「――ちょ、待ってマオちゃん! 何処に向かってるの!?」
マオがあまりにも全速力で走り続けるものだから、手を引かれて彼女の後を付いて行かざるを得ない
ミナは既に息が上がっていた。陸上選手でもあるまいし、全速力で数十秒走り続ける事などミナにはで
きるはずがなく、マオに向かって問い掛けたのをきっかけに彼女はその場で立ち止まった。
自分の手から暖かいミナの手の感触が抜けたするりと抜けた事に気付いたマオは、立ち止まったミナ
から数メートル過ぎたところでようやく立ち止まった。ミナに向かってくるりと踵を返したマオの顔は
少々紅潮しているものの、息は切らしていなかった。
「んー、ミンミンって体力がないなぁ……。そんなんじゃすぐに鬼に捕まっちゃうよ?」
「ハァ、ハァ……マオちゃん、が……元気過ぎるんだよぉ……っ!」
呆れるように首を傾げるマオに対し、両手を両膝に付き、前屈みになって息を整えるミナ。数十秒と
は言え、全速力の運動で上がった体温を下げるため、ミナの額には薄っすらと汗が浮かび上がってい
た。汗の小さな小さな粒がやがて大きな水滴と化し、ぴたん、と白い廊下の上に弾ける。
教室を飛び出したマオはミナの手を引き、兎に角その場から逃げ出す事しか考えていなかった。三階
から階段を一気に駆け下り、何時の間にやら学校の玄関の前にある下駄箱の近くまで辿り着いていた。
そこから見える玄関のガラス戸の向こう側は真っ暗だ。街灯の一つも見えやしない。まるで学校全体が
暗幕で覆われているようだった。
好奇心旺盛なマオは、必死になって息を整えているミナを尻目に、下駄箱を通り過ぎて玄関の前に立
った。ガラス戸に右手を添え、真っ暗な外を眺める。薄気味悪い暗闇がただただ広がっているだけで、
マオには薄いガラスを隔てたその先がまるで別世界のように感じられた。
何か……変な感じ。こ、怖くなんかないけどちょっと不気味だよ――とマオはガラス戸に添えていた右
手にそっと力を入れた。鍵は掛かっておらず、何となく開きそうにないなぁと思っていた彼女の予想を
あっさりと裏切り、扉は簡単に開いた。僅かに開いた隙間から入ってきた風は、冬だというのに妙に生
暖かいものだった。
「マオちゃん、何してるの?」
「ひあっ!!?」
子供が悪戯をしている最中に親に見付かった時のように、マオは文字通りビクッと飛び跳ねて驚い
た。息を整え終えたミナがただ背後から声を掛けただけだというのに。
「ミ、ミンミン! マオを驚かせるような事しないでよっ! ホンッッットにビックリしたんだからぁ!」
マオは振り返りながらプンプンと頬を膨らませた。目に薄っすらと涙が浮かんでいるようにさえ見える。
「ごめん……でもそんなに驚かなくてもいいじゃない? 涙目になっちゃってるし」
「違うもん、泣いてなんかないもん! ちょっと驚いただけだもん!!」
マオ、何でこんなに驚いたんだろ。ミンミンが後ろにいるなんて分かりきってる事なのに――と言い返
しながら目に浮かんだ涙を指先で拭い取る。本当は理由など分かっていた。玄関の向こう側の空気があ
まりにも不気味で、他の事を忘れるほどにそちらに集中してしまっていたからだ。
“怖いもの見たさ”。人間であれば誰しも芽生える気持ち。だがマオはそんな気持ちで玄関を開いて
はいけないのだと、心の何処かで感じ取っていた。彼女の第六感がそう告げているのだ。
「ここ、ちょっと気持ちが悪いね。あんまり長居したくない、かな……」
物事に対して比較的鈍感なマオでさえ感じた事に、ミナが感じない筈がない。
「上手く説明できないけど……マオちゃん、早くここから離れようよ」
「そ、そうだね! 学校の外に出ちゃったらルール違反になっちゃうかもしれないしね!」
「うん、そうしよ。“鬼ごっこ”だし、隠れられて、それでいて見付かっても逃げやすい場所がいいよ
ね。どの部屋がいいかなぁ……」
ミナはマオに背を向け、両腕を組んで天井を見上げた。各クラスの教室、音楽室や美術室、科学室な
ど学校独特の部屋はいくらでもある。加えて各々に準備室もあり、ミナの考える適当な部屋を探し出す
のはなかなか苦労しそうだ。
「う~ん」と小さく唸りながら、後ろのマオが追いつきやすいように大股で一歩、二歩と徐に足を進める。
三歩、四歩。
五歩、六歩。
