(32)608 『Tender “INJURY” and “HEALING”』

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「なんやガキさん、もう帰るんか?」

隣の席に置いていたカバンを手に取った新垣里沙は、その声に至ってあっさりとした答えを返した。

「だってもう閉店でしょ?」

カウンターの向こう側の声の主―高橋愛は、里沙の素っ気ないその言葉に少し淋しそうな顔を見せる。

「それはそやけど…もう少しゆっくりしていってくれてもいいのに」
「そうもいかないよ。片付けの邪魔になるし、わたしも明日早いし」
「そっか…」

心底残念そうな顔をする愛に対し、里沙は複雑な思いを抱かざるをえなかった。

――高橋愛と田中れいなの監視及びその状況報告――

与えられているその“任務”を果たすために里沙が“潜入”してから、半月ほどが経過した。
数度の定期連絡は行ったが、はっきり言ってまだ報告すべき実のある内容はほとんどない。
“組織”はそのことに対して何も言わないのでおそらくこのままで問題はないのだろうとは思いながらも、どこか焦燥感めいた気持ちは拭えない。

だけど――

もう少し突っ込んで愛たちに色々話を聞けば得られる情報はあるのかもしれないが、そこまでしろとは言われていない。
どちらにしろ、あまりに根掘り葉掘り訊ねては不審を抱かれる恐れもある。
それに、逆に自分のことを話さないといけなくなると何かと面倒だ――

「じゃ…また明日」

それらが自分に対しての言い訳であることに気付かないまま、里沙は椅子から降りた。


そのとき――

「うん、また明日ね」

笑顔でそう返しながら手を振る愛の表情がふと引き締められ、里沙は出口に向かおうとしていた足を止めた。

「…どうしたの?」

急速に高まる緊張感を悟られないようにしながら、里沙は愛に向かって首を傾げた。

「うん、“声”が聞こえるんよ」
「……声?精神感応で…?」

半ば上の空で返答する愛に、里沙は自らの思考が“漏れ”たわけではなさそうだと胸を撫で下ろす。

「そう、れいなのときみたいな感じの……それも2人…」
「れいなのときみたいな声…!?2人?」

だが、愛のその言葉に里沙の体をまた違った意味の緊張が貫いた。
もしかすると、自分が“潜入”して初めて何か大きな動きがあるかもしれない――

「れいな。ごめん、ちょっとだけ出てくる」
「…へっ?何?何?どうしたと?何かあったと?」

奥で片付けをしていたれいなは、その声に慌てて飛び出してきて愛と里沙の顔に視線を行き来させる。

「れいなにはわたしが説明しとくよ。行っておいで愛ちゃん。帰ってくるまで待ってるから」
「ありがとガキさん。じゃあ…行ってくる」

状況がつかめず不安そうな表情のれいなに「心配ないてー」と笑いかけた後、愛は淡い光の粒子に包まれて消えた。
自らの“任務”遂行に意識が戻った里沙の、張り詰めた視線に見送られて――


    *    *    *

「絵里っ…!やめて!そんなことしたら……!」
「でもやるしかない。…大丈夫だよ、さゆは絵里が絶対に守るから」

“飛”んだ先――“声”に導かれるままに踏み込んだ路地裏の光景に、愛は軽い既視感を覚えた。
見るからに粗暴で無軌道そうな少年たちが2人の少女を取り囲み、下卑た笑いを浮かべているその光景に――


一ヶ月ほど前、愛は同じような場面を目の当たりにした。
そのときに出逢った少女――愛と同様に人とは違う“チカラ”を持っていたその少女は、紺野あさ美と名乗った。

愛にとっては特別だったその出逢いはしかし、あさ美にとっては違っていたらしい。
再会を約束して別れたその日以来、あさ美からの連絡はない。
教えてもらった携帯の番号も、どこにも繋がらなかった。

淋しい気持ちはもちろんあるが、同時にやむをえないという思いもある。
普通ではない“チカラ”を持って生まれてしまったが故の日々は、他の人間に対する不信や嫌悪を深く刻んだだろうから。
あさ美にとって自分は、信ずるに足る存在ではなかったということなのだろう。
仕方がないとは思うが、自分の力不足への悔しさや情けなさは消えない――


「おーい、女の子がそんなもの振り回したら危ないぞ」

一人のその馬鹿にしたような言葉に呼応して一斉に起こった少年たちの笑い声に、愛は我に返った。

少女のうちの一人が、小さなナイフを手にしている。

それを目にして少年たちは嘲笑っているのだろう。
捕らわれた“獲物”の無駄な抵抗を。
逃げられるはずもないのに必死でもがく様を。


これまでの日々の中で、愛が嫌というほどに覗いてきた――覗かせられてきた人間の闇。
自らをも侵食しそうなその感触には、何度触れても慣れることなどない。
淋しいことだと思う。
人間の中に闇が存在することではなく、それが故に人間が人間を信じられなくなることを。

だが、今このときばかりは愛の注意はその闇へは向かわなかった。
それ以上に、強く…哀しく震える波動に心を奪われていた。

ナイフを手にした少女は、自分たちがただ震えているだけの無抵抗な獲物だとは思っていないようだった。
そして、悲愴な覚悟こそあれ、それが“無駄な抵抗”であるとの考えは微塵もない。
おそらくは……

――“能力者”……!

