キーボードを叩く音がピタリと止んだ。。
さして広くはない薄明るい室内には、大量の機械類が所狭しと据え置かれている。
富士山の北西に広がる青木ヶ原樹海。
面積はおよそ30万平方メートル、1200年程の歴史しかない若い森。その一角に、この施設はあった。
人の目に触れぬ地下に建造されたこの施設の主は、虚空を見つめ唇を真一文字に結ぶ。
数十秒程経っただろうか。この施設の主“保田圭”は、白衣の裾を翻して部屋を後にした。
少々薄暗い灰色の廊下に、一定のリズムで刻まれる足音。
正面を見据えて歩く瞳の鋭さとは裏腹に、歩く速度は悠然とさえ言える。
その横顔からは何を考えているのか読むことは出来なかった。
やがて、圭は一つの扉の前に立つ。
センサーの作動音と共に、灰色のドアは左右へと割れた。
圭は足を踏み入れながら部屋の中央へと視線をやり、口角を釣り上げる。
「待たせたわね、小川」
「いえ。お疲れ様です、保田さん」
機械類と家具が混在する空間。おそらくここは施設の居住スペースなのだろう。
小川と呼ばれた女性は、保田の姿を見て明らかに安心したような表情を浮かべていた。
小川麻琴。
かつて圭が所属していた“組織”の一員であり、圭にとっては可愛い後輩だった。
圭の記憶の中では、太陽のような眩しい笑顔で常に周囲に明るさを振りまいていた少女だった麻琴。
数年間会わないうちに、麻琴はすっかり大人の女性となっていた。
圭は麻琴の向かい側の席に座り、眩しいものを見るかのように目を細める。
口元に僅かに浮かぶ笑みに、麻琴も満面の笑みを浮かべた。
「大役ご苦労さん、本当にあんたは頑張ってくれたわ…感謝する、本当にありがとう、小川」
「そんな、保田さん頭を上げてくださいよ。
私がしたことなんて全然大したことないですから!」
深々と頭を垂れる圭の姿に、麻琴が慌てふためく。
その雰囲気を察してか、圭は頭を上げ…麻琴の頭へと手を伸ばした。
二度、三度と、麻琴の存在を確かめるかのように髪を撫でる圭。
その手の優しさに、麻琴の瞳にうっすらと涙が浮かび、やがてこぼれ落ちた。
「ほら、もう泣かないの。
しっかし…大人になってもあんた、何も変わんないわね」
「保田さんは老けましたね、今幾つでしたっけ?」
「…小川…」
「冗談ですよ、冗談」
二人の笑い声が、広い空間に響く。
数年間全く会うことがなくとも、まるで常に一緒にいたかのような温かさが場を満たしていった。
麻琴と圭が共に過ごした期間は、僅か一年程。
圭が組織を離脱してからは、互いに連絡を取りたくとも取れない状況であった。
圭が組織を離脱して、数ヶ月。
たったそれだけの時間で、組織は…かつての姿を思い起こすことすら困難な程変容してしまった。
光を掲げていたはずの組織は、ある日を境に闇に墜ちる。
麻琴は、闇に墜ちてもなお、その組織に所属することを余儀なくされた人間だった。
離脱すること叶わず、数年の月日が流れ。
このまま何も変わらぬ日常が続くと思っていた麻琴に突如訪れた、組織離脱の機会。
それは、ほぼ同時期に組織に所属した、麻琴にとっては妹のような存在である“新垣里沙”が、
数年間に渡る敵対組織へのスパイ活動を終えた次の日のことだった。
里沙が敵と心を通じ合わせたという理由の元、“処理”されるという情報をかつての同胞から得た麻琴は、
姉同然に慕う“安倍なつみ”に報告する。
なつみは、それを阻止しなければならないと…麻琴に協力を仰ぎ、封じられた己の力の解放を目論んだ。
麻琴の決死の覚悟が身を結び、なつみは封じられていた己の力を取り戻すことに成功する、が。
それを見越していたかのように、なつみにかけられた“呪い”が発動した。
発動した呪いに苦しむなつみは、里沙救出を麻琴と…里沙がスパイ活動を行っていた組織の人間に託すために、
苦痛に苛まれながらも麻琴を組織から離脱させたのであった。
なつみの願いを叶えるために、麻琴は必死に組織からの追跡を逃れ。
つい先程、託されたことを成し終えたばかりだった。
里沙がスパイ活動していた組織“リゾナンター”の人間を、圭の元へと連れて行く。
まず、生きてリゾナンター達の元へと辿り着かなければならないし、
合流後は速やかにかつ追っ手を攪乱するように行動しなければならない。
麻琴は真新しい服に身を包んでこそいるが、露出した部分には幾つもの痛々しい傷が刻まれている。
緊張の糸が切れたせいか、断続的な苦痛が麻琴の体を苛んでいた。
だが、麻琴はそれを押し隠すように微笑む。
「…そういえば。
保田さんは何で、Mを抜けたんですか?
