"これ"は、まだ何の形も持っていない。


 これは、龍の号を持つ大空洞に位置する黄金に非ず。
 これは、さる異星文明が月に設置した観測機に非ず。
 これは、歴史の大海に散りばめられた定礎崩しの種子に非ず。
 或いはこれに対する形容で、聖杯――という単語を用いることからして的外れなのかもしれない。

 だが、確かにこれは聖杯の冠名を名乗るに能う権能を内包していた。
 己の接触した存在が告げた願いを、その全能力を以って成就させる。
 それが、それだけが、この極奥の宇宙現象が持っている唯一の役割。
 そこに嘘偽りはなく、光陰はなく、野望抱く某かの奸計が介在する余地など欠片もない。
 完全なる公平の地平線に、最年少の聖杯は鎮座している。
 嗤うでもなく祈るでもなく、ただ誰かの願いを叶えるためだけに――これは、あらゆる世界に偏在する"可能性の器"を蒐集した。

 曰く、あらゆる異常の存在しない凪の世界。
 曰く、既存の文明が全て崩壊した滅びゆくだけの世界。
 曰く、人類が宇宙にさえも版図を広げ、惑星間の移住すら可能とした未来世界。
 曰く、人と魔が永久に殺し合い喰らい合う修羅道の世界。
 世界の優劣? 生産性の有無? 積み重ねてきた歴史の長短? ――否、全て関係ない。
 何一つ讃えることなく、さりとて何一つ罵ることもなく。
 聖杯という名の多次元級宇宙現象は、産声と共にあらゆる可能性をその腹の中に呑み込んだ。


 ――"これ"は、まだ何の形も持っていない。

 これに形を与えるのは、収集された器たち。
 正しくは、他の全ての可能性を駆逐し、聖杯の最深部に到達した最後の器。
 それだけが、これに形を与えることが出来る。
 器の抱える願いをこの世の何よりも完全に、一寸の欠陥もなく成就させる……"願望の具象化"という奇蹟(かたち)を。


 ――"これ"は、まだ何の形も持っていない。

 されど、名を与えるとするならば。
 界聖杯(ユグドラシル)と、そう呼称しよう。
 願いを叶えるために生まれ、創世された世界。
 願いを叶えさせるために貪り、肥え太った奇蹟の皿。
 可能性持つ器たちが放り込まれた異界、これそのものが聖杯だ。
 可能性の地平線、その果てで。
 完全無欠の大団円が、最後の一つだけを待っている。

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最終更新:2021年05月26日 00:10