愛はそう直感した。
どんな“チカラ”を持っているのかまでは分からないが、少女がこの状況を切り抜けられるという確信を持っているのが感じられる。
でも……

――彼女に“チカラ”を使わせてはいけない…絶対に

同時にそんな思いが愛を貫いた。

理由は分からない。
ナイフを持った少女から伝わってくる、「自分を犠牲にしてもこの子だけは守る」という悲痛なまでの覚悟がそう思わせたのかもしれない。
その覚悟があるのを知っているからこそ必死で止めようとする、もう一人の少女の切実な心が響いてきたからかもしれない。

こんなとき、愛は自分に精神感応の能力が備わっていることに感謝したくなる。
どんな人間をも信じることのできるこの能力を持って生まれてきたことを。
決して真に世界が闇に染まりきることはないと思うことのできるこの“チカラ”が自分にあることを――

微かに笑みを浮かべた愛は浅く息を吐き、様々な“声”の渦巻く前方に向かって足を踏み出した。


「わたしの友達に何か用?ナンパなら間に合ってるんだけど」

いかにも白けた響きを持ったその愛の声に、少年たちは一斉に振り返った。

驚き――警戒――不快感――愉悦――苛虐性―――

様々な感情が入り乱れながら愛の中に飛び込んでくる。
それらの“声”の激流に晒されながら、愛は平然とした表情をその背後の2人に向けた。

「絵里、さゆ。行こ」

愛のその呼びかけに、2人の少女は戸惑ったような表情を覗かせる。
見知らぬ相手にいきなり名前を呼ばれたこともあるのだろうが、それ以上に、この状況がそんな一言で片付くはずがないではないかという当然の思いが表出したのだろう。

もちろん、愛もそんなことは百も承知だった。
せっかく手にした“獲物”を、彼らがあっさり手放すはずはない。
なにしろ新たに現れた相手は“結構かわいい”“ただの女の子”で、“逆にラッキーじゃん”なのだから。

バラバラな少年たちの“声”が一つの方向に向かっていくのを内心で苦笑しながら、愛は殊更にドライな表情を形作った。

元々嘘は苦手だ。
ブラフで相手を欺いたことなど一度もなかったが、平和裏にこの場を収めるには何とかやるしかない。
2人の少女から伝わる心のうねりが、無意識のうちにその決心をさせた。

「あなたたち、わたしらが何者か分かってて声掛けたの?…なわけないか。知ってたらそんな無謀なことするはずないもんね」

愛の落ち着き払った態度とその思わせぶりな言葉に、少年たちの外にも内にも明らかな動揺が見て取れた。
髪を染め、いくつもピアスをしているが、その顔はよく見れば皆まだまだ幼い。

彼らもある意味では自分たちと同じなのかもしれないと、愛はふと思う。
“一般社会”に溶け込むことができず、自分の居場所を探して孤独に彷徨っているのかもしれないと。


「ハァ?何言ってんのおねーさん。そっちこそ俺らが誰か分かってんのかよ」

せせら笑いながらすごむように言葉を返してきた一人の少年に、愛はただ静かに視線を注いだ。
言葉や態度とは裏腹に、それだけで少年の心が怯んだのを知った愛はそのままニコリと微笑む。

「知ってるよ。あなたは確かリョウマくんだったよね」

傍目にも分かるほどに少年の肩がビクリと動き、「なんで…」という掠れた呟きがその口から漏れる。

「なんだったらお家の場所も言ってあげよっか?……素敵なお庭があるきれいな白いお家の」

愛のその言葉に、少年は目を見開きながら言葉もなく後ずさった。
周りの少年もその尋常ならざる空気に中てられたのか、明らかに腰がひけ始めている。

「シュンジくん、ヒデオくん、タカヒロくん……あなたたちのこともちゃんと知ってるよ。そういう情報が入ってくる世界に住んでるから」

自分の名前を呼ばれるたび、ビクリとそれぞれの肩が動く。
この程度で狼狽してくれる相手だったことに安堵しながら、愛は微笑を消して意識的に低い声で言葉を継いだ。

「あんまり目立ったことしてるとどうなっても知らんよ?世の中にはあなたたちの知らない世界がまだまだあるってことを覚えといた方がいい」

その一言で、少年たちの意気が完全に削がれたのを愛は知った。
カタカタと震え始めている者さえいる。

一刻も早くこの場を立ち去りたいという“声”が頭いっぱいに満ちている少年たちに、愛は再び微笑む。

「じゃ、そろそろ帰りなさい。おやすみ」


――それが合図であったかのように、少年たちは声にならない声を上げながら、我先にもつれる足で走り去った。


    *    *    *

その後ろ姿を見送った愛は、「疲れた…」と微かに呟き大きな息を吐いた。

ブラフをかけるために意識的に収集した“声”が、今も頭の中に反響している気がする。
普段はできる限り“声”を遮断するように努めているため、久しぶりのその感覚が心身を疲弊させている。
とはいえ、何とか平和裏に事態を収拾できたことに愛は心底安堵していた。