…たった数ヶ月です、保田さんがMを抜けてから、たった数ヶ月で…Mはダークネスになりました。
もしも、保田さんの抜けるタイミングが少しでも遅かったら…今の未来はありえなかった。
―――こんな未来がくることを、保田さんは予測していたんですか?」
「…小川は、何でMが出来たか知ってる?」
質問を質問で返され、麻琴は言葉に詰まる。
部屋に広がる沈黙。
圭は微笑みの一つすら浮かべず、麻琴の目を射貫くように見つめていた。
麻琴は軽く息を吸い込んだ後、ゆっくりと口を開く。
「Mに拾われてから、Mが“ダークネス”へと転身するまでの間に、そういう話を具体的に誰かから聞くことはありませんでした。
私やガキさんが入った頃のMは、より一層飛躍するために精力的に活動していたから…常に能力者の人間は出ずっぱりで、
そういうことを聞こうにも聞けなかったんですよね…。
ガキさんからちらっと聞いたことはありますけど、あの子その話した時、すごい興奮してたからよく分かんなかったし」
麻琴の言葉に、圭はそっかと言ったきり黙り込む。
確かにその当時のMは、能力者達は戦闘や他の組織同士の揉め事を調停しにと、連日連夜出払っていた。
圭もまた、その能力を請われて数日留守にすることも多々あったし、帰還したら即研究室に閉じ籠もるような生活を送っていた。
そもそも、麻琴はある事件の被害者の子供であり、家族以外に身寄りの無かった麻琴を哀れに思ったなつみが、
周りの制止の声を振り切って組織へと連れ帰ってきたのである。
超能力の使えない麻琴は、朝から晩まで厳しい訓練に明け暮れていたと人づてに聞いていた。
組織の成り立ちや将来のビジョン。
短い時間でさらりと話すような内容ではない上、話す方、聞く方、互いのタイミングというものもある。
そうして、麻琴は…誰からも十分な話を聞けぬまま、運命の奔流に巻き込まれていったのだろう。
微妙な空気を打ち破るように、圭は柔らかく微笑む。
「…あんたも十分立派な関係者になったことだし。
いい機会だから、話してあげるわ。
何故、Mが生まれたのか。
何故あたしはMから離脱したのか…さっきあの子達に話した説明だけじゃ、不十分なところはあるしね」
「…お願いします、保田さん」
麻琴の目にはもう、涙はなかった。
目に浮かぶ強い光は、子供だったあの頃よりもより強く、圭の胸を撃ち抜く。
大役を任され、それを果たしたことで大きな成長を遂げたのだろう。
記憶の中よりもずっと頼もしく見える麻琴へと、圭はゆっくりと口を開く。
―――長い夜が始まった。
* * *
数十人の研究員が、しきりに手に持つノートへと何かを記入している。
圭の眼前では、潜在能力値ナンバーワンと言われている安倍なつみと、
戦闘能力ナンバーワンとも評価されている後藤真希が戦いを繰り広げていた。
身体能力と有する超能力でなつみを追い詰めていく真希。
だが、圭は周りの真希に対する驚きの声とは別のことを思っていた。
なつみは真希を相手にしても、全く己の持つ能力を行使しようとはしない。
“言霊”と呼ばれる、言ったことを本当のことにしてしまう能力の持ち主であるなつみ。
その気になれば、一瞬で止めを刺すことすら可能な力の持ち主は、真希の攻撃を軽やかに、舞うように避けていた。
なつみはよく出来た子だと、一つしか年齢の変わらぬ圭は内心で呟く。
己の持つ絶大な力を律する心。
僅か16歳にして、なつみは既に自らの能力を誰よりも理解していた。
その気になれば、腕に巻かれたデバイスを破壊し神の如く振る舞うことも可能だというのに。
日常時、戦闘時問わず、なつみは必要以上に己の持つ能力を行使することはなかった。
言霊という能力ではなく、その能力を発動する際に発生するエネルギーを上手く利用して、
なつみは真希の繰り出す攻撃を避け、時には相殺している。
真希の横顔には、僅かながらの苛立ちが浮かんでいた。
