(30)846 『復讐と帰還(11) R-again(後)』

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刹那という言葉がある。
元は時間の最小単位を表す仏教用語で、その長さは諸説あるが、要するにきわめて短い時間の事を指す。
その刹那を、ジュンジュンは体感した。
吉澤の袖口から伸びた刃が、彼女の喉元に突き立てられるまでの間に、夥しい刹那が脳裏を駆け巡った。
それは言葉であり、光景であった。

―純、私達一族の力は、ただ獣の姿になる事がその本質ではないのだよ。
お父さん―
―私達の力は、命の力だ。地上にある生命が辿ってきた進化の道を、己の命の中から見つけ出すのだ。
どういう事?―
―いずれ分かる時が来る。純、お前ならば、獣人のあたらしい有様を見つけられるだろう。

父の笑顔
     白い嵐    獣
   屍   屍   屍 
屍の向こう         闇色の瞳
  恐怖、そして、復讐
               ――生きろ、純

―あたしは高橋愛。一緒に、たたかおう。
リゾナンター?―
―私が新垣さんを守る。

     9人              9人で、私たちは生きてきた
        喫茶リゾナント    コーヒーの匂い
空の青      海の青          山下公園 

―新垣サン、お昼ゴハン、何がイイですか?
考え直せ、ニーガキ。食事とは楽しむもので決して挑戦するものでは―

脈絡を無視して走り抜ける刹那に凝縮された、言葉と光景が折り重なっていく。
それ等は折り重なり、紡がれ、一つの道を作る。一人の獣化能力者が新しい扉を開くための、道を作る。


獣。
―新しい有様とは?
力。
―それは獣?
否。
―違う?では…
源。
―命を動かす力?
応。
―獣の力に乗せるには?
純。
―!

ロロロォォォゥ!!

喉元に刃が振り下ろされた瞬間。
命の奥から轟く声があった。
魂を揺さぶる、美しく、勇壮な咆哮であった。




「…倉庫?横浜にいるのか…」

現実の空間を映し出す愛の表層意識を飛翔しながら、里沙は呟いた。

「ここまで来れば、後は出口を見つけるだけ―」

その時、愛の精神に、ある“異変”が起きた。
恐らく精神の深奥で起こったであろうそれは、ほんの僅かに愛の表層意識の質感を変えた。
ほんの僅か。愛自身、まだその変化に気づくにはもう少しの時間を要するだろう。
しかし、極限にまで研ぎ澄まされた里沙の感覚は、いち早くその“異変”を察知した。


「この感じは…アイちゃん…」

猛禽の翼を折りたたみ、意識の壁にそっと手を触れ、深奥へ語りかける。
表層から深奥へ声を届ける事など、熟練のサイコ・ダイバーでも不可能事であるが、里沙にはある種の確信があった。
己の力の高鳴りは、新たな絆がもたらすものだと。

「アイちゃん…聞こえるでしょ?」
―お姉ちゃん?
「もうすぐ愛ちゃんの中から出るわ。だから、その前に」
―お別れを言おうと思ったの?
「うん、声が届いて良かった」
―お姉ちゃん、ずっと私と一緒だったから、少し混ざっちゃったのね。
「アイちゃんと?」
―ほんの少しだけど、でも、お姉ちゃんならきっと使いこなせるわ。

意識の色が、また少し表情を変えた。もうすぐ、愛も変化に気づくだろうか。

―最後にお姉ちゃんの声が聞けて良かった。
「愛ちゃんに還るのね」
―もうすぐ、完全に私はあたしになる。
「もう、会えない?」
―さよなら、お姉ちゃん。これからは、ずっと傍にいるわ。

「さよなら」と呟き振り向いた里沙の目に、光を放つ出口が映った。





ガキィン!と乾いた音が倉庫に響いた。金属が硬い物にぶつかる音だ。
吉澤が振り下ろした刃の先から、ジュンジュンの姿が消えていた。


―どこだ!?

