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朝鮮戦争


 朝鮮戦争とは、1958年~1959年にかけて戦われた、朝鮮民主主義人民国の独立運動を巡り勃発した国際紛争。その前哨戦でもあった朝鮮事変についてもここで述べる。

中華事変

 1954年当時、中国大陸では中華事変による戦闘が繰り広げられていた。その中で、国家百年の計として潜在的敵対国家である中華地域の弱体化を望む日本連合帝國は、中国大陸の西に陣取る中華人民共和国の背後に存在するイデオロギー的に断じて相容れない勢力であるソビエト連邦をも打ち負かそうと、国連軍の一員として果敢に挑み、戦線を維持していた。またソ連も同様であった。
 一方で両者とも、必要以上に戦争が長引いてしまえば国家財政的にも破綻の危機を迎える恐れが有るため、どこかで線引きをして手打ちにする必要もあった。しかしながら利害関係の問題から交渉は何度も決裂しており、東経110度線を境とした戦力・戦費の浪費が続いていた。
 両者とも前代未聞の大軍を戦場に投入していたため、仮に大攻勢に成功したとしても、決定的に相手を屈服させるだけの決定打には掛けていることが明らかだった。その上、両者とも核兵器の保有国であり、相互確証破壊の危険を冒すことは出来なかった。
 しかし国連軍の後方策源地として利用されていた大韓王国では、一時的に滞留する国連軍(特に米軍)の態度などから、反米的な感情が広まっていることが明らかになった。また国土の南北を日本連合帝國と満洲国に挟まれているという地理的要因から、潜在的に南北からの軍事的な圧迫感を持ってもいた。その上竹島の領有権等で一時争った経緯もあり、日本連合帝國と大韓王国の関係は冷却化していた。
 このため、ソ連では朝鮮半島に傀儡政権を樹立し日本連合帝國の喉元に刃を突き付けることで、中国大陸に関わっている暇など無い状況に追い込むことが出来るのではないかと考えた。

朝鮮事変

 そこでソ連は大韓王国の有力な軍人であった金日成に接触し、「朝鮮人民に対し横暴を働く外国人は排斥すべきであり、ソ連はそれを全面的に支援する」と述べ、密かに蜂起計画の立案を開始する。同時に純軍事的には意味有る戦果にならずとも、連合帝國臣民に精神的な衝撃を与え停戦への道を拓くべく、日本連合帝國本土爆撃を目指し、1955年3月から戦力の集中を行いジリジリと華北戦線を東進させる。
 6月25日、華北戦線が渤海を望む位置にまで達したことを以て、大韓王国北部で金日成一党が「朝鮮人民軍」を名乗って一斉蜂起。奇襲により多数の国連軍物資を奪った朝鮮人民軍は、ゲリラ戦に徹しながら京城に迫った。
 7月15日には華北戦線は渤海海岸線に到達し、3000機の航空機と60万人の将兵が投入され周辺一帯が制圧され、黄海海上に展開していた国連軍艦隊には超低空からの自爆機による飽和攻撃(特攻)が行われ、レーダー照準に依存していた艦隊に大損害を与えた。この結果、国連軍は更なる後退を強いられることとなり、ただでさえ中ソとの国境線に大兵力を貼り付けざるを得ない満州国は、制海権を喪失し補給路が減少し、朝鮮半島という後背地までもが敵に回ったことで守勢で手一杯となる。また国連軍として派兵している国家の中で最大戦力を投入している日本連合帝國も、突如として出現した第二戦線に即時対応することは出来ず、その隙に朝鮮人民軍は支配域を更に広げ、空路ながら中ソからの支援を受けますます勢いを増していった。
 しかし日本連合帝國は不退転の姿勢を貫き、沿海州を経由して満州国の守備力を強化すると共に、黄海へ艦隊を増派し朝鮮半島の状況沈静化に先ず最大限努力する方針を示す。朝鮮半島を赤化すれば停戦も容易だろうと考えていたソ連の思惑は外れてしまい、当事者はすぐさま粛清される。そして赤化に代わってより強力な衝撃を与える必要があるとして、鹵獲機と最新鋭戦略爆撃機を多数用いた陽動に紛れ、日本連合帝國の将兵の集積地である廣島(廣島から呉鎮守府で輸送船に乗り換えて中国大陸に上陸していた)に対し核攻撃を行うことが決定された。
 8月6日、手持ちの航空戦力の殆どを投入したような航空戦が黄海海上で行われ、無数の自爆機などで混乱する中を潜り抜けた、国籍表示を詐称した鹵獲機等の一団は、欺瞞航路等を用い日本列島上空へ進入。超高高度から廣島への原爆投下に成功する。投下された原爆は気象状況にも恵まれたためほぼ正確に廣島の市中心部に命中した。
 しかし朝からの航空戦により西日本の何処かへの空襲を察知していた連合帝國は軍民を問わず市郊外への退避を命じていたため、建物等の被害は兎も角として、死者行方不明者は1万人、重軽傷者1万3000人の人的被害に留まった。また第二次世界大戦末期の原爆投下や、核兵器開発の過程から放射性物質による汚染の危険性も把握されていたため、投下直後の入域による被曝も避けられ、ソ連の思惑通りの被害は与えられなかった。
 一方で核兵器保有国への核兵器投下により、核戦争の危機に世界中が緊張したが、連合帝國は遺憾の意を示す以外に不気味な沈黙を保ち続けた。
 8月9日、日本連合帝國は太平洋戦争以来疎開状態が続いていたマーシャル諸島北方のビキニ環礁西方1100キロの海上に世界中の報道関係者を例外なく(ソ連からの人間も含めて)集め、世界初にして最大級の爆発を伴った水爆実験を8月15日まで敢行。8月9日の最初にして最大級の実験において25メガトンにもなる水爆による爆発が、疎開が済んでいた各島嶼部に被害をもたらし、再び核攻撃が行われた際には帝國は複数の新型爆弾(つまり水爆)の全面使用に踏み切るというメッセージをこれ以上ない形で示唆。
 日本連合帝國政府はさらに直接的に、「我が国はこれ以上の軍事力の使用を望まないが、国民にこれ以上直接被害が出れば、報復措置に訴えざるを得ない」と表明。未だ米ソが持ち得ない水爆の恫喝により、ソ連は停戦交渉の席に不利な形で着かざるを得なくなる。
 そして8月15日、日英米ソは国連本部にて即時停戦に合意したと声明を発表。即時停戦が発効し、休戦交渉が始まる(実質的に終戦)。 朝鮮半島では停戦宣言後もゲリラによる戦闘が止まらず、北緯38度線を境目になし崩し的に戦線が膠着してしまうも、12月31日には中華事変の停戦条約が確定し現停戦ラインで国境が固定化。「朝鮮半島に於いて北部を制圧し、停戦宣言が出された後もゲリラ戦を続ける勢力」については、「双方がその存在を黙殺し扱いを自由とする」という条件が付けられ、朝鮮半島の制圧を巡って、大凡連合帝國にフリーハンドを与える如き内容が交わされ、朝鮮半島の赤化工作は事実上頓挫した。

