七草にちかはアイドルに憧れていた。
より正確に言えば、八雲なみというアイドルに憧れていた。
恋焦がれるよりも強い想いで、憧れていたのである。
八雲なみ──かつて、流星のように輝き、流星のように消えていった伝説のアイドル。
自他ともに認める凡人のにちかにとって、それは対極の存在だ。路肩に転がる石ころが、ジュエリーショップに並ぶ宝石に憧れるようなものである。そもそもからして、次元が違う。住んでいる世界が、違う。
だが、にちかは八雲なみに憧れた。彼女のようなアイドルになりたいと、心の底から願った。
そのような想いを、彼女は実行に移した。端的に言えば、とある芸能事務所の
プロデューサーと接点を持ち、紆余曲折あった末にアイドル研究生になったのである。ただし、それは、同事務所で事務員として働く実姉との間で「『W.I.N.G.』で優勝できなかったらアイドルを辞める」という約束が取り交わされた上でのデビューだった。『W.I.N.G.』とはすべての新人アイドルにとっての登竜門となる一大イベントだ。とてもではないが、昨日までCDショップでアルバイトをしていた凡人が簡単に優勝できるものではない。ハナから「諦めろ」と言われているようなものである。
しかし、にちかは諦めなかった。
アイドルであり続けるために、憧れの八雲なみに近づくために、やれることはなんでもやり、努力を惜しまなかった。
努力して──努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して、努力して。
平凡な子が出せる全力の二倍は努力した。
にちかがした努力の最たるものが、八雲なみの模倣(トレース)だった。だって、彼女が自分そのものなんかを出そうとすれば、平凡な要素しか出てこないのだから。そんなつまらない人間では『W.I.N.G.』優勝なんて夢のまた夢である。書類審査さえ通るまい。だったら真似るしかないだろう、八雲なみを。故ににちかはどれだけ自分を削り、どれだけ八雲なみに近づけるかということに心血を注いだのである。
血を吐くような思いで戦って、苦しくても抗って、必死で手を伸ばす日々。その過程で嫌という程感じさせられる、自分と『八雲なみ(アイドル)』の間に隔たる壁。それを認識するたびに、挫けそうになる。だが、諦めない。諦められない。何かに突き動かされるような気分で、にちかは前に進み続けた。
その結果──彼女は『W.I.N.G.』の頂点まであと一歩の所まで到達した。
そして訪れた決勝の日。
極度の緊張に苦しめられながらも、にちかは自分に出せる最高の歌を奏で、最高のダンスを踊った。あの日披露したパフォーマンスは、間違いなく彼女史上で最高のものだったといえるだろう。
そして彼女は──敗北した。
あっさりと。
あっけなく。
まるで、それが必定だったかのように。
石ころは所詮、どれだけ努力しても石ころだったのだ。
当時の、こちらを心配するプロデューサーの顔をよく覚えている。対する自分はどんな顔をしていたのだろう。たしか笑っていたはずだ。
ああ、やっと終われた──もうあんな苦しい思いをしなくていいんだ──『アイドル(プラス)』から『凡人(ゼロ)』に戻れたのだ──と。
そんな風に安心していた気がする。
『あはははははははははははは!』
自分が聖杯戦争のマスターとして異世界の東京に連れて来られる以前の記憶を思い出している最中だったにちかの耳に、笑い声が飛んできた。聞くだけで背筋に悪寒が走り、耳を塞ぎたくなるような声だった。
回想を中断させられたにちかは、不機嫌そうな目つきで声の発生源を見る。そこにはひとりの男がいた。黒い学ランという格好や、顔つきから判断するに、にちかと同年代、あるいは一、二歳年上だろうか。
男は椅子に腰かけ、リラックスした姿勢で雑誌を開いていた。週刊少年ジャンプ。日本で一番売れている漫画雑誌である。
「……あの、うるさいんですけど」
『おっと、ごめんね』『面白すぎて我慢できなかったよ』
悪いと思ってなさそうな軽薄な口調でそう言うと、学ランの男──ルーザーは紙面から目を離し、にちかの方を向いた。底の見えない奈落のような彼の瞳に見つめられ、にちかは形容しがたい不快感を覚えた。
『これだけ面白いジャンプを再現できるなんて、界聖杯は凄いね』『侮れないぜ』