ぞわり、と吉澤の背中に何かが走った。ただならぬものが放つ気配が、悪寒となって吉澤を襲ったのだろう。

「ここだ」

振り向いた吉澤の目に飛び込んできたものは…獣?
違う。これは…人?
いや、人とも違う。ただ、リゾナンター李純である事は確かだ。

「その姿は…何だ」

その目は、口は、鼻は、人間のそれだ。
二つの足で地面を踏み締めるそのプロポーションもまた、人間のそれである。
しかし、人ではない。
ジュンジュンの全身を覆う毛は、両手から伸びる爪は、獣だけが持つものだ。
肉の奥から溢れる質感、力の物量もまた、獣だけが持つ。

―人の姿をした獣?

そう、吉澤の脳裏によぎった時、ジュンジュンが言葉を発した。

「私はいつも、力を獣の器に入れていた」
「器?」
「でも力は、獣の器に入れると獣の力でしかなくなってしまう。もっと純粋に、力を宿すべきだった」
「器を使うのを止めたという訳か」
「知っているか?もんじゃ焼きは、土手を作らなくても美味しく作れるんだ」
「フン、覚えとくよ」

その言葉が終る瞬間、吉澤はジュンジュンの顔面に袖口の刃を投げつけた。
避けるか、弾くか、どちらの行動をとるにしても、その隙に先手を取る。
身を屈め刃をかわした一瞬を突いて、ジュンジュンの側頭部に狙い澄ました回し蹴りを放つ。


―もらった!

しかし、その蹴りはむなしく空を切った。
吉澤の想像を遥かに掻い潜り、地を這うようにして人のかたちをした獣は吉澤の側面に回りこむ。

―このスピードは…!

吉澤のみぞおち目がけ、“純なる獣”の左足が跳ね上がった。
それは、駆け昇る流星であった。
跳ね上がったと思った瞬間には、吉澤のみぞおちに蹴りが叩き込まれていた。

―この蹴りは…!
―こんな蹴りを撃てる奴がいるなんて。
―ああ、そういえば、一人いたなあ…

突き抜ける衝撃の中、吉澤の目に一滴の涙が光る。

―石川だ。
―アイツの蹴りも、強かった。
―こいつの蹴りと、梨華ちゃんの蹴りと、どっちが凄えかな…

思い出が、かろうじて意識を繋ぎ止める。
しかし、純なる獣の放った流星は、意識を断ち切りはしなかったものの、吉澤ひとみの戦意を寸断した。
吉澤程の戦士が、たたかいの中でたたかいを忘れた。
ごく瞬間的なものではある。一秒を満たすかどうか、だが、この状況での戦意喪失は自殺に等しい。
純なる力で駆動する獣の爪が、必殺の一撃となって吉澤の一秒へ振り下ろされた。

―とどめだ!

パァン!と乾いた音が倉庫に響いた。吉澤の頬にジンジンと熱が走る。

―ビンタ?


吉澤の命を刈り取るはずの獣の爪が、ジュンジュンの右手から消えていた。
何故、止めを刺さないのか。不可解、というより驚きですらある。
ジュンジュンの表情にも、似たような驚きの色があった。
ジュンジュンの姿を視界に捉えた吉澤の方が一瞬早く、次の行動に移った。
頬に入れられた平手打ちが丁度“喝”を入れた格好になったのかもしれない。




里沙は、ゆっくりと、瞼を開いた。
愛は、そっと、顔を上げた。
頬に鮮やかな色彩を纏ったかけがえのない友の顔が、互いの視界に飛び込んできた。
見つめ合う二人の視線が、空中でひとつになった時、二人は同時に、全く同じ言葉を口にした。

「私が…帰って来た…」

独特の、ちょっと困った様な微笑みと、少し照れた様な微笑を浮かべ、ぎゅっ、と手を握りしめて、そして

「ありがとう」

再び、同じ言葉を口にした。




「危ない所だった…」

吉澤の念動力が、ぎりぎりとジュンジュンの喉を締め上げている。
ジュンジュンの姿は、生まれたままのそれに戻っていた。

「ぐっ…!」
「まだ、その力は不安定なようだな」


後一秒、純なる獣の姿を維持できていれば、吉澤の命は断たれていただろう。少なくとも戦闘不能には陥ってた筈だ。
しかし、そうはならなかった。
その原因をジュンジュンの未熟さに求める事は出来ない。彼女は誰も開いた事のない扉を開けたのだ。その先を誰が予想出来ようか。
ただ、そうはならなかった、という現実が横たわるのみである。

―もう少し…あともう少しの所で…!

