初投下します。
食われるために育てられた少女という「ミノタウロスの皿」のパターンですがどうぞ。
森の木々を丸く切り取ったような斎の原(いつきのはら)の中央で、簡素な彫刻を施した白木の板の上にシヅは仰向けに寝かされていた。
家事や野良仕事など一切したことのない白い両手は胸の上で組み合わされ、長い髪は漆黒の川のように板を這い縁から流れ落ちる。
夕暮れの中、脇に立てられた松明がその白装束の少女を赤く照らしだした。
担ぎ手の男たちも村に引き上げ、善吉はひとり木の上からシヅを見守っていた。
シヅの両目は大きく見開かれてはいるが、その実なにも見てはいない。
この世の光や音を感じたとしても、それは既に彼女にとって何の意味も持たないのだ。
(このようなお役目でなければ、善吉の嫁になりたかった)
一カ月前、行に入る前の晩にシヅはそう言った。それが彼女と交わした最後の言葉だった。
善吉は幼いころから山奥の小屋に年の離れた兄と二人きりで住んでいた。
たまに山で採れたものを米や衣類と交換するため兄について里へ下りていくことはあったが、村の子供たちは彼らを遠巻きに眺めるばかりで決して関わろうとはしなかった。
それは嫌悪や嘲りとは違う、むしろ恐怖とか畏れに近いものだったように思う。
いずれにせよ、彼は友達というものを一人も持ったことがなかった。
七つか八つのころ、どうしたものか善吉は山の中で兄とはぐれ、ひとり川沿いを歩いていた。
草をかきわけながら川下へ進んでいくと、不意に淀んだ淵に出た。
少し先で薄い着物を着た、彼と同じ年頃の少女が腰まで川に漬かり、しきりに水をかぶっている。
善吉や村の子供たちとはまるで違う真っ白な肌に黒く艶やかな髪、そして赤い唇が彼の目を射た。
「誰だ」物音に気づいた少女が言葉を発した。「そこで何をしている」
「俺は善吉。ハガクレの善吉だ。おまえこそ誰だ。山に住むという物の怪のたぐいか」
「私はシヅ。ここに婆様と住んでいる」
それからというもの、善吉はたびたび淵を訪れシヅと会うようになった。
シヅの身の上については彼女自身もよく知らないようだった。
物心ついたころから「婆様」と呼ばれる老女とここに暮らしていたこと、朝夕の禊ぎを欠かさず行っていること、村の人間と口をきいてはならないことなどを少しずつ彼女は善吉に話した。
「俺と口をきくのはかまわないのか」
「善吉は別だ。村の人間ではないから」
実際、婆様も善吉のことを知っていながら見て見ぬふりをしているようだった。
ただし、いかなることがあってもシヅは自分の体に手を触れさせなかった。
あれから七年たった今、善吉は近在の村ではかなうもののない弓の射手になっていた。
シヅを神に捧げるための呼び水、それが彼に与えられた役目だった。
(兄ちゃん、神とはどんな形をしているんだ)
(大きな美しい狼よ。それが捧げられた娘を食らうのさ)
兄がかつてどんな娘を見送ったのか、そもそもこの男が本当に善吉の兄であるのか、なぜ自分らがそのような役目を担わなければならないのか、兄はなにも語らなかった。
(俺はシヅをそんな目にあわせたくない)
(なら好きにしろ)兄はあっさりとそう言った。(あの娘を連れてどこかへ逃げるがいい。おまえは山で暮らす術を知っている。人目につかず二人で生きていくことぐらいできようさ)
シヅ自身がそのようなことを選ぶはずがないと見越していたのだろう。
そして一カ月前、シヅは神への供物となるべく人としての心を捨てる行に入った。
もはや善吉も彼女に会うことは叶わなかった。
次第に濃くなりつつある夕闇の中、樹上の善吉はシヅとの奇妙な二人きりの時間を過ごしていた。
シヅは時おりその大きな目を瞬かせる以外に身動きひとつしなかった。
彼女の心は既に人のそれではない。五穀断ち、秘薬の投与、絶え間ない暗示が彼女を作り変えてしまった。
しかし俺とて正気と言えるのだろうか、と善吉は自問した。
恋しい娘が目の前で生贄に捧げられようとしているのに、恐れも怒りも悲しみも覚えない、このひどく平静な心持ちはなんなのだろう。
そのとき日暮れの鐘が鳴った。
善吉は背の矢筒からゆっくり矢を取り出すと、弓につがえ眼下のシヅを狙った。
急所を射てはならない決まりだった。彼女を生かしたまま血の匂いだけを風に乗せるのだ。
薄暗がりのうえ距離もあったが、動かない的を外すことはない。
矢は狙いどおりシヅの脇腹に命中した。たとえ心はここになくとも、彼女の肉体は痛みに反応して弾かれたように痙攣する。
矢の根元からじわりと血が滲み出し、白装束を小さく染めた。
白木の板に縫い付けられたシヅは、わずかに驚いたような表情を見せた。
これで彼の役目は終わりのはずだった。あとは夜明けの鐘が鳴るまでここで耐えていればいい。
木の股に腰を据えたとき、彼はふと獰猛な匂いを感じた。下草を踏み分けるいくつもの足音が聞こえ、あちらこちらで獣の目が松明の灯に光った。
あれがみな神か?
