(30)629 『幕間 ―THE DIRENMA OF...』

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「“潜入”は今日から?」

唐突に背後から掛けられたその長閑な声に足を止め、新垣里沙はゆっくりと振り返った。
声同様に悠然とした柔らかい笑顔と、その下で微かに揺らめく白衣が肩越しに視界に入る。

「その緊張した顔からするとどうやらそうみたいだね」
「……どうやらも何も知ってて声掛けたんでしょ?なんでもご存知のあさ美ちゃんのことだから」

苦笑を浮かべようとした里沙は、白衣の女性―紺野あさ美の言うように、自分の顔が思いのほか強張っていたことを知った。

初めて経験する類の“任務”に、自覚している以上に気が張りつめていたらしい。
“任務”に際して気を引き締めるのは当然のことだが、不必要な緊張感は逆に失敗に繋がりかねない。

里沙は小さく息を吐き、気持ちを静めながらあさ美の方に体を向けた。

「何言ってんの。わたしが知ってることなんて世の中のほんの一部だよ」

そんな里沙の内心は知っているのか知らないのか、あさ美はいつものように超然とした答えを返す。

「はいはい、もういいよ。…それでどうしたの?まさか見送りに来てくれたわけでもないんでしょ?」

肩をすくめるようにしながら、里沙は探るような目をあさ美に向けた。

「ううん。見送りに来ただけだよ。何かおかしい?」

表情も声のトーンも全く変えることなく、あさ美は屈託のない笑顔を里沙に向ける。
かといって、それが本心でないことは明らかだった。

…というよりも、あさ美が本心を露わにしたことなど恐らくないに違いないと里沙は思う。
ほぼ同時期に“組織”に入り、比較的気の置けない関係である自分に対してすら、常に“仮面”をつけて接していると。
もっとも、それはあさ美に限らず、里沙にしろ他の誰にしろ多かれ少なかれ同じと言えることではあるけれど――


「それはそれは忙しいのにわざわざありがと、Dr.マルシェさん」

そんな気持ちを込めながらわざとシニカルにそう返す里沙にも、「どういたしまして」と微笑むあさ美の表情は微動もしなかった。

「『高橋愛と田中れいなの監視及びその状況報告』だったよね、今回の“任務”は。いつまでなの?」
「期間はどうなるか分からない。ま、あちらさん次第だろうね」
「ふ~ん、じゃあ下手すると当分会えないんだね。淋しくなるなぁ」
「んなこと思ってもないくせに」

そう笑い返した里沙は、あさ美の笑顔に先ほどまでは見られなかった微かな翳のようなものを認めて少し驚いた。
だが、里沙がそれの意味するところを考える前に、その憂いの色は消えていた。

「餞別代り…と言っちゃあれなんだけど、一つ喩え話と質問をさせてもらっていいかな?」
「喩え話?質問?別にいいけど…なにさ藪から棒に」

身構えるような素振りを見せる里沙に「まあいいからいいから」と笑いかけ、あさ美は場面設定を語りだした。

 あなたが操作し、線路上を走っているトロッコが、突然制御不能になりました。
 どうやっても止められないままトロッコは分岐路に差し掛かります。
 このまま真っ直ぐ行くと、その先で作業をしている5人の作業員が轢き殺されます。
 遠隔操作でポイントを切り替えてもう1本の線路に入れば5人は助かりますが、その路線では1人の作業員が作業中です。

「さあ…あなたはこの場面でどのような選択をしますか?」

そう言いながら、あさ美は微かに首を傾ける。
穏やかな笑顔は先ほどまでと変わらないが、その目に笑いの色はもうなかった。

その瞳を見て、里沙はあさ美が突然こんな話をしだした意味を理解した。

おそらくこの喩え話は、自分の覚悟を問うているのだ。
多数の人間の利益を得るために少数―愛やれいな―を犠牲にすることを、躊躇ったりしないかどうかを。


「…分かってるよ、あさ美ちゃん。わたしは迷ったりしない。前に言ったでしょ?家族を“捨てた”あの日から、わたしはそんな感情に別れを告げたんだって」

今回の“任務”に就くに当たって聞かされた愛とれいなの境遇には、確かに同情すべき点が多いと言わざるをえない。
だが、それとこれとはまた全く別の話だ。
彼女らの犠牲の上に、他の多数の人間の幸せがあるのならば、そこに逡巡の余地などあろうはずもない。
自分は躊躇うことなくポイントを切り替え、分岐路へと乗り入れる決断を下す―――

その覚悟を映した瞳で、里沙はあさ美の目を見つめ返す。
一瞬、そこに正体不明の感情が過ぎったと感じた次の瞬間には、再び静かな湖面のような冷たい色が浮かんでいた。

「じゃあもう一つだけ質問」

「まだあるの?」と言いかけた里沙は、あさ美の瞳のあまりの静かさにその言葉を飲み込んだ。
その里沙に対し、あさ美は先ほどとまるで変わらない明るいトーンで再び状況設定を語りだす。

 陸橋の上に立っているあなたは、無人のトロッコが線路上を暴走してくるのに気付きました。
 このままだとトロッコは自分の立つ陸橋の下をくぐり、その先にいる5人の作業員を轢き殺してしまいます。
 何か大きなものを線路に落としてトロッコを脱線させれば5人は助かりますが、残念ながらそういったものは周囲にありません。
 しかし、そこであなたは気付きました。

「あなたのすぐ隣に……わたしが立っていることを」
「―――――っ!!」

言葉が出なかった。
少数の犠牲の上に多数の幸せがあるならば、そこに選択の余地などない――だけど――
先ほどと言わばまったく同じことを問われているにも関わらず……思考さえも一瞬完全に停止した。

「…迷ったらダメだよ。そこにたまたまわたしが立っていたことをラッキーだと思わなきゃいけない」

先ほどまでと変わらぬ静かな瞳と明るい声でそう言うと、あさ美は里沙に微笑みかけた。
あなたにはその覚悟がちゃんとあるよね?―――そう語りかけるように。


     *    *    *

「……分かった、肝に銘じておくよ」

里沙は僅かに複雑な表情を浮かべた後、静かに微笑んで頷き、そして再び表情を引き締めた。

「じゃあ……そろそろ行くね。見送りありがとう」
「いってらっしゃい。―――頑張ってね」

口から出かけた言葉を飲み込み、その代わりにあさ美は月並みながらどこか間の抜けた言葉を里沙に向けた。
そして、半ば無意識に片手を差し出す。
一拍の間をおいて、その手に里沙の温もりが伝わった。

「らしくない」と自分でも思ったし、きっと里沙もそう思っただろう。
だが、里沙は何も言わずに差し出した手を握り、もう一度「じゃあね」と小さく言うと踵を返した。


その背中を見送りながら、あさ美は抗い難い予感にとらわれていた。
里沙の温もりを感じることはもうないのではないかという、何の根拠もない予感に。

……いや、本当は“根拠”はある。
だからこそ、あさ美は里沙にあの喩え話をしたのだから。

つい先日、他ならぬ自分自身がそれと知らずに遭遇していた2人組――愛とれいな。
あの2人と日々接していて、里沙は果たして冷たい感情を貫き通せるだろうか。

―――そう信じたい。

哀しみの連鎖を断ち切るためには、その感情こそが不可欠なのだから。
もしもその感情が貫けないならばそのときは―――



里沙の姿が消えてからもなお、あさ美はその場に立ち尽くしていた。



落ちゆく陽によって紫に染められていた廊下はいつしか紫黒の中に沈み、白衣だけが微かに闇に浮かんでいた―――