1.
迷宮があった。
いつからあるのかを知るものは無い。
人の世で言えば「ずっと昔から…まるで当たり前のように存在している」ところだ。
迷宮は石造りだ。だが人間の、いや、この世に住まう知恵あるもの・文明を築きし種族の歴史に
この迷宮の始まりを記すものは無い。

…其処には魅力があった。
獣なら獲物が、人の身なら更に宝が得られた。
縁が無いのは植物の類くらいだろう。闇が席巻するこの場にて彼らが欲する光はあまりに微量だ。
そんな緑無き場所に、草を主食にするはずの動物が迷い込む。
それを肉食獣が喰らいに行く。
そこを、肉食獣より大きな獣が追う。
さらにその大きな獣を狩るために人間たちが入っていく。
ついでに迷宮の中で得られた拾得物――ほとんどの獣が興味を示さない宝石などを採っていく。

かつて未だ文明の世が未発達で自然に近かった時は、それがこの迷宮内で循環していた"生き物たちの営み"だった。
だが、その有り方は変わる。
時が経つに連れ獣の種類は増え虫も増え…地上にいない独特の種がはびこり始めた。
文明を持つものは次々に賢しくなっていき…迷宮を見る眼が変わっていった。

「あそこにはどんな可能性がある?」

深い、何処までも続く穴。
果てはあるのか?あるなら何が待つ?何が得られる?金目の物は?迷宮の秘密があるやも?未知の獲物が?
人間たちはこの好奇心を満たすために次々に挑むようになった。
それは文明と共に発達した「欲望」の表れに相違ない。
2.
そして今宵、また一人迷宮を下っていく。
年若き、亜麻色で三つ編みの髪を持つ少女。上等な羊皮紙を思わせる白い肌を厚い法衣で包んでいる。
彼女は魔術師だった。両手で自分の背丈と同じくらい長い魔術の杖(先端が光って灯りとなっている)を握って、
皮製の丈夫なブーツでゴツゴツと音を立てつつ石畳の上を歩んでいく。

「…流石に、寒くなってきたわね」
少女が呟く。聞く者が傍にいない以上、それは独り言に過ぎない。
「冬用のローブを持って来て正解だったわ…」
――彼女が迷宮に入って如何ほどの時間を過ごしたのかはここでは重要ではない。
だが、その深度はかなりのものだ。階段が無く明確な階層を記す術はないが、そこは正しく"奥部"である。
彼女自身は気付いていない。魔術師である彼女にとって帰還の術は容易に唱えられる。
「とはいえ、あまり余裕も無いのよね」
自身のエナジーを鑑みて呟く。体の底に湧く力は少女に用心を唱えていた。
「でも、行ける所まで見てみたいし」
杖を脇に持っていって懐をまさぐる。ローブの奥から厚めのノートを引っ張り出した。
次いで筆を取り出して道を追加していく。ときどき右手首のコンパスで方角を確認している。

……彼女の仕事だった。
「今回だけで大分書き込んだわ。これなら教授も満足するでしょ」
ばふん、とノートを閉じて再びローブの中に収める。隙間から覗く彼女の服装は薄着だった。
「夏場だってのに、一体何度なのよココ」
石の通路に文句を垂らす。そう、今は夏。迷宮を出れば満点のお日様が35度の暑さを約束してくれる。
しかし今は地下数十メートル。独特の冷気が漂い冬の寒さとは違った肌寒さを感じさせる。
「何処か、引継ぎの目印になるような広場を見つけたら帰ろっと」
明るい声音でそう呟いたものの、杖が照らすのは真っ直ぐな狭い通路だけだった。
少女がムッとして頬を膨らませる。
しかし距離に文句は言えない。仕方なく先へ進んだ。

―――その時だった。
3.

グゥルルルル…
前方から聞こえる無気味な唸り声。
少女は一転して身を強張らせた。
「獣!?こんな所に!?」
杖を前に出して詠唱を開始。すぐさま少女の身体を青白い透明の壁が守護する。
グワー!
唸り声の主が見えない闇の奥から迫ってきた。
一直線に守護壁にぶつかりに来て…眼前で動きを止めた。
少女は一瞬「ひっ」と悲鳴を上げそうになった。
「と、トラ!?」
少女が漏らしたとおり、目前にいるのは泥のように濁った色の虎だった。
虎はその色と同じく濁った色のネコっぽい目で獲物を凝視する。"壁"の存在に戸惑っているようだ。
思いのほか用心深い相手に、しかし少女が感心することは無かった。
「びびらせたわね!このネコ!」
怒りに任せて衝撃の魔術を放つ。虎の目の前でバチンッ!と何かが弾ける。
ギャン!と吠えて怯む虎…脅し目的の衝撃魔術は効果があったようだ。
だが相手はすぐに体制を立て直して少女に向かって身構える。
少女も対抗するために直接的な攻撃魔術の準備をする。
「反抗的ね!消し炭にしてやろうかしら!?」
虎の牙よりも物騒な、人の頭ほどの大きさの火の玉を杖の前で作り出す。

その時、こちらに睨んでいた虎の目が一瞬逸れた後、無言で後ずさり…
「?」
いぶかしむ少女を置いて元いた闇の中へ消えていった。
その場には少女と火の玉だけが残された。
4.