七歩、八歩。
――九歩、十歩と足を進めたところで、ミナは立ち止まった。下駄箱の丁度真正面だ。視線を天井から
戻すと白い上履きが規則正しく並んでいるのが見える。毎日のように見る風景で、おかしなところは何もない。
およそ一秒間で一歩というゆっくりな歩みだった。彼女の予想では三歩、四歩辺りでマオが自分に追
いつき、一緒に歩き始める筈だった。だが、十歩――つまり十秒程経過してもマオが追いついて来ない事
に違和感を覚えたのだ。そもそも足音が自分のものしか聞こえてこなかった。
そして気付く。自分の膝より下が、深く黒い霧に包まれている事に。
廊下一面が同じ状態だった。周りを見渡しても、まるで学校が浸水したかのように、ゆらゆらと廊下
を黒い霧が覆っていた。通常、煙は高いところへと昇る。溶けたドライアイスから出る二酸化炭素によ
うに空気より重いものでない限りは。だから足元にこんな風に煙が溜まっているのを見るのはミナにと
って初めてだった。
なっ、何これ――とミナは両手で口元を覆う。マオに話し掛けているほんの十秒前までは至って普通の
状態だったのだ。僅か十秒足らずという時間で一体何が起こったというのだろう。火事で生じる煙では
ない事は明らかだ。霧は“黒”というより“闇”と呼ぶべき色をしている。
足は何の問題なく動く。ミナは慌ててマオへと踵を返した。
マオは、さっきと同じ場所に立っていた。自分と同じように足元は霧に覆われている。彼女はミナに
向けて足を一歩踏み出したような格好でそのまま硬直しており、そして彼女の表情はいつもの元気さは
皆無で、真っ青に変色していた。ミナでさえマオのそんな顔色を見るのは初めてだった。
「……マオ、ちゃん?」
恐る恐るミナは口を開いた。
マオは震えながらただ首を横に振った。眼球には大量の涙がこびり付いており、今にも零れ落ちそう
だ。ミナの位置からでもそれが見えた。彼女自身、自分に何が起こっているのか分からなかった。動か
ない身体は恐怖で支配されてしまっていた。否、それ以前に彼女を恐怖のどん底へと陥れたモノ――霧に
覆われて見えなくなった足を強い力で掴んでいる“何か”。
生暖かい感覚は、先程ガラス戸を開けた時に外から流れ込んできたそれと似ていた。
閉まっていた筈の玄関のガラス戸が開いている。廊下を覆い尽くしている霧は外から流れてきたもの
のようだ。そして、霧に紛れ込んで校内へと侵入を果たした“何か”も。
正確には“何か”は校内へと侵入していない。窓の向こう側の世界から、舌を伸ばして獲物を捕らえ
ただけなのだ。“何か”の胃の中には既に獲物が入っていたが、どうやらもう完全に消化してしまう寸
前のようで、胃が脳に「次の獲物を」と命令を送っている。
ミナはとにかく動かなければと思い、マオに向かって廊下を強く蹴るように走り出した。マオも動か
ない身体に鞭を打つように、親友へと向かって手を伸ばした。ミナもその手を掴むべく手を伸ばす。
だが、その二つの手は二度と互いの暖かさに触れる事はなかった。
「いやぁぁぁっ!!」
ミナの手がマオの手に触れようとした刹那、マオの身体は窓の外へと引っ張り出された。彼女の足に
巻き付いていた“何か”の舌が今度は胴に巻き付き、一気に自分の方へと引き込んだのだ。
マオの小さな身体が闇に消えた直後、バンッ、と勢い良く閉まる玄関のガラス戸。自らの身に火の粉
が降りかからないようにするためなどど、ミナが閉めた訳ではない。ガラス戸が意思を持ったかのよう
に、勝手に閉まったのだ。
「――マオちゃんっ!!?」
ミナはガラス戸に張り付き、必死になってその戸を押した。さっきまで開いていたというのにビクと
もしない。押しても引いても駄目だった。反射的に下の鍵を見るが鍵など掛かっていない。
精一杯の力でガラス戸をドン、ドンと両手で叩きながら暗闇に向かって親友の名前を叫び続けるミ
ナ。だが自らそんな音と声を出していては、仮に向こう側にいるマオから返事があったところで気付け
やしない。十秒ほど経過した頃だ、彼女はふとその事に気付き、両手を止め、息を潜めるようにしてガ
ラス戸に右耳を押し当てた。自分の心臓が脈打つ音がやけに大きく聞こえた。
聞こえるのは当然、自分の心臓の鼓動だけではない。小さいながらも向こう側から聞こえてくる声と音。
