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明治時代


明治時代前期

皇紀2528(明治元/西暦1868)年
 王政復古の大号令直後、江戸では大坂政府体制派の蜂起も起きたが、徳川家当主・徳川慶喜が率いた錦の御旗の軍勢により沈黙。明治新政府は明治新政府体制により運営されていくことが確定する。
 この時点での日本の領土は、
・日本列島及びその周辺島嶼
 (千島列島を含む)
・樺太島
・外満州
 (沿海州)
・神威嘉
 (カムチャツカ)
・繁利亜
 (安室(アムール)川-石涙(シルカ)川-千太(チタ)-有楽腕(ウランウデ)-葉伊駈(バイカル)湖を地形沿いに結ぶ線より以北、
  葉伊駈湖から安潟(アンガラ)川に流れ出、西之樵宿(ジェレズノゴルスク・イリムスキー)-碓地九斗(ウスチ=クート)を経て
  礼奈(レナ)川を浦風蝶(ラプテフ)海まで出る線より以東のシベリア)
・荒棲家
 (但し国境線はハドソン湾会社が所有するルパート・ランドと接している)
・小笠原諸島
・彩帆以北の毬亞南諸島
 と、主に北方に大面積を有しており、繁利亜からの豊富な貴金属類等の鉱産資源を元手に産業革命が勃興していた。その他、日本人街という形で各航路上の都市に港湾等を持っており、これらも名目上「大使館」という形であるが領土として保持しており、貿易で利益を上げていた。
 日本列島全体からすると極端に西に寄り過ぎている政治・経済の偏心を是正するため、太平洋航路の最大拠点であり東国経済の中心地であった江戸に遷都する動きが現れる。西国に比べると開発の遅れている東国の発展を促す意味で、遷都は良案だと考えられたが、既得権益との衝突や、発展の経緯から領主(この場合は徳川氏)のような精神的支柱に対する依存が浅い江戸(そもそも此処は徳川領であるところの武蔵国でありながら、実際の開発に多大な力を注いだのは大坂政府や東国諸侯である)へ遷都することの妥当性が問われた。その結果、御所(皇居)、宮内省と大審院、文部省は京都に置き、大坂には商工省や国税省及び他の中央省庁の出先機関、江戸には交通の利便性の観点から残る中央政府機能の全てを遷す折衷案が採用されることになり、御所の所在地を首都、それ以外の中央政府機関の所在地を副首都とする複都制を執るものと定めた。またこれを以て江戸を東京と改称した。
 琉球王国に対しては(日本の外交能力が無定見でもない相互対等を目指すものであるし、そもそも史実に於ける江戸時代の琉球侵攻が無かったので)清に対する朝貢政策の停止と相互対等の通商条約(再)締結に留まる。
 鎖国中の李氏朝鮮に対しても開国を勧告する国書を送るに留まり、1880年代から朝鮮の内争に干渉し駐留するようになった清国軍と、対馬近海で度々軍事衝突を起こす。また布哇王国を巡り、日米間で対立する。それ以外は概ね史実の流れと同じ。
 技術力は欧米から10~20年遅れ程度で既に産業革命が進行しており、軍事技術に限ってはこの時代の最先端戦略兵器である蒸気船を保有するなど十分に追随している。
 商工業に於いては鉄道敷設等の良好な国内産業への投資に連動した安定的な景気拡大期にあり、国富である正貨の金銀の国外流出量を大きく上回る国内からの金銀産出により相対的に見て金銀が流出しておらず(寧ろ世界最大(≠最大級)の大金持ち)、領土も大きく、救荒作物も含めて自国民を飢えさせないだけの食料生産力を備え、西洋列強とは平等条約しか結んでいない。廃仏毀釈は起こらず、キリスト教は日本の土着宗教と融合し明後日の方向へ独自発展を遂げて悔理人教となっており、特にキリスト教の布教をされたところで悔理人教へ信者が流れるため、旧来の布教令、貿易令レベルの規則がある程度で、特に制限を設けて居らず、大坂時代を通じての海外貿易に伴い欧米人への無理解も無い。

皇紀2530(明治3/西暦1870)年
 アメリカ合衆国は日本に対し荒棲家購入を希望するが、豊富な水産資源や天然資源は、繁利亜と共に明治日本の生命線となっており、国内資源が石炭以外乏しい日本にとって鉱物資源を国内に確保しておくことは、国家戦略上極めて重要であった上、国境線を直に接するグレートブリテン(カナダ)とは今の所貿易面で互恵的利他主義を採用し大いにその恩恵を得ているため丁重にお断りする。
 他方、ロシア帝国は日本が繁利亜を根強く守るのを見て方針を変更し、阿片戦争で旧態依然としたその弱体が明らかとなりザバイカル方面で国境を接している清や、前回のクリミア戦争で優勢に立ったオスマン帝国に向ける。

