(30)105 『復讐と帰還(10) R-again(前)』

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愛は、心で里沙に語りかけた。
里沙は、心で愛の声を聞いた。

――ガキさん

――里沙ちゃん

――お姉ちゃん

―お姉ちゃん、聞こえる?


―起きて、お姉ちゃん

精神の深層のさらに下方に存在する、人間のあらゆる感情や、原始的な衝動が生み出される源泉。
人間という存在の最も根深いものの一つ、混沌が支配し、感情と衝動が無秩序に渦巻く領域。
いかなる理性も、常識も通用しない神秘の象徴。
常人なら数秒、経験を積んだダイバーでも数分で精神を破壊される精神の暴風雨が吹き荒れる海。
サイコ・ダイバーはそれを、混沌の海と呼ぶ。

少女の声で眠りから覚めたサイコ・ダイバーは、その混沌の海に漂っている自分を発見した。

「ここは…そうか、愛ちゃんの中に潜って…」

サイコ・ダイバー新垣里沙は、自分の身に起こった事を思い返す。
死に瀕した愛を救うため、精神の深奥を越えて、混沌の海に身を投じた。
そこで愛を見つけはしたものの、荒れ狂う激流に翻弄され、出口が分からなくなった時、その時、光を見たのだった。

「それから…私」
―お姉ちゃん、そこで力尽きて、海の中に取り残されちゃったのよ。
「アイちゃん?アイちゃんでしょ?」


里沙は、高橋愛の心の奥に封印されたi914の力を司る少女の名を呼んだ。

「どこにいるの?アイちゃん」
―ここにいるよ。

その声で、里沙は自分が繭のような物に包みこまれている事に気が付いた。
これが、混沌の激流から彼女の精神を保護していたのだろう。
里沙は、繭にそっと手を触れて、言葉をかけた。

「アイちゃん、ずっと…」
―急いで、お姉ちゃん。私が呼んでる。
「愛ちゃんが?」
―光が見えるでしょ?

混沌の海に鮮やかな黄色の光が差し込んでいる。愛が里沙のために道を示しているのだ。
真っ直ぐ光の差す方を目指せ、と、愛の意思が伝わってくるようだった。
里沙は愛の意思と呼応するように意識を集中し、海中を走るのに最も適した姿にその身を変えていく。
サイコ・ダイバーはおとぎ話に出てくる人魚の姿になって、混沌の海を駆け上がっていった。





獣の右手から、血が滴っている。思ったより深く切り裂かれているようだ。
獣の右手を切り裂いた短剣は、今は吉澤ひとみの袖口に隠れ、その姿を見せていない。
しかし、刃は姿を見せずとも、獣に恐怖を刻みつけるだけの働きは十分に果たしていた。

「…ジュンジュンといったな?獣人最後の生き残り」

凝っと見つめる吉澤の瞳に、一瞬、ほんの僅か憐れみの影が差したのを、ジュンジュンは見た。

―憐れみだと!


戦士の誇りを踏みにじられ、屈辱が胸の奥から湧き上がる。
しかし、屈辱が怒りに変わる事はなかった。絡みつく恐怖が、心を怒りに染め上げる事を阻んでいる。
怒りに身を任せて突っ込んでも負ける。それは、予感というよりは、確信に近い。

―この目は私の“殺し方”を知ってる目だ。

獣の一撃をどうかわすのが最も有効か、どういう手順を踏めば獣に致命傷を負わす事が出来るか。
どう追い詰め、どう命を奪うか。
そういった諸々を、この目は知っている。そして、己がそれを実行する力量を備えている事も、この目は知っている。

―どうする?どうたたかえばいい?

ジュンジュンは恐怖と屈辱にまみれた思考を必死の思いで回転させる。

獣人のパワーは確かに圧倒的な物がある。能力者といえども獣に勝る膂力を持つ者はいない。
しかし、獣の姿をとるが故に、どうしてもその動きは単調にならざるを得ないのだ。
血のにじむ思いで磨き上げた拳法の技も使う事も出来なくなる。
並の相手ならば力でねじ伏せる事も出来るが、獣とのたたかい方を心得た一流、それも粛清人と呼ばれる超一流にそれが通用するとは思えない。
ならばいっそ獣化を解いてたたかうか?馬鹿な、論外だ。
獣の力無しで太刀打ち出来るような相手なら、リゾナンター最強の高橋愛がああも追い詰められはしない。

―力を技に乗せなければ、こいつには届かない。

どうやって?どうやって獣の力を人間の技に乗せる?
私がパンダの姿である以上、そんな事は――

そこで、ジュンジュンは思考を切った。
吉澤ひとみが、滑り込むように間合いに侵入してきたからだ。吉澤の袖口に暗い輝きを持った刃が煌めく。
ぞわり、と獣の背中を覆う毛が逆立つような感覚があった。