対峙している人間だからこそ、なつみが本気を出していないことが誰よりもよく分かるのだろう。
その横顔を見て、思わず圭は苦笑せざるを得ない。
真希はこの施設の中で最年少の能力者だ、まだまだなつみのような境地には達することが出来ないのも無理はなかった。
戦闘訓練ではあるが、真希にとっては真剣勝負。
それなのに、対峙するなつみはけして真っ向から真希とやり合おうとはしない。
真希は己のもつ能力“空間支配”を存分に行使しているというのに、
なつみはあくまでも、自分の持つ力を本来の形で行使しない戦い方を選択している。
それが真希には歯がゆいのだろう。
けして、なつみは手を抜いているのではなく、自らの意思でその能力を律しているだけに過ぎないのだが。
真希が動く。
対峙するなつみ。
銀色の光と金色の光がぶつかり合う。
―――互いの拳がぶつかり合ったところで、研究員の制止の声が響いた。
「やー、焦った-。
なっち負けちゃうかと思ったべさ」
そう言って太陽のような眩しい笑顔を浮かべるなつみ。
対する真希は。
「…もー、なっちはいつも手ぇ抜くんだからー。
今度はちゃんと、言霊使ってよね」
なつみに文句をつけながら、部屋を後にする。
不機嫌さを隠そうともせずにスタスタと歩いて行く真希を、研究員の一人が追いかけていく。
おそらく、デバイスが破損していないかチェックするためだろう。
圭は溜息を一つつくと、真希達の後を追う。
デバイスが関わるとなると、自分も行った方がいいのだ。
例え、何かあってもなくても、あの研究員は圭を呼びに施設中を歩き回ることが予測できるのだから。
石川県北部。
交通の便がいいとは言い難い街の片隅に、圭達の住む研究所はあった。
表向きは、民間の生物研究所、だが、実際は―――クローン研究所である。
しかも、この研究所は…超能力と呼ばれる、常人には理解不能の力を持った人間を生み出すための施設であった。
クローン技術の第一人者として知られる、寺田博士。
彼の持つ技術を存分に駆使して生み出された存在が、圭達であった。
動物に限らず、普通の人間であれば今の技術的には十分生み出すことが可能である。
だが、超能力を持った人間を生み出すことが出来るのは、世界でただ一人、寺田のみ。
寺田はクローン研究で得た莫大な資金を元に、更なる研究を推し進めるべく研究所を構えた。
その結果の完成系に最も近いのが、圭達―――強大な超能力を有するクローン。
寺田は今も尚、圭達のデータを収集、分析しながら新たな研究を進めている。
先程の訓練は、そのデータ収集を兼ねていた。
最も、圭達は自らの能力をほぼ無効化するデバイスを身につけているため、実際のデータは得られた結果の何倍、
何十倍もの数値となることだろう。
圭は真希と研究員を見つけると、間に割って入る。
研究員の殆どが、機器関係の知識は一般人よりはあるが専門家には劣るというレベルである。
この施設で一番そういった知識を持ち合わせているのは、まだ二十歳にもならない圭以外には存在しない。
圭は“創造”という、既存の物を自分の思うがままの物へと作り替える能力を有している。
その能力を駆使し、様々な物を、既存の技術では作ることの出来ない唯一無二の物へと作り替えてきた。
真希や他の仲間達、そして自分が付けている、能力封じのデバイスも圭が生み出してきたものである。
そうした物を生み出すには、膨大な知識が必要だった。
それは超能力に関する知識だけに留まらない。
あらゆる学問の専門的な知識を身につけるために、圭だけは他の仲間達とは違う生活を送っていた。
圭のためにと用意された専門書ばかり収集された書庫で、圭は1日の大半をそこで過ごしている。
圭は真希のデバイスをチェックし、異常がないことを確認する。
研究員に問題ない旨を告げ、圭はその場を後にしようとした、が。
「圭ちゃーん、また勉強するのー?
