲を見失っているわけではなく、しっかりと知性を保ちながら狂っていることは見ただけで明らかになることだ。
ナイフを拾っているのは間違いないと、既に確信していた。
だから彼女の次なる一手もつつがなく予測できたし、ぴしりと音を立てて窓ガラスへ突き刺さったナイフを回収することも出来た。
こうなれば、不利なのがどちらかは確定的に明らかだ。
「あら、どうしました? さっきまでのキレが無いようですが」
「くっ……!!」
百合は歯噛みする。
ナイフに裂かれた傷口が未だ痛みを訴えている。
どこかの腱を損傷するよりかは幾分もマシだが、単なる痛みだけでも時にそれは人の集中力を鈍らせる。
今の彼女は、劣勢となってきた状況に間違いなく焦りを覚えていた。
失敗したと彼女は思う。
あの時逃げる二人の背中にナイフをぶつけていれば、最悪どちらかだけでも戦闘不能にまで追い込めていたかもしれないのに……!!
ディパックには、まだ『切り札』が残っている。
これを使えば状況を切り返してみせる自信は十分にあるのだが、果たしてこれだけで本当に戦況を覆せるのか。
自分への疑念まで高まっていく百合の明らかな憔悴を、見抜けないほど伊織は未熟者ではない。
「仕掛けてこないなら、こちらからいきますよ――」
いきますよ、とは言ったものの。
その言葉が紡ぎ終わった時にはもう、二人は同時に動き出していた。
まずい。力押しに訴えられては、非力な自分に勝ち目はない。
(落ち着け、まずはナイフで川内さんを――――っっ!!??)
振りかぶった腕に、突然の激痛が襲う。
伊織の投げたナイフの一本が、百合がナイフを投げようと振りかぶった右腕に、しっかりと縫い止めるかのように突き刺さっていたのだ。
激痛に思わず苦悶の声が漏れる。
「一輝っ!」
「分かってる!」
川内一輝の突貫が迫る。
斧で切り上げの一撃を放たんとするが、激痛に阻まれた。
それは奇しくも先程伊織が感じたものと同じ感覚。
負った傷の痛みが集中だけでなく、明確にその人の動きを奪う。
力のない一撃が放たれるより早く、一輝のタックルが百合を捉えた。
床へと勢いよく叩きつけられ、鈍い痛みに目を見開く。
だめだ。
殺せ。
お兄ちゃんのためだ。
殺せ。
殺せ。
殺せ。
殺せ。
殺せ。
喧しく喚く脳裏に、しかし身体は応えず。
「がはっ」
肺の空気を吐き出して、脱力する。
静かに百合は目を瞑り、抵抗を示さなくなった。
気絶――ノック・アウトが決まったのだ。
◆ ◆
佐々木竜也は、破顔していた。
彼ほどの犯罪者が、とんでもなく己の好奇心をそそられる存在を目の前にして、是非この人物を破壊したいと願っていた。
彼の目の前で獰猛に微笑むのは、まだ若い外人の女だ。
黙っていれば十分美女と呼べるだろう身体と顔を持っているにも関わらず、爛々と煌めく殺意の色が隠し切れていない。
いや、隠そうとすらしていないのだろう。
佐々木には眼前の美女がどういった人間であるかが分かる。
まるで自分のことのように、正しく自分のことのように分かる。
だからこそ彼は、やけに馴れ馴れしげな口調で訊いた。
「お前、殺人鬼だろ?」
なんとも不躾な質問ではあるが、佐々木は疑問どころか確信さえ抱いて、彼女へとこんな問いを投げたのだった。
似た者同士は牽かれ合う。
