年表(鎌倉~明治維新)
鎌倉時代
皇紀1846(文治2/西暦1186)年
源義経、九州逃亡に失敗し難破。熊野国葉吹の里に辿り着く。その後、一族郎党と共に信濃国を通って北上。奥州平泉に身を寄せる。
皇紀1849(文治5/西暦1189)年
源義経一行、藤原泰衡に攻められ、衣川館に火を放つ。焼け落ちた衣川館からそれと思しき遺体が人数分出たため、源頼朝は義経一党は滅亡したものと認める。
皇紀1851(建久2/西暦1191)年
武装した山伏と稚児が熊野国葉吹の里に現れ、霊山である葉吹連山を祀る葉吹神社に身を寄せ、社殿に昇る山門がある谷口に居を構え谷口と名乗り、葉吹神社の守人となる。
皇紀1881(承久3/西暦1221)年
承久の乱の戦後処理により、熊野国葉吹へ齢3つにして若葉姫(通称。配流に処する必要があるほどの歳でもなければ、処断されたどの人物の血縁なのかも今一判然としないが、承久の乱で入るされた三上皇の何れかの血筋と目される)が流される。若葉姫を預かった葉吹神社の神官一族、霧柄家を名乗るようになる。
南北朝時代
皇紀1994(建武元/西暦1334)年
吉野に逃れた南朝方の皇族の一部が熊野国葉吹に逃れる。
皇紀1996(建武3/西暦1336)年
葉吹に逃れていた南朝方の皇族、吉野方に合流する。
皇紀2225(永禄8/西暦1565)年
永禄の変により室町幕府第13代将軍足利義輝、討死。
安土桃山時代
皇紀2242(天正10/西暦1582)年
本能寺の変により織田信長、討死。
皇紀2243(天正11/西暦1583)年
羽柴秀吉による大坂政権が確立される。
羽柴秀吉、輸送力と航行速度に優れた南蛮船に興味を示し、自力建造を目指した検分を行う。
皇紀2246(天正14/西暦1586)年
羽柴秀吉、関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、以後豊臣秀吉と名乗る。
皇紀2247(天正15/西暦1587)年
豊臣秀吉、それまで九州を中心に行われていた事実上の奴隷貿易を『国の宝たる人の子を海外へ売り渡してはならぬ』として禁じる伴天連追放令を発布。
皇紀2249(天正17/西暦1589)年
豊臣秀吉に嫡男となる鶴松が誕生。しかし秀吉は既に高齢であり、一方の鶴松は病弱であったため、次善措置として羽柴秀次が条件付で豊臣氏の氏長者に指名される。
皇紀2250(天正18/西暦1590)年
豊臣秀吉、日本統一。諸大名の転封・加増・改易等を行い、またこれに伴って陸奥・出羽の分割(陸奥→陸奥・陸中・陸前・岩代・磐城、出羽→羽前・羽後)を行う。主な有力諸大名の領土は以下の通り。石高は太閤検地の結果確定後の数値であって当時の石高ではない。
・津軽家
陸奥
・南部家
陸中
・伊達家
陸前
・秋田家
羽後
・最上家
羽前
・上杉家(100万石)
越後、佐渡、越中、能登
・前田家(85万石)
越前、加賀
・真田家(10万石)
北信濃
・佐竹家(53万石)
常陸
・武田(仁科信基)家(21万石)
甲斐
・徳川家(163万石)
三河、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵(南信濃と甲斐に代えて伊豆、相模、武蔵)
・織田秀信家(27万石)
美濃東部
・大谷家(8万石)
若狭
・細川家(11万石)
丹後
・福島正則家(12万石)
讃岐
・長宗我部家(10万石)
土佐
・尼子家(8万石)
因幡
・宇喜多家(50万石)
備前、美作、備中東部
・毛利家(110万石)
安芸、備中西部、備後、周防、長門、石見、出雲、隠岐
・小早川家(33万石)
筑前半国、筑後半国
・大友家(13万石)
豊後
・立花家(10万石)
豊前
・鍋島家
肥前半国
・加藤清正
肥後北部
・小西行長
肥後南部
・島津家(57万石)
薩摩、大隅、日向半国
また嘗ての信長の野望であった海外進出を目論見、前段階として統一規格による検地と刀狩りによる兵農分離の実地、周辺地域(特に蠣崎氏が進出済みの蝦夷地以北)の探検隊の派遣を行う。
未だ天下取りの野心を持ち勢力拡大に余念のない伊達政宗、領地が増える可能性のあった北方探検に積極参加。
皇紀2251(天正19/西暦1591)年
伊達政宗らが主となって派遣した北方探検隊、樺太最北端まで到達。日本領であることを示す高札を立て越冬隊を残して引き返す。また別の隊は千島列島を伝い、大半島(後の神威嘉(かむいか、カムチャツカ))に到達する。
豊臣鶴松、死去。羽柴改め豊臣秀次、関白に就任する代わりに、従来統治していた100万石もの大領を秀吉へ返還。
皇紀2252(文禄元/西暦1592)年
豊臣秀吉、海外交易統制と倭寇排除の必要性から朱印状を発行。豊富な銀、銅、銅銭、硫黄、刀や漆細工のような工芸品、良質な紙(和紙)、周辺地域を余裕で圧倒する生産量を誇った鉄砲を代価として用いた南方貿易に乗り出す。