「たしかそれって漫画雑誌ですよね。……うわー」
軽蔑するようににちかは言った。
「高校生が、しかもサーヴァントになるような人が、そんなの読んで笑うんだ。めちゃめちゃ子供っぽい……」
『ジャンプは人生の教科書だよ』『何歳(いくつ)になって読んでも面白いのさ』
「いい感じのこと言おうとしてるのかもしれませんけど、わけわかんなくてわけわかんないですよ──そもそも、こんな状況でよく漫画なんか読めますね」
にちかとルーザーのふたりは、聖杯戦争というコロシアイに巻き込まれている最中である。いま現在はにちかの部屋に隠れているが、次の瞬間にはどこかからやって来た敵が、彼女たちを襲撃する可能性がないとは言い切れないのだ。だというのにルーザーは、まるでそれが自分にとって最優先の使命であるかのようにジャンプを熟読しているのである。ふざけているとしか思えない。しまいには
『せっかく東京にいるなら、いつか集英社を見に行きたいね』
などと言い出す始末だ。
「緊張感がないのヤバいですよ、マジで」
『おいおい』『僕にそんな、いかにもマスターっぽいこと言うってことはさあ、にちかちゃん』『あれだけ悩んでいた君の方針はもう決まったのかな?』
言い返すルーザーに、にちかの声は詰まる。
方針。単純に言い換えるなら、聖杯戦争に乗るか否か。あるいは、マスターとして聖杯に掛ける願い。
聖杯戦争のマスターなら誰もが持っているそれを、にちかはまだはっきりとさせていなかった。
『たしか、にちかちゃんには夢があったんでしょ?』『アイドルだっけ?』『それを聖杯で叶えればいいじゃない』
界聖杯で再現されたにちかの自室を見渡せば、彼女が何に憧れているかなど明白だった。
たしかに数か月前の、まだアイドル候補生ですらなく、ビッグになるために必死だった頃のにちかなら、いちもにもなくそう願い、聖杯戦争に参加していたかもしれない。
だが今の彼女は──違う。
「……もう、それはいいんです」
敗北を知った彼女は違う。
「せっかく、あんな……苦しさを味わうことも、自分がなみちゃんではないって思わされることもなくなったんですから──むしろ、元のなんにもない私に戻れてよかったと思えてるくらい……えへへ、聖杯戦争に勝つ前から願いが叶ってるようなものですね」
『…………』
「こんな私がもう一度アイドルになるなんて、聖杯の無駄遣いですよ」 それまで下を向きながら喋っていたにちかは、そこで顔を上げた。その顔には張り付けられたようにぎこちない微笑があった。「あっ、でも聖杯を使えば家族にもっと楽をさせてあげられるのかな。だったら欲しいかも」
『ふーん』『そっか』『それでいいんじゃない?』『いずれにせよ、女の子の願いの為に戦えるなんて、僕の身に余る光栄だよ』『ところでにちかちゃん』
ルーザーはそう言って、開きっぱなしだったジャンプを閉じた。
『君は自分のことを「なんにもない」と言ったけど、それは間違いだ』『大嘘だぜ』『「なんにもない」ってのは、こういうことを言うんだよ』
瞬間。
にちかは膝から崩れるようにして倒れた。
『「大嘘憑き(オールフィクション)」』『七草にちかの脚力をなかったことにした』
「ッ⁉」
たしかにさっきまであった現実が虚構(なかったこと)へと転じる異常事態。
驚きのあまり、喉から叫び声が迸りそうになる。
だが出ない──叫びが。声が。
『ついでに君の可愛い声もなかったことにした』
『────ッ!!』
声帯の代わりに全身が震えた。
足と声を失い──「なんにもな」くなってしまい、にちかは愕然とする。
こんな状態では聖杯戦争を勝ち抜けるわけがない。これまでのような日常生活を送ることも不可能だ。それにこんな状態では、ステージに立って踊ることさえ──瞬間、にちかは思い出す。
ステージの上から見たファンたちのことを。共に同じユニットを作り上げてきた緋田美琴のことを。いつだって自分の面倒を見てくれたプロデューサーのことを。
脳裏を駆け巡る僅か数か月の日々。それらは苦しく厳しい偽者の戦いだった。しかしそれでも──悪いことばかりではなかった。苦しいことばかりではなかった。辛いことばかりではなかった。
どれだけ彼女が自分のことを貶めるようなことを言ったとしても、それはなくならない。
