何故先輩達の方が先だったのかはわからない。
食いでがあったのかもしれないし、先に目が覚めてアレの気を引いてしまったからなのかもしれない。
とにかく目が覚めたときには、哀れ一人目はすでに声も上げない■■■になっていた。
つんと激臭が鼻を突く。
コンクリートの外壁をブラウン管がほの淡く照らし出す、まるで腐りきった水槽の中に居るみたい。
水底で、ぼりぼりと音が響く。脈絡もなく小学校で飼っていたザリガニを思い出した。
出来れば聞いていたい音ではなかったが、あいにく耳は塞ぎたくても塞げない。
何故かといえばといえばこれが椅子に縛り付けられているからで、さっきからぎりぎりと締め付ける縄が痛いほど。
ボンレスハムというのはもはや比喩でもなんでもなく、きっとあたしの皮膚は少しどす黒く変わってると思う。
あまりにも執拗な捕縛、逃げられないようという次元を通り越して、何をされようとも一切の抵抗が出来ない縛り方。
もちろん視線を逸らすこともできない。こっちは別の意味だけど。
ぼりぼりと、音が響く。
化物が大腿骨を咀嚼する。二足歩行のために発達したそれを、実にまずそうに口の中へと押し込んでいく。
「死ニダグナイ、死゛ニダグナイ、死゛ニダグナイ」
嗚咽とともにそんなことを喚く。
それでも口に詰め込む手を休めないので、そのたびに髄液が汚らしく飛び散った。なんというか顔にかからないのが幸いか。
口の中まで胃液が充満しているのか、骨は一分も持たずに原形を失って、化物は一息にそれを飲み下した。
と、土気色の顔色をさらに一変させ部屋の隅へと駆け寄る。
吐いた。
デロデロと黄色とも茶色とも取れる、さっきまでピンク色をしていたたんぱく質の塊を、もはや変質しているたんぱく質の塊の上にぶちまける。
つんとした激臭が、さらに鮮度を増して部屋の中に充満する。
「グルジいよぉ、ぉタスゲデぇよぉぉうぅ。」
都合3回目の嘔吐。間断のない逆流に息を切らせ、胃液にまみれて焼け爛れた声で助けを求める。
汚らわしく醜悪な叫びが鼓膜に突き刺さる。
まったく、これではどちらが被害者なのかわからない。
ひくひくとしゃくりあげ涙を拭う、二の腕までべっとりと付着した吐瀉物が更に顔をべたべたと汚す。
あぁ、なんていうかすごく、ありとあらゆる意味で目を背けたい。
けれども目は逸らせない。ほら、街路樹とくくりつけられた看板の間にびっしりと毛虫がたかっているのを見つけたとき、あの心境が近いか。
怪物の体型は樽型を通り越して球形に近い、ずんぐりとしたラグビーボールだ。まったく、女としてどうよ、その姿。
胸なんか完全に贅肉と区別がつかない。いつかテレビで見たアメリカ人のご婦人、体重300kgオーバーのあの人でも比べたら失礼に当たる。
ひどい姿だが同情はしない、なぜならこいつは懲りるということを知らないのだ。
「足゛リナイ、コンナに■てるのニ! マダ、オナガ一杯゛ニナラナイ!」
そして最初光景に戻る。
今度は左足だ。
顔との比して冗談みたいな小さな口で、天井から、それこそ解体前の肉のように吊り下げられた先輩を、がつがつと齧っていく。
まだあの時動いていた先輩も今は抵抗する様子もない。
ひくひくと動いているから死んでいないはずだ。
泣き疲れて、痛みも感情も磨耗して、無抵抗に喰われていく。
たまに何かに反応して、ぴくぴくと震える以外は完全に死体と区別がつかない。
あるいはもうとっくに気がふれて、脳の外のことなんてどうでもよくいるのかもしれない。
先輩の脳、もう溶けかかったもんなぁ。
さすがに素面でやってられない。いや、襲撃がカクテルパーティーが始まったあとでよかった。
ドラッグなど百害あって一理なしと思っていたがなかなか便利なものだと見直ことにしよう。
強制参加だった今日と違ってもっと晴れ晴れとした気持ちで楽しめるはずだ。