たまにはごとーと遊んでよ-」
「遊ぶって、あんたの遊ぶは戦う、でしょ…。
勘弁してよ、あたしはそういうのは得意じゃないの。
あんたみたいに身体能力も超能力もずば抜けたのとやりあったら、五分も持たないわよ…」
腕に纏わり付いてくる真希を押しのけ、圭は早足でその場を去る。
幸い、真希が付いてくる気配はなかった。
圭は本日二度目の溜息を盛大につく。
真希は悪い子ではない、だが、その好戦的な性格はまだ若い圭では上手くコントロール出来ない。
しかも、真希は一切、加減という物を知らないのだ。
最近では少しはマシになったものの、以前はそう簡単には壊せないデバイスに罅を入れるほど力を放出していたため、
訓練で対峙する人間はしばしば怪我を負う羽目になった。
年齢を重ねるうちに、そうした好戦的な性格が改善されればいいのだが。
圭はそこまで考えて、三度目の溜息を付く―――どう考えても、これは自分の管轄外だ。
自室へと向かう圭の視界に飛び込んできたのは、圭達が住む居住フロアの出入り口だった。
しんと静まりかえった廊下を歩く圭。
かつては、この廊下には今では考えられない程の喧噪が溢れていた。
現在、圭を含めてこのフロアには八名しか居住していないが…数ヶ月前までは倍近いクローンがここに居たのだ。
どういった事情があるのかは分からない。
だが、彼女達は一人、また一人とこの施設を去っていった。
今頃は、自分達のことを忘れて一般社会で新たな人生を送っていることだろう。
部屋に戻った圭は、鍵をかけるとベッドに倒れ込む。
溜息が出そうになるのを堪えて、圭は天井を見上げる。
沁み一つ無い、真っ白な天井を見上げるその目は、どことなく虚ろだった。
いつかは。
ここを出ていった彼女達のように、自分も新たな人生を選ぶ日が来るのだろう。
だが、圭はその選択肢を積極的に、自らの意思で選びたいとは到底思えなかった。
無条件でここを去れるのならば、今頃こんな殺風景な部屋で寝転んでなどいない。
この施設を出る条件は二つあった。
一つ、己の持つ超能力の完全封印。
一つ、ここで過ごした一切の記憶の消去、及び記憶の改竄。
自分の持つ能力が使えなくなる事への未練はない、が。
圭にとってのネックは、記憶に関することだった。
今まで培った知識は多分、消去や改竄の対象にはならないだろう。
だが、今までここで生きてきた17年間の記憶。
それは一切なかったことになり、全く別物の記憶を与えられる、そのことが圭には耐え難い苦痛だった。
生まれた時から、ずっと皆と一緒に生きてきたのだ。
同じ血を分けた姉妹ではないが、家族と言ってもいい仲間達。
共に笑い、泣き、怒り…色んな思いを分け合って生きてきたかけがえのない時間。
彼女達と過ごした記憶を消され、全く別人としての人生を歩むことなど考えられなかった。
しかし、いつまでこの生活が続くのかとうんざりすることもある。
毎日のように訓練、学習に明け暮れ…この施設から一歩も外に出ることを許されない自分達。
一体、自分達は何のために存在するのだろう。
鳥かごの中で飼われる鳥の如く、このまま死ぬまでここで生きていくしかないのか。
白い天井がやけに眩しく感じて、圭は目を伏せる。
他の仲間達も、おそらくは自分と同じ気持ちを抱いているはずだ。
己の存在理由に悩み、繰り返される同じ日常を憂い。
この苦しみに耐えきれなくなる時こそ、ここを出ていく時。
―――その日は刻一刻と、確実に圭にも、仲間達にも近づいている。
転機が訪れたのは、圭が18の誕生日を迎える直前のことだった。
それぞれ、訓練に学習にと励んでいた八人の仲間達は、突然、所長室に呼び出された。
圭は隣にいたなつみと顔を見合わせて、首をかしげる。