なかったことには──ならない。
「…………」
『どうやら自分の気持ちを思い出したようだね』『おめでとう、にちかちゃん』
にちかは、床に這いつくばった状態でルーザーを見上げる。逆光の所為か黒い影が落ちているように見える顔。それが帯びるはプラスどころかゼロでもない、マイナスの雰囲気だった。
『それなのにさっきはあんなこと言っちゃってさあ』『僕の括弧が感染(うつ)ったのかと思うくらいの格好つけっぷりだったぜ』『僕は「嘘つき」と「少年漫画を侮辱する人間」が嫌いなんだ』『両方を満たしてる君とは、いいパートナーになれそうにないな』
にちかは歯を食いしばり、ルーザーを睨みつけた。視線に籠った敵意をまるでシャワーのように浴びながら、ルーザーは言う。
『おいおい』『僕のことを睨むのは見当違いだし、恨むなんて御門違いだぜ』『僕は悪くない』『僕みたいな危険人物を引き当てた君の運が悪いんだよ、にちかちゃん』『それに、たかが足と声だけで自分の大切な気持ちに気付けたなんて、良かったじゃないか』『まあ、立てないし喋れない今となっては、それを諦めるしかないんだろうけど』『それでも、これから先の数十年を凡人として生きていくにちかちゃんにとっては大きな収穫になったはずだ』
「──────ッ!」
『安心するといい』『聖杯戦争については僕がなんとかしておくからさ』『戦争がはじまる前から諦めムードだったきみは、ここで石ころみたいにじっとしてな』
言って、彼は部屋を去ろうとした。
「諦めたくない!」
ルーザーの背中に声が飛んできた。にちかの声だった。
「もう一度歌って、もう一度踊って、もう一度挑んで、もう一度戦って、もう一度ステージに立って、もう一度努力して、もう一度──聖杯なんて都合のいいものに頼るんじゃなくて、私の力で、もう一度アイドルになりたい!」
彼女はゆっくりと立ち上がりながら、殆ど泣きそうな形相で叫ぶ。
その時になって、彼女はようやく気付く。自分が二本の足で立ち、喉から声を放っていることに。そんなことに気付くのが遅れるほど、必死に叫んでいたのだ。
「ど……どうして……?」
『ごっめーん☆』
ルーザーは片目を閉じ、舌をペロりと出して、握ったげんこつで自分の頭を小突きながら言った。
『「大嘘憑き(オールフィクション)」というのは嘘でした!』
「え」
『「安心大嘘憑き(エイプリルフィクション)」』『他の霊基ならともかく、今この場に召喚されている僕が「なかったこと」にしたものは三分で元に戻る』『にちかちゃんの声と足みたいにね』
「…………!」
『いやあ、それにしてもさっきの台詞には思わずウルっときたよ』『ハンカチを用意していて助かったぜ』『咲ちゃんの件ですでに知っていたつもりだったけど、やっぱりいいなあ、アイドルって』
「…………!」
『おいおい、どうしたんだいにちかちゃん!』『口をぱくぱくしちゃってさ!』『なにか言いたいことでもあるのかな?』
「あ……」
『あ?』
「あほー!」
七草にちかの拳が炸裂した。
アイドルとして並々ならぬトレーニングを積んでいるとはいえ、所詮はただの少女であり、むきむきでもない彼女の拳が、神秘の塊であるサーヴァントに利くはずがない。
そんな常識を裏切るかのように、風に吹かれたチリ紙のように飛んでいくのが、ルーザー──球磨川禊という最低最弱の過負荷(マイナス)だった。
「アホですかあなたは! あんな台詞を引き出す為に、私に攻撃するなんて……このっ、ばーかばーか!」
『え? いや、そりゃないでしょ⁉』『そりゃあ、ちょっと荒療治が過ぎたかもしれないけどさあ、まずは元に戻った声を使って、自分から本音を引き出してくれた優秀なサーヴァントに感謝の言葉を言うべきじゃないかな⁉』『おいおい、どうしてそこで令呪を掲げるんだ⁉』『待ってくれ、とりあえず落ち着こう!』『僕はサーヴァントとして、少しでも君の助けになれたらと思っただけなんだ!』『登場話でこれなんだ、きっと僕たちは良い主従になれる!』『だから令呪を怪しげに光らせるのは──』
それからにちかは、ありったけの罵倒を口にした。令呪は使わないでやった。
息と語彙が尽きた頃、彼女は「はあ」と呆れたような溜息を吐き、椅子に座る。
無数の罵倒を浴び、敗者(ルーザー)らしく床に倒れ伏す球磨川に目をやる。しばらくむすっとした後、彼女は口を開いた。