皇紀2531(明治4/西暦1871)年
 廃領置君。政府は広域地方自治体として配道(東山道と南海道・西海道を廃止、東海道と山陰道、北陸道を縮小、新たに中山道、関東道、陸奥道、出羽道等を制定)を行い、各大名の所領となっている諸国も、従来の令制国に於ける区分の整理・統廃合を行った。その上で、各大名の領国は城地(または国府・府中)の存在する国のみ・或いは国主不在となる国には、その国に縁の深い名跡を継ぐ者や維新功労者(志士・元勲等)等の高い官位を持つ者を配置したり、或いは皇族を任官(親王任国)するよう定めた(一国一君の令)。従来、諸侯が執り行っていた所領の統治権は、諸侯が新たに編成する地方自治体へと与え委ねる形で帰属させ、諸侯は実権を持たない象徴君主とし(当主以外の者が統治機構に議員や吏僚として参画することは許されていたが)、その下に厳しい試験を突破した知事を諸侯が承認する体裁を執り、諸侯の私兵も殆どが国軍(陸軍)か各地方警察へと吸収・解体され、一部が諸侯の小姓(後の近侍)として残されるのみとなった。

皇紀2533(明治6/西暦1873)年
 配城令発布。廃領置君に伴い多くが不要となった城郭は、皇室の離宮として存続・地方君主の居城として存続・国庁として存続・国軍の拠点として存続・観光資源として存続などが定められた。

皇紀2536(明治9/西暦1876)年
 刀剣類漸次持歩禁止令(刀剣類の所持は今後も許可するが、正当な理由なく腰に差して持ち歩いたりすることを禁じた)が敷かれる。

皇紀2537(明治10/西暦1877)年
 西南事変勃発。刀剣類漸次持歩禁止令に反発した旧来の武士階級による叛乱扇動決起事件。背後に荒棲家購入を断られたアメリカ合衆国の陰謀を察知した日本政府は事変を意図的に見逃し不満分子を糾合させ、近代化した陸軍を編成し徹底的に殲滅する。数の上でも地の利でも不利ではあったが、どこから導入したかも分からぬアメリカ製のライフルを持って戦う反政府軍に対し、明治政府は輸入したガトリング砲などの圧倒的火力戦を強いて終始優勢を保ち、近代戦は火力がモノを言うことを学び取る。
  • 4月24日
 日本が明治維新を受けても領土を固守し全く揺らがなかったため、東進を阻まれ南進政策を激化させたロシア帝国は、バルカン半島を巡ってオスマン帝国に宣戦布告。露土戦争が勃発する。徴兵制を敷き、産業革命を達成しつつあるロシア軍は各地で優位に立ち、この優勢からロシアの勢力が拡大し過ぎることを欧州各国が危惧したことに対するカウンターと、歴とした欧州でありながらオスマン帝国の領土となっている東ローマ帝国(コンスタンティノープル、現イスタンブール)の奪回というある意味での悲願達成を期して、オーストリア=ハンガリー帝国を主力とする義勇軍がロシア側に立って参戦。地中海側を進んだオーストリア=ハンガリー帝国軍と、黒海側を進んだロシア軍とに挟撃され、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビアをオスマン帝国は次々と失い、帝都イスタンブールに追い詰められる。

皇紀2538(明治11/西暦1878)年
  • 1月
 オスマン帝国の帝都イスタンブールがロシア・オーストリア=ハンガリーの連合軍の攻撃により陥落。オスマン帝国はボスポラス海峡を追い落とされ、アンカラへ落ち延びる。欧州全土を奪還し満足したことと攻勢限界に達していたことから、両勢はここで停戦する。
  • 3月3日
 ロシア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国はサン・ステファノに於いて講和条約を締結。これに伴い、オスマン帝国は両国に対する賠償金と共に、
・アルメニア等のロシアへの割譲
・ルーマニア、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ビザンツ(アナトリア)の各王国の独立承認
・ボスポラス海峡の艦船の通行自由化
 等を課せられた。ロシア帝国の地中海(エーゲ海)への進出を警戒した欧州各国によって大ブルガリア公国の成立が阻止され、マケドニアはビザンツへ編入されるも、黒海を事実上制覇したロシア帝国の強い影響下にあるルーマニアやブルガリアの圧迫を受けるビザンツの存在により、事実上ロシア帝国の地中海進出が達成されてしまう。