やがてそれらの影は、低いうなり声とともに四方八方からゆっくりと斎の原に侵入しはじめた。
あんなにたくさんの狼がこのあたりにいただろうか、と善吉は考え、すぐにかぶりを振った。
この世ならざるところから来たものたちだということは、それらが放つ気配でわかる。
十数匹にも及ぶ獣たちはシヅの周りに群がり、嫌らしく鼻を鳴らしてしきりに匂いをかいでいた。
一匹が屈み込んだかと思うと、突然彼女の装束を噛み裂いた。
腰巻ひとつまとわぬ裸体があらわになり、続いて別の一匹が白い下腹に食らいついた。
突き刺さっていた矢が倒れ、シヅの体は大きく弓なりに反り返る。
堰を切ったように獣たちは彼女のもとに押し寄せた。
胸の上で組み合わされていた手は両側に引かれるままにぱたりと落ち、たちまちのうちに血にまみれた。
大勢の使い手からめちゃくちゃに操られている人形のようにシヅの体は右へ左へと激しく揺れた。
遠くを見つめたままの顔が、体の動きから少し遅れていやいやをするように振れる。
不意に彼女の上半身が大きく波うち、薄く開いた口から赤黒い血が吐き出された。
中央にたどり着くことのできなかった獣はしばらく周辺をうろうろしたあげく後ろ足で蹴りつけられ、キャンと情けなく鳴いて逃げ出し闇に溶けて消えた。
あれが…あんなものが神だと?
凍りついたようにその凄惨な饗宴を見守っていた善吉は、無我夢中で矢をつがえ群れに放った。
裂けた腹に鼻面を突っ込み臓物を引きずり出そうとしていた一番大きな獣が、絶叫とともに跳ね上がってどうと倒れた。
ひるんだ獣たちは二、三歩後ずさりすると、次の瞬間には踵を返して一目散に逃げ散っていった。
彼は急いで地面に降り立ち、何度も転げそうになりながらシヅのもとに駆け寄った。
シヅの四肢はところどころ骨が露出するほどに噛み裂かれ、血溜まりと化した下腹からはちぎれた腸が力尽きたように伸びている。
しかし、鮮血にまみれ既に死相を浮かべながらも、彼女の愛らしい顔は奇跡のように傷ひとつなかった。
口許の血泡が、絶え絶えとなった呼吸に弱々しく震える。
「森と木々の神よ!」善吉は闇に向かって咆哮した。「シヅの真の主よ。どうかシヅの命果てる前に姿を現してくれ。おまえのためだけに生きてきた娘の思いを遂げさせてやってくれ」
善吉は涙を流して泣いていた。シヅが死ぬことが悲しいのではなく、彼女の生と死の意味が無に帰すことが悔しかった。
ややあって、何かが木を押し退け枯れ枝を踏みしだきながら近づいてくるのがわかった。
消えかけた松明の灯に照らされて、巨大な白い影がぼうっと闇に浮かび上がる。
あれが
大きな美しい狼。
シヅがその短い一生をかけて待ち望んでいたもの。
生気を失い半ば閉じかけていたシヅの瞳に、一瞬光が戻ったように見えた。
白銀の毛皮に包まれたそれは体高だけで善吉の倍はあった。子供など一呑みにできそうなほど大きく裂けた口からは鋭い牙が覗いている。
しかし、なんという姿だろう。
その片目は無残に潰され、体のあちこちからも新しい血が噴きだしている。
なにがあったのだ。
混乱する善吉をよそに傷ついた狼はよろめきながらシヅに近づき、じっと見つめていたかと思うと不意にその小さな体を牙にかけ高々と持ち上げた。
剣のような牙に胴体を貫かれたシヅは仰向けにのけぞって最後の痙攣を起こした。
狼の下顎の端から、逆さまに長い黒髪を垂らし、半眼のまま息絶えた彼女の顔が見えた。
なんの感情も映し出さぬその顔は、なぜか善吉に不思議な安らぎをもたらした。
狼は少女をくわえたままゆっくりと闇に向かって歩きだした。
善吉はほとんど無意識のうちに矢を拾い、弓につがえていた。
背を向けた狼に矢を打ち放った瞬間、その姿は闇に溶けてかき消えた。
そのむこうの木の幹に刺さった矢がわずかに震えていた。
善吉はがっくりと両膝をつき、胎児のように体を丸めて地に倒れこんだ。
風にそよぐ葉ずれの音が次第に遠ざかっていった。
最終更新:2010年05月06日 03:49