(30)194 『孤独を癒すもの』

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暗い暗い暗い―――


かつてないほどの闇が覆いかぶさってくる。
今までに経験したことのある、どんな暗がりよりもなお暗い闇が。


痛い痛い痛い―――


頭がおかしくなりそうなほどの苦しみだ。
生きていたときの苦しみとは比べものにならない。


怖い怖い怖い―――


死がこれほどに絶望的なまでの恐怖を伴なうものだとは知らなかった。
やはり安易に現実からの逃避に選んでいい道ではなかったのだ。


だけど―――もう―――





   *   *    *


誰かに呼ばれたような気がしてゆっくりと目を開けた私の前に在ったのは、美しい一人の女性の顔だった。


―どうやら無事に死ねたらしい


反射的にそんな考えが頭に浮かんだのは、その女性の際立って端麗な顔立ちや白い肌、長い黒髪に常世の国の気配を感じ取った故かもしれない。
次いで、自分にも自身の命を絶つくらいの勇気はあったらしいという、安堵とも自嘲ともつかない思いが浮かぶ。


「大丈夫ですか?痛いところはありませんか?」


だが――

黒髪の女性の案ずるようなその言葉と表情をはっきりと認識できるほどに意識が覚醒する頃には、ここがまだ此岸であるという愕然たる事実を受け入れざるをえなかった。


「私……生きてるの……?どうして……?」


紛れもなく自分が生きていることを理解し、しかし同時に何故生きているのかを理解できずに、私は体を起こしたままの姿勢で呆然と誰にともなく問いかけた。

思わず上げた視線の先には、ビルの屋上が見える。
私が先ほどまで立っていたはずの―――


そう、私は間違いなくついさっきまであの場所に立っていた。
そして――「飛んだ」のだ。
いや、確かに「飛んだ」――はずだったのだ。

でも、こうして生きているからには……やはりそれはただの妄想でしかなかったのだろう。
酷いことになるのが怖くて低めのビルを選んだのは確かだが、だからといって当然飛び降りて無傷で済む高さでもないのだから。
微かに体が痛むような気がするが、こんな程度の痛みでは死ねるはずもない。

結局――私は惰弱な意気地なしなのだ。
今回こそはと固く決意して臨んだはずだったのに。

それがどうだろう。
私は案の定直前で怖気づいたらしい。
恐らく、私はこの場所で今から自分が“飛ぼう”としているビルの屋上を見上げたのだろう。
そして、“飛んだ”気になって―――

目を開ける前の恐怖や苦しみがフラッシュバックする。
暗く、苦しく、怖ろしい「死」の深淵を覗き込んだ気になったあの瞬間――
私は「死」を想像し、そして……その恐怖で失神したのだろう。

お笑いぐさだ。
死ぬ覚悟を決めて死に場所を探し、見つけたその場所に恐怖して気絶した人間が私の他にいるだろうか。

自嘲の笑いと共に絶望が心を支配する。

こんな私だから――周囲に愛想を尽かされるのだ。
生きている意味もない自分を殺すことすらできない情けない人間だから――


「死のうとすることは勇気なんかじゃありません」


そのとき、不意に傍らから聞こえた声に私は我に返った。
それが黒髪の女性の口から発されたものであることを認識するまで、そしてその言葉が頭に浸透するまでにしばらくの時間がかかる。

それらを理解すると同時に、惨めな気持ちが新たに沸きあがった。
黒髪の女性が、私のことを自殺志願者だと判断したことに関しては何も不思議ではないし、今さらどうこう言っても始まらない。
それでも、死にたいと思いながら死ぬこともできない臆病者であることさえ見抜かれ慰められたことは、恥さらし以外の何ものでもなかった。

だが、習い性となった取り繕うようなへつらった笑顔を声の方に向けた私は、そこにあった黒髪の女性の思いがけない表情に固まった。
微かな軽蔑を含んだ同情や憐憫――私が思い描いていたそれらの感情はそこには一切なく、ただ真っ直ぐな瞳だけが私を見据えていた。


「死を怖れることは恥ずかしくなんかない。むしろそれこそが勇気なんです」

「死を怖れることが……勇気?」


静かで優しい口調ながら、きっぱりと口にされる言葉を、私は呆然と繰り返した。
そんな私に対し、黒髪の女性は微かに微笑みながら言葉を継いだ。


「さゆみも…昔死のうとしたことがあるんです」

「………えっ?」


さゆみというのが黒髪の女性自身の名前だと言うことはすぐに分かったが、その予想外の言葉に私は戸惑った。
とてもそんな風には見えないが……私が最初に常世の気配を感じたのはある意味正しかったのかもしれない。


「でもさゆみはそのとき死ぬことを怖れていませんでした。むしろ恐怖から逃れられると思っていました。今思えば…その考えこそがすごく怖ろしい」


微かに表情を曇らせながらそう言うと、さゆみは自分の過去について話し始めた。

誰にも…両親からさえ必要とされず、生きている意味を感じられなかったこと。
衝動に突き動かされ、気がつくとどこかの屋上に立っていたこと。
そして、そこから飛び降りようと思っていたときに後ろから声を掛けてきた子がいたこと……