皇紀2541(明治14/西暦1881)年
 布哇王国カラカウア国王が世界一周旅行最初の訪問国として来日し、日本に対し日布連邦化等の同盟締結を提案するが、国力伸長著しいアメリカ合衆国との間に緩衝地帯を欲した明治政府は、明治天皇の親書を以て丁重に断ったものの、カラカウア国王の姪であるカイウラニ王女と山階宮定麿王の婚約については前向きな検討を確約する。

皇紀2542(明治15/西暦1882)年
 軍制改革が行われ、日本水軍は日本海軍に改められる。海外や繁利亜に日本水軍兵として置かれていた兵士の内、陸戦部隊は日本陸軍へ、水兵として訓練を受けていた兵士は日本海軍へ編入される。またこの陸戦部隊の内、一部の精兵は宮城の近衛兵や日本海軍陸戦隊として留め置かれる他、日本水軍に付随していた各種交渉の内、造船所に関しては軍港と一体となっているものについては海軍工廠とし、銃砲火薬等を生産する工場は砲兵工廠として陸海軍の共同保有とされた。軍人勅諭が下賜され、改めて国軍の政治に対する局外不干渉が徹底される。

皇紀2545(明治18/西暦1885)年
 布哇王国カラカウア国王がカイウラニ王女(カラカウア国王の姪)を伴って来日し、日布両国はカイウラニ王女の日本留学と、山階宮定麿王とカイウラニ王女の婚約を発表し、布哇の植民地化を進めようとする白人入植者(具体的にはアメリカ合衆国)の動きを牽制する。

皇紀2549(明治22/西暦1889)年
 日本は大日本帝國憲法を発布。またこの頃より、国号として「大日本帝國」が用いられるようになる(これ以前は日本國としていた)。

皇紀2551(明治24/西暦1891)年
 大津事件発生。警備中の警官であった津田三蔵が、訪日中のロシア帝国皇太子ニコライに斬りかかろうとするも、他の警備要員がこれを取り押さえる。あわや日露開戦かと思われたが、明治天皇自ら政府首脳を率いての謝罪、津田三蔵の処罰を巡る政府と大審院の激しいやり取りから結審までの混乱など、当初の日程に遅れが生じたものの、ロシア皇太子一行は警備のより厳重な強化の上で極東視察を継続し無事帰国する。

皇紀2553(明治26/西暦1893)年
 布哇王国で叛乱が発生。日本海軍は邦人保護を理由に軍艦を派遣し叛乱を阻止。

皇紀2554(明治27/西暦1894)年
 日清戦争。朝鮮半島での甲午農民戦争を巡り、騒乱が自国へも飛び火し襲撃事件が沿岸や国境で相次いだことから、朝鮮半島の保障占領による事態収拾を図ろうとした日清両国は、北緯38度線を挟んでの睨み合いとなり、双方の撤退時期を巡って交渉が合意に至らず開戦する。
 しかし実質国力で清に迫るどころか圧倒し、軍備も世界最先端に到達しつつあった大日本帝國は、陸海軍の最高司令部として幕府(史実での大本営に相当)を設置し、陸海一体戦略で戦争に臨み、清の艦隊を各個撃破の後、朝鮮半島に3方面から上陸の上、外満州南部からも陸伝いに侵入し清軍を朝鮮半島で完全に包囲殲滅。更に満州にも兵を進め、清に対し講和を打診するが、清は閣内不一致によりこれを拒否した。
  • 7月4日
 布哇王国で再叛乱(布哇事変)。白人入植者によるハワイ臨時政府がハワイ共和国の建国を宣言。日清戦争に手を取られていた大日本帝國は軍事介入出来なかったものの、留学中のカイウラニ王女と山階宮定麿王の成婚を即座に発表し事実上布哇王国の存続を宣言する。

