(35)126 『砂漠に咲く花』

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夜中に、亀井絵里は一人、歩いていた。
しん、と静まり返ったその道にあるものは、薄暗く酷く頼りない街灯と、あとは夜の闇だけだ。若い女性が歩くには全く適していない。
昼間ならまだしも、この時間になると極端に人通りが減っている。
少し遠回りをすれば人通りがにぎやかで明かりに照らされた道もあるのだが、亀井絵里はこの道が好きだった。

都会の中で忘れ去られたように闇に包まれているこの空間にいると、自分が今、孤独だという事を実感できる。
仲間達の事を大切だと思うその気持ちと同質、同量の愛着を持って、己の中に棲むいっぴきの孤独を見つめていた。

足音が、静まり返った夜の闇に吸い込まれていく。
ふと、足音がやんだ。亀井絵里が歩を止めたのだ。
その目は、街灯の向こうに佇む一つの影を捉えていた。

―誰かいるのか?

こんな時間にこの道を通ろうと思う物好きがそういるとは思えない。
絵里が眉をひそめて闇を注視した瞬間、のそり、と影が動いた。
そのまま影は絵里に近づき、街灯の光が届くか届かないかの所で止まった。
影の目が、凝っと絵里を見つめている。
暗く、粘っこい視線だった。

変質者か何かだろうか。もしそうなら、絵里はその方がいいと思った。
ただの変質者ならば。
絵里は影の呼吸を外すように再び歩を進め、自然と影との距離が開くような足取りですれ違おうとする。

「こんな時間に出歩いちゃ危ねえぜ。お嬢ちゃん」

絵里が街灯の下に差しかかった頃、不意に影が言葉を放った。獣が唸るような低音の響きがあった。
普通の女性ならばたっぷりとドスの利いたその声だけで悲鳴を上げて逃げ出したくなるような声であったが、
亀井絵里は影に軽く一瞥をくれただけで、調子を変えずに歩き続ける。
心中はただ、面倒な事にならずに済むようにとの思いだけがあった。


「待ちなよ。ペイン・バッカー」

立ち止った。それは面倒な事に巻き込まれたという事を意味していた。
もし昼間であれば振り向いた絵里の顔から冷たいかなしみの色が窺えたのだが、都会の死角とも言えるこの闇の中では彼女の顔立ちすらはっきりとは見えない。

「その名前で、私を呼ぶのね」

ペイン・バッカー。痛みを返す者。
その身に受けた傷と同じ傷を他人にも与える“傷の共有”という特殊能力を持つ亀井絵里の事を、その異名で呼ぶ者達がいる。
世界を闇から牛耳ろうと目論み、強力な能力者を多数擁する組織。
その名を、ダークネスといった。

「ちょっと遊んで行かないか。リゾナンター」
「また今度にしてって言ったら、そうしてくれる?」
「俺は嬢ちゃんと違ってのんびり屋じゃないんでな。そうはいかねえよ」
「私がのんびり?心外ねえ」

言葉を交わしながら男はススッと後ずさり、街灯の光の中にその身を晒した。でかい、ゆうに2メートルはあるだろう。
闇の中に浮かび上がる男の巨体から、独特な臭気が立ち昇っている。
暴力を生業にしている者だけが放つ、ある種のにおい。それが、絵里を誘っている。
「こちらへ来い」と、「お前もこちら側の人間なのだろう?」と。

絵里はやや不機嫌そうに眉をひそめ、街灯の光へ歩み寄った。
つまり、誘いに乗った。
亀井絵里は決して暴力を生業にしている訳ではないが、たたかいの中に身を置く身である。
敵に挑まれて逃げる事はしない。彼女もまた、一人の戦士であるからだ。
男の頬に張り付いた笑みは、絵里のそういった気性を見抜いているかのようだった。

絵里が光のふちに足をかけた瞬間、ひゅん、と金属光が走った。
光は軽く傾けた絵里の頬を掠め、闇の中へ走り抜けていき、そして背後でカキン、という音を立てた。


「流石に、かわすか」
「危ないわねえ。いきなりナイフ投げつけるなんて」

緊張感を置き去りにしたような口調で男の目を見つめる絵里の頬に赤い線が走り、そこから血玉が浮き上がってくる。
ナイフが掠めた所が切れたのだ。ほんの浅い傷である。
そして同時に、男の頬にも絵里と全く同じ傷が走っていた。