一方で絢爛豪華を旨とする安土桃山時代らしく、秀吉は寺社仏閣の修繕や建設も行ったため、元々戦国時代故に禿山が増えていた国内の森林が更に著しく減少。このため伐採と森林育成の計画化が行われ、禿山となっていた各地の山で植林が大々的に行われるようになる。薪炭資源の減少等から一部地域では石炭への転換が細々と始まる。
また北方探検隊が帰還し、北の大地は寒さは厳しいものの既存進出勢力がなく、良質な森林に恵まれ、海産物に富み毛皮などの珍品豊かであることを報告する。
秀吉は亞細亞諸国服属の前段階として国力拡大を企図し、南方貿易・北方開拓路線を決定。諸大名を動員し、大坂湾沿岸を成す摂津・淡路・和泉に大規模な造船所と港の普請を開始。この結果文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が回避される。この為、朝鮮半島への明軍の介入が起こらず、朝鮮半島での中華政権に対する明確な服属意識も醸成されず。
朱印船貿易による鉄砲輸出は、戦国時代を経て安定的にほぼ均質の火縄銃を安価に量産する体制を確立していたこともあり、莫大な利益を得た。特に未植民地化の東南亞細亞諸国とは、香辛料や砂糖との取引が行われ、各地に日本人町が建てられた。東南亞細亞(特にシャムのアユタヤ)は木材の品質も良く造船技術も優れていたため、現地に造船所を建設し南蛮船の修理や建造も頻繁に行われた。この縁でイスラム商人などから輸入された工芸品にはダマスカスソード(玉樹烏(たまじゅがらす)刀)が含まれており、その独特の文様と切れ味から諸侯に珍重され、日本中の刀鍛冶が再現を試みるようになる。
日本統一により余剰となった兵力は、随時商船護衛のための水軍や、商船独自の用心棒に転換されるようになる。
皇紀2253(文禄2/西暦1593)年
豊臣秀吉、豊臣拾丸(後の関白・太政大臣、豊臣秀頼)誕生。豊臣秀次、自政権が秀頼成人までの時限政権であることを朝廷と諸大名に承認させる。
皇紀2254(文禄3/西暦1594)年
樺太、神威嘉に進出した北方開拓使、開拓拠点としてそれぞれ尾羽(オハ)と大北湊(おおきたのみなと、後の大北港)を拓く。またそれらを拠点に、随時探検隊を派遣する。
厳しい寒さに対応するため服飾産業が発達。北方開拓使として派遣される兵向けに、武具の下に着られるある程度規格化された防寒服の量産が望まれたため、工場制手工業が史実より200年以上早く勃興する。
また南方貿易で明からの絹の輸入が拡大する一方、国内の生糸の品質改善も進行する。
皇紀2255(文禄4/西暦1595)年
北方開拓使、安室(アムール)川河口に進出。将来の民国征服という野望達成のための兵質維持のため、比較的大きな戦力が訓練目的のため派遣。そこから川伝いに上流へと移動し、安室(アムール)川と碓斐(ウスリー)川の合流点に進出拠点としての城(街)を築くための適地を発見。同地を巾呂府宿(ハバロフスク、通称巾呂府)と名付け、手始めに砦の建設を開始。
皇紀2256(慶長元/西暦1596)年
土佐国にイスパニア船が漂着するサン=フェリペ号事件発生。船員は丁重に扱われた上、損傷著しいサン=フェリペ号は解体の上で豊臣政権が提供した代船で積荷・船員共に呂宋(ルソン)へ返される。
皇紀2257(慶長2/西暦1597)年
尾羽から海を渡った探検隊が、千島列島の対岸にある越冬地の建設に適した土地へ到達し、同地を大筑(おおつく、オホーツク)と名付け、また樺太、千島列島、神威嘉、大筑の間に横たわる大海を大筑海(おおつくのうみ)と名付ける。
皇紀2258(慶長3/西暦1598)年
豊臣秀吉薨去。死の間際、『国を閉ざすべからず』『国を乱すべからず』と遺言し、『理法式目』を定めた上で暫定的な政権を調整型宰相である豊臣秀次に継承する。
秀吉の葬儀後、秀吉が秀次や有力大大名らと図って『理法式目』によって定めていた新体制が発足し、前田利家を筆頭とする有力六大名(残りは徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、小早川隆景(朝鮮出兵が無く、海外進出にあって水軍が拡充されたため未だ現役))ら大老の合議に拠って政治決定が成され、暫定決済者である秀次が秀頼の名代として決定を承認。その処理指示を五奉行(浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)が担うものとし、諸大名が指示の実行を行う型式を取った。またこの六大老をそれぞれ越前、駿河、安芸、越後、備前、豊前に設置した鎮守府の将軍に定めた。
しかし事実上の『理法式目』を政権の最高法規とする法治主義は文治主義でもあり、戦国時代の気風が強い大名らからは文治主義の台頭を快く思わない者も多かったが、前田利家ら戦国の覇者たる大大名の大老が睨みを利かせ、また血の気の多い連中には積極的に海外進出を促し収入を増加させて懐柔するなど、豊臣政権の家中融和に務めた。