皇紀2555(明治28/西暦1895)年
  • 1月
 布哇王国で王党派が叛乱を起こすが失敗。日清戦争中の大日本帝國は軍艦を日本近海に置いていたためやはり介入出来ず。布哇王室及び王党派の生き残りは日本船籍の商船に乗り込み脱出し、大日本帝國へ亡命。
  • 3月
 大日本帝國は山東半島や天津、台湾、海南島に新たに予備兵力を上陸させ、これらを占領下に置いた上、北京を半包囲。清は降伏し、下関講和会議が開かれる。
 講和会議に於いて、日本側は「朝鮮半島の独立の保障」「山東半島、遼東半島(鉄道敷設等の利権含)、台湾、澎湖諸島の日本への割譲」「賠償金」を求め、改めて「相互対等通商条約の再締結」を求めた結果、「朝鮮半島の独立」「遼東半島(利権含)、台湾、澎湖諸島、海南島(山東半島と交換)の日本への割譲」「賠償金3億2000万両(現金だけでなく決済時点の額面相当の利権または資源払い可)」を得る。しかし欧州の政治干渉により、遼東半島とそれに付随する利権のみ清へ返還することとなり、時を置かずしてロシアが租借。更に山東半島はドイツが租借する。この結果、遼東半島の清への返還を迫ったドイツ、フランス、ロシア(特にロシア)の三国への悪感情が日本全国に蔓延。賠償金の大半が軍備と軍事力の速やかな移動へ直結する鉄道や港の公共社会基盤整備に使われることになった。
 またこの三国干渉を直接的な原因として、陸海軍を一括して掌握する中央省庁としての幕府の常設が決定される。

皇紀2556(明治29/西暦1896)年
  • 6月15日
 明治三陸地震が発生し、東北地方の太平洋岸で死者2万3000人を出し、各港湾にも重大な被害を受ける。国力を支える正貨による復興費用の捻出も考えられたが、日清戦争の賠償金の公共社会基盤整備を行う地域を陸奥地方に設定し直すこと(予算使途の変更ではなく未執行分の執行地域の変更)と、皇室予算の拠出により対応される。

明治時代後期

皇紀2558(明治31/西暦1898)年
  • 4月26日
 米西戦争の勃発を受け、イスパニア植民地に対する侵攻により東南亜細亜にアメリカ合衆国の橋頭堡が築かれるのを嫌った大日本帝國は、先の布哇事変に対する意趣返しもあって先手を打ち、イスパニアから赤道以北の太平洋上に存在する全てのイスパニア植民地(呂宋(フィリピン)及びグアムを含む史実に於ける大日本帝國の南洋委任統治領)をイスパニアの戦費肩代わりの代金を名目に1000万エスクード(≒2000万円≒史実同時期に於ける日本の国家予算の2割以上≒この世界での日本の国家予算の1%程度)で購入し領土化したことを宣言し各国に通告。府仏両国がこれを相次いで承認した上、日本海軍の艦隊が差し向けられ、マニラ湾のイスパニア艦隊を討つべく香港を出港したアメリカ太平洋艦隊の阻止行動に入ったことから、アメリカの太平洋侵攻は開戦早々に頓挫。この間に慌ただしく植民地の移譲が行われ、イスパニアの人員は速やかに本国へと帰国していった。
  • 8月12日
 既の所でイスパニア植民地への侵攻を阻止されたアメリカ国内では反発が高まり、膠着したまま半ば保留されていたハワイ共和国の取り扱いについて、太平洋上に恒常的に戦力を展開するための恒久的策源地を必要としていたことから、大日本帝國に対する懲罰的な措置として併合を決定。拠点化を推し進めたため、日米対立が先鋭化する。

皇紀2560(明治33/西暦1900)年
 大日本帝國は義和団の乱を鎮圧。日本陸海軍の末端まで行き届いた統率と、投射火力を重視した日本製兵器に注目が集まる。一方、同じく義和団の乱鎮圧と称し満州へ進駐したロシアが撤兵せず、日露対立が激化。国境線での睨み合いが強まる。

皇紀2562(明治35/西暦1902)年
  • 1月1日
 日府協約(日府同盟)締結。対露軍事同盟だけに留まらず、中華大陸権益の取り扱いやアジア植民地に於ける日本人街の地位再確認と再保証、戦略的互恵関係の確認、豪州大陸人口の実に3割を占める日系人及び1割を占める先住民に対し、オーストラリア入植者と完全同等の権利を認めた状態での実質的独立の相互承認、豪州大陸に双方から王族(皇族)を派遣し新たな王室を開くこと、外交権については日府の協議の上でグレートブリテンが尚保持することなどが決められる。

