ミナとマオは二人して目を丸くした。コンサートホールの階段を下りた瞬間に、前を走っていた筈のレイカとユ
リの姿が突如消えた事も確かに理由の一つに挙げられるのだが、それ以前に目の前に広がる光景に驚きを隠せなかった。
汚れや傷が染み付いて消えない、かつては真っ白だった廊下。天井に取り付けられた蛍光灯だけが周囲を照らし
ている。二人の右手側には規則的に窓が並んでいて、外が暗いためそれは鏡と化して二人の顔を写す。左手側に
は『3-B』と印字されたプレートが掛けられている部屋があった。
――そう、二人にとって見慣れた場所、ここはコンサートホールを訪れた七人全員が通っている公立高校だった。
コンサートホールと学校は電車で一駅も二駅も離れている。全く同じ建物がコンサートホールの地下に存在する
筈がない。否、そもそも建物の地下に外の景色を見られる建物が存在する筈がないのだ。
マオは呆けた顔でそっと自分の頬を掴み、強く抓った。夢や幻ではないとすぐに気付く。普通の人間なら一種の
恐怖心を覚えるものだろうが、さすが自他共に認める楽天家と言うべきか、彼女は喜々とした表情を浮かべながら
その場で飛び跳ねた。
「凄い凄ーい! コレってマオ達の学校だよね!? 瞬間移動ってヤツ!?」
兎のようにピョンピョンと飛び跳ねたかと思えば、今度はその場で突如四つん這いになり、何かを探しながら動
物のように少しずつ前進していく。短いスカートを履き、お尻を高く突き上げるものだから後ろのミナの位置から
白とピンクのストライプ柄の下着が丸見えだ。女同士だから互いに見えてもさほど恥ずかしいものではないのだが
、ここが学校という事も相俟ってか、ミナはこの場にいる筈のない男子の目を気にするかのように辺りを見回した。
「マ、マオちゃんっ、見えちゃってるよぉ……?」
「あーっ! やっぱりそうだ! 間違いないよ、ほらっ! ここに昨日マオが書いたばかりの落書きがある!」
興奮気味のマオの耳にも一応ミナの言葉が届いていたらしく、彼女はミナに振り返ると同時に片方の手でスカー
トを押さえた。もう片方の手は見つけたらしい落書きを指している。廊下の隅だ。ちなみに丸文字で可愛らしく『
お腹空いたー』と顔文字付きで書かれている。何故そんな落書きをそんな場所にしたのかは全くの謎であり、ミナ
は聞いてみたいという気持ちがあったのだが、それは一つの小さな溜息となって宙に消えていった。
天真爛漫なマオを前に、ミナは今置かれている状況に対する疑問を考える気力が失せた。それよりも彼女の興味
を惹いたのは、もう一つ奥にある教室――『3-C』だった。ミナにとっては隣のクラスであり、そして恋人だった男
の子が在籍しているクラスだ。一つ、思い出深いクラスでもある。
コツ、コツとミナは足音を立てながら相変わらず四つん這いのマオの横を通り過ぎ、『3-C』の扉の前に立った
。それに気付いたマオもすぐに立ち上がり、彼女の横に並ぶ。
「どしたの、ミンミン?」
「ん……ちょっと、ね」
ミナの声の調子から哀しい事を思い出しているのだと、マオは察した。マオもミナの恋人の事は知っていたか
らだ。ただし知っているのは顔と名前とクラスぐらいで、それ以外の事は殆ど知らなかった。
マオは何か明るく声を掛けようとしたが、ミナが扉を開ける方が早かった。そうなれば下手に話題を逸らしたり
明るく振舞ったりするよりミナに付き合う方が懸命だ。彼女の傷付いた心がそれによって少しでも癒されるのであ
れば尚更だ。
教室には電気が点いておらず、真っ暗だった。ミナが手探りで電気のスイッチを入れると、途端に眩しくなる。
誰もいない教室というのは酷く殺風景に見えた。綺麗に消された黒板に、規則正しく並んだ机。ミナは真っ直ぐに
とある机の前にやって来て、そっと机の上に手を置き、小さく吐息を漏らした。
「これなんだ、カレの机。あ、元カレ……か、あはは」
「ミンミン……」
「マオちゃん、私ね、この人が初恋だったんだよね……小学校からの同級生で、頭はあんまり良くなくて、運動も
あんまり出来なかったけど、とにかく優しかったんだ。それで……ここで告白されたの。誰もいない、放課後の教
室で、話があるって呼び出されて」
ミナはその時の事を思い出しながら、徐々にか細くなっていく声で言葉を紡ぐ。あまり後ろ向きな話は性格上聞
きたくないマオだったが、そこは一応空気を読み、最後まで聞く事にした。机を間に挟んでミナと対面になるよう
に移動したマオは、何の気もなくその席に座ると、ミナの顔を見上げた。目に薄っすらと涙が浮かんでいた。
