「うわぁっ、凄い……バーチャル映像ってヤツかな?」

 コンサートホールの地下に降り立った筈の氷川レイカと柊ユリを包み込んだ景色は、決して屋内では
存在し得る筈のないものだった。
 そこには空があった。青々と澄み切っており、雲一つない快晴で、陽の光が眩しい。
 そこには風があった。爽やかな強い風が二人のスカートを際どく翻らせる。
 そこには大地があった。足が踏み締める度に砂利を弾く音が心地良い。
 そこには川があった。何処からともなく聞こえてくる水のせせらぎに耳を傾ける。
 ――そして、目の前には薄暗い密林が広がっていた。
 レイカが子供のように目をキラキラと輝かせながら空を仰いでいる間、後ろのユリはひたすらに周囲
を見渡していた。何処をどう見ても屋外であり、比較的都会である街の地下にこんな空間が存在する筈
がない。レイカの言うようにバーチャル映像というものだろうか。だとすれば奥行があるように見えて
実際には壁になっているかもしれない、とユリは恐る恐る前に手を伸ばしながら、降りて来た階段があ
った筈の場所へと歩く。だが、そこには壁などなかった。今見えている景色の通りにいくらでも進んで
行けそうだった。
 確かにここは鬼ごっこをするには打って付けの場所なのかもしれない。広い空間の中に隠れられる場
所がいくらでもあるのだ。上手くいけば鬼の姿を見る事もなく制限時間を迎えられそうだ。だが、ユリ
は恐怖を感じ始めていた。こんな得体の知れない空間にいるのはレイカとユリの二人のみ。前を走って
いたミナとマオ、後ろを走っていたサエとエミの姿が見当たらないのも奇妙であったが、何より木々の
奥から禍々しい気配が発せられているような気がしたのだ。暗がりの向こう側は呑み込まれそうな闇が
広がっているだけで、陽の光は殆ど届いていない。それを覗き込むだけで自然とユリの全身に鳥肌が立つ。

「お、お姉様……」

 震える声でユリが口を開く。そっとレイカに近付き、不安を伝えるべく彼女の手を握ろうとするの
だが、レイカはその手に気付きもせずに足を前に踏み出した。その足が目指す先は密林だ。迷いも躊躇
いもないように見えるその足は、まるでレイカが密林に誘われているかのようにも見えるが、そうでは
ない。彼女は自らの意思で密林へ入ろうとしているのだ。

「お姉様、待って下さい!」

 堪らずユリは抱き付くようにしてレイカに縋り付いた。

「どうしたの、ユリちゃん?」

 レイカは口元に微笑を浮かべながら顔を後ろへ向けるが、彼女の背中に顔を埋めるようにしていた
ユリにその表情が見える筈がない。それはレイカも同じで、彼女の視界にはユリの頭がかろうじて見え
ただけだった。

「お姉様は何も感じないんですか? あの森、凄く不気味で……っ!」
「不気味だけどこんな丸見えの場所に立ってたって鬼に見つかるだけじゃない? それにミナちゃん達
は中に入っちゃってるのかもしれないし」
「それは……」
「大丈夫だって、ユリちゃん。何かあっても、一応こんなのを護身用として持ってるから」
スタンガンだ。重量感のあるフォルムから突出した二つの金属の電極板。彼女がスイッチを入れてみると、バチ
ッと激しい音を立てて電極間に青白いスパークが発生する。使い方次第では、下手な武器よりも遥かに充分な殺傷
力がある武器だ。
 顔を上げたユリの目の前で弾けるスパークに、彼女は思わず仰け反る。好奇心でスパークに触れてみたいと思
うよりも早く反射的に身体が避けたのだ。レイカは冗談のつもりなのだろうが、こういった武器はただの包丁で
さえ冗談でも人に向けてはいけない。
 スタンガン――即ち武器があるから大丈夫だと安易な考えが果たしてここで通じるかは別として、レイカの笑顔
にユリは胸を撫で下ろした。彼女にとって最も敬愛する人がそう言っている以上、いつまでも不安がっているの
は彼女の望むところではない。ユリは力強く頷くと、彼女もまたレイカに向け笑顔を作った。