皇紀2563(明治36/西暦1903)年
  • 1月13日
 グレートブリテン領オーストラリア、グレートブリテン王室から派遣された王族と日本皇室縁の豪州大陸先住民の血を継ぐ貴族の婚姻によるオーストラリア王室が開かれ、オーストラリア王国成立。王権の名の下にオーストラリア議会が開かれる。グレートブリテンの領域に含まれながらも、有色人種の諸権利に配慮しつつグレートブリテンの利益になるよう計らう対グレートブリテン好意的中立政策が国是となる。
  • 4月
 独露東亜協約締結。日府協約に対抗し、東アジアで独露が共同歩調を取り協力し合うことを定めた。

皇紀2564(明治37/西暦1904)年
 ロシア帝国は大日本帝國に対し宣戦布告。日露戦争が勃発する。大日本帝國は攻め込まれる側ではあったが、正面兵力ではなく公共社会基盤整備を重視し、常に火力で敵に優越する戦術を採用していたこともあり、幕府による陸海一体戦略で兵を進めた日本軍は、各地で整備された交通網を徹底利用した機動性を活かし迅速に勝利。11月末には反撃を開始し遼東半島に上陸。旅順攻略が完了する。一方、繁利亜では国境防衛に徹し、散発的な襲撃を行う程度の睨み合いを続ける。
 ロシア帝国は対日戦に於ける実質的な同盟国と化しているドイツ帝国が租借している、山東半島は青島にバルチック艦隊を派遣し、制海権を奪い大陸の日本軍を孤立させ窮乏化の後殲滅し、またロシア帝国と違って広大な領海の警備に戦力を割かれる為、戦力の集中度で圧倒的に有利なバルチック艦隊によってあわよくば大日本帝國本土の港を占領乃至破壊による無力化を狙う。また、ドイツ帝国も義勇艦隊をバルチック艦隊に同道させることを決定した。