「これが傷の共有って奴か…」

ぞくぞくするような声で男が呟いた。
もし、絵里がナイフを避けられずに、例えば目を貫かれていたとしたら、男の目も同じ傷を負う事になる。
一対一のたたかいでは絵里の能力ほど厄介なものもない筈なのだが、男の頬に貼り付いた笑みから窺える物は余裕の色のみであった。

「こりゃあ面倒くせえ能力だな…」
「私も面倒は嫌いなのよね。出来ればこのまま引き下がってくれると嬉しいんだけど」
「俺は気にしねえよ」

そう言って、男は頬から流れる血を拭った。
街灯に照らされた男の顔を見つめる絵里の目が、すっと細められた。

「なるほどねえ…あなたが私の前に現れた理由が分かった」

男の頬の傷が、消えていた。

「超再生っていうのさ。見ての通り、俺はどんなダメージからでも即座に回復できるぜ」
「面倒な事になった」
「そいつは面倒とは言わねェ、絶望と言うんだぜ。ペイン・バッカー」
「その名前で呼ばないでもらえる?」

二人は同時に構えた。
街灯に照らされた半径2~3メートル程の空間が、そのたたかいのリングとなった。
街灯を挟んで、男は壁を左に、絵里は壁を右手に、向かい合って立つ。


対峙する二人の体格の差が著しい。少なく見積もっても身長は40センチ、体重は70キロは違うだろう。無論、男の方が大きい。
男は空手とボクシングを混ぜたようなファイティングポーズをとり、細かくリズムを刻んでいる。
自己流ではあるのだろうが、実戦の中で磨き上げてきた事がその構えで分かる。
まるで巨大な岩が脈動しているような、異様な迫力があった。

一方の亀井絵里の構えは独特であった。
腰を深く落とし、両手を前に突き出して軽く肘を曲げている。見るからに受けを主眼に置いた構えだ。

「古武術かい」

今時実戦で古武術など、という嘲りの色があった。
古武術の神秘性など出る幕ではないとの含みが言葉の中に濃厚に含まれている。
たたかいを決めるのは圧倒的なパワーとスピード、つまり強靭な肉体こそが勝利を掴むのだという思想がこの男を支配していた。

「ひとつ言っておくけど、私は愛ちゃん程強くないし、ガキさんみたいに上手くあしらったりできないから」
「だから何だ」
「手加減出来ないわよ」

男の中に芽生えた凶暴な衝動が、たたかいの幕を開け放った。
絵里の顔面目がけて、男の巨大な靴の底が素っ飛んできた。
すうっと吸いこまれるように絵里は前に出る。ぶん、と空気が悲鳴を上げた。
絵里の髪が数本宙に舞う。紙一重の所で蹴りをかわしていた。
前蹴りを外した、と思った時には、絵里は男の懐に潜り込んでいた。

絵里の掌が男のみぞおちに触れた、次の瞬間、どんっ、という衝撃が男を貫いた。
男の巨体がバランスを失って後方へ倒れこむ。
寸剄という技だ。別名をワンインチパンチ。僅かな動作で強い打撃力を生む技で、修得にはかなりの訓練を必要とする。

倒れた男の顔面に、踵が降って来た。
地面を転がってそれを逃れ、距離をとり、体勢を立て直す。
街灯に照らされた絵里の顔は、透き通るように無表情であった。


「なかなかえげつない真似してくれんじゃねェか」

既に、男はダメージから回復している。
先程の絵里の寸剄がダメージを与える事を目的にしたものではなかったとはいえ、恐るべき回復力である。

「手加減出来ないって言ったでしょ?」

再び、絵里が構えをとった。先程と同じ受けを主眼に置いた構えだ。
ゆっくりとした呼吸を繰り返すその姿は、まるで風の様だった。
静止した風というものがもしあるのなら、この様なものかもしれない。

「死にぞこないが、いきがるんじゃねェ」

獰猛な臭気をふんだんに含ませた声で、男が言った。
“死にぞこない”とは、亀井絵里が抱える心臓の病の事を指している。
絵里の病は現代の医学では原因が掴めていない。つまり、不治であった。
幼い頃に発症したものだが、リゾナンターとダークネスのたたかいが激しさを増すにつれ、病状は加速的に進行している。
普通の人間であれば、こうして立っているのが不思議なほどであろう。

「私は後どれくらい生きられるか分からないから、やれる事はやってんのよ」
「どれくらいも何もよう、お前の命日は今日だぜ」

言い終わると同時に、男が地面を蹴った。シィッと鋭く息を吐きながら拳を繰り出す。
次の瞬間、正確に凄まじいスピードで絵里の顎を狙って放たれたその拳は、むなしく空を切っていた。
間髪いれずに放った左拳の一撃も当たらない。完全に絵里に見切られていた。

―病人の動きかよこれが!