まぁこの私に、次なんてないんだろうけど。
「死にたくない、」
ポツリと、声が響いた。
あぁ、ヤッパリ生きていたみたいだ。
先輩のほほの肉は真っ先にそがれた、お尻も、二の腕も太腿も、まぁその、胸のところも全部食いちぎられている。
あの怪物には知性がある。柔らかくて苦くないところ、確実に食いやすいところから始まって、徐々に体の内側を喰らっていく。
ただ幸か不幸かそこに私達は一切存在しない。
生かして喰らうとか、恐怖こそ側が美酒とかそんな余計なものは一切ない。単に好き嫌いをしてるだけ。コイツはとにかく食うことしか頭にないのだ。
焼くとか煮るとか味や食い方とか、コイツはウマサに一切頓着しない癖に、きっちりと食物をえり好みする。
まぁ、最後にはきっちり全て食べ尽くしてしまうのだが。
「ゴメンナザイ、ゴメンナザイ、ゴメンナザイ」
怪物は謝罪の言葉を呟きながら、いよいよ先輩を踊り食いにかかる。
お酢の匂いのする調味料をぶっ掛けた。
先輩の体はあっというに液まみれだ。皮膚がてかてかと光って、ものすごくいやらしい。
手足もなくなり、もはや意味のなくなった拘束を剥ぎ取って、先輩のわき腹にかぶりつく。
「イア゛ァァァァァァァァァ」
全身の肌が粟立った。
寒気が背筋でビリビリと振動する、血も凍るような絶叫というものをあたしはここに来て生まれて初めて聞いた。
金切る悲鳴。ドラッグ漬けの目も磨耗しきった感情も一発で覚める。間近で眺める花火にたっぷりと悪意を仕込んだ感じ、耳じゃなくて全身がその音を受けて震えている。
がしゃがしゃと、金具が派手な音を立てる。
かつて手足だった、ちぎれて襤褸切れのようになった皮と肉片を振り回して、文字通り先輩最後抵抗と暴れまわった。
ばたばたと足掻く姿は何処となくもだえる芋虫のようで妖しく私の生理的嫌悪感を逆なでする。
じゅうじゅうと肉の焼ける臭いがした。怪物が口や手をつけたところが爛れている。
怪物はじゅるじゅると啜るように肉を食べる。
人間はここまで醜くなれるものだということを存分に見せ付けられる。
先輩の声は徐々にか細くなるが、背筋の震えは治まる気配がない。
腹膜はもう跡形もなく、半ば解けかかった肺が搾り出す悲鳴が私の脳内で残響してる。
目をつぶることに意味はない。何が起こっているのか、これから何が起こるのか、その姿を私の脳は律儀に、鮮明に想像してしまう。
それだったら、目の前の惨劇をただ呆然と焼き付けてるほうがまだ何倍もマシなのだ。
私は覚えているのだ。先輩の前に3回分、まだ私の中でかすかに残響している。
一人は跡形もなく食われた。
一人は食られては盛大に吐き出されてを繰り返され、吐瀉物の地層になっている。
一人は、紆余曲折、波乱万丈の末干し肉として吊るされてる。
みんな、同じように食べられたべれれてしまった。
椅子に縛り付けられて、カラフルなタブレットを無理やり飲まされ、朦朧とするあたしの前で、次々と“狩られて”いった。
特殊警防で殴られても、ナイフで刺されても怪物は倒れなかった。
とある人形遣いの言葉に曰く、怪物は不死身でなければならない。
溶解した凶器に呆然とする先輩に、スタンガンを首に押し付け縛っていって……
「ヨガッダ、マダ、人間はグッダゴトナガッタ」
そして、その声が、まだ頭の中で再生される。
「ユルジテ、私は、マダ、オナガイッパイニナレナイ、アナタダジをタズケゲてアゲレナイ」
先輩は顔ぐしゃぐしゃにして泣いている、怪物も同じようにして泣いている。
それでも怪物は食べるのを止めない。
先輩の小腸を引きずり、肝臓を引っ張り出して、料理酢をぶっ掛けてがつがつ貪る。
やがて先輩の声もゴメンナザイと呟く声に埋もれて消えた。
もう動くことも抵抗もしなかった。
先輩が、死んだ。
次は私の番なのだ。
ヤモリを食べたナメクジの話は芥川だったろうか?