皇紀2565(明治38/西暦1905)年
 大日本帝國は1月の奉天会戦に於いてロシア軍を包囲中にロシアの援軍が到着し大損害を被るも、砲身が焼け落ちると言われる程の苛烈な銃砲撃戦を行って結果的に撃退し、ロシア軍に甚大な被害を与える。3月末の哈爾浜での決戦にも辛勝。全満州地域の占領に成功する。また繁利亜から山道を進軍した小規模の別働隊と挟撃し、ザバイカル地域を占領。撤退中のロシア軍に追い討ちを掛ける。
 一方、大日本帝國はバルチック艦隊の到着前に大兵力を輸送船団によって一気に大陸側へ輸送してしまい、ロシア帝国領内に直接攻め込んで趨勢を決めてしまうかのような偽装情報を意図的に漏洩させ、実際に兵力の移動を行ってそれらしく偽装を行う。輸送船団の撃滅、或いは補給途絶を狙って日本海へ侵入してくるならそれを撃滅すれば良いし、兵力の薄くなった太平洋側に攻め入るならこれもまた撃滅すれば良い。地球を半周もして艦隊を回航してくる(そしてその途中では確実にグレートブリテンからの妨害を受ける)以上、十分な整備・休養・訓練を受ける前に、航路上にある日本の領土(海南島、台湾、毬亞南)を襲うことは考え辛い上、香港のグレートブリテン艦隊が抑止となるので可能性は低いと考えられた。
  • 5月10日
 香港のグレートブリテンが睨みを効かせていた海南島、要港には要塞砲が漏れなく配置され、精鋭軍が立て篭もって砲弾以外の物資(食糧)を自給出来る台湾を避けたバルチック艦隊は、物資の心許無さもあり琉球諸島をも素通りし青島に入港する。
  • 5月17日
 大日本帝國は日本海側の舞鶴以東の港に大型船舶を集結させる。
  • 5月24日
 日本海側に集結させた大型船舶を大日本帝國は出航させる。
  • 5月25日
 休養と補給・整備を行ったバルチック艦隊が青島を出航する。日本海軍聯合艦隊は朝鮮半島の釜山に待機し、バルチック艦隊が日本海側と太平洋側のどちらに抜けるのかを注視する。
  • 5月27日
 偽装輸送船団の出航に誘引され対馬海峡へ進むバルチック艦隊を発見した日本海軍聯合艦隊は釜山を出撃、日本海にて激突する。総合戦力的には不利であった東郷平八郎率いる聯合艦隊は、戦力で勝っていたバルチック艦隊を一隻残らず撃沈または降伏せしめ、世界にその名を轟かせる。大日本帝國の兵站線破壊に失敗し制海権を完全に失い、陸でも数で優越するも火力で圧倒され、これ以上の継戦は失う将兵の数と消費する戦費に対して割りに合わないと判断したロシア帝国は、俄に終戦工作を活発化させる。
  • 7月
 日本軍は満州全域と、繁利亜と満州に挟まれる形で突出しているロシア領ザバイカル地方の占領を完了し、さらに礼奈川・安潟川を渡河し侵攻する構えを見せ(実際にはそれまでの損害と、これ以上の戦費調達を行うと未だ莫大な量を維持しているが為に円の価値を保つことに成功している正貨を失うことになるため、これ以上の攻勢作戦は不可能な領域に達していた)、日露戦争の趨勢は完全に決した。
  • 9月
 日露双方は休戦議定書に調印しアメリカの斡旋でポーツマスでの講和会議に入る。講和会議の結果、大日本帝國は「遼東半島の租借権の大日本帝國への譲渡」「満州地域に於けるロシア権益全ての大日本帝國への譲渡」を獲得する一方、「ザバイカル地方を返還」し相互無賠償とされる。賠償金が無かったことに関して、日比谷焼き討ち事件などの暴動が散発したが、重税を敷くことも無く、国民生活が苦しくなっていることも無いため大多数は極めて冷静に現状を受け止めており、国粋主義者等の煽動された少数によるものが大半であったことから、明治天皇が直々に詔勅を出したことと、日本海海戦で鹵獲したロシア艦を有償にてロシア帝国へ返還することを後日決定したことが賠償金と映ったためか、すぐに沈静化する。この暴動発生を重く見た大日本帝國は、国内過激派への監視を専門とする防諜組織の整備を重視する様になる。
 また他方、国内正貨を担保に集めた戦時国債の返済のため、大日本帝國は満州と朝鮮半島の経済利権を、グレートブリテンのみならず戦後急速に関係が改善したロシア帝国などの欧米諸国にも条件付きで開放する(但し、アメリカに関しては布哇を巡る対立もあり嫌がらせとしてやや税率を高めに設定しての開放であった)。満州利権を巡っての開戦であっただけに、結局最終的には両者仲良く分け合うことになり、しかも欧州諸国も参加した分、寧ろ分け前が減ったのは大いなる皮肉として語られた。
 日露戦争の一連の戦闘は、それまでの戦争観を更に一変させる程に大量の武器弾薬を消費する準総力戦の様を呈しており、特に陸戦に於いて、双方の将兵に甚大な被害を与えた。その負担は、史実より遥かに巨大な生産力と資金を有している大日本帝國を以てしても負担となっており、常に敵に対して圧倒的戦果を上げているにも拘らず、人件費(含遺族年金)や平坦の負担、死傷率の高さの面が悪影響を及ぼしていた。国土が史実より大きく大陸に直接接している分、陸軍の維持によって負担は長期的に増している状態に。
 しかも最終的には敵に大打撃を与えて勝利しているにも拘わらず優良な成年男子を多く戦場で失った状態であり、陸の勝利をもぎ取った大村益次郎や乃木希典は簡単には補充の利かない下士官を大量に育成しつつ一般兵を削減する、大胆な軍縮を行うべきであるとの発言を行う。明治天皇や政府首脳もこれに同調し、更に戦争中に国を支えた女性たちの社会進出を考慮し、戦場以外の後方の事務方などに女性文官を採用する(≒男所帯に癒しを与える)などの政策が取られることになる。
 また、外満州を沿海州に改称する。

皇紀2570(明治43/西暦1910)年
  • 10月5日
 ポルトガル独立革命を目論んだポルトガル国粋主義者の叛乱が鎮圧。米西戦争で揺らぐイスパニア王室の威信がある程度取り戻し、大日本帝國に植民地を売却して得た資金を元手に工業力の整備が進められる。

皇紀2571(明治44/西暦1911)年
  • 10月10日
 辛亥革命勃発。清朝が滅亡し中華民国成立。琉球王国、清朝滅亡により朝貢関係を脱し完全独立を宣言。大日本帝國の領土(奄美諸島と台湾)に挟まれているという地理的な要因から大日本帝國の軍事的バックボーンがあるため、諸外国の蚕食に晒されず。大日本帝國からの資本導入を受けながら殖産興業を始める。

皇紀2572(明治45/西暦1912)年
  • 7月29日
 明治天皇崩御。
  • 7月30日
 新元号「大正」に改元。政府機関の女性登用が拡大され、女性の社会進出が進む。

最終更新:2013年06月08日 21:54