「『ずっと前からお前の事が好きだったんだ。俺と付き合ってくれないか』って。私、すっごく嬉しかったなぁ
……ずっと両想いだったんだなぁって。それから本当に楽しかった。嬉しかった。二人で話す事が、二人で遊ぶ
事が、二人で一緒にいる事がね。でも……こんな急な終わりってないよぉ……せっかくのデートなのに、クリスマ
スなのにぃ……っ」
ピタン、と机の上に一粒の涙が弾けた。だがそれ以上涙が毀れる事はなかった。ミナは自分の気持ちを整理する
ために“始まりの場所”に来たのだ。泣くためではない。ここに来るまでにもう充分泣いたのだから。
だがしかし、コンサートホールを訪れただけなのにも関わらず、学校へ訪れる事になったのは偶然なのだろうか
。それとも必然なのだろうか。その答えを知る者は、少なくともこの場にはいない。
大丈夫……私には私の事を気に掛けてくれる友達がいっぱいいるから。いつまでもヘコんでちゃダメだよね――。
ズルッと鼻水を啜り、眼球にこびり付いた涙を磨り潰したミナの表情は何処か吹っ切れているようだった。心配そ
うな眼差しを向けるマオに、笑顔を作って見せるミナ。
「――よしっ、忘れよう! ううん、もう忘れた! うん!」
「そーそー、それでこそマオが煮込んだ――……じゃない、見込んだミンミンだよ」
「何その噛み方、わざと? マオちゃんてば……あはっ」
別にわざと言い間違えた訳ではなかったのだが、マオは言い返す事はせず、代わりに笑顔を返した。ミナも両頬
に小さな笑窪を見せながら笑う。
ミナの気持ちの整理ができたのなら、こんな場所に長居する必要はない。マオはスッと椅子から立ち上がった。
椅子の足が床に擦れて音を立て、立ち上がった拍子にマオのお腹が机に触れ、ガタッと音を立てる。
――マオがゆっくりと立ち上がっていれば、“それ”に気付かずに済んだのかもしれない。
机の中に入っていたのだろう、机が揺れた拍子に一枚の紙がヒラヒラと宙を舞い、音もなく床に落ちた。
「ん? 何だろ、手紙?」
マオは何の気もなくその紙を拾い上げた。葉書より一回りほど小さな長方形の紙だ。拾い上げた面には何も書か
れておらず真っ白だった。手首を返し、裏面を見るとそこには綺麗に書かれた文字が羅列されていた。僅か五行に
も満たないその文字数は、瞬き一つする間もなく読むことができた。
「……え?」
ドクン、とマオの心臓が高鳴る。表情が見る見る内に変化していく。
「どうしたの、マオちゃん?」
「こ、これ、って……うっ、ううん! 何でもない、何でもないよ! 何の変哲もないフツーの内容! ミンミンが
読む価値なんてないって!」
マオは明らかに動揺していた。自分では必死に誤魔化そうとしているのだろうが、それは誰が見ても可笑しな挙
動だ。親友であるミナは当然、マオは嘘が苦手だという事を知っている。
踏ん切りを付けた気持ちが、まるで水の中に墨を垂らしたかのように濁る。その黒くモヤモヤとした感情は色褪
せる事はあっても消える事はない。ミナは口を開いた。一度、二度、三度。だが、濁りが言葉になる事はなかった。
問うべきか、問わざるべきか。一瞬の間にミナの中で幾度となく葛藤が繰り返される。四度目に口を開いた時、
彼女は答えを見出していた。
「……そっ、か。それじゃ、そろそろ行こうか。こんなところじゃ“鬼”が来たらすぐに捕まっちゃうもんね」
ミナが震える声で言うと、その声の震えに気付かなかったかのようにマオは目を輝かせた。
「あーっ! そうだった、“鬼ごっこ”の真っ最中だったんだ! こーしちゃいられない、早く逃げようよ、ミンミン!」
「もっ、もう、引っ張らないでよぉっ!」
マオの手の中で手紙がクシャリと音を立てて丸まったかと思えば、次の瞬間には紙くずと化したそれが宙を舞っ
ていた。手紙を持っていたその手は、今はミナの手を握っており、二人は並んで逃げ出すかのように教室から飛び出す。
行き先も分からないまま、マオはミナの手を握ったまま廊下を駆ける。彼女は本当にあの教室から逃げ出して
いた。あの手紙は絶対にミナに見せてはいけないと、そう強く思ったからだ。
二人が教室を飛び出したのとほぼ同時に、紙くずは床に落ちた。
元々はラブレターだった紙くず。中に書かれていたのは女の子から男の子に宛てたデートの誘い。
デートの日時はクリスマス――今日。
そして差出人である女の子の名前は――……。
『あなたの事が大好きな 氷川レイカ より』
最終更新:2013年04月29日 10:33