まるで磁石のように、逃れようのない因果に引き合わせられる。
この女は鑑だ。
もしかすると佐々木竜也という”天下に名を馳せた大犯罪者”よりもずっと犯罪者らしいかもしれない、生粋の狂人であると。
佐々木は確信していた。
「さぁな。ただよォ、オマエはどうしてか他人って気がしねェんだよなァー……」
「奇遇だな。俺も同感だ」
二人の犯罪者は奇妙な親近感を前にして、静かに笑い合う。
だがそんな一時の安らぎは、文字通り一時の短さに終わった。
美女が動いたのだ。まだ品位を保った笑い声を突然哄笑へと変化させ、コンバットナイフを手にした右腕で佐々木の顔面を切り裂く。
――筈だったが、佐々木はそんなことも読めない雑魚ではない。
彼もまた、安穏とした談笑で終わらせる気など無かった。
似た者同士ならばなおのこと、殺してみたくなる。
相手が仕掛けて来なかったら、きっと佐々木から仕掛けていただろう。
ひょいと身を反らすだけで、猛獣の剛爪にも似た激しさで通過していくナイフの一閃を佐々木は難なく回避する。
「ッハァ! イイねイイねェ! やっぱこうじゃねェェとなァァ!!」
「喧しいな、おい。弱く見えるぜ」
女の攻勢は激しい。しかも彼女は相当な上機嫌に心を彩られているようで、まさしく”全開モード”と呼ぶに相応しい状態にある。
女性の肉体とは思えぬ力強さとしなやかさは佐々木ほどの実力者さえも舌を巻くそれで、気を抜けば一瞬で”持って行かれる”だろう。
相川友や
浅井政喜の時とは違う。
油断をしていないのは当たり前、更にもう一段階上の気を張っておかなければ、最悪殺されても可笑しくはないと感じた。
冷や汗という感覚は、なかなかに新しい。
「言ってろ、ドアホがァァッッ!!!!」
瞬と走った斬撃を切り抜けた先から来るのは、女の爪による原始的な攻撃だった。
威力なら大したことはないのだろうが、爪というのはなかなかに侮れない。
佐々木はいつかの時に自分も爪で他人を傷つけた経験を思い出しながら、避けられずに頬を女の爪で浅く抉られた。
痛々しい傷口が生まれるが、佐々木も負けじと女の腹へ鋭い蹴撃を放ち、劣勢の戦況をとりあえず切り返してのける。
面倒臭ぇ奴にちょっかいをかけちまったかねェ。
佐々木は頬よりじりじりと脳へ届けられるじくじくとした痛みを感じながら、自分の迂闊さを少しだけ後悔した。
拷問をする楽しみは大きい。プライドの下手に高い野郎を屈服させてひざまずかせる快楽はどんな営みにも勝るだろうと信じている。
だが、目の前で暴れる狂人のような崩壊者にはそれが逆効果である可能性もまた結構に高いのも事実。
故に、こういった手合いは遠くからパコーンと射殺すに限るのだ。
「オラ、今度はこっちから行くぞ」
Cz75を取り出し、やや気だるげに佐々木は引き金を弾いた。
放たれる弾丸を女はまるで予期していたかのように避けるが、このくらいのチャチな攻撃は避けてくれないと困る。
銃で殺された男が語るのも何だが、銃とは決して絶対の武器ではないことを彼は長年の経験上知っている。
もちろん手軽に力を示せる意味では便利なこと極まりないのだが、確実に相手を殺したいなら爆弾でもブチ当てればいいのだ。
ならば、こういうカッ飛んだ輩にどうやって銃を使うのが正解か。
答えは単純だ。
”銃をメインではなく、引き立て役として使う”――!