この時点で豊臣秀吉亡き後の政権内部で最大の実力者であった徳川家康は、石高の上では随一であったが、決定的に引き離しているとは言い難く、豊臣政権への忠誠篤い諸侯を敵に回してまで天下分け目の戦いを挑める程にはなかった。諸侯も徳川家康の野心を警戒して隙を見せることはなかったため、権力闘争は無視出来る程度の小競り合いを除いて膠着状態に陥る。
皇紀2259(慶長4/西暦1599)年
大老筆頭・前田利家、病に倒れるも快癒。しかし豊臣政権は動揺。世情不安が広まる。
大坂時代
皇紀2260(慶長5/西暦1600)年
権力基盤が脆弱な秀頼へ確実に豊臣家を継がせるため、秀頼を現関白・太政大臣である秀次の猶子とすることが秀次と六大老によって決せられる。
大老・小早川隆景死去。六大老は五大老となり相対的に毛利家の力が下がり、徳川の力の抑えが若干減少したこともあり、豊臣政権の安定性が損なわれる。一方で決定的な大義名分を誰も得ていないため、婚姻政策のような挑発行為も慎まれたことで微妙な均衡状態が生まれる。
天下統一10年を以て、国家の結束性を示すべく後陽成天皇の臨席の下、関ヶ原に於いて諸侯の軍勢を並べた観閲式が執り行われる。遅参・欠席を許されない観閲式の開催によって失脚の口実を与えることを恐れた諸侯が集い、己が軍勢を厳しく律して魅せた結果、ますます開戦に不利な雰囲気が醸成される。確固たる政権基盤を持たないままに豊臣政権を継承した秀次・秀頼を中心とする豊臣家に対する忠誠心の高い西国諸侯と、明らかな野心を見せて地盤固めを行いつつも尻尾を掴ませない徳川・伊達のような東国諸侯の膠着が続く。
皇紀2263(慶長8/西暦1603)年
伴天連追放令の発布や明国の統治能力低下により、南蛮船や倭寇船による威圧・海賊行為が目立ち始め、莫大な利益を上げていた東南亞細亞との貿易航路が脅かされ始める。各地の拠点への急速な兵力の配置や軍船の増産といった統一性の取れた対応が急務となり、大老クラスの大領持ち単独では整備に多大な負担がかかることから、より一層現政権を降ろして次の天下人を狙う、また逆にその野望を持つ者を廃することが難しくなる。このため、限りなく現状を維持する形で明確な天下人を決めず、関白(豊臣氏)を決済者として名目上、天皇の名の下に天下を持たせることにし、豊臣家を支持する諸侯と大望持ちの諸侯との間で合議制を採ることにより政治的バランスを保つ方向性で、誰も潰れず潰されずの形で歩み寄りが始まる。
皇紀2264(慶長9/西暦1604)年
宇喜多・上杉・佐竹が連合し、徳川・伊達が連携し、それぞれ互いに牽制し合いながら遅れがちな東国の内政整備に励み、毛利・宇喜多が豊臣政権中央の吏僚である石田・増田・小西と連携して海外進出を進め、島津は奄美を領土とし、琉球と国交を開いて貿易を始め国力増大に務めるなど、暫定政権、諸侯の役割分担が進む。
その中で日本人街や海外航路の警備を担う軍勢(水軍)は、維持費と整備・維持に要する労力の観点から、諸侯ではなく日本という国家に帰属するものとして諸侯の利害関係の埒外に置かれるべきものとされ、それ故に諸侯の何れにも所属しない中立勢力であることが求められた。この為、一定の特権(賃金の優遇、海に出て外敵から国を守る尊い存在としての英雄化)を認める代わりに、例外なく日本という国家の守護者たるべき存在として行動する義務(今日で言う領海警備から航路啓開、通商護衛を、諸侯の利害関係に一切関与せず厳粛に法度・式目に従って執行すべし)を負わせた、「国家傭兵」とも表現すべき専従集団を設立する「日本水軍法」が、全諸侯の署名により承認され、「日本水軍」が堺港に置かれていた豊臣水軍(宗家直属のため現時点では諸勢力何れにも属さない中立存在)を母体として成立する。
この日本水軍法は、基本的に金食い虫である水軍(海軍)の整備で諸侯が軍拡競争を行う(そしてそれにより各国が民衆諸共疲弊する)ことを抑制することを目的としており、各諸侯には各年度の石高に応じて割り出された金の拠出を定めていた。同時に軽武装で輸送を主眼に置いた大型船の保有は認めたものの、各諸侯が独自に港湾警備艇以上の戦闘力を持つ軍船を整備することは、中央政府(豊臣政権)と大老の決済が無ければ建造できないものとされた。また諸侯独自の私兵の規模に関しても領地の実高1万石につき250名までを最大とする約定が交わされ、大量に発生した浪人は海外の日本人街や航路を警備する軍船の警備兵(水軍兵)、或いは代官として雇い入れるなどして減らす等の策が取られていった。
皇紀2265(慶長10/西暦1605)年
慶長大地震発生。房総半島から九州までの広い範囲に津波が押し寄せ、特に太平洋岸である東海道を領地とする徳川家康は海運面で被害を受け、大きく力を減じる。この結果、豊臣家の創り上げた官僚制を母体とした体制派の力が大きくなった状態で一応の政権安定が固定化される。徳川が内政に力を入れざるを得なくなった(≒天下取りが一層厳しくなった)状況で、伊達は徳川と距離を置き、現体制の中での生き残りをかけ、国内開発と北方進出を積極的に推し進める。諸侯も海外交易や南蛮の技術導入をも積極的に図る一方で、南蛮船による日本人奴隷貿易が存在した事実が問題視されたため、海外交易に於ける諸侯の不公平性の是正も兼ね、同時に南蛮諸国の植民地化の阻止のため、「教義の強制の禁止(≒信教の自由の保障)」と「奴隷貿易の禁止(形式上の移民や労働力としての国外移送を装った実質的奴隷貿易も含めての全面的なもの)」を定めた「布教令」及び「貿易令」を布告する。