「──もしかしてルーザーさんは、最初から私の本心に気が付いていたんですか」
『当り前さ』
事も無げに言うルーザー。
『僕を召喚するような女の子が、負けたままで終わる人間なわけがないじゃないか』
こうして。
主人公/アイドルを目指すふたりの敗者は、ステージへと上がった。
『勝てなかった』で終わらせないために。
◆
「そういえばルーザーさんって、聖杯に何を願うか決めてます?」
『僕みたいな例外を除けば、サーヴァントになる奴って大抵はどこか人より優れてるエリートばかりでしょ?』『そんな奴らが必死になって求めてる聖杯で、死ぬほどどうでもいい願いを叶えたら、これまでの戦いが全部茶番になって、かなり笑えそうじゃない?』『ええと、そうだなあ……』『「ギャルのパンティおくれ」とかどうだろ』『「今後の聖杯戦争で女性サーヴァントはパンツ丸出しの霊基で召喚される」も捨てがたいかなー!』
「うわぁ……」
【クラス】
ルーザー
【真名】
球磨川禊@めだかボックス
【属性】
混沌・負
【ステータス】
筋力E- 耐久E- 敏捷E- 魔力E- 幸運E- 宝具EX
【クラススキル】
過負荷:A-
混沌よりも這い寄るマイナス。
所有するスキルすべてのランクにマイナス補正がかかる。また、このスキルを持つ者はマイナスではないプラス側の相手から高確率で激しい嫌悪を感じられるようになる。
聖杯戦争というプラス側の人間が勝ち抜くのが常識のバトルロワイアルにおいては、デメリットにしかならないスキル。
【保有スキル】
敗者の見識:E-
貧者の見識の類似スキル。言葉による弁明、欺瞞に騙されることなく相手の弱さを見抜く眼力。
ルーザーは弱さという弱さを知り尽くしている生粋の敗者である。
マイナスのカリスマ:E-
マイナス側の人間とされる愚か者と弱い者に作用するカリスマ。カリスマとは言うが、このスキルを持つ者が、誰かの上に立つことは出来ない。いわばぬるい友情のような結束感。
プラス側の人間から嫌われがちなルーザーだが、万人の下を行くその姿はマイナス側の人間に「自分より下がいる」という安心感を与える。
戦闘続行:E-
往生際が悪すぎる(『僕は悪くない』)。
どこに打ち込まれても致命傷となるほどにひ弱なルーザーであるが、同時に、倒れても不死身の怪物のように立ち上がる
【宝具】
『安心大嘘憑き(エイプリルフィクション)』
ランク:E- 種別:対宝具 レンジ:? 最大捕捉:?
『現実(すべて)を虚構(なかったこと)にする』スキルである『大嘘憑き(オールフィクション)』に『三分間限定で自身のスキルを全面無効化・全面禁止するスキル』である『実力勝負(アンスキルド)』を合成したことで誕生した完全版負完全。
このスキルで「なかったこと」にした対象は三分で元に戻る。
『却本作り(ブックメーカー)』
ランク:C- 種別:対正宝具 レンジ:1 最大捕捉:1
ルーザーのはじまりのマイナス。
この宝具で生み出される螺子で刺された相手の肉体的・精神的、その他様々なステータスは、ルーザーと同じレベルまで下降する。強者に対する一種の封印宝具。この宝具が刺さりさえすれば、異形の化物だろうと、超常の能力者だろうと、一切の例外なくマイナスへと凋落し、心を折られることになる。
『球磨川禊(グッドルーザー)』
ランク:EX 種別:宿命 レンジ:- 最大捕捉:-
球磨川禊という存在そのもの、あるいは彼が背負う宿命。
彼が何らかの勝負事において勝つことは絶対にありえない。『主人公』と言える特異点じみた存在の干渉でも起きないかぎり、この宿命を覆すことは不可能。
聖杯戦争においては外れも大外れな宝具だが、彼はそれでも勝利を目指して戦うだろう。
【weapon】
大量の螺子
【サーヴァントとしての願い】
聖杯戦争に勝つ
【マスター】
七草にちか@アイドルマスターシャイニーカラーズ
【能力・技能】
ダンスやボーカルといった、アイドルに求められるスキル。しかし彼女の場合、憧れのアイドルから強い影響を受けており、その結果くすんで見える劣化コピーのようになっている。
【マスターとしての願い】
元の世界への帰還。そして、もう一度アイドルになりたい。
最終更新:2021年07月14日 22:08