松岡修造とは7up、黄金の中の神である。
修造式説明道場
概要 [編集]
慶應義塾幼稚舎・慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校を経て柳川高等学校中退。ATP自己最高ランキングはシングルス46位、ダブルス95位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス1勝を挙げた。現役を退いた後はジュニアの指導にあたるとともに、現役時代の経験と熱血漢的キャラクターを活かしてスポーツキャスター・タレントなど幅広い範囲で活躍中。日本オリンピアンズ協会の理事も務めている。
人物 [編集]
プロ入り前 [編集]
慶應中等部在学中にジュニア選手の登竜門と言われるアメリカの「オレンジボウル選手権」で優勝を果たすなど、早くからテニスの才能を開花させる。その後、慶應高校に進むもテニスの名門・柳川高校に編入。同高を中退後、渡米。1984年にインターハイを制覇し、1986年にプロ転向。プロ転向に先立つ1985年のジャパン・オープン・テニス選手権では予選を勝ち上がり本戦出場を果たしている。
プロ転向 [編集]
プロ転向後はツアー下部大会を中心に転戦していた松岡であったが1988年から本格的にツアーレベルの大会に出場するようになり、1988年全豪オープンで予選を勝ち上がりグランドスラム初出場を果たすと、4月のジャパン・オープン・テニス選手権3回戦では当時世界7位、第2シードのミロスラフ・メチージュ(チェコスロバキア)7-6,6-3のストレートで下す活躍でベスト8進出の成績を残す。10月にはオーストラリア・メルボルン大会でベスト4、同・シドニー大会、セイコー・スーパー・テニスでそれぞれベスト8に進出するなど3週連続で好成績を収めた。これらの活躍により、ランキングも年初の252位から年度末には82位と大幅に上昇、日本人選手としては1976年に76位でシーズンを終えた九鬼潤以来12年振りの年間トップ100入りを果たし「世界に通用する日本人プレイヤー」として一躍注目を浴びる。1989年も年初のニュージーランド・ウェリントンで自身初のツアーシングルス決勝進出を果たし準優勝、翌週のハイネケン・オープンではスティーブ・ガイ(ニュージーランド)と組んで出場したダブルスでツアー初優勝を遂げる等引き続き好成績を収めていったが、両膝の半月板を損傷するという故障に見舞われ、3月のマイアミ・マスターズ2回戦敗退を最後にツアーの一時離脱を余儀なくされる。その後2度に渡る手術からリハビリの末7月のドイツ・シュツットガルト大会で復帰するも、その後は多くの試合に出られず、出場した大会も全て1回戦負けという成績で年度末ランキングを181位にまで落としてしまう。更に1990年のセイコースーパーテニスでは転倒した際に左足首の3本の靭帯全てを断裂するという大怪我を負い選手生命さえ危ぶまれたがこれも諦めずリハビリを続け、1991年にはツアー復帰。怪我明けながらこの年は好調で、7月のカナダ・マスターズ3回戦では当時世界ランク9位の第4シードピート・サンプラス(アメリカ)を2-6,6-4,7-6(8)のフルセットで下し、アンドレイ・チェスノコフ(ロシア)との準々決勝まで進出、完全復活を印象付けた。翌1992年には4月の「韓国オープン」決勝で、トッド・ウッドブリッジ(オーストラリア)6-3,4-6,7-5のフルセットで下し、日本の男子選手として初のATPツアーシングルス優勝を達成。同年6月のイギリス・クイーンズ・クラブ選手権では2回戦でマラビーヤ・ワシントン(アメリカ)を4-6,7-5,6-3の逆転で、3回戦で第5シードのゴラン・イワニセビッチ(クロアチア)を6-4,3-6,9-7のスコアでそれぞれ下すと、準決勝では当時世界ランク2位、第1シードのステファン・エドベリ(スウェーデン)と対戦。これを1-6,7-6(6),10-8の接戦で勝利する番狂わせを演じ、ウェイン・フェレイラ(南アフリカ)との決勝戦に進出。決勝ではフェレイラに3-6,4-6のストレートで敗れ準優勝に終わったが、この活躍により翌週のATPシングルスランキングで自己最高の46位を記録した。この順位は2009年現在も日本の男子選手が記録したシングルス最高位である。しかし、同年末に伝染性単核球症に罹患し、またも長期の入院生活を余儀なくされる。