「凄い…どうしてこんなスピードが…」

凄まじい速度で海中を疾走しながら、ぽつりと言葉を漏らした。
その唇から呟きの余韻が消え去ると共に、里沙は混沌の海からの脱出を果たしていた。
人魚の姿を解き、里沙は少女に語りかける。

「アイちゃん、海を抜けたよ」

その言葉に反応して、里沙を包む繭がスルスルとほどけ、
うっすらと黄色い光を放つ一つの塊となって彼女の目の前にわだかまった。

「ねえ、アイちゃん。私どれくらい海の中にいた?」
「ちょうど一週間よ。お姉ちゃん」
「一週間!?」

里沙と言葉を交わしながら、繭は少女のかたちになっていく。

「その間、ずっと守ってくれていたの?」
「お姉ちゃん、私を助けに行ったきり戻ってこなかったから」

経験を積んだダイバーでも数分で精神を破壊される程の精神の暴風雨から、一週間もの間、少女は里沙を守り続けていたのだ。
愛の人格の一部であるアイが、濁流の影響を最小限に抑え得る繭のかたちをとっていたからこそ出来た事なのだろう。
しかしそれが途方もない意志力を擦り減らす行為だという事も、里沙は痛切なほど知りぬいている。

「アイちゃん、その姿…」
「ずっと海の中にいたから私が少し混ざっちゃった」

里沙の目の前にいるのは高橋愛が幼いころに切り離した四歳時のアイではなく、小学校の高学年くらいの年頃の少女だった。
面影が、里沙がよく知る高橋愛のそれにより近くなっている。
ただ、そのアイの存在感が酷く朧になってしまっているのが、里沙の胸を締めつけた。


「私を守ってくれてたから…ずっと無理をして…ごめんね、アイちゃん」
「お姉ちゃんが助けてくれなかったら、私は死んでたのよ。謝る事なんてないわ」

少女は透き通るような笑みで、里沙を見つめた。

「初めから私はこうするべきだったのよ。でも、怖くて出来なかった。私が消えちゃうんじゃないかって」
「――」
「でもね、お姉ちゃんがきっかけをくれた」

透き通るようであった少女の笑みが、幻のように揺らめいた時、少女は少しかなしそうな顔をした。
里沙ははっと息を飲み、少女を抱きしめようとした。が、少女は強い意志を込めた言葉でそれを押しとどめる。

「お姉ちゃん急いで。もう、お話をしていられる時間は長くないから」
「アイちゃん、いなくならないで」
「私は私に還るだけよ、消えたりなんかしないわ。だから、お姉ちゃんもお姉ちゃんに帰るの」

少女の言葉が里沙に吸いこまれていくとともに、里沙は猛禽を思わせる翼を広げ、上を見上げた。
黄色い光が、里沙に道を示している。
サイコ・ダイバーは飛び立った。仲間のもとへ、友のもとへ、そして、自分のもとへ。
隼よりも速く。






グロゥ!

身をよじって、獣は迫りくる刃から逃れた。
その様は、よける、というよりは、逃げる、と形容するのがふさわしいだろうか。
地面を転げながら距離をとる。
傍から見れば或いは無様にも映る格好であるが、吉澤はジュンジュンに戦士としての素質を強く感じていた。


「思い切りがいいな。そうするのが正解だと分かっていても、普通は躊躇っちまうもんだが」

すうっと目を細めて、吉澤は言葉を続ける。

「戦獣どもなんかとは、流石に出来が違う」

そう言って視線を移した先に、虚ろな顔をした大男達が里沙達四人を取り囲むように立っていた。
その様を見つめる吉澤の頬に不快の色が浮かんでいる。

「奴等は恐怖も知らなければ、痛みも、かなしみも感じないんだ。心が無いからな」

軽く溜息をついて、言葉を続ける。

「これから先は、ああいう人のかたちをした肉の塊どもが主役になっていくのさ。私ら能力者はお払い箱かもな」
「――」
「ちょっと、獣化を解いてくれないか?その姿じゃ話が通じてるのかどうか分からないからさ。別にペテンにかけようって訳じゃない」

意外なほど素直に、ジュンジュンは獣の姿から生まれたままの姿にその身を変じた。
吉澤の言葉を信じたというよりは、吉澤が自分に詐術を弄する必要性を感じられなかったからだろう。
それに、話が長引けばその分時間が稼げる。ジュンジュンは殊更に自信を漲らせた声で言葉を発した。

「あんな奴等なんか、私の敵じゃない」
「まあサシならそうだろうさ、でも、二体、三体相手ならどうだい?奴等は使い捨てだ」
「――」
「組織は戦獣の量産に手を付け始めている。100や200って数じゃねえよ。そうなったらお前らに勝ち目は無い」
「何が言いたい?」
「私は同情してるんだよ、お前に」
「何だと!?」
「お前も、復讐者だからな」