寺田からの呼び出しはそう珍しいものでもない。だが、それはあくまでも個別で呼び出されるという形に限る。
クローン達を一同に集めて何か話したことなど、今までになかったことだった。
仲間達の最年長“中澤裕子”を筆頭に、八人は所長室へと向かう。
一体何だろうかと圭のように訝る者もいれば、真希のように何も考えずに会話に興じる者もいた。
所長室には、寺田以外にもスーツを着た人間が数人。
外部の人間、しかも相当な権力を持った人間だろうと察したのか、それまで無邪気に会話を楽しんでいた真希ですら黙り込んだ。
訪れた静寂。
八人の顔を見渡した後、寺田はこう言った―――お前達の力を世界の為に役立ててみないか、と。
突然言われたことに何も言えずにいた八人に、寺田は畳みかけるように話を続ける。
世界には自分達のような超能力者が少数ながらも存在するということ。
中には悪人と手を組み、私利私欲のままに罪のない人々を苦しめたりする輩が少なからずいるということ。
そういった者を更正…あるいは排除するために、圭達のように優れた力を持つ人間の力が必要であること。
突如与えられた存在理由に、仲間達は一様に喜んでいた。
中には、争い事を好まないが故に難色を示す者もいたが…寺田や訪れていた政府関係者の熱い言葉に心を動かされたのか、
最終的には他の仲間達同様に寺田達の提案に良い返事を返したのだった。
―――かくして、超能力組織Mとして八人の新たな日々が始まったのであった。
* * *
「そうやってMは出来たんですねぇ…」
「そ。最初の頃は本当、大変だったのよ。
あたし達は確かに普通の能力者とは違って、生まれた時から色んな教育を受けてきたけど…組織の運営方法なんて誰も知らないし。
裕ちゃんはいつも胃が痛そうだったっけ…あの人、最年長だっていう理由で所長からリーダーに任命されちゃったのよね。
でも、いざリーダーとして振る舞おうにも、皆家族同然で育ってきた仲だから…上手く歯車が噛み合わないことも結構あったし」
そう言って目を細める圭に、麻琴もつられるように微笑みを浮かべる。
だが、麻琴は気付いてしまった。
微笑む圭の瞳の奥に、深い悲しみの光が浮かぶことに。
圭が組織を去るまでの二十数年。
それだけの長い年月を家族同然に過ごしてきた仲間達。
彼女達はなつみと圭を除いて、全員が…悪の組織ダークネスの人間になったのだ。
圭の心が痛まないはずがない。
かつては、同じ志を持ち、描いた青写真を現実にするために戦ってきたのだから。
麻琴の物言いたげな視線に気付いたのだろう。
圭はふっと、息を吐く。
「あー、結構話したから喉渇いちゃったわ…続きは休憩してからね。
…何か飲み物作ってくるけど、小川は何がいい?」
そう言って立ち上がって歩き出す圭の後を追うように、麻琴も立ち上がる。
「私も行きます。
…今日からここが、私にとっての第三の住処になるんですから」
思いがけない麻琴の言葉に、圭は一瞬呆気に取られた後…付いてきなさいとだけ口にする。
第三の住処、言い得て妙だった。
麻琴にとっての第一の住処は生家、第二の住処がMの拠点であったあの研究所だというのなら、
確かにここは麻琴にとって第三の住処となるのだろう。
組織を脱走した麻琴が安全に暮らせるのは、最早ここくらいしかない。
リゾナンター達の住む街はダークネスの目が常に光っているであろうことを考えれば、なおさらのことだった。
重くなる空気を打ち破るように、圭は努めて明るい声を上げる。
「いい話し相手が出来て嬉しいわ。
もっとも…これからは、あんたをあたしの助手として育てるつもりだから、覚悟するようにね」
「え、一体何をやらせるつもりですか?