この頃から、大坂城の関白を事実上の最高決済者として緩やかな連合国家として機能している現政権を指し、幕府に準えて「政府(時代が下ると鎌倉幕府や室町幕府に肖り「大坂政府」)」と呼ばれるようになる。
皇紀2268(慶長13/西暦1608)年
豊臣秀頼の元服に伴い、豊臣秀次は関白を秀頼に譲り、自らは秀頼の後見人として隠居し大御所となり、秀頼のブレーンとして現体制の安定化に努めるようになる。また高齢に伴い徳川家康も隠居し、家督を嫡男秀忠に譲る。
大坂政府は石田三成ら吏僚の補弼を受けながら、豊臣秀頼は統治機構改革を行う。大大名や豊臣恩顧・国主または国主格の大名を大老または中老として政府の閣僚に取り立てるものとし、それ以外の大名を各地の代官や奉行といった政府の行政官とするものと定めた。また、当人の資質により1台限りで代官・行政官も閣僚として取り立てる実力制を採った。
皇紀2270(慶長15/西暦1610)年
大坂政府は、伊達政宗が主導し支倉常長を実質的な団長として政府要員も乗せた遣欧使節船団を組織するが、ノヴァ・イスパニア(メキシコ)の統治体制(アステカを滅ぼし搾取している)を知り、かつての日本人奴隷貿易の存在を踏まえ同じことが日本にも起きる可能性があるとの結論に至り、「外交文書の不備の発見」を理由に道半ばで船団は訪欧を中止。ノヴァ・イスパニアの統治の実態が大坂政府にも伝えられる。
皇紀2271(慶長16/西暦1611)年
慶長三陸津波発生。北海道から陸奥までの広い範囲に津波が押し寄せ、沿岸部が壊滅。慶長大地震から復興中の徳川家を参考に、防潮堤を兼ねた新道の建築が各地で進められる。
皇紀2272(慶長17/西暦1612)年
外交方針を再策定した大坂政府の下、再度支倉常長を外交使節とする使節船団をヨーロッパへと派遣する。表面的には友好的ながら、貿易と使節の定期的な派遣はするが、現状以上の布教拡大は実質的に禁ずるものとした「日西通商条約」が結ばれる。またノヴァ・イスパニアへの航海に適した潮流を得易い伊豆(下田)や江戸(江戸湾全域)に港や造船所を築くことなども決定される。
皇紀2274(慶長19/西暦1614)年
北方開拓使は繁利亜(シベリア)に進出し、来利真(コリマ)川中流に砂金を発見する。過酷な環境ではあったが、政府は砂金・木材・毛皮の利益を求め、政府主導・出資額比率に応じ利益分配の形で来利真開拓を開始。大坂政府は蝦夷の北に広がる海を大筑(おおつく、オホーツク)海と名付け、繁利亜の大筑海沿岸に真家端(まかたん、マガダン)を拓く。
大坂に於いて、新参のイスパニアの宣教師が布教令と貿易令に反したため政府はこれを拘束し、大坂の南蛮商館街に海外へ強制的に送られそうになった日本人の引渡しを求めるが、商館街が門を閉ざし黙殺したため、政府軍がこれを包囲する事件が発生(大坂冬の陣)。欧米に比べると遅れてはいたが、大量の火縄銃を装備した万単位の軍勢による包囲に対し、商館街が大坂の街に火を放ったため政府はこれを殲滅。イスパニアに「貴国の宣教師は街に火を放ち殺戮を行うのが仕事か」と厳重抗議する。
皇紀2275(元和元/西暦1615)年
大坂冬の陣に対し、宣教師が用立てた(と思われる)ガレオン海賊船団が大坂に侵入。日本水軍と交戦し沈められるが、一部が大坂に上陸し沿岸の一部に焼き討ちを行う(大坂夏の陣)。政治・経済の中心たる大坂の治安が悪化し全国的な物流の混乱が発生し、安全保障体制に波紋を投げかける。大坂城下の屋敷を焼き払われた諸侯も最早国内での勢力争いに及んでいる場合ではないと痛感し、大坂政府の結束性は却って高まる。
この大坂冬の陣・夏の陣により、大筒(大砲)を装備した軍船や陸上戦闘での火力船が思いの外多大な火薬・戦費を消費したことから、政府は平時からの兵備蓄積の必要性を痛感。グレートブリテン(大府列顛)・オランダ(阿蘭陀)・イスパニア(伊西波)といった南蛮諸国との交易や遣欧使節団を通じて入ってくる情報から、国防こそ政府体制の安定と痛感した政府は更なる強力な外洋艦隊を編成し徹底的な海賊取締を行うことを決定。日本水軍の整備に更なる努力が傾けられることとなり、大坂政府は陸奥(大湊)・陸前(仙台)・越後(新潟)・若狭(舞鶴)・相模(横須賀)・淡路・安芸(呉)・肥前(佐世保)・豊後(大神)に大規模な造船所を築き始める。また陸奥・若狭・相模・淡路・安芸・肥前には各方面に分けた日本水軍専用の軍港を設けることになった。
政府は改めて布教令、貿易令を発布し、全国の寺社勢力、キリスト教勢力(切支丹)の綱紀粛正を行ない、宗教を倫理観・道徳観の養成の場に止め、無闇矢鱈と盲目的な信仰を強く戒め、それに反するものを徹底的に殲滅する。捕縛した者は北方開拓の労働力として強制労働刑に処した。