ジュンジュンは唇を噛みしめて吉澤を睨みつける。
手の中に入りかけていた勝利が、指の間からするりと逃げてしまった。
吉澤ひとみさえ倒しておけば――里沙達を取り囲む戦獣どもは、単純な命令を実行するだけの知能しか持たない。
頭さえ潰せれば無力化出来た筈なのだ。
口惜しさが、後から後から湧き起こる。後、ほんの一秒持てば…!

「強かったよ。お前」

そういった吉澤の声に、疲れの色が窺えた。リゾナンターとの連戦で相当の疲労がある。
振り絞るように、吉澤は念動の見えざる腕に込める力を強めた。
ジュンジュンの呼吸が止まる。

―このままでは…

意識が薄れていく。必死に抵抗を試みるが、このままでは徒労に終わるだろう。
念動に対抗するには“あるべき自分の姿”を強くイメージすることが必要なのだが、ジュンジュンはそれが不得手だ。
獣の姿に変わるという獣化能力者の特性上、念動への抵抗力が弱いというのは宿命的な事であった。

―諦めて、たまるか

ジュンジュンの思いを握りつぶすように、吉澤は更に念動力を強めていく。
執念と執念がせめぎ合う。
しかし、ジュンジュンがいかに奮闘しようと、獣化能力者は念動に対する相性が悪いという事実は動かせない。
みしり、と首が軋んだ。


「このまま…首をへし折って…」

吉澤の体力も既に限界が近付いている。
この状況に至って尚、己の力だけで止めを刺そうとしているのは、吉澤なりのけじめなのだろうか。
せめぎ合う執念の均衡が動いた。
動かしたのは、炎であった。

「発火ァ!」

左方から、吉澤に向かってくる一陣の炎があった。
炎の向こう側には、リゾナンター銭琳の怒りに揺れる瞳があった。

「ちいい!」

咄嗟に吉澤は念動の矛先を炎に向け直し、それを防ぐ。同時にジュンジュンの喉を締めつけるくびきが去った。

「ゴメンなさい。不覚をとりました」
「琳!」

ジュンジュンがそう呼び掛けた瞬間、再度、吉澤の念動がジュンジュンの首に絡みつく。
あくまで、吉澤は目標を変えようとはしない。それが何を意味するか、ジュンジュンには容易に理解が可能であった。

―琳、手を出すな!
「ジュンジュンを放せ!」

蘇生したばかりのリンリンは周りの状況がよく呑み込めていない。ただ、ジュンジュンが危ないという事だけが分かった。
リンリンの手から再び炎が生み出され、吉澤にぶつけられようとした時、吉澤の声が倉庫に響いた。
ジュンジュンはその後に繰り広げられる光景を拒むように、きつく瞼を閉じた。かなしみと絶望が胸の中で渦を巻いていく。

「やれ!戦獣ども!」

遂に、引き金が引かれた。ダークネスの歪んだ科学力によって生み出された生物兵器が、殺戮の怒号を上げる。


グロロロロォォゥゥゥ!!!

獰猛な、血に飢えた獣どもの咆哮が轟くと同時に、猛り狂った異形の獣が一斉に里沙達四人に襲いかかった。
圧倒的な破壊が、黒の奔流となって押し寄せる。

ジュンジュンが最も恐れていた事が、現実となった。
十二体もの戦獣に対抗するだけの戦力など、望むべくもない。

リンリンは、強く唇を噛んだ。血が、滲みだした。
目前に迫る異形の者どもがもたらす恐怖が彼女の心臓を締め上げる。

吉澤の目には、複雑な色が浮かんでいた。
せめてこうなる前に、ジュンジュンにだけは決着を付けてやりたかったという思いがある。

思いが、交錯する。

もう、すぐそこまで獣が迫ってきている。
圧倒的な物量を前に、リンリンは身動き出来ずにいた。
締めつけられるジュンジュンの喉から、うめき声がこぼれ落ちる。
声は言葉にならなかったが、心は悲鳴を上げていた。張り裂ける心の絶叫があった。