 密林へと足を踏み入れると、想像していた以上に薄暗く、気味が悪い光景が広がっていた。まさしくジャング
ルと呼べる光景だ。山に頻繁に赴く趣味など二人ともなかったのだが、それでもとても日本では生息していそう
にない植物が並んでいるのを察する事ができた。時折何処かから聞こえてくる鳴き声は鳥のものだろうか、それ
とも獣のものだろうか。
 先頭に立つレイカは携帯電話のカメラ用のライトで前を照らしながら歩いており、ユリは引き続き彼女の背中
にべったりと貼り付くように歩いている。お姉様が一緒だから大丈夫――とユリは自分にそう言い聞かせているも
のの、怖いものは怖い。進めば進むほどに未知なる空間に呑み込まれていく。そしてそれは同時に元の世界へと
二度と帰れないのではないかという不安を生じさせる。ユリはこんな状況にも全く動じる素振りを見せないレイ
カに静かに胸をときめかせていた。
 ユリの心を魅了して止まない存在、それがレイカ。彼女はレイカと一緒であれば何処へでも付いていくつもり
でいた。年上の人間に憧れる、というのは男女問わず“お年頃”であれば何ら不思議でもないのだが、それが同
性であり、かつ恋愛感情に直結させてしまっているのは珍しい。ユリはレイカが好きだった。いや、彼女自身愛
しているのだと意識していた。レイカを想って枕を濡らした回数は計り知れない。
 ――だが、同性愛という少々歪んだ想いを持つのは決してユリだけではない。対象は異なるもののレイカもまた
同じだった。

「ミナちゃーん! おーい、ミーナーちゃーんっ!!」

 先程からレイカはミナの名前を呼び、その姿を捜している。殆ど同じタイミングでコンサートホールの地下に
降りた筈なのに見当たらない少女の姿。ミナだけでなく、シノ、サエ、エミの名前も時折呼び掛けるのだが、回
数では圧倒的にミナが多い。レイカのミナに対する想いというのは何か特別なものがある。それは学校生活でも
如実に表れており、極力レイカと一緒にいようとするユリにはそれが痛い程に伝わっていた。
 それでも懸命にレイカを自らへと振り返らせようとするユリだったが、結果は依然として変わらず、レイカは
背中にくっ付いて離れない彼女を半ば無視するかのように歩き続けている。彼女が怖がっているのは背中から伝
わる身体の震えから明確だが、レイカは特に彼女に優しい言葉を掛けようとする素振りもなかった。
 陽が落ちたかのように二人を暗闇が包む。ユリは真上を見上げるが、生い茂る植物によって陽の光が完全に遮
られていた。頼りになるのはレイカの持つ携帯電話の灯りのみ。暫くすると目が暗闇に慣れ、ぼんやりとだが周
囲の様子が見えるようになってくるものの、反って不気味さを際立たせている。恐怖心を煽るその景色はユリの
心を激しく揺さぶり、不安定にさせていた。

「お、お姉様……ここ、怖いです。暗いですし、何かが出て来そうで……っ」

 甘えるような声でユリが言う。相手が男であればそんな彼女の声に何かしらの感情が揺さぶられるのかもしれ
ないが、レイカはそんな彼女に対してあまりにも素っ気がなかった。

「そう? でもここにミナちゃんがいるかもしれないじゃない。あの子、マオちゃんやシノちゃんが一緒だとそ
うでもないけど、意外と怖がりだったりするのよね。だから私が傍にいてあげないと。そうそう、この前だって
ね――……」

 ミナ、ミナ、ミナ――……レイカは口を開けばすぐにミナの名前を出す。どんな話をするのだってそうだ。「ミ
ナちゃんなら」「ミナちゃんって」と比較するのも話を振るのも全てその名前が出てくる。休日に一日中レイカ
と二人で遊んだ事があったユリだったが、その場にはいない女の子の名前ばかり出されてうんざりした事もあ
った。二人きりの時ぐらい、と彼女は愛想笑いしながらもギリッと奥歯を鳴らしていた。
 例えば、ユリではなくミナがこの場にいて、同じ台詞を言った時、レイカは恐らく全く別の反応を示しただ
ろう。「大丈夫だよ」「心配ないよ」「何があっても守ってあげる」――ミナに対してはそう言ったのではないだ
ろうか。想像するだけでユリの腹の奥底から苛立ちが込み上げてくる。それはやがて黒く染まっていく。ドス
黒い、嫉妬に似た感情に。

「でねー、その時にミナちゃんったら――……」
「あ、今度ミナちゃんとね――……」
「そんなミナちゃんも可愛くって――……」

 レイカが“ミナ”という単語を口にする度にユリの中で黒い炎が燃え上がり、広がっていく。ユリはもうレイ
カに対して相槌を打つ事もなかった。彼女に巻き付けていた両腕から力を抜き、その場に足を止める。さすがに
レイカも背中の感触がなくなった事に気付くと同様に足を止め、振り返った。ユリは俯いており、その表情は彼
女に見えなかった。