言っておきますけど、私物覚えかなり悪いですよ」
「そこ、自慢げに言うところじゃないわよ…」
灰色の廊下に響く、二つの声。
―――その声に宿るのは、互いを気遣う優しさだった。
* * *
パタンと携帯電話を閉じる音がやけに大きく聞こえる、夜更け。
飯田圭織は軽く息を吐くと、窓の外に広がる夜空を見上げた。
その横顔は能面のように、一切の感情が浮かんでいない。
「ついに、か…」
掠れるように紡がれた言葉が虚空へと消える。
漆黒の瞳に浮かぶのは、夜空で瞬く星の光。
白い腕を窓へと伸ばした圭織は、そのまま手に力をこめる。
音もなく開いた窓から吹き込む、湿気を含んだ温い風。
圭織はそのまま、その場に静止する。
圭織の思考を占めるのは、先刻の会話。
電話越しにでもよく分かる、静かに燃える感情の炎。
今頃、彼女は何をしているだろうかと思いながら、圭織の思考は体を薙いでいく柔らかい風の如く、過去へと遡っていく。
かつて、圭織はMの一員であった。
予知能力を行使し、仲間達を戦わずして守る不戦の守護者として、日々その力を仲間、そして…世界のために役立てていたのだ。
生きている限り、この力を自分達の想い描く未来のために使い続ける。
その誓いは、ダークネスの一員となった今でも変わらない、ただ―――想い描く未来が真逆になっただけだ。
Mの活動は順調そのものだった。
強大な力を持ち、圧倒的なカリスマ性を持った八人のMは徐々に人員が増え、活動範囲も大幅に広がる。
途中、圭がより専門的な知識を取得し一般世界で技術者として生きていきたいと離脱したが。
圭が集めた専門家へとその知識は引き継がれ、Mの足取りが鈍ることはなかった。
このまま、Mの未来は変わらないはずだった。
想い描く理想の未来を実現するために戦い続ける、そのはずだった。
圭織は、皆は、その未来を疑ったことすらない。
だが―――未来はいとも簡単に変えられる。
圭織がそれを思い知らされたのは、もう、10年近く昔のことになる。
隣国にある中規模の超能力者組織との会談を終え、圭織はリーダーの中澤裕子と共に施設へと帰還した。
組織との会談が上手く成立したおかげで上機嫌の裕子に付き合い、
大して飲めもしない酒を飲んだ圭織が自室のベッドに倒れ込んだのは、午前2時を回っていた。
圭織は夢を見た。
―――それは余りにも血生臭く、深い悲しみと怒りに彩られた夢。
施設へと帰還したMのメンバーが見たものは、辺り一面に広がる血の海。
噎せ返るような血と硝煙の臭いが鼻孔に届いた。
そこに転がるのは、Mのメンバーを支えてきた研究員達と、
想い描く理想の世界を築き上げるという目的に共感し集った、超能力者達。
凍り付く空気。
生きている者の気配は感じられない。
皆、死んでいた。
抵抗した様子は一切なく、まさに一瞬と呼べる時間で殺されたのだろう。
すぐ近くに横たわっていたのは、先日加入したばかりの幼い超能力者。
―――その腕には、圭織達同様能力をほぼ無効化するデバイスが取り付けられていた。
それはMの理想、目的に共感した証。
戦闘時以外は自らの能力を封じ普通の人間として振る舞うこと、それは圭織達も例外ではない。
デバイスさえすぐに取り外せれば、ここまでの被害にはならなかっただろう。
その間すら与えない程一瞬のうちに、数多の命は消えていったのだ。