また日本へやってきたキリスト教の宣教師の内、日本社会に自発的最適化を志した国内キリスト教徒(後のクィリスト教、切支丹)に対し、「布教令・貿易令に反せず、日本社会に適合した全く新しいキリスト教を基盤とした宗教」であるなら布教を認めるという条件の元に保護を申し出、穏健派はこれを受諾。拠点は地形的に外部からの隔絶性が大変高く土地の生産性が低い紀勢国葉吹郡に移され、古くからの領主である豪族・谷口氏の監視下に置かれた。
尚、慶長19年~元和元年に於ける一連の大坂の陣を一括りにして、第一次日西戦争と言う。この時点では南蛮諸国への本格的侵攻など思いも寄らない程度の海軍力しか持たなかったため、敵遠征軍を殲滅し、南蛮の日本人街の一部引き払いが生じた時点で、互いに侵攻能力を欠いた為、戦争も含めた国交も自然消滅した(和議も結んでいないため、厳密には戦争は継続されている。それ故に、外洋艦隊建設の資金負担が各大名に肯定された)。
皇紀2290(寛永7/西暦1630)年
繁利亜(シベリア)は葉伊駈(バイカル)湖付近でロシア帝国と国境を接するに至り、大坂政府は広大な繁利亜各地の国割を行うと共に、使節を派遣しロシア帝国と葉伊駈湖にて礼奈(レナ)川を国境線とする日露和親条約を締結する。
欧米列強と初めて直接国境を接したことにより、大坂政府は異国人・異教徒への無理解から起きる偶発的武力衝突からの全面戦争を避けるため、日本の宗教観との比較教育を寺社を通じて行う。この過程で、切支丹はキリスト教から事実上解脱し、多くの日本人にも受け容れ易いマリア信仰を母体とした、日本神道的精霊信仰に近いものへと方向性を変える。
皇紀2297(寛永14/西暦1637)年
朝鮮半島に清が攻め入り、降伏させる。半島から攻め込まれない限り問題ないと考えていた大坂政府は、念の為に九州に於ける政府の出先機関である太宰府を設置し、日本水軍艦艇を博多港や対馬へ派遣したのみで、これを静観する。
皇紀2329(寛文9/西暦1669)年
蝦夷の役(シャクシャインの戦い)勃発。蝦夷南部の領主であった松前氏の不公正な交易体制の露呈を理由として、松前氏からの支援要請を拒絶。松前氏は各戦でアイヌ勢力に甚大な被害を与えつつも敗退。松前氏の敗退を見た大坂政府は日本水軍を派遣し武力介入。本格的な和議の交渉を始める。
皇紀2330(寛文10/西暦1670)年
松前氏は改易され、これまで蝦夷地に進出した各大名家についても、領地の所有権が否定され、交易の公平化が行われる。日本政府の敷く法度が基本的に理にかなっている事から、蝦夷地はシャクシャインを筆頭に、大坂政府の傘下に加わる形で有力首長が各地の封建領主として認められることになった。これによって蝦夷地は北海道に改称され、交易上の必要性から漢字や日本語のアイヌへの浸透が始まり、緩やかに日本人化していく。また日本の技術は蝦夷地改め北海道にも広く普及し、炭鉱と結合して巨大な生産力を得るに至る。
一方、イスパニア領であるマリアナ諸島に於いてイスパニア・チャモロ戦争が始まる。大坂政府は55年越しの大坂の役の借りを返す意味も含め、日本水軍の演習も兼ねて領海安堵を名目に艦隊を派遣。重要な交易航路での戦争を行わぬように強く威嚇し、国内と繁利亜から算出される莫大な金銀を背景にしてサイパン以北のマリアナ諸島をイスパニアから購入する(毬亞南の役)。サイパン島には「彩帆」、テニアン島には「手仁安」、マリアナには「毬亞南」という字を当てる。キリスト教と島の旧習の対立融和を図った際、キリスト教ジパニズム派が広まる。
蝦夷の役、毬亞南の役は政府の内政と外交に対し経験を与えることになり、内政に於いては穏便にして融和的で、非強制的な政策を(ある意味飼い殺しとも言う)、外交に於いては断固たる態度で望むことを学ぶ。イスパニア・チャモロ戦争の実態を重く見た政府は、さらなる北方進出を重ね国力増強を図ることにし、新たに荒棲家(アラスカ。当時の荒棲家は、現在のカナダのユーコン準州とブリティッシュ・コロンビア州、米国のワシントン州の範囲をも含む)へ主に毛皮と鯨を求めて進出を行う。
皇紀2349(元禄2/西暦1689)年
度重なる領土衝突に対し、大坂政府はロシア帝国、大清帝国との間に練鎮宿(ネルチンスク)条約を結ぶ。この結果、日本の国境線は南から、豆満川(豆満江)より端珊(ハサン)の街から興凱湖(ハンカ湖)を結び、碓斐川(ウスリー川)が安室川(黒竜江、アムール川)と合流する地点までの東側と、碓斐川と安室川の合流点から石涙川(シルカ川)に入り千太(チタ)から有楽腕(ウラン・ウデ)を経て葉伊駈湖に至る線より北側、葉伊駈湖から安潟川(アンガラ川)を碓入矛宿(ウスチイリムスク)まで下り、安潟水系の西之樵宿(ジェレズノゴルスク・イリムスキー)まで遡った後、陸地を地形沿いに進み碓地九斗(ウスチ=クート)から礼奈川(レナ川)を経て浦風蝶海(ラプテフ海)に至るものとされた。