「そのとき絵里はニコニコ笑ってました。でも多分、絵里もさゆみと同じ…ううん、さゆみなんかよりずっと深い孤独を抱えていたと思うんです」

「孤独……?」


何かが頭をよぎったような気がして、私はその言葉を呟いた。
今まで意識したこともなかった言葉なのに、何故かすぐ近くにあったような……


「人が死を怖れるのは、それがきっと永遠の孤独を意味するからです」

「………!!」


さゆみのその言葉に、私は卒然として悟った。
私がついさっき感じた暗さは、苦しさは、そして怖ろしさはその言葉から放たれていたのだと。


「さゆみは孤独を怖れるあまり、死に逃げようとしていました。それが本当の孤独であることに気付きもせずに。自分の未来に向き合おうともしないで」


言葉を無くしている私に、さゆみは優しく語りかけ続ける。


「あなたが死を怖れるのは、あなたが本当はちゃんと明日に向かって進もうと思っているからです」

「私が……?明日に……?」

「明日から目を逸らさずに生きていくのは、ときにすごく辛いことです。だから、死んでしまえばそこから逃げられると思ってしまう」

「…………」

「さゆみもそうでした。毎日が辛くて…明日が怖くて…。だから死ぬことが怖ろしいなんて思いもしてなかったんです。だけど――」


言葉を切り、さゆみは再び真っ直ぐな瞳で私を見据えた。


「あなたは死ぬことの怖さを知っています。それは……本当はあなたが明日に立ち向かって生きていこうとしている何よりの証拠です。あなたにはその勇気がある」


思いもしていなかったことをきっぱりと言い切るさゆみに対し、私は言葉が出なかった。
さゆみの言葉に納得したからではない。
むしろ胸に湧き上がるのはその逆の感情だった。


あなたは私のことを過大評価している。
私は勇気など持ち合わせてはいない。
私が死を怖れるのは、明日を見据えているからではない。
ただ怯懦であるが故だ。

そう言いたかった。

だが、そんな私の内心に気付く様子もなく、さゆみは笑みを浮かべながら言った。


「さゆみ、今日が誕生日なんです」


あまりに唐突なその言葉に面食らう私に微笑みを返しながら、さゆみは言葉を重ねる。


「今、さゆみには『誕生日おめでとう』って言ってくれる人が何人もいます。それがすごく嬉しい。だってそれは『生まれてきてよかったね』ってことだから」


それは…確かにそうなのかもしれない。


「さゆみも今は心からそう思えます。生まれてきてよかったなって。あのとき……死ななくて本当によかったなって」


心の奥まで覗き込まれるようなその瞳を前に、私はようやく理解した。
さゆみは私のことを過大評価していたのではなく――そうあれと示唆していたのだと。

それと同時に、再び心が挫けるのを感じる。
さゆみは自分のことを必要としてくれる人間に出逢い、そして救われたらしい。
だけど私は―――


そのとき、ズキンと微かに体が痛み、私は僅かに顔をしかめた。
それはどこか覚えのある痛みだった。
微かな痛みながら、絶対に忘れてはいけないような……


「体の傷は放っておいてもいつかは治ります。でも、心の傷は自分で治そうとしない限り治りません」


さゆみは静かに手を上げると、戸惑う私の視線を見つめ返しながら今痛んだ箇所にそっと触れた。
微かにあった痛みがふっと和らぎ、次の瞬間には完全に消える。


「さゆみは自分が誰からも必要とされていないと思っていました。だから孤独なんだと思ってたんです。…でもそれは間違っていました」


不思議な感覚に半ば呆然となっている私に、さゆみは真摯な目で話し続ける。


「さゆみは本当の意味で誰かを必要としていなかったんです。必要とされたがっているばかりで…。でも絵里と…みんなと出逢ってやっと分かったんです」


さゆみが自分の過去を語るその言葉は、胸に突き刺さるように思えた。
今の私が正にそうではないかと気付いたからだった。


「心から誰かを必要に…大切に思うことができない限り、どれだけ自分が必要とされていてもそれに気付けないんだって。だから…孤独なんだって」


言いながら、私の傍にしゃがみ込んでいたさゆみはゆっくりと立ち上がる。
そして私に手を差し伸べた。

―勇気を持って立ち上がりなさい。
―そして明日を見据えて進みなさい。
―あなたはもう独りじゃないのだから。

慈愛に満ちた笑顔をその言葉の代わりにして。


その白く嫋やかな手を恐る恐る握り、私はそろそろと立ち上がった。
柔らかいその手からは、温かさと、微かな鼓動と、そして何か力強いものが伝わってくるように思え、知らず笑みが浮かぶ。


その笑みが、習い性になっていた偽りの笑みでないことは鏡に映すまでもなく分かった。