血の海の中心に佇むのは、一人の少女。
彼女のことはは施設の中で何度か姿を見かけたことがある。
圭や寺田と話し込む姿に、あの若さで研究員なのかと驚いた記憶があった。
少女がゆっくりとこちらを振り向く。
能面のように感情のない顔で、少女は起きたことを皆に告げる。
―――政府の人間達が突如現れ、皆を殺した、と。
辺りに木霊する悲しみと怒りが入り交じった複数の叫び声。
夢はそこで途切れ、圭織の意識は現実の世界へと急速に引き戻される。
雨にでも打たれたかのように、全身から流れ落ちる冷えた汗。
カチカチと鳴る歯の音を耳障りだと思う余裕すらなく、圭織は己の体を抱き締める。
夢から醒めてもなお、鮮明すぎるほど鮮明に思い出せる夢の内容。
圭織は震えながら涙を零す―――これはただの悪夢ではなく、予知夢だと。
予知夢。
睡眠中に無意識のうちに予知能力が発動し、夢という形で起こりうる未来を視る。
まだ震えの止まらぬ体で、圭織はベッドから転げ落ちるように床に立った。
両肢に力を籠め、奥歯を食いしばる。
まだだ、まだ、未来は変えられるはずだ。
予知能力を使い、あの未来を回避する為のヒントを得なければ。
圭織の全身から立ち上る淡い黄色の光。
光は徐々にその輝きを増していく。
―――次の瞬間、圭織はその場に膝を付いた。
全身を襲う凄まじい虚脱感。
自身に何が起こったのか認識しようとする圭織の耳に届いたのは、微かな足音。
視線を上げた圭織の目に映るのは、夢の中に出てきた少女だった。
鍵はかかっていたはずだ。
万が一を考慮して、マスターキーも存在するが…それは厳重に管理されており、
一般研究員程度ではまず貸し出されることはない。
一体、この少女は何者だ?
どうして、この部屋に入ることが出来たのだ?
混乱する圭織に湧き上がる疑問。
―――そもそも、何故、少女だけが無事に生き残っていたのだろうか。
予知夢では外に出ていた人間以外の全てが、無残にも殺されていたというのに。
しかも、皆、抵抗する間すら与えられぬ程一瞬で―――瞬間、圭織の思考を掠める、もう一つの可能性。
研究者達も能力者達も、抵抗する間を与えられなかったのではないか。
凶行に及んだのが“内部犯”であれば、抵抗した様子がないのも頷ける。
―――それが、所長からも信頼を寄せられる程の研究者であれば。
その衝撃の大きさに動きが止まる、その一瞬で。
機関銃でも使えば、数秒のうちに何人もの屍が築き上げられるだろう。
背筋を伝う汗。
再び震え出す体に力を籠めようとする圭織を見て、少女は微笑んだ。
『もう、あなたが視た未来は変えられませんよ』
『…そんなわけ!』
圭織は必死に四肢に力を籠め、立ち上がる。
再び予知能力を行使するべく集中を開始しようとした圭織は―――膝から崩れ落ちた。
膝を付く圭織の側へと、少女は歩み寄る。
その細い肩に手を置いた少女の瞳は、圭織を嘲笑うかのような光を浮かべていた。
『飯田さん、あなたが有する予知能力…未来を予知するその力は、確率を視則する能力、とも言えます。
まぁ、簡単に言ってしまえば、予知する対象に起こるであろう未来を確率として読み取るということです。
無論、遠い未来ともなればその精度は落ちますが…』
『何が言いたいの…それと、未来が変えられないことと何の関係があるの?