大坂政府はこれ以降、領土とした地域の安定と開発を優先し、積極的な領土拡大は控えるようになる一方で、領土として確定した地域への屯田兵や植民者、商人の進出は(要らぬ対立を呼び込まない程度に)奨励した。
またこの頃になるとキリスト教ジパニズム派は悔理人教と呼ばれるようになり、特に海外でヨーロッパ列強と接する機会の多い日本水軍兵や役人、商人を中心として、似非キリスト教徒であることを利用した異文化理解の糸口として、嘘も方便の形で支えられるようになっていった。
皇紀2349(元禄2/西暦1689)年以降
全国的な不作等が起きる度、国内では生きられない苦境に追い込まれた人々に北方または南方への移住を提示するというやり口と、海外交易で挙げた莫大な利益と基金に備えた堅実な食料の保存体制、米の品種改良や救荒作物の栽培奨励などの施政により、大坂政府は比較的安定した時代を迎える。
この時期になると、大坂政府は豊臣家の手を離れ、豊臣氏は大坂政府という統治機構に正当性を与える権威存在としてのみ存続しており、大坂政府は主に大老・中老という政治家の合議によって方向性を与えられ、司法・行政は奉行や代官などの政府行政官による完全な官僚によってのみ運営されている。諸侯の私兵は精々が各地方の警察組織以上の力を持たず、兵力の殆どは各諸侯の利害関係の都合から極めて厳格に政治から切り離されて運用されている日本水軍に委ねられていた。
グレートブリテン・オランダ・イスパニアなどの亞細亞進出しつつあったヨーロッパ列強との交易により、経済や工業等の基礎技術等々も史実よりかなり底上げされ、外交能力も史実より遥かにマシに。また、東南亞細亞の各地に交易のため日本人が進出した結果、日本人街も形成される。特に荒廃したシンガプラを押さえ新嘉坡(シンガポール)の街を拓いたことは大きく、西洋列強の進出が進む東南亞細亞にあって地勢的な要衝でありながら、同時に対立的な列強同士での交易が可能な中立拠点でもあるため、特別に条約を結ぶこともないままに、慣例的に国際的な相互不干渉の立場に置かれ独立都市国家化。東西文化の融合した独特の地域となる。
東南亞細亞各地に拓かれた日本人街は、ヨーロッパの帝国主義・植民地主義にあって(ヨーロッパから見て有色人種にあるまじき高度文明を持った)、領土欲のない(但し一度取り決めたことを反故にすることを極端に嫌い、話の筋を通すことを大変重んじる)不可思議な(且つ彼ら西洋人にとっては許し難いことに文明的な有色人種の異国)民族が住む不可侵の租界として黙認された(大坂政府が不用意な領地拡大を嫌って先に押さえた北方の開発に力を注ぎ、南方進出は経済面だけにその時点では留めていたため)。
この日本人街は、後に亞細亞各地が西洋列強からの独立戦争の拠点ともなり、やがては日本大使館や総領事館が置かれることになる。
史実では日本列島が列強に侵食される破目になったが、ヨーロッパ諸国との付き合いが良好(ほぼ相互対等)だったため、史実ほど金銀が流出することもなく、来利真、荒棲家を抑えているため寧ろさらなる金、銀、銅などの鉱物資源を確保している。
皇紀2360(元禄13/西暦1700)年
東から流入していた、アメリカ人に追われたインディアンの人手を用いた開発により、大坂政府は荒棲家に金鉱を発見。日本人の懐をさらに温める。一方、アイヌの発展とインディアンとの交流による彼らの思考の流入や、国内開発による鉱毒事件などにより、公害防止と自然保護の考え方が日本の諸宗教に取り込まれ、国内に広まり始める。
皇紀2384(享保9/西暦1724)年
日本人商人が豪州(オーストラリア)大陸を発見し、陀院港を史実ポート・ダーウィンの位置に拓く。先住民族に日本的価値観による自然観を広めつつ教化しながらの同化入植が始まる。入植は主にオーストラリア大陸北部沿岸に対して行われ、豪州大陸には存在しなかった疫病の(無自覚な)持ち込みにより先住民人口は減少するが、当時の知識では原因不明とされ気味悪がられた。
皇紀2400(西暦1740)年代
大坂政府中期に入り、これまで武家が合議制により持っていた天下の運営に、商家として財を成す形で復権した公家(清華家等)が大老や中老として参画。
またこの時代、日本水軍が諸侯の利害関係の埒外に置かれるべき存在であるという都合上、水兵を諸侯が供給するのではなく、諸侯から集めて大坂政府が出した予算で日本水軍が独自に募兵を行なっており、武士・浪人に限らず採用していたことから、士農工商の分離は史実ほど進まず、曖昧であった。
その上、大坂政府は更なる官僚化が進み、優秀な人材とあらば武士であろうがあるまいが構わず採用する実力主義がますます先鋭化しており、この時期になると武家・公家の別を含む身分の如何に拘らず、帯刀者は「大坂政府に仕官する者」という分類を示す以外の意味を持たなくなっていた。文武官の別を確認するのは服装の種別によってのみとなっており、貧しい(≒卑しい)農民から水兵を経て吏僚へと転身し、閣僚にまで成り上がることも、珍しくはあっても有り得ないことではなくなっていた。形式上、天下を持っているのが貧しい農民から武士となり、最終的には公家となって文武を掌握した豊臣秀吉に始まる豊臣家であることが、ますますこの傾向を強める一端ともなっていた。