「ヒャーッハハハハ! 遅っせえ、百年遅せェんだよバーカ!!」
「さて、馬鹿はどっちかね」
迫る女へもう一度引き金を弾く。極めて冷静に、例えるならゾンビを撃ち殺すホラーアクションゲームでも遊んでいるように。
危機感を放り捨てて、対象を実際には存在しない幻影だと脳を騙してやればあら不思議。妙な焦りも不安もどこかへ飛んでいく。
女の額を真っ直ぐに射抜く算段だったそれは、間違いなく直撃コースだった。それでも、異様な身体能力で女は鉛弾をかわす。
やはりか。佐々木は顔には出さずに笑う。
この女はどういう理屈か知らないが、とても人間とは思えないような化け物じみた身体ポテンシャルを有していた。
あの間合いで、あのコースで撃ち込んだ銃弾を完璧に避けると来れば、それはもう疑いの余地もなく確定である。
だが相手は人間だ。
佐々木竜也は、人間相手なら絶対に負けない自信がある。
事実、いよいよナイフの間合いとなってもなお彼は無様に焦ることなく、やっと感情を表情に出してのけた。
――――笑顔を。
パァン――と、安っぽい音が鳴る。
瞬間、あれほど肉薄していた女が崩れ落ちた。
「が、ァァああああああああああッッ!!!???」
「電磁砲だ、バーカ。手前に酔ってるからこうなるんだよ」
くっくっと笑いながら、佐々木は女の頭を踏みつけた。
女性へのデリカシーだとか、そんな下らないものはこの卑劣漢に存在している筈もない。
もし少しでもそんな優しさがあったなら、彼は凶悪犯罪に手を染めることもなく、殺し合いを開いたりすることもなかった筈だ。
そんな卑劣な男は、自分に傷を負わせてくれた女をそう簡単に殺してやるつもりはなかった。
拷問はほぼ無意味だろうが、せめて激痛に喘ぐ声くらいは聞きたい。
一頻り楽しんだらその時は情けをかけずにブチ殺すのみだ。
「んじゃ、先ずは耳たぶいってみっか?」
言うなり、佐々木は躊躇なく懐から取り出したダーツの矢を握り込む。
すると、未だ反抗の意志を剥き出しにしている女の耳たぶに微塵の容赦すらもすることなく突き刺した。
呻き声すら漏れない。ダーツの先端を見れば少し血が付着しており、突き刺した傷口からは確かに血が少しではあるものの流れていた。
「まぁ、さ。折角なんだし達磨にでもなってみ――――」
その時、佐々木は一つの違和感に気が付いた。
それは常人ならば見落としてしまいそうな小さな違和感。
快楽に身を委ねただけの未熟な殺人鬼ごときでは気付けはしないほどに小さなそれを、佐々木の犯罪者としての経験が敏感に察知した。
女からは、一切の絶望が感じられない。
これだけの絶対的優位に立たれて、電流によるダメージも負っていながら、ほんの僅かな悲観すらも感じられないのはおかしい。
マゾヒストという訳でもないだろうに、何故?
佐々木が結論を導くよりも速く、彼は一閃された。
「な――」
速い。
さっきまでも十二分に高速といえたが、今のは明らかに人間の範疇を超えてはいなかっただろうか。
違和感に気付いて一歩距離を取っていたのが幸いした。
浅くはあるが傷口は袈裟斬りだ。あと一寸でも距離が近かったなら、生命の危機に相当する大怪我になっていたかもしれない。
「ヒャッハハハハァ! ありがとォございましたァ、コイツで何だか一層気分が高まっちまったぜェ。エクスタシィィィイイイ!!!!」
「なんだ、お前。狂ったのか?」
「あぁ? オイオイ、そいつァ野暮って質問だろォがよ――」
佐々木は最早一瞬の迷いもなく決断した。
電磁砲を切らしている現状では目の前の怪物を打ち倒す術は残念ながら存在しないし、まさか交渉の通じる相手だとも思えはしない。
逃げる。屈辱的ではあるが、プライドにかこつけて命を落としてしまっては元も子もありゃしないのだ。
そこのところを割り切らないと、犯罪者なんてやっていられない。
「俺はァ――”暴食”の精霊ッ!
ジャック・ザ・リッパー君なんだからよォォォォ! 宜しくな、そしてシーユーアゲインッッッ!!!!」
佐々木はマガジンを取り替え、再び発砲する。
幸いこの邸は結構な豪邸だ。広さも身を隠す場所も十分にある。
殺すことを諦めて逃走することへ目的を切り替えた彼は、迫る強大な暴力から逃れるために同じ暴力で培った力をフル活用する。
どこか滑稽な光景がそこにはあった。
(……ジャック・ザ・リッパーだと?)
ロンドンの切り裂きジャック――
その名を名乗った女に一抹の疑問を抱きながら、佐々木は逃げる。
「逃がすかよォ! こちとら漸くでけェ身体に戻れたんだ、ブッ殺してブッ殺してブッ殺し尽くっさねェェと割に合わねェんだっつゥーの!!」
なお、犯罪のエキスパート・佐々木竜也は見事精霊からの逃走を果たした。
ただし、彼の肉体へは傷が刻まれた。
油断でもなく純粋な実力で傷を背負わされた事実に、さしもの佐々木も苛立ちの感情を押し殺しきれずにいた。
最終更新:2013年02月03日 21:38