朝鮮戦争

 ソ連による朝鮮半島(朝鮮人民軍)への援助を事実上断つことに成功した連合帝國は、中華事変の停戦後に半ば限界に到達しつつあった動員状態を解除し、兵器供与による軍事支援を以て朝鮮半島の秩序回復を目指した。しかしながら自らが未だ持たぬ水爆をいち早く連合帝國(とイギリス)が保有していた事実に対し、米ソの焦りは深く、その為水面下で提携し朝鮮人民軍を地下に潜らせ、また諸方面への工作により大韓王国の政治的統制能力を弱体化させていく。
 1958年9月6日、朝鮮北部に於いて、進駐した大韓王国軍の大半が指揮系統を離脱。朝鮮労働党を名乗る嘗ての朝鮮人民軍に煽動された軍部隊が李朝打倒を掲げ蜂起。民衆の支持もあり瞬く間に38度線以北を制圧し、朝鮮戦争が勃発した。騒乱は朝鮮全土に広がり、士気の低下もあり大韓王国軍は全土・全戦線降伏・寝返りが相次ぎ敗走に敗走を重ね、僅か4日後の9月10日には王室・政府諸共に一挙に釜山まで後退せざるを得なくなる(王室が戦争勃発を知り真っ先に首都京城を逃げ出したためでもある)。
 背景には中華事変停戦条約締結後のゲリラ掃討に於ける大韓王国の失政(弾圧)があったため。大韓王国は残存部隊による武力鎮圧を試みるが圧倒的戦力差から失敗に終わる。
 之に対し日本連合帝國は、中華事変に拠る事実上の半国家総動員体制を解除し、事実上最低限レベルまで警戒態勢を解いており、常備軍は第二の中華事変勃発を警戒して中華地域に張り付いており、事実朝鮮戦争に乗じ中華地域の軍事活動が活発化する素振りを見せたため、動くに動けなかった。これは日ソ国境に於いても同様であった。また第二次高度経済成長の末期にあって好況期に復員で就職を果たした兵士らによる消費増を背景とした好景気にあったため、動員解除後の再動員は遅れに遅れた。その上大韓王国軍の進駐を以て治安状況は悪いものの一応の安定状況下にあったため、沿海州の戦力は国境警備に必要な最低限しか置かれておらず、北部からの制圧が出来る状況にも無かった(同様の事情が満中・満ソ国境に戦力を張り付けていた満洲国にも言える)。
 この結果、連合帝國軍は釜山橋頭堡維持に必要な最低量の逐次投入となってしまい、徒に即戦力を消耗せざるを得ない状況に陥った。更に国連安保理では中華事変に絡んで国力を増大させ、欧州との連携も深め実質的に掌握した日本連合帝國の力を削ぐべく、米ソが連携して徹底的に国連軍出動を妨害する。
 9月10日、日本連合帝國は同日起きた朝鮮人民軍による竹島襲撃を以て、強引な政治工作で連合帝國軍を国連軍と成す承認を取り付け、出兵を開始。最前線となった釜山周辺の朝鮮人民軍に激しい空爆を加える。9月25日には即応部隊である虎の子の第1師団を投入した仁川上陸作戦を敢行。そこから一挙南進を図り、9月29日には大韓王国王室・政府を京城に帰還させる。
 国連軍は38度線以北へは侵攻せず、先ず朝鮮半島南部を制圧し徹底的に不穏分子を叩き潰してから北部制圧に取り掛かろうという方針だったが、大韓王国の強い要請に拠り10月1日、38度線以北への突破を始める。しかし開戦前から朝鮮人民軍の実質的な基盤であった北部に入った途端、激しいゲリラ戦法に遭い、更に米ソが民族自決権を逆手に取った『対立的な信条を持つ二者の共存のための国家分立』を唱えロビー活動を展開。更に大韓王国でも開戦前の失政を糾弾する声が高まり、民衆より先に逃げ出した王室への批難も相俟って政権は空中分解の様相を呈し始め、米ソの影響を強く受け南北両立を掲げた世論が台頭し筆頭政治勢力と化す。