このため、この頃単に「武士」と言えば実戦部隊の将兵として働く者のことを指しており、その大半は日本水軍兵が占めていた(残りは諸侯の私兵が大半)。大坂政府や諸侯の領土を治める役人(代官・奉行)は「文士(もんし)」と呼ばれていた他、その道々の学者として活躍する者は「学士」と呼んでもいた。この後もこの傾向は続き、武家・公家の別はますますその者の血筋を示す程度の意味合いしか成さなくなっていった。
{皇紀2468(文化5/西暦1808)年
ナポレオン戦争に敗北したポルトガル王室がブラジルのリオ・デ・ジャネイロに遷都する。
{皇紀2480(文政3/西暦1820)年
グレートブリテンの保護国として軍政下にあるポルトガル本国の叛乱(ポルトの叛乱)が鎮圧される。
{皇紀2481(文政4/西暦1821)年
ポルトガル王室は嘗ての本国への帰還を断念し、ブラジルに帰化することを決定。ブラジル帝国の建国を宣言。
皇紀2485(文政8/西暦1825)年
オーストラリアに入植したグレートブリテン人と、陀院港に進出した日本人との間で衝突。大坂政府は陀院港へ日本水軍の艦隊を派遣し、陀院港の保持に努める。
皇紀2488(文政11/西暦1828)年
大坂政府はグレートブリテンとの間に「日府入植条約」を締結。陀院港をオーストラリアから独立した都市国家とし、また陀院港経由で豪州大陸に入植した日本人に、オーストラリアに入植するグレートブリテン人と同等の権利を認める内容(実際には税制の面でグレートブリテン人優遇策が取られていたが)。
皇紀2492(天保3/西暦1832)年
グレートブリテンの軍政下に置かれるポルトガルに於いて、グレートブリテンという他所者の統治に対する不満が増大。グレートブリテンはポルトガル国内の自由主義者を支援して統治を進めていたが、国内に潜伏するも王室の旧大陸との「絶縁」というある意味での裏切りにより瓦解した王党派(絶対王政派)らを、ナポレオンの痕跡を消し去ろうとするイスパニアのフェルナンド七世が支援し武装蜂起させ、「イベリア戦争」が勃発。ジブラルタル奪回を口実に、ジブラルタルや大西洋の戦略策源地の一つとなっているポルトガルをも占領しイベリア半島そのものを統一し、以てポルトガルに残る資産をも接収しグレートブリテンに痛撃を与えトラファルガル(トラファルガー)の敵討ちを目論むイスパニアと、大陸側に比較的大きな領土を持つことで大陸側の旧大国の利権を得ようとするグレートブリテンの間で激しい戦争が繰り広げられる。この結果、旧大陸を脱出して新大陸に帰化した旧王家の下に帰参するポルトガル市民が相次いだ。
皇紀2494(天保5/西暦1834)年
イスパニアのフェルナンド七世が崩御後も続くイベリア戦争が、大陸派兵の負担と植民地争奪戦への国力傾注を欲したグレートブリテンの、ジブラルタルを残してのポルトガルからの戦略的撤退によりイベリア半島はイスパニア・ボルボン朝により統一される。この戦争によりイベリア半島の自由主義者や反王党派、ポルトガルの独立維持を望む国粋派も殲滅され、その資産は全てイスパニアが接収するも、国土は荒れ巨額の負債も計上することになる。しかし結果的に資産接収等により大土地所有制が崩壊した結果、イベリア半島では農村余剰労働力を工業化により吸収する筋道が立てられることになる。
皇紀2505(弘化2/西暦1845)年
阿片戦争に敗北した清国が突如として大坂政府と国交を断絶(日本の対清貿易黒字は適正価格で行っているにも関わらず莫大であり、すなわち清の対日貿易赤字が膨大になっていた)。朝鮮もこれに同調したため対清輸出入が途絶え経済に混乱が起き、特に大陸交易で懐を潤していた西国諸侯の中には、そもそもの発端である阿片戦争の当事国であるグレートブリテンの亞細亞進出に対する警戒感を募らせる者も現れる。
さらに19世紀に入ってから再び大陸両岸打通の野望を掲げ、不凍港を求め南進・東進を目指し始めたロシアと、繁利亜地域一帯で度々武力衝突を起こす。大坂政府は装備ではヨーロッパに対し10~20年遅れていたが、進出度と人口の差から終始優位に進める。
皇紀2513(嘉永6/西暦1853)年
アメリカ(亜米利加)合衆国ペリー艦隊が江戸湾に無許可侵入する(ペリー艦隊撃沈事件、または浦賀沖海戦と呼称)。日本水軍は発見の遅れから初動対応が遅れ、ペリー艦隊を江戸湾へ侵入させてしまい、結果的にそれなりの被害を受けつつも浦賀沖で撃沈する。大坂政府はアメリカ合衆国に厳重抗議する書簡を送る。この事件は江戸市民の目と鼻の先も同然の場所で発生したため全国へと事件が知られ、清国の西洋列強に対する敗北やロシアとの小競り合いを含めて、欧米列強による日本包囲網を予感させ、日本人全体の危機感を増大させる。