―やめろ、やめて、お願いだから私の大切な人を殺さないで!もう二度とあんな思いは


その時、忌まわしき獣どもが上げる、空間を揺るがし耳をつんざくような咆哮の中で、一つの声が滑り込んできた。
一瞬、静寂があったのか。ある筈がない。
だが、その声ははっきりと、ジュンジュンとリンリンの耳に届いた。


「大丈夫」


その声は、新垣里沙の、声。




そして、光が走った。



吉澤ひとみは、信じられない、としか言いようのない光景を目の当たりにしていた。

十二体の戦獣が二十四の肉塊になっている。
全く理解を超えた光景であった。
十二体の戦獣、そのことごとくが、胴体を両断され息絶えているのである。

―何が起こった?

戦獣が里沙達に殺到したその一瞬に、一体何が起こったというのか。
吉澤ひとみを見つめる目があった。
吐き気をもよおす大量の血の臭気に包まれながらも、その目は、吉澤を凝っと捉えていた。
その目には、強い輝きがあった。かつて自分が知っていたその目よりも、輝きを増していた。

―新垣…!

新垣がやったのか?どうやって?鋼線か?違う。
鋼線では戦獣の硬い皮膚を切り裂く事など出来ない。
どんな鋭い刃をもってしても、一瞬で十二体を切り裂くなど不可能だ。
しかし、それは現に起こった事なのだ。

吉澤は見た。里沙の指先から糸のように伸びる二本の光の筋を。
ゆらゆらと里沙を守るように漂う二本の光の糸。
鋼線ではない。これは…『光』

―光だと?

里沙の精神――その中で、高橋愛をはじめとする仲間達への思い、そして組織への思い、能力者である己の身への思い。
そういった里沙の心の最も“濃い”部分は、一週間に渡って高橋愛の精神の一番深い場所にあった。
本来ならば愛の精神に飲みこまれ、消え去る筈であったが、i914の力を司るもう一人のアイが里沙を守り抜いた。
その際に、光の力がごく僅かながら、里沙に混ざったのだ。
運命はそれをもたらした。


i914の力と、新垣里沙の特性が生み出した新たな武器。
闇を切り裂く光。
『光』線。
断ち切るのではなく、消し切る。
どんな装甲も、この力の前には無力であった。

「吉澤さん、もう終わりにしましょう」

里沙は言った。透き通るように落ち着いた声だった。

「新垣ィ!」

吉澤は吠えた。痛切に焦がれた復讐の対象が、ついに目の前に姿を現したのだから。
瞬時に己の心を黒く染め上げる。
もうどうでもいい。こいつさえ、こいつさえ殺れれば、それでいい。
喉が裂けても構わない。全身から憎悪を総動員して、吉澤は吠えた。
憎悪で駆動する、いっぴきの魔性になろうとした。

ふと、里沙は吉澤から視線を外した。
視線は、リンリンからジュンジュンへ移り、傷つき倒れている久住小春の顔を見つめる。
そしてその視線は、隣に立つ高橋愛へ「私がやる」という意思を伝えた。
見つめ返す愛の瞳には、静かな肯定の色があった。

復讐者は拳を握りしめる。血が出るほど強く。
これを新垣里沙にぶつける事だけを考えてきたのだから。
地を蹴って走りだした。
帰還者は心を研ぎ澄ます。空の青よりも青く。
かなしみの向こうへ到達する事が己の使命だと知ったから。
高鳴る力を解き放った。

二人のサイコ・ダイバーは同時に動いた。
たたかいは、意外なほどあっけなく、その決着を見た。


吉澤ひとみは膝をつき、その場にうずくまった。
全身から汗が噴き出している。
その姿は、恐るべき力に抑えつけられているようであった。

―何だこの力は…!