「ちいっ」と男の舌打ちが聞こえた。焦れている。リゾナンター亀井絵里がここまで“出来る”とは全く予想外だったのだろう。
男の焦燥に、狙い澄まされた絵里の右足が跳ね上がった。
ほれぼれするような軌道を描いて、男の顎を捉える。
夜の闇に、恐るべき重量感を伴った打撃音が響いた。


―!

男の視界が霞む。丸太でぶん殴られたかと思うような衝撃があった。
がくっと膝が折れる。
これが病人の繰り出した蹴りだと、誰が信じられようか。

「伊達にリゾナンターやってる訳じゃないのよ」

霞む視界に、亀井絵里のスニーカーの底が映る。
視界が黒く染まると同時に、再度、衝撃が男の顔面を貫いた。
男の首が異様な角度に折れ曲がり、そのまま地面に崩れ落ちる。

絵里は、顔面から大量の血を流しながら昏倒している男から目を逸らし、深く息を吐いた。
足の裏に、肉の砕ける嫌な感覚がこびりついている。
靴底を地面にこすりつけ、血を拭うと絵里は踵を返し再び夜の闇を歩き――

「人間の蹴りじゃねえなァ…まるで化け物だぜ」

地の底から響くような声が、絵里の足を止めた。

「驚いた…まだ立ち上がれるの?まるでゾンビね」

絵里の蹴りをまともに食らえば、常人なら軽く一月は病院のベッドで流動食の世話になる破目に陥る。
しかし、この男の超再生能力は絵里の想像を凌駕していた。
街灯に照らされた男の顔の傷がみるみるふさがっていく。

「どうやら俺よりお前の方が大分強えなァ…たった九人の小娘に組織も手こずる訳だぜ」
「私の方があなたより強いって分かってもらえたんならそれでいいわ。これ以上痛い思いする事ないし」

男はべっ、と地面に血を吐き捨て再び構えを取った。まだ続ける、という意思表示であろう。
嘆息して、亀井絵里も再び構えを取る。


「痛い目に遭うのが趣味みたいね」
「こっからはよう、我慢比べと行こうぜ」
「我慢?別に我慢なんかしてないけど」

唇に薄い笑みを浮かべて、男は芝居がかった仕草で鼻をひくつかせた。

「汗の匂いがするなァ…お嬢ちゃんの汗の匂いかなァ…」

うっすらと亀井絵里の全身を汗が包みこんでいる。それを嗅がれたのだ。
何かを汚された様な、生理的な嫌悪感が絵里の眉をひそめさせる。

「鼻が良いのね。犬みたい」
「疲れてきてんじゃねえのか?リゾナンターさんよォ!」

男が疾った。弾丸のように拳をぶっ放す。
拳の軌道は読めている。かわせる。

―かわしてまた蹴りを…
ちっ
―かすった?

絵里の左のまぶたに熱が走る。
男の攻撃は読めてはいたが、肉体の反応が一瞬遅れたのだ。

「シャァ!」

男の膝が絵里のみぞおちへ伸びあがってくる。
速い。このタイミングでかわすのは難しい。
膝と腹の間に両手を差し込んでガードする。
膝がぶち当たった衝撃が絵里の体を貫き、ガードごと空中に浮かされた。

―!


宙に浮いた絵里めがけて、間髪入れずに渾身の右拳が走る。

「ちいい!」

絵里は咄嗟に空中で身を翻し右拳の一撃をやりすごす。

―かわしやがった!?