ウィンブルドンベスト8へ [編集]
その後はなかなか世界ランキング100位の壁を突破できずに苦しむが1995年のウィンブルドンでは出場者に欠員が出たことにより当初予選からの挑戦予定だった松岡に本戦出場資格が回ってくる。この大会が松岡のハイライトとなった。
一回戦でカレル・ノヴァチェク(チェコスロバキア)に24ものサービスエースを奪われながらも6-4,6-7(5),3-6,6-3,6-4で粘り勝ちを収め、3回戦のハビエル・フラナ(アルゼンチン)戦も7-6(3),3-6,6-7(6),7-6(4),6-3のフルセット、3時間45分の大接戦を制し、四回戦ではマイケル・ジョイス(アメリカ)を6-3,6-2,6-4で破り、日本人の男子テニス選手として1933年の佐藤次郎以来62年ぶりのベスト8入りを果たす。その時の松岡の感動の大きさはコートを駆け回り、最後はコート上で大の字になって空を仰いで表現していたことからもうかがえる。その準々決勝では1番コートに立ち、大会第2シード、当時世界ランク2位のピート・サンプラス相手に第1セットを先取するも7-6(5),3-6,4-6,2-6のスコアで惜敗した(念願だったセンターコートでの試合は1996年2回戦、ミヒャエル・シュティヒ(ドイツ)戦で実現する)。オリンピックにもソウル五輪、バルセロナ五輪、アトランタ五輪と3大会連続出場を果たした。
引退後 [編集]
1998年春に現役引退。その後はジャパン・オープンのトーナメントアドバイザーとして大会運営に携わる他、後継者育成のための指導を行っている。またスポーツコメンテーターとしても活動しており、日本テレビの『スポーツMAX』(2004年3月まで放送、月曜日)に出演。長野オリンピックやソルトレイク冬季五輪、またアテネ五輪の解説にも参加。2004年1月~3月に『エースをねらえ!』が実写ドラマになった時は、出演者のテニス監修を担当した。フジテレビの『くいしん坊!万才』のレポーター、2004年4月からはテレビ朝日の『報道ステーション』でもスポーツキャスターを務めている。また、たびたびTBSの『さんまのSUPERからくりTV』にも出演し、同番組内で明石家さんまと対決。現役テニス選手時代と少しも変わらない熱血ぶりを、テレビ解説を含む引退後の仕事でも披露している。近時はその好感度からイメージキャラクターとしての人気が際立って高く、2008年のCM起用ランキングでは木村拓哉と並ぶ男性1位(10社)に輝いた(ニホンモニター調べ)。
現役時代のプレースタイル [編集]
典型的なビッグサーバーで、サービスの調子が良い時はトップ選手でも手がつけられないほどの強さを誇った。だがその反面動きが硬く、多くの故障にも悩まされた。4大大会の男子シングルスは1回戦から5セット・マッチで争われるため、試合の終盤に力尽きるケースが多く見られた。その最たる例として、1995年のウィンブルドンで快挙を達成した後、全米オープン1回戦でペトル・コルダ(チェコ)と対戦中、痙攣を起こして身体が動かなくなり、試合途中で失格となったこともある。痙攣はテニス規則では「試合中の故障」とみなされないため、故障の治療時間として取れる3分間の「インジャリー・タイム」“Injury Time”の対象にならない。松岡のこの試合をきっかけに、テニス規則におけるインジャリー・タイムが見直され、その後「シュウゾウ・マツオカルール」として試合中の痙攣治療も認められるようになった。この件は世界的にも大きな反響を呼び、2008年に改訂されたバド・コリンズ著の「テニス百科事典」最新版の678ページで、テニス史に残る出来事として取り上げられた。
wikipediaより抜粋。
最終更新:2010年10月28日 20:45