心臓を食われた彼はぺろりとナメクジに飲まれてしまった。
抵抗のなくなった獲物を、怪物は今まで以上のハイペースで食べている。
時間にして30分弱。
食べて吐いてを繰り返して、見事先輩を“完食”した。
げ、ぇ、完食と同時に私は吐いた。
体を反らすこともできず、息が出来なくなりそうになりながら、吐いた。
怪物が、私のほうを向く。どうやら今ので気を引いてしまったらしい。
とはいえ今更嗚咽を止められない。
ぺたぺたと買い近寄る怪物を前に、さらに私は中身を撒き散らした。まったく怪物をどうこう言えない。
自分もコイツと同レベル、この吹き溜まりにふさわしい哀れな人間ということを思い知る。
ブラウスをべとべとにしながら、胃液が流れ落ちる。
眩暈が酷い。薬はとっくに切れてるのに、ぐわんぐわんと視界が揺れる。
酸素が足りない。喉を焼きながら、私はぜいぜいと喘いでいる。
「イヤダイヤダイヤ゛ダ、モ゛ウゴレ以上食ベダクナ゛イ、太リダクナイノニ゛」
息を切らし、幽かに顔を上げた私に、だけど怪物はお酢をたぶたぶとぶっ掛けた。
「ゴメンナザイ、かわいそうニ゛、助ケテアゲダイゲド、食べナキャダメッデ、ガミザマガ言ウカラ」
悲しくなる。
理性が明滅してるのがわかる。私の中の頭の冷静な部分はとっくに逃げ道がないことを知ってる。
先輩も、命乞いした。皆助けて欲しいといった。
それをこの怪物は覚えている。
「いやだ、」
私は振り絞るように懇願した。
「痛いのもいやだし、死にたくない、殺さないでよ、お願い」
「……イダグシデゴメナザイ、デモ、イダグシナイド食ベラレナイガら。私、オナガ減ってデ、ダガラ」
ゴメンナザイ、とかつて人間だった悪魔憑きは言った。
まったく、救いようがない。
彼女は私達が苦しいことも、痛いことも、絶望してることもわかったうえで食べている。
精神的聾者、と説いたのは誰だったろうか?
先輩達の言葉は届いていない。彼女は食べてしまう残酷な自分だったものに謝罪をし続けている。
わかっていたことだ、弱者というのは、総じて自分勝手で、醜く醜悪な生き物なのだ。
自分ひとりでは助かることも出来ず、縋りついた誰かまでも溺れさせる。
人は生まれながらにして罪を背負うといったのは誰だったか、哀れなる人間の本質がそこにある。
べしゃ、とユキオの汚物に塗れた手が服にかかる。
服がじゅわりと音を立てて引きちぎられる。
たいした力もかけずにユキオは私を剥いで行く。
つんと鼻を突くにおいで理解した、胃酸だ。これでナイフや服や先輩達の中身を溶かしていたのだ。
お菓子の包み紙をはぐみたいにあっという間に丸裸にされていく。
ちぎれた服が椅子やロープに挟まっているのも気にせず、ユキオはとぷとぷと私にもお酢をぶっ掛ける。
「ゴメンナザイ、ゴメンナザイ、ゴメンナザイ」
脳天から髪の中にしみこむお酢の感触から逃れたかった、ここは冷たい。打ちっぱなしのコンクリート、10月の冷気で足がじくじくと痛む。
「ああ、」
扶桑ユキオの手があたしを漬け見上げた、溶けかけた表皮がぬらぬらと光る。
「うあぁぁぁぁ」
刺すようなかゆみがぶすぶすと心を削っていく。
「あああああああああああああ!」
気がつけば叫んでいた。由紀緒が目を丸くして手を止める。
「いやだ、死にたくない、たすけて! 母さん! お母さん!」
みっともなく喚いた。ぼたぼたと涙を流す。暴れて椅子が倒れ、あたしは這うように出口を目指す。
「ゴメンナザイ」
ごり、と這い蹲った私の頭が押さえつけた。
それだけで私は動けなくなった。
文字通りびくともしない。
体重差は歴然としている。お相撲取だって、彼女よりは幾分軽いだろう。
生きたまま食べられたくない、内臓を溶かされるなんて真っ平だ。手足を切り落とされるなんて耐えられない。
「ダイジョウブ」
何かが頭に押し付けられ、
パチン、と火花がはじけた。
ヒューズが切れたのだと錯覚するかのごとき衝撃に、全身がびくりと大きく跳ねた。
視界がまぶし過ぎてチカチカするし、音が遠い、倒れてるはずの床の感触がわからなのだ。
感覚が消えたのは一瞬。
ボリュームがついたとして、それを一瞬で1まで下げた感じ。触覚はまるでゴム越しのようで、視界がチカチカするのは瞳孔が極限まで開いて焼付けを起こしたのだと理解する。