絵里は、鼻先を走り抜けていった右腕に、スルスルとつる植物のように四肢を絡みつけた。
みしり、と男の肘が軋んだ。そのまま体重をかけて地面に落下する。
背筋が冷たくなるような、鈍い音が響いた。

「ぐうう!」

男が発する苦悶の声を聞きながら、絵里は立ち上がって男を見つめる。
男の肘が逆方向に曲がっていた。
絵里が空中で関節を極め、地面に落下するショックを利用して折ったのだ。
男は、苦痛に歪んだ唇を吊り上げ、強引に笑みを作った。

「普通なら…2回負けてるな…」
「やめるなら今のうちよ」
「でも、かすったなァ…俺のパンチが」

そう言って男は左手で折れた右腕を掴み、無理やり元のかたちに腕を戻した。
そして、右手で拳を作る。

「次は当たるんじゃねえか?」

絵里の心臓に鈍痛が走った。
男の意識を刈りとるのが先か、絵里の心臓が限界を迎えるのが先か。

我慢比べは、既に始まっていたのだ。


絵里の呼吸が、浅く、速くなってきている。
生命を賭したたたかいは、短時間で恐ろしく体力を消耗する。
体力の消耗はそのまま心臓への負担に直結し、それが限界を迎えるという事は、絵里の生命に取り返しのつかないダメージがあるという事だ。
つまりそれは、死をも意味する。

「お前の方が強いのに、追い詰められてんのはお前の方だなァ」

ぎらり、と獰猛なまなざしを放つ男の呼吸は、些かも乱れていない。無尽蔵のスタミナが肉の奥で蠢いているようだ。
しかし、この状況において尚、亀井絵里の表情には焦りや恐れといったものは現れていない。
ただ、ただ静かな顔をしていた。

「それによ…そろそろアレが効いてくる頃だぜ」

アレが何なのか、絵里には見当が付いていた。それのせいで男の拳を完全にかわせなかったのだ。

「さっきのナイフに何か塗ってたわね」
「ちょっとしたしびれ薬さ。大した量じゃねえから2~30分もすりゃ元通りだ」

先程絵里が誘いに乗った時、男が投げたナイフには体性運動神経を鈍らせる薬品が塗られていたのだ。
絵里の体内に入ったのはほんの微量である。運動神経を阻害されるといっても、コンマ一秒を満たすかどうか。
しかし、たたかいの刹那を削り合うこの状況では、コンマ一秒の損失は致命的といえる。

絵里がナイフを完全にかわさなったのは、傷の共有という能力を相手に知らしめるためだった。
出来る事なら男がこの能力にひるんで退いてくれればと思っていたからだ。
その絵里の心遣いを逆手に取られた格好になった。

「お前がちゃんとナイフをかわさねえってのは読めていた。勝負はそん時についてたんだよ」
「勝負がついてた?おかしな事言うわね」
「強がりはよしな…今のお前は翼をもがれた鳥みたいなもんだぜ」
「…」
「このままお前を優しくなぶり殺しにする事も出来るがよ、俺は女をいたぶる趣味はねえんだ」
「意外と紳士なのね。人は見かけによらないって言うけど」


男は無言でズボンの後ポケットから、手のひらに収まる大きさの棒を取りだした。
街灯の明かりを鈍く反射している。見ると、それは金属製の注射器だった。

「苦しまずに死ねる毒だ。致死量のたっぷり5倍はある。お前の能力は毒までは共有できねえんだろ」
「ねえ…やめるなら今のうちよ?」
「大人しくしてりゃ、すぐ終わる」
「あなた、分かってないわ」

一呼吸おいて、絵里は言葉を続ける。
静かではあるが、強い意志が込められた口調だった。

「勝負はまだついていない。あなたの負けか、あなたが退くか、どちらかよ」
「何言ってやがる」
「私の負けという選択肢は無いと言っているの。私の能力にあなたはきっと耐えられないから」
「お前目ん玉どっかに落っことしてきたのか?俺の超再生はお前の傷の共有の上をいってるだろうが」
「そう、あなたの超再生は不自然に強すぎる。さゆの治癒でももっと時間がかかるのよ?薬物で強化されてるんでしょ」
「俺みてえなのがのし上がるにゃ、そうするしかねえんだよ」
「聞こえるわ、あなたの命の悲鳴が。能力と引き換えにされた命の悲鳴が」

そこまで言って、絵里は男の目を凝っと見つめた。
そのまなざしには、かなしみと、憐れみの光があった。

「別の生き方を探して、今ならまだ間に合うから」
「お前によ…俺の何が分かるんだよ」
「分からないわよ、あなたの事知らないもの。私が言ってるのはあなたの“これまで”じゃないの。“これから”の話をしてるの」
「うるせえ!」