 10月20日には国連軍は平壌に進軍するも、激しい市街戦に拠り前線部隊指揮官を激しく損耗。列強軍との戦闘を前提とした兵器を大兵力に拠って運用する従来の兵法では太刀打ち出来ず、指揮官喪失によりそこかしこで部隊が瓦解し敗走する例が積み重なり、小規模な負けを大量に積み重ねていくことになる。
 10月25日にはソ連船籍の船舶により朝鮮半島北部に上陸していた実質的な中華人民解放軍であるところの義勇軍、中国人民志願軍が参戦。ソ連製重火器による奇襲を受けた連合帝國軍は平壌で大損害を受け、38度線以南に退く。更にソ連軍の国境接近により日満国境線に戦力を拘束される破目になった上、事を構えたくない国々の船舶が朝鮮半島北部と中華人民共和国支配下にある天津を行き来し、国際法に基づいた臨検に拠って阻止しようにも、米ソと大国意識が抜けず独自路線意識の強いフランスの政治的妨害工作が行われ思うように行かず、また一旦制圧した朝鮮半島南部に於いてもテロが頻発し、指揮官を狙い撃ちにされた国連軍を成す連合帝國軍は、徐々に戦闘力を失っていく。
 翌1959年3月2日、大韓王国は戦前の方針を転換し、一転して北部分立を容認してしまう。米ソ仏によって国連安保理が国連軍の作戦行動中止派で大勢を占められてしまい、遂には米ソの仲介に拠る停戦協議の開始を以て大韓王国による国連軍の停止が要請され、国連軍の進撃を止められてしまう。この間に前線に於ける指揮官損耗率の異常な高さから連合帝國国内には厭戦気分が蔓延し、世論の継戦意欲は大幅に低下。4月3日には米ソが同じタイミングで水爆実験を行うばかりか、アメリカは有人人工衛星の打ち上げまで成功させてしまい、俄に米ソ同盟締結の危機が浮上。更に度重なる説得にも拘わらず大韓王国は蜂起した朝鮮北部を国家として承認してしまい、国連では正式な停戦議決が為され、4月6日、大韓王国は米ソの斡旋によりニューヨークで朝鮮北部(北朝鮮)との講話協議に入ってしまう。
 8月15日、北緯38度線以北の地域には、大韓王国に反旗を翻した朝鮮労働党・朝鮮人民軍を指導した金日成を国王として戴く「朝鮮民主主義人民国」を樹立し、南北は相互に国家承認を行い、また賠償請求を行わないこととするニューヨーク講和条約が交わされる。また交渉中会社である米ソは朝鮮民主主義人民国の国家承認により御墨付きを与え、また両国と相互に国交を開き最恵国待遇とする友好条約を締結。朝鮮半島を日英が主軸となるアジア・ヨーロッパ自由条約機構から切り離すことに成功する。
 この講和成立を以て国連は国連軍の正式な朝鮮半島からの撤退を議決し、これを以ての朝鮮戦争の集結を肯定。日本連合帝國は朝鮮戦争を事実上の敗戦で終えた。
 これを不服とした連合艦隊の叛乱や関東各地の騒乱、更にそれを主導した財閥の存在に拠る一大疑獄の露見などといった敗戦処理に於ける国内の不手際もあり、連合帝國は国家としての威信を大きく損なってしまい、以後一時的に勢力圏を縮小。国内インフラの整備を主眼に置いた内向的な性格へと転換してしまい、国家としての対外的リアクションも低空飛行を続けることになる。

最終更新:2011年08月18日 07:02