「……どうしたの、ユリちゃん?」

 混沌に塗れたユリの心に渦巻く感情は彼女の身体さえ支配し、動かせる。今までに溜まりに溜まっていた感情
が一気に噴き出したかのように、彼女は自分でもその行動に疑問を抱く事はなかった。他人からすれば我儘で自
分勝手でしかない行動も、内容次第では可愛いものだが、それは決して可愛いと呼べる代物ではなかった。

「……っ!」

 タンッ、とユリは俯いたまま地面を強く蹴り、前方へと飛び出した。彼女の視界に映るのは地面と自分の靴。
その視界の中に別の靴――レイカの靴が入った瞬間、彼女は両手を強く前へと突き出した。走っていた勢いに併せ
て全体重を両手に触れた柔らかい物にぶつけると、レイカの悲鳴が響き渡った。
 ユリに突き飛ばされる形で尻餅を付いたレイカ。その手から携帯電話がすり抜けて地面に落ちると、辺りは急
に暗闇に包まれたような錯覚に陥る。同じく肩から提げていたバッグも地面に落ち、口を開けっ放しにしていた
ため、スタンガンをはじめとする中に入っていた小物が散乱した。

「いったぁい……何するのよ、ユリちゃん!?」

 尻餅を付いたまま、片手で腰を撫でていたレイカが突然の攻撃に憤ってユリを睨み付ける。目はすっかり暗闇
に慣れているため、灯りがなくてもユリの姿がはっきりと見えた。相変わらず俯いており、表情は分からない。
だがそれでも、目の辺りから滴がポロポロと地面に落ちていくのが見えた。気付けば小さな嗚咽が耳に届いて
いる。
 ――ユリは、泣いていた。
 訳も分からず、どうしたらいいのかも分からずに身体を硬直させているレイカを尻目に、ユリはまるで“生け
る屍”のようにゆらり、ゆらりと徐に足を動かすと、レイカのバッグから零れ落ちたスタンガンを拾い上げた。
壊れていないか確かめるようにスイッチを入れると、青白いスパークがユリの表情を照らし出す。その目からは
怒りと悲しみをはじめとするいくつかの感情が読み取る事ができた。だが何を考え、何をしようとしているのか
は読み取る事ができなかった。

「どうして……」
「ユ、ユリちゃん?」
「どうして私を見てくれないんですか? どうして私の気持ちに気付いてくれないんですか? 私は……っ、私
はこんなにお姉様を愛してるのにお姉様はミナの話ばっかり!! 私じゃダメなんですか!? 私の何処がダメ
なんですか!? そんなにあんな地味な女がいいんですか!!?」
「お、落ち着いてっ!! 私、別にそんなつもりなんて――……っ!」

 レイカが慌てたようにユリを宥めようとするが、時既に遅し。ユリの思考回路は短絡してしまっており、暴走
に近いものと化していた。一種のヒステリーを起こしているかのようだ。そうなってしまった女性には言葉を届
けるだけでも一苦労だ。
 ユリは真っ赤に充血した目でレイカを見た。その目も、そして口元も笑っていた。その表情はレイカの背中に
ぞくりと悪寒を走らせる。

「酷いです……酷いですよ、お姉様。でも、もういいです。もう……いい、です」

 バチバチ、バチバチとスタンガンのスパークを弾けさせながらユリはレイカの前に立った。レイカの第六感が
警鐘を鳴らす。こんな状況になってまで、ユリの心の内が曝け出されてまで彼女がこれから行おうとしている事
に気付けない筈がない。やがてスタンガンの矛先が向けられるのは紛れもなく自分。早いか遅いかの違いでしか
ない、避けられそうにない動き。

 ユリは笑いながら、ようやくと言うべきか、徐にスタンガンをレイカに向け、スイッチを入れた。
 ここは二人だけの空間……お姉様が大人しくしてくれれば、お姉様はもう私のもの。ミナなんかに譲らない。
例えお姉様が死んじゃっても……それでもいい、永遠に私の傍にいてくれるのなら――。

 レイカは恐怖に顔を強張らせる――……“演技”をした。内心では呆れたように笑っていた。
 ふぅん、こんな行動に出るんだ……極端なのね。“ヤンデレっぽい女の子”ってリクエストだったけど、こん
なので良かったのかな――。

 二人の心の声が水面下で錯綜する中、ユリは意を決したようにスタンガンのスパークをレイカの左胸に押し当てた。

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最終更新:2012年11月28日 22:34