突風のような蹴りが絵里を襲った。
咄嗟に防いだ左腕ごと吹き飛ばされ、壁に叩きつけられ、そして地面に転がされた。

「くっ!」


左腕に激痛が走る。

「腕にひびがいったなァ…我ながらいい蹴りだぜ」

左手が動かない。男の言った通りだった。
男にも絵里が食らったダメージと同じものが返されているのだが、男は既にダメージから立ち直っている。

「腕を折られて地面に這いつくばってんのはお前だ。とっとと諦めろよ」
「分かってないのはあなたの方。あなたにこの荷は背負えない」
「お嬢ちゃんよう、お前は強かった。いい戦士だったよ。心臓の病気さえなけりゃあなあ」

倒れている絵里に向かって男が歩みよる。

「それ以上近づいたら“傷の共有”を使う、やめるなら今のうちよ。いい?これで3回警告したわ。4回目は無い」
「続きはあの世でほざきな」

男は絵里の傍に立って、注射器を構えた。

「…あなたの死は、せめて私が覚えていよう」

絵里は、自分の胸に右手を当て、意識を集中した。
そして、どんっ、と胸を突いた。
同時に男の心臓を、何かが貫いていった。決定的な、何か。
男の膝が崩れ落ちる。とても立っていられなかった。

「――!な、何をした…?」

先程男に当てた寸剄。絵里はそれをごく弱い力で自分の心臓に当てたのだ。

「傷の共有」
「傷の…!?」


男の言葉は声になっていない。声が絞りだせないほどの苦痛が、男を襲っている。
絵里は立ち上がって、言った。

「私の傷の共有はね、体の傷ともう一つ、共有できる傷があるの。私の心臓の病気よ」

言うなれば、命の傷。
絵里の病がもたらす苦痛と同じものが、男の心臓に牙を突き立てる。
それが、リゾナンター亀井絵里の能力であった。
彼女の命を蝕むいっぴきの孤独が、彼女の最大の刃。

その絵里の言葉が男には届いているのか、どうか。
男は地面に這いつくばり、苦悶の呻きを上げ続けていた。

―か、乾く…!命が…俺の…枯れる…!

圧倒的な絶望が、男を飲みこんでいく。
男の肉体と能力は組織にも類を見ない程強靭であったが、その反動として、その生命はあまりにも脆弱だった。

―まるで、砂漠…

まるで心臓を砂漠に打ち捨てられたような、名状し難い孤独の苦痛が男を苛んでいる。
死という暗黒が口を開けて己を飲みこもうとしている。男にはそう感じられた。

―し、信じられねえ…何で…何故だ…?

男を見つめる絵里の瞳は、静謐な闇色を湛えている。
亀井絵里は生命の砂漠で一人、佇んでいる。

―何故こいつは立っていられる?こんなものを抱えて何で生きてられるんだ?


この地上に、亀井絵里の孤独を本当の意味で共有している者がいるとすれば、道重さゆみでも、高橋愛でもない。
絵里の生命を蝕み続ける病を体験しているこの男こそが、絵里の真の理解者であった。
ごく短い期間の理解者。人が生を受け死へ至るその旅路を、ほんの少しだけ共に歩く者。

―強ええんだなァ…あんたの命は…

苦痛の中で男に芽生えた感情は二つ。
絶望と、ある種の感動だった。
恐るべき死の暗黒に蝕まれながら、決して輝きを失う事のない生命があるという事。
その生命の持ち主が今、目の前にいるという感動。

男は最後の力を振り絞って、言葉を紡ぎ出した。

「俺を殺すのは…お前じゃねえよ…」

手にした注射器を、致死量を遥かに超える毒を、男は自分の胸に突き立てた。
それは、単に苦痛から逃れるためだったのか。
それとも、死に至る病という荷を背負って生きる亀井絵里に、これ以上余計な物を背負わせたくない、というある種の優しさのためか。
確かめる術はない。



沈黙が訪れた。

しばらくの間、絵里は事切れた男の姿を無言で見つめていた。
もし、街灯に照らされた絵里の表情を見た者がいるとすれば、きっとその凄絶な美しさに息をのむに違いない。
誰よりも生の壮絶を知り、誰よりも死の甘美を知る。
だからこそ彼女は、誰よりも命に対して真摯でありうる。
亀井絵里を包む美しさは、その生と死の色彩がもたらすものなのかもしれない。


そして、彼女は踵を返し、歩き出した。
夜の闇の沈黙に、足音が吸いこまれていく。
一歩、そしてまた一歩と、亀井絵里は歩を進めていく。

忌まわしくも愛おしい、いっぴきの孤独と共に。