「大丈夫やった?」

だが――ようやく2人の少女に向けた愛の笑顔は、次の瞬間強張った。
そこには、警戒心と怯えを露わにした2人の表情があった。

「あ、ち、ちがくて…その、いや、あーしは怪しいものとか全然そんなんやなくて…」

先ほどのブラフが少女たちにも悪印象を与えてしまったらしいと思い至った愛は、慌てて両手を振った。
愛のその様子に、長い黒髪の少女――さゆみの表情は微かに緩んだが、いまだナイフを手にしたままの少女――絵里の表情は変わらない。

――誰も信じられない
――信じちゃいけない

悲しく響いてくるその“声”に、愛は瞬時固まった。
同時に、先ほど自分が口にした言葉が彼女らを警戒させているわけではないのだということを悟る。

彼女らは…絵里とさゆみは、自分たち以外の全ての人間を信じていないのだ。
絵里とさゆみにとって世界にはお互いしか存在せず、その外から来る者は全てが警戒すべき相手なのだ――

「心配せんで。あーしは…わたしはあなたたちの敵じゃないよ。あなたたちが人とは違う“チカラ”のせいでこれまで……」

絵里とさゆみを安心させようと発したその言葉が完全に逆効果であったことを愛は知った。
首筋に走った鋭い痛みと共に――


「絵里っ!やめて!お願い!」
「離してさゆ!だって知られたんだよ!絵里とさゆの“能力”のこと…!」
「そうだけど…!だけど……っ!」
「さゆだって分かってるでしょ!おかしな“チカラ”を持ってることが知れ渡ったらどうなるかくらい!」

必死に言い争う絵里とさゆみを見ながら…そしてその“声”を聞きながら、愛は知らず涙を流していた。

命懸けでさゆみを守ろうと愛を攻撃した絵里の異質なチカラ――相手に自身の傷を共有させる能力は、絵里が歩んできたであろう日々を容易に想像させた。
自らの身を傷つけて発動するチカラは、同時にその心をもズタズタに引き裂いてきたことだろう。
絵里の中に広がる闇は、愛ですら息を飲まずにはいられないほどに深く、悲しかった。


いつの間にか絵里とさゆみが争いを止め、呆然とした視線を向けていることに気付き、愛は慌てて涙を拭った。

「ナイフを下ろして、絵里さん。あーしはあなたたちの敵やない」

そして再びその言葉を繰り返す。
愛の涙に中てられたかのように、絵里も今度はその言葉におとなしく従った。

「絵里……」

ホッとしたような表情を覗かせた後、さゆみは急いで絵里の首筋の傷に手を添えた。
幽かな淡紅色の光のようなものがその手から発されたと思った次の瞬間、絵里が自らの手でその身に刻んだ傷跡はきれいに消え去る。

「治癒能力……!」

愛を再び既視感が包む。
だが、さゆみのチカラは、あのとき見たあさ美のそれよりも明らかにさらに高いレベルにあると思われた。
それだけではなく、同じ治癒能力者でありながら何かが根本的に違っているような―――

「あの……」


恐る恐る発せられたその言葉が自分に向けられたものだとようやく気付き、愛は声の方に焦点を合わせた。

「傷を…治させてください」

若干及び腰ながらも毅然とした瞳でそう言うさゆみに、思わず微笑みが浮かぶ。
それと同時に、痛ましい思いが愛の心を締め付けた。

さゆみの持つ治癒能力はこの上なく優しいチカラだ。
ただ、「普通ではない」というだけで――
そして、ただそれだけの事実が、持ち主を苦しめてきたことは想像に難くない。

だが――それ以上に、さゆみ自身の心に溢れる優しさが恐らくさゆみを一番苦しめてきたことだろう。
目の前に傷ついた者がいれば、それを見過ごすことなどできないその優しさが―――

今だってそうだ。
さゆみが絵里を必死で止めたのは、絵里に傷ついてほしくなかったからということだけではない。
きっと誰も傷つけてほしくなかったのだ。
そしてきっと誰にも傷ついてほしくなかったのだ。
絵里にも、愛にも、あの少年たちにも。

「来てほしい、わたしたちと一緒に」

愛は、思わずそう言っていた。
愛の傷口に手を伸ばしかけていたさゆみと、いまだ警戒の色を残したままだった絵里の瞳が同時に見開かれる。


亀井絵里と道重さゆみ――2人の“世界”と外の“世界”を隔てていた壁は、このときを境に崩れ落ちようとしていた。


激しくも…不思議と心地よい、“共鳴”という名の心の揺れによって―――