日々…この一瞬も未来は変化するもの、変えられない未来なんてありえないわ』
圭織の言葉に、少女の口角が釣り上がる。
人を小馬鹿にしたような微笑みに、圭織の体に湧き上がる強い怒り。
鋭い視線を向けてくる圭織に、少女は一つ息を吐いた後、蕩々と語り出す。
『…どうやら、あなたは未来を確率として読み取れるということの意味がお分かりにならないようですね。
確率として読み取ることが出来るということは、すなわち…その確率を変動させたり、
変動させた確率を確定させることも可能であるということです。
―――あなた程の力があれば』
少女の言葉の意味を理解すると共に、それと自分の体に押し寄せる凄まじい虚脱感が一つに繋がる。
どのような方法を用いたのかは分からないが、少女は眠る飯田の意識へと潜り込み、
自分の描いたシナリオを“確定”させたのだろう。
未来を変えた上に、そうなるように“確定”させたということであればこの虚脱感も当たり前だ。
普通の能力者からは想像不可能な程の力を持つMのクローンであっても、
“神の所業”とも言えるようなことをしてしまえば、能力を使い果たし疲弊しきっても何もおかしくはない。
顔を上げた圭織と少女の視線が絡み合う。
その瞳には先程まで浮かんでいた光は消え、黒く昏い闇が広がっていた。
地面が消えてなくなったかのように、圭織の意識は急速に“失墜”していく。
どこまでも、どこまでも、深く。
自身の体が闇と同化するかのように、溶けていくような感覚。
―――何故だろう、不思議と、怖くはなかった。
* * *
傾いた月の角度で圭織は時の経過を知る。
随分と長い時間、物思いに耽っていたようだ。
窓を閉めた圭織は、そのままベッドの縁へと腰掛ける。
側に備え付けられた小さなテーブルにはアンティークと思われる繊細な細工が施された水差しと、
切り子細工のコップ、そして透明なピルケースが置かれていた。
水差しを傾け中身をを注ぎ、圭織はピルケースへと手を伸ばす。
中には毒々しい色をしたカプセルや錠剤が何種類も詰められていた。
細長い指で、圭織は一つ一つを取り出し…口に含むと同時にコップに口を付けてそれらを嚥下する。
未来を変え、確定させた代償。
圭織の体は全盛状態の力を維持するために、毎日“薬”を飲み続けなければならなかった。
無論、副作用はある。
今はまだ日常生活を送り、一日一回の予知をすることは可能だが…それも、後数年。
二十代の圭織の心肺機能は、薬の副作用で五十代半ばくらいのものとなっている。
見た目や体力こそ未だ妙齢の女性を保てているが、それもいずれは年齢にそぐわない老いに支配されるだろう。
薬を飲むことを今すぐにでも止めれば普通の人間よりは短いが、後三十年は生きられる。
そう言いながら、“彼女”は圭織がそうしないことを知っているかのように淡く微笑んでいたことを、ふと思い出した。
何年前のことなのか、最早思い出せないほど遠い昔の気もすれば、ごく最近聞かされたようなことでもある。
もっとも、圭織にとっては余りにも些細過ぎることで、どうでもいいと言えばどうでもいい記憶に過ぎないが。
あの凄惨な光景が現実のものとなってから数日で、Mはダークネスへと転身した。
あれは能力者やそれらを生み出す寺田を恐れた政府の人間の凶行である、と、
そう信じ切ったMのメンバー達は、普通の人間との共存という理想を捨て、彼らを支配するために急速に勢力を拡大していったのだ。
ベッドに横たわり、圭織は目を伏せる。
目を閉じてもありありと思い描ける、その姿。
Mをダークネスへと変質させ、今も尚ダークネスのためにと研究に邁進する彼女は。
圭織の内耳に木霊する声。
『明日が楽しみですね…ようやく、必要なデータの全てが揃う日が来ました』
闇を名乗る組織において、唯一、白を纏うことを許された“素晴らしき神”。
彼女が何を思ってあの凶行におよび、そして、Mをダークネスに変えたのかは未だに分からない。
表向きは総統である裕子に付き従う研究者を“装う”彼女の真意は、いつ知ることが出来るのだろうか。
分かっていることはたった一つだった。
彼女の想い描く未来は、自分も望み想い描く未来。
それはあの日、彼女の瞳に囚われ、闇へと堕ちたその日から全く変わらない。
不戦の守護者の誓い。
それは、主と崇める“素晴らしき神”のために、この力も命も捧げることだった。
夜が明けていく。
漆黒の空が、徐々に色を変えていく。
日が昇り、深い闇夜は澄み切った蒼へと。
―――これから十数時間後、光と闇の最初の“決戦”が始まる。
最終更新:2014年01月17日 18:11