不思議だった。
火を見て逃げた風ではない。
「何だったの?」
拍子抜けしたついでに火の玉の生成を止める。見る見るうちにただの灯りに戻る。
ボボボボ…徐々に勢いを無くす火。
それを見つめながら、少女は考えた。
(あの時、一瞬やつの目があたしからズレた…)
何故か、そう思いつつ少女は進むことにした。
防護壁は相手が当たりに来なかった事もあり健在だ。もしまた虎が来たとしても防いでくれる。
ゴツゴツ…ゴツゴツ…少女は歩く。
ゴツゴツ…(ズズ…)
ゴツゴツ…(ズズ…)
「?」
妙な違和感があった。足を止めると違和感は消える。
ゴツゴツ…歩くと、
ズズ…音が着いてくる。
(背後に気配は無い、が、不気味なので振り返ってみよう)

少女は半歩進んだ直後……

(ズズ…)

その場で180度ターンした。

(ズ………)
音が途中で止まった。まるで"立ち止まる"かのように。

「なっ…!」
絶句した。目前に、想像を超える者が…モノがいた。
巨大な、壁のようなものが目の前にいる。視界のほとんどが"それ"に覆われた。

全身がコケに覆われた…不透明なスライム。それが最初の感想。
「……なにこれ」
だがその認識は間違い。ソレはスライムのように不定形ではなく、確固たる姿かたちがある。

醜い肉の塊。それが少女が抱いたそのモノへの第2の感想だ。

ぶるぶると震えることも無く、その場に完全に静止している。
(さっきの音はこいつが動いていたのか)
それはこちらに向いて(?)じっとしている。
空恐ろしいものを感じて少女はバックステップ。すぐさま帰還の詠唱を開始した。
「!?」
しかし、杖は何の反応も示さない。やがてその先端の灯りすらも光度を失っていく。
驚愕する少女。自身のエナジーはまだ尽きてはいない。なのに何故、魔術が……
うごご…
不快な音がする。徐々に暗くなっていく視界の中で少女ははっきりと目前のモノの変化を見た。
(肉が、開く!?)
恐怖よりも"得体の知れないなにか"に駆られて呆然となる。
肉の塊が中ほどからパックリと、まるで口を開けるかのように…

――やがて光が消え、少女の視界は闇と化した。
5.

自身の立場が曖昧になる。
慌てる事も忘れていた少女は動く隙も無く、その肉の塊に、挟まれた。
「きゃあっ!」
その挙動に驚いて杖を取り落とした。
だが少女にそれを気にする余裕は無い。
何が何だか分からない。必死にもがくが、ぶにぶにとした気持ちの悪い触感が返ってくるのみ。
「はなせ!離しなさいよぉ!」
さらに必死になって杖無しでも使える魔術を唱える、が……発動しない。何も起こらない。
息苦しい。肉厚で体が圧迫される。
ついに身動きが取れなくなった。
「く、くるし、はな、せ……この……」
体を包む大きな何か。化け物と呼称するしかないそれに向かって全力で抵抗する。
足はとうに浮いている。防護壁は何故護ってくれないのか。何処へ行ったのか。
「うぐ…く、くる…し……ぃ」
分からない事だらけのまま、少女の意識は薄れていった。

ガクリ、とその少女のか細い肢体が脱力する。
肉の中でおとなしくなった獲物。肉の塊はそれを悟ると更なる力を加えた。

6.

ミシ…ミシ…
「う…うう」意識の無いまま、うめく。

ミシ…ギ……ギシ…
「うぁ…っあ、あ」悪夢にうなされるように、声を上げる。

ギシ…ギシィ…ギシィ……ッ
「あ"……ああぁっ!!」急に覚醒し、激痛に逆らう事無く悲鳴を上げ、目を見開く。

ギシィ……ギ、ギ……ボギィ!
「ぎゃあぁぁっぁぁぁぁぁああぁぁ!!!」そして、絶叫した。

骨が、肉が、ことごとく砕かれていく。少女のか細い体躯はズタボロになっていく。
この肉塊の口内に牙も舌も、唾液もない。肉が、肉だけが、少女を"噛み砕く"。

ボギ!…ボギ……ぐじゅ……ぶじゅうう……
「あ!ぎゃあああぁぁぁっぁあ!!!!」
ごぼっ!少女が喀血する。厚い法衣が見る見るうちに真紅に醜く染まる。
細い手足が、大ぶりで形の良い胸が、魔術が詰まった頭が、これまで守ってきた秘所が、次々に弄ばれる。
それは肉のカタマリからの陵辱だった。なす術も無く犯され喰われる体。混濁した意識は何も思考しない。

ぐじゅ…ボギ…「あっ……が!」…ブジュ…「が…っ」…べギ…ぐじぃ…「ぐぶ、ぶぶ」……ぶち………

「……ぇ」
散々喘いだ末、小さく漏らして少女は目をむいた。血まみれの口から目一杯に突き出された舌が垂れる。
ポンプのように全身から噴出していた血も勢いを無くす。
服を剥かれて全裸になった少女は脱力し、四肢をだらんと垂らし、今度こそ完全に沈黙する。
絞められた口内でぐちゃぐちゃに細くなった肢体――死体がビクビクと死の痙攣を繰り返した。


……やがて肉塊はズズ…ズズ…と移動を開始した。その中では肉同士が未だ蠢いている。
取り込んだ身体をどうするのか。それは分からない。少なくとも、肉塊は「狩り」に成功したのだ。
人間が狩り以外の興味を迷宮に抱いた後も肉塊――深部に住まう"異界の獣"のすることは変わらない。
深部まで来る冒険者……異界に近づく現世の「珍味」を、それはこよなく愛していた……

引きずるように動く怪物。その跡に、ズタボロの法衣と血まみれのノート、そして杖だけが遺された。

~完~

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最終更新:2008年05月18日 15:33