新垣里沙の精神干渉能力。
自分を打ち負かしつつあるその力の正体がそれである事は、吉澤自身精神干渉能力の使い手であるから、すぐに分かる。
その強さが桁違いなのだ。かつての新垣里沙、いや、いかなるサイコ・ダイバーもこれ程の力を発動出来る筈がない。
辛うじて類型を求めるとすれば、能力の系統は違うが後藤真希の念動が近いと言えるかもしれない。
それ程までに圧倒的であった。

吉澤も、一流と呼ばれるサイコ・ダイバーである。
精神干渉能力から身を守る術は当然心得ていた。
「精神のロック」と呼ばれる技術である。
つまり心に鍵をかけ、意識の触手の侵入を阻むのだ。
しかし、里沙の力はとても意識の触手と形容できるような物ではなかった。
意識の津波であった。
いくら外界からの攻撃をシャットアウトしようとも、心を丸ごと押し流してしまうような強大な力の前にどれほどの抵抗ができようか。

―何でこんな…

段々と思考力が低下していく。憎悪も、かなしみも、戦意も、全て押し流されて行きそうだった。
圧倒的な力に心を丸裸にされるように、ちっぽけな自分が姿を現していく。それは感動的ですらあった。
心を揺さぶる感動を伴った悪夢を見ているのかもしれない。と、吉澤はふと思った。

しかしこれは夢ではない。奇跡だ。
吉澤ひとみは一個の奇跡に直面しているのだ。

共鳴とは、心が通じ合い、響き合う事でその力(主に超能力)を増幅させる現象であると言われている。
里沙と愛に起こった共鳴は、その強さその長さにおいて段違いであった。
一番大事な人と、一番深い所で、一週間ずっと心は鳴り響き続けていたのだ。


共鳴を超えた共鳴。

里沙も愛もこうなる事は予想していなかった。
二人を導いたのは運命。
しかし紛れもなく、運命を引きよせたのは二人の力である。
いや、二人だけではない。
リンリンが、小春が、ジュンジュンが、希望のかけらを守り通したからこそだ。
翻って言えば、愛佳が愛の危機を予知し、さゆみとれいながいたからこそ愛は命を長らえた。
そして、絵里の言葉が仲間達を勇気づけた。
リゾナンターと呼ばれる9人の戦士が紡いだ希望の糸が、運命という名の奇跡を引きよせたのだ。

運命という巨大な織物の中で、縦糸になる人間もいれば、横糸になる人間もいる。

視点を変えれば、安倍なつみと後藤真希の思惑、粛清人A並びにRのたたかい。
小川麻琴の振る舞い、そして何より、吉澤ひとみの復讐も、この奇跡を引き起こした大きな要因の一つになっている。
さらに視野を広げてみれば、二人に関わった全ての人間の行動が生み出した奇跡だとも言える。

人の手で運命を自由にする事は出来ないかもしれない。しかし、運命を作るのは人なのだ。

リゾナンターとダークネス。光と闇のたたかいは、この時、一つの転換点を迎えた。

―このまま…心を…

もう、抗う気持ちすら湧き上がってこなくなった。
このまま新垣里沙に全てを委ねてしまうのも悪くないかもしれない。
吉澤の心に芽生えたものは奇妙な安らぎであった。
吉澤がその感情を己の中に発見したその時、足元に銀色に光る輪っかのようなものが口を開けた。

―ゲート?

転送孔と呼ばれる一種のワープホールだ。恐らく行き先はダークネス本部施設の転送室に違いない。
瞬時に吉澤の姿が転送孔に飲みこまれていく。ほどなくして、転送孔も消えた。


「転送ゲートか…」

呟いた里沙の声は、まだ緊張の色を失っていない。
このタイミングで正確な場所にゲートが出現したという事は、誰かが近くで座標を送ったに違いないからだ。
この倉庫のどこかに、まだ誰かがいる。