クリミア戦争勃発。大坂政府に礼奈川以東を抑えられ、亞細亞進出を阻止されているロシア帝国は礼奈川以西への国力投資により開発密度が向上。その余力を以て衰勢著しいオスマン帝国を巡る利権争いに進出する。
皇紀2514(安政元/西暦1854)年
ペリー艦隊の無許可侵入に厳重抗議する大坂政府の書簡に対し、アメリカ合衆国は逆に撃沈された艦隊の補償を強く求める書簡を返す。アメリカの先住民弾圧などを知る大坂政府はアメリカ合衆国の態度を日本を植民地化するものとして強く拒絶。荒棲家へのグレートブリテン人開拓民の入植(条件は税を大坂政府に払うこと)を取引材料にグレートブリテンを通じたカナダ経由での外交圧力をかけ、更に水軍増強と西洋技術の積極導入を行う。一般市民も断固とした大坂政府の態度を支持する。粘り強い交渉が行われ、最終的に実質的な講和条約である日米和親条約が浦賀で調印され、一連の事件は悲しい行き違いであったものとし、双方不問となった。
一方で対清貿易で儲けていた島津氏や、毛利氏などは財政面で凋落の一途を辿り始め(但し島津氏は琉球を中継することである程度損害を補填していたが)、結果的にどちらも自勢力を中心に置いた新政治体制の確立を志向するようになる。一方の(遣欧使節の派遣で海外情勢の分析に定評のある)伊達氏は政府体制の限界を予期し、近代国家樹立の研究を始める。国力増強の観点から教育の行き届いた市民の中にもそのような動きが見られるようになり、大坂政府は表向きには治安を乱すものとしてそのような動きを概ね穏便に取り締まりつつ、水面下で大坂政府の影響力を残しつつ西洋列強に対抗することが可能な新体制を模索するようになる。これらの流れを総じて新体制運動と称する。
府仏、ロシアに宣戦布告。
セヴァストポリの戦い。
皇紀2515(安政2/西暦1855)年
結果的に極東進出を阻まれたことで国力密度が高まったため、産業革命の途上にまで達していたロシアは各地で府仏やオスマン帝国を降ろす一方、極東に戦線を持たず史実より負担が軽減された府仏はスウェーデンを巻き込みオーランド諸島を占領する。
皇紀2516(安政3/西暦1856)年
グレートブリテン、フランス、オーストリア、プロイセン、サルデーニャ、オスマン帝国、ロシアの間でクリミア戦争の講和会議がパリに於いて催され、パリ条約が締結。黒海非武装化は為されず、黒海周辺はロシアにやや有利な状況で固定された一方、オーランド諸島はスウェーデンに割譲されるなど、シーパワーとランドパワーの違いを示す戦争ともなった。産業革命の前途にあるロシア侮り難しとの印象を諸国は抱き、さらなる産業≒国力の強化が急がれる。
皇紀2518(安政5/西暦1858)年
安政の大告(あんせいのたいごく)。所領の大きさ如何に拘らず完全実力主義で運営されていた政府の官僚が主導し、新体制運動の実態を概ね把握した大坂政府は機先を制し、自ら大坂政府体制の限界点に到達したことを認め、関白によって事実上の挙国一致体制による新政治体制樹立を図ることが諸侯に告げられる。その上で(大坂政府体制の事実上の解体を前提とした)現在複数の潮流が存在する新政治体制の研究を一箇所にまとめ、最も良いと考えられるものを目指して議論を行う「改革論所」を新たに設ける。
皇紀2520(万延元/西暦1860)年
大坂政府体制解体の流れに反発した、一部の熱狂的大坂政府体制信奉者により大老・井伊直弼が出張先の江戸城で暗殺される事件(桜田門外の変)発生。しかしこの事件は逆に大坂政府の権威失墜と政治的混乱、それに伴う市中混乱を招き、より早期の政治的安定を求め、より強く新体制樹立が志向されるようになり、大坂政府体制派を大坂政府自ら弾圧するようになるという本末転倒な結果に終わる。
皇紀2521(文久元/西暦1861)年
アメリカ合衆国で南北戦争勃発。
大坂政府は蓄積してきた富を用いて装備近代化を図る。
皇紀2524(元治元/西暦1864)年
ナポレオン三世の支持を受け、メキシコ合衆国にオーストリア大公フェルディナント・マクシミリアンがメキシコ皇帝マクシミリアーノ一世として即位。浦賀沖海戦によりアメリカ合衆国を危険視した大坂政府は移行期の混乱にありながら、勅許を以てメキシコに介入しアメリカ合衆国を牽制する親日的な国家の確保を図ることを決定し、帝政への支援を開始する。
明治維新
皇紀2527(慶応3/西暦1867)年
大坂政府は一連の新体制樹立運動の議論を取り纏め、現在の官僚機構の多くを暫定的に活かし、新政府の樹立によって漸進的に西洋型統治機構を日本的に改めた体制を作り上げることを骨子とした新体制案を述べ、朝廷に大政奉還を上奏。
皇紀2528(明治元/西暦1868)年
王政復古の大号令が発令される。約270年あまりの間、関白を代々継いできた豊臣家が代理保有する形で保たれてきた大坂政府は、その統治機構の所有権の一切を朝廷(天皇)に返還し、自らは大老・中老という閣僚の地位に降りる形でその役目を終える。
最終更新:2014年01月19日 23:07