「 」
声はかろうじて聞き取れない。何かを発しているのはわかるのだが、ザリザリという音にまぎれて言葉として焦点が合わないのだ。
しかし痛みはない。ぼんやりとした圧力と、首を前後に往復する加速度だけが微かにわかる程度。
まぁ、なにをされてるかは容易に想像がつくわけで、
「…イジ…ブ」
壊れたレコーダーみたいにかすれている、同じ言葉を執拗に繰り返す怪物のしゃべり方とあいまって、脳に届くには時間が要る。
ざり。ざり。
往復するたびに血しぶきがはじけて、ぴしゃ、ぴしゃっと床に線を引いた。
「ダイジョウブ、イイコト、思イツイタ、コレナライダグナイ」
にんまりと笑う顔が大脳越しに見える。
私は金魚よろし口をパクパクさせる。
感覚はどれ一つ回復していないのに状況がクリアにわかるなんて嫌過ぎる。
「聞イダコトアル、脳ハ幾ラサワッデモ、痛グナイッデ」
迸るほどの悲鳴を上げているはずなのに、かすれたように声にならない。
ぼたぼたとよだれを撒き散らしながら、必死に振り返ろうと私はあがく。
さっきから眼球が裏返りそうになるぐらい痛む。人間の体は自力で頭部を見ることができないのは百も承知だ。
自分の体が何をされてるか、見えずに好き勝手されていてるのに人間の精神が耐えられない。
今すぐ振り向かなければ、気が狂いそうになる。
ざりっ!
狂ったように暴れていたあたしの耳に、一際大きく音が響いた。
ただそれだけであたしは一歩たりとも動けなくなった。
動けば、こぼれる。
自分の心音が耳に痛い。
はぁー、はぁー、という呼吸音はもはや人を通り越して獣のように興奮している。
横倒しの体が引き起こされる、プリンが器からこぼれてはならないからだろう。
肌を触られるだけで電気が走る。緒へその下を胎からくすぐられてるみたいに体の中がざわついた。
アドレナリンが止めなくあふれ出す。
あの音を聞いた瞬間、一線を越えた。
いかに人間というものがプライドとか人間の尊厳とか人格とかに雁字搦めになっていたかが良くわかる。
理性というリミッターを失って、未加工の信号が無防備な感情に直接
リンクする。
正直な話、ここまでされてまで間壊れない人間の精神が少し恨めしかった。
とうに気がフれているのに、意識はいまだ正確に自己を認識してる。
だからがしりと後頭部ををわしづかみにされて、柔らかいものを呑み込む音を聞いたとき、本当に痛みは無いんだななどと場違いなことを思った。
「ヤッバリダ、指デスグッテモ、痛グナイ。ゴレデ、イダマナイヨウ、ニタベテアゲル」
吐き気が止まらない。胸の中にどす黒い球体を押し込まれたみたい。心が鷲づかみされている。
柔らかい、けれども強烈な握力。存在しな器官の異常を存在しない痛覚が訴える。
大脳にもとより痛覚は存在してない、大血管にさえ触れられないなら、何をされてもそれを知ることは出来ないのだ。
どんなに犯されても、どんなに涜されても、痛みもないまま、何もわからないまま死んでいく。
そしてとぷとぷと注がれる■■■。
自分の中に確かにあった言葉が欠落している。
思い出そうにも雲を掴むようであり、
ようやくにして私は失われたということを理解した。
怪物ががつがつと、貪る。
「あうぅぅうぅぅ」
もはや思考が言葉として意味を成さない。
自分の意思に反して手足が跳ね上がる。痙攣なんて言葉では聞いていたけどまさか体験することになるとは思わなかった。
体が思い通りにならないと気付く瞬間は、心底肝が冷える。
走馬灯は流れない。たぶん思い出なんかは真っ先に“食べられ”てしまったらしい。
そんなことをぼんやりと思う。
意識は靄がかかったようであり、もう自分が眠っているのか覚めてるのかが区別さえ曖昧だ。
こんなにも死にたくないと願っているのに、気の狂いそうなほどおぞましいのに、こんなにも穏やかなんてあんまりだ。
眠気は鐘を打つようなものだ。遠くで遠雷のように、響いている。
ちょうど照明を落とすように、一打ちごとに、灯りが消えていく。
遠くの音に耳を澄ます。
たぶんあたしは自分が事切れるまで、自分が眠っていることには気付けないのだろう。
最終更新:2008年08月07日 20:11