マオの悲鳴。
恐怖に慄き、死に抗うような声。
“何か”の唸り声。
捕らえた獲物を眼前にし、歓喜するような声。
一際大きな、鈍い音が聞こえた。
刹那の後、マオのものと思しき短い悲鳴が聞こえた。
それから何も聞こえなくなった。
ミナはがくんと膝を折り、ガラス戸に縋るようにその場に崩れた。
半ば放心したような目で変わらずに暗闇を見つめ続けている。
やがてミナの頬を熱い涙が伝った。
それはまるで、彼女がマオの身に何が起こったか全て悟ってしまったかのようだった。
校内から見た外の景色は闇で何も見えなかったが、外は彼女にとって見覚えのある中庭が広がってい
た。見覚えがあると言っても夜の学校など来た事がなかったので、月明かりのみに照らされた中庭はな
かなか新鮮味があった。
だが当然、マオにそんな新鮮味を味わう余裕などなかった。背中に衝撃と激痛が走った。上手く呼吸
が出来なくなり、ゲホゲホと大きく咽返る。彼女は冷たいコンクリートの上で、仰向けとなっていた。
黒い視界にいくつもの星が輝いており、その星空がゆっくりと移動していく。
――違う。移動しているのは星空ではなく、マオの身体だ。彼女は自分の身に何が起こっているのか確
認するために、背中の痛みを我慢して上半身を持ち上げた。
それを見た瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。そして何が起こっているのか把握した。
そこには蛙がいた。否、それは果たして蛙と呼ぶべき存在なのだろうか。一見したところそれは確か
に蛙の姿をしていたが、有り得ない大きさだった。全長は悠に二メートルはあるだろう。羽虫どころか
牛や馬まで呑み込んでしまいそうな大きな口を持っている。その口から伸びた長い舌が巻き付いている
のはマオの細い両足だ。ズルズルと徐に彼女を口元へと引き寄せていたのだ。
「やっ、やだぁっ! やだやだやだっ、何なのコレぇっ!?」
化け物に食べられてしまいそうになっている状況を把握したマオ。だがあまりにも急な出来事に頭の
中は真っ白になっていた。徐々に蛙の口へと引き寄せられていく身体。時計の秒針が何度か動いた後、
彼女はようやく抗う事を思い出したが、時既に遅し。いずれにしろ、抗おうにも彼女にはその術は皆無
だった。
舌が巻き付いている両足をバタつかせたところで、拘束から逃れられない。何かにしがみ付こうとし
たところで、周りにはしがみ付けそうな物はない。だからと言って両手をコンクリートの地面に突っ張
り、摩擦力でブレーキ代わりにしようとも蛙の引き寄せる力には到底敵わない。
「助けてぇっ! ミンミン助けてぇぇぇっ!!」
叫び声は虚しく星空へと消えていく。涙目になりながら悪足掻きするも、あれよあれよという間にマ
オの両足はすっぽりと蛙の口内に収まっていた。ヌメヌメと生暖かい感触は自分が食べられそうになっ
ているのを実感させる。気持ち悪いなどと感じる余裕などなかった。食べられまいと足掻くのに必死だった。
「離せ離せ離せぇ……っ! ひぐっ、お願いだからぁ……マオなんか食べても美味しくないからぁ……っ!」
マオは二つの小さな拳を握り締めた。その拳を交互に蛙の鼻や口へと叩き付ける。傍から見ていると
まるで子供が駄々を捏ねて暴れているような、そんなちっぽけな光景だったが、彼女は本気だった。拳
を叩き付ける事で蛙から逃れようとしたのだ。だがやはり無意味。蛙はパクリと小さく膨らんだ胸元ま
で彼女を咥え込んだ。
そこでふと、マオの両足を拘束していた舌が解かれた。足が自由に動く。好機とばかりにマオは最後
の力を振り絞るように両手に力を込め、身体を口内から引き抜こうとした。が、蛙の動きはそれよりも
早かった。マオの悪足掻きを煩わしく思ったのだろう、蛙はマオを咥えたまま口を空へ向け、そして勢
いを付けて口ごとマオの身体を地面に叩き付けた。
「――ぎゃっ!!」
後頭部をコンクリートの地面に強打したマオは、短い悲鳴を残して意識を無くした。
死人のようにぐったりとしたマオの身体。蛙は貪るようにゆっくり、ゆっくりと胃の奥へとその小さ
な身体を押し込んでいった。
ゴ、クン。
やがて蛙は満足そうにゲコッと喉を震わせた。
最終更新:2016年01月24日 12:11