復讐者――その響きで、ジュンジュンの胸の奥に潜む何かが、ぞくり、と蠢いた。


「復讐だけが、お前の生きる目的だった時期がある筈だ」
「私は――」
「憎しみが前に進む力を生み出すなら、憎めばいいんだよ。それが人間ってもんだ」
「違う。憎しみは心を曇らせる。私は正義の為にたたかって――」
「正義って、なんだい?」
「それは…」

言葉に窮した。
あまりにもシンプルな問いが、ジュンジュンの心を揺さぶる。

「まあいいさ。これ以上続けても答なんか出やしない。もっとも、ハナっから答なんかありゃしねえのかもな」
「何で、そんな話を私にするんだ…?」
「組織に従うなら、お前の命は助けてやる」
「!?」
「言ったろ?同情してるって」
「断る」
「戦獣!」

グロロォォォォゥゥ!!

吉澤の合図とともに、巨大な咆哮が倉庫内の空間を揺るがし、殆ど質量をもった塊となってジュンジュンの肉体に叩きつけられた。
衝撃がジュンジュンの体を突き抜けた時には、里沙達を取り囲んでいた大男のことごとくが異形の獣に姿を変えている。
異様にして絶望的な光景がジュンジュンの視界を覆っていた。

「まあ、そうくるだろうと思ってたよ」
「…当たり前ダ」

言葉を返しながらも、ジュンジュンは己の肉の中に冷たいものがごろりと転がっているのを感じていた。

「目の前で仲間を殺される経験なんて、一生の内に二度もあっていいもんじゃねえよな」
「――」
「でもまあ、高橋愛は瞬間移動で逃げきれるかな?確か一人なら一緒に連れて跳べると聞いてるけど」


吉澤はジュンジュンの瞳を静かに見つめ、言った。

「誰を連れて逃げると思う?」

胸に刃を押し込まれたような感覚が、ジュンジュンを襲った。

「タカハシは…誰か一人を選べるような人間じゃない」
「でも選ぶしかなくなったら選ぶしかねえだろうよ。やっぱり…新垣だと思うかい?」
「…」
「その沈黙は肯定と受け取っておくよ」
「タカハシにとってニーガキは特別なんだ」
「その新垣は高橋愛の事を覚えちゃいねえんだろ?笑い話にもならないね」

吉澤はせせら笑った。

「そこまでやってくれる仲間の事を覚えてもいねえ奴に、命を賭けて助けてやる価値があるか?」
「記憶だけが、ニーガキの全てじゃない」
「言うねえ」

里沙と愛は手を取り合って、
異形の獣どもに取り囲まれている状況を全く置き去りにしているかのように、目を閉じて静かに寄り添っていた。

「何やってんだ?あいつら…」

吉澤の口からこぼれたものと同種の疑問がジュンジュンにも湧き上がる。
瞬間移動の集中にそこまで時間がかかるとは思えない。とすると、愛はここから逃げ出すつもりはないという事になる。
何か考えがあるのか?この状況を打破する?

「まあいい、あいつらを始末するのはお前を殺った後だ」

吉澤の言葉がするりと吐き出された。
仲間を殺される所を見ずに済むように、という配慮が働いたのかもしれない。


「七年前の虐殺に関わった者として、せめてお前は私が直接ケリをつけよう」
「お前も七年前のあの時に、あそこにいたのか…!?」

こつり、こつり、と乾いた音を立てて吉澤が歩み寄る。
気付くと、もう目の前に立っている。
何の構えも取っていない、無防備な姿をジュンジュンの眼前に晒していた。
まるで「お前の憎しみをぶつけてみろ」と、言っているようだ。

「ちいい!」

ジュンジュンは誘い込まれるように拳を繰り出した。
爪先から足首、膝、腰、胸、肩、肘、手首、そして拳。全身の関節を連動させて威力を倍加させる太極拳の技だ。
その渾身の一撃が、むなしく空を切る。
「外した」と思った瞬間、足を刈られた。
バランスを崩したジュンジュンの顔面に、吉澤の肘が打ち下ろされた。

―!

視界が一瞬、闇に染まった。意識が飛んだのだ。
地面に倒された衝撃で覚醒した時には、吉澤の両の眼がジュンジュンを見下ろしていた。

「じゃあな」

乾いた声と共に袖口から這い出してきた刃が、喉元を目がけて振り下ろされた。
ジュンジュンの脳裏に、彼女の生きて来た21年が走り抜ける。

―こうもあっけなく、死は訪れるものか

脳裏を駆け抜ける21年を、ジュンジュンは奇妙な感動に包まれながら眺めていた。
諦めにも似た感情で死を見つめるジュンジュンの命の奥で、力が蠢いた。

それは、七年前の虐殺から彼女を生き延びさせた力であり、獣化能力の新しい扉を開く力でもあった。