「あそこにおる」

愛が示した方向に、人影があった。
愛の言葉に誘い出されたように、人影が歩み寄って来た。女のようだ。

「あら、あっさり見つかっちゃったわね。自信なくすわ」

飄々とした足取りで近づいてくるその女に、苦笑を浮かべながら愛が言った。

「声が聞こえた」
「声?ああ、心の」

薄暗い照明が、ようやく女の容貌を照らし出した。どこか愛嬌を感じさせる顔立ちをしていた。

「あなた、確か生化研の」
「よく知ってるわね私の事。流石は新垣里沙ってとこかしら」
「お前は…」
「また会ったわね。ジュンジュンさん」
「何の用ダ」

ジュンジュンの棘を制するように、愛が口を開く。

「少なくともあたし等に敵意は無いようね」
「それはどうかしら?」
「全部聞こえとるよ。…小川麻琴さん」


愛は軽く口角を吊り上げて言った。
超共鳴によって更なる力を得たのは里沙だけではない。
僅かな間に、小川の心の声を全て読み切っていた。

「あらら…じゃあこちらの目的も筒抜けな訳ね」
「あんたに手を貸すかどうかは、みんなと話してから決める」
「そう、いい返事を期待してるわ」
「…そろそろさっきのアレがまた出る頃かな?」
「私の思考先回りしないでよ…まあいいわ。じゃ、まだ向こうでやる事があるから」

小川が愛嬌のある笑顔を見せ、軽く手を振ると同時に、小川の足元に銀色の光の輪が出現した。

「新垣さん、やっぱりあなたはそっちにいる方が生き生きしてる。良かったわね」
「…ありがとう」

里沙が言葉を返したころには、小川の姿も転送孔に吸い込まれ、倉庫から消えていた。
静寂が訪れた。それは、長いたたかいがようやく終わりを告げた事を意味していた。
深い安堵に包まれながら、仲間達が里沙に声をかける。

「ニーガキ、よく帰って来たな。信じてたぞ」
「新垣サン。本当にヨカッタデース」
「ジュンジュン、リンリン、ごめんね…ずっと心配かけて…あっ」

里沙は急いで小春のもとへ駆けて行き、傍らにしゃがみこんだ。

「小春…小春、ねえ、起きれる?」
「…ん?ああ、新垣さん」
「いっぱい怪我しちゃったね…」
「あいつは…?」
「もう、大丈夫だよ。小春が頑張ってくれたから」
「小春頑張りました?」
「うん、ありがとう。ずっと守ってくれて」


その時里沙の唇に浮かんだ微笑みを見て、小春は照れくさそうに言った。

「新垣さんが小春を褒めるなんて、頭打ったんですか?」
「もう、バカなこと言わないの」

里沙はしゃがんだまま小春に背を向け直し、ポンポンと自分の背中を叩いた。

「何すか」
「歩けないでしょ?そんな怪我じゃ。乗りなさい」
「いいんですか」
「当たり前でしょうが」

とは言っても、小春は長身で、里沙は小柄な方である。流石の小春にも遠慮はあった。

「大丈夫よこれでも鍛えてるんだから」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

そう言って小春は里沙の頭を挟むように足を回し、里沙の首の後ろに腰を下ろした。
ずしり、と小春の体重が里沙の肩にのしかかる。

「コラー!小春!これじゃ肩車でしょーが!」
「え?違うんですか?」
「普通こうやったらおんぶでしょおんぶ!」

いつものやかましい二人のやり取りを微笑ましく見つめる愛に、ジュンジュンが申し訳なさそうな声で話しかけた。

「タカハシ…」
「どうした?」
「服…ないか?」
「服?」
「着替えも破れた」
「そりゃ、まずいね」


ジュンジュンは今生まれたままの姿である。
そしてジュンジュンにもこのまま横浜の街を歩いたら自分が社会的に相当まずい事になる、と予測出来るだけの知識はあった。

「あたしもパジャマのまんまやし…」
「そうか…琳は?」
「ナイデース」

愛は、小春をおぶった里沙に向き直って声をかける。

「ガキさん。ジュンジュンこのままじゃ外に出られんから、あたしがリゾナントまで連れてく」
「うん、分かった」
「じゃあ、またリゾナントで」
「うん、リゾナントで」

愛はジュンジュンの手を握りながら精神を集中し、行き先のイメージを固める。
喫茶リゾナント。帰るべき場所。
イメージが確固たるものになるのに、殆ど時間はかからなかった。
そして、もう一度里沙に声をかけた。ちょっと恥ずかしそうな響きがあった。

「おかえり…里沙ちゃん」

ふわり、と里沙はそこに一輪の花が咲いて風に吹かれているような笑顔を浮かべた。
この笑顔の為に、ずっとこんな笑顔でいられるように、私達はたたかっているのかもしれない。と、愛は思った。
鮮やかな驚きの中にいる愛の目を見つめながら、里沙は心の声で返事をした。







―ただいま。