(36)472 『Innocent wild“BEAST”』

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「いいの?そんな勝手なことして」

微かな不快感を抱きながら、紺野あさ美は、携帯電話から耳を離した白衣の女の背中に声を掛けた。

「あらら、聞かれてたんだ。できれば上の人には黙っててくれると嬉しいな」

振り返った白衣の女は、大仰に肩を竦めながら稚気と愛嬌の覗く笑みを浮かべ、言葉を継ぐ。

「だってさ、あの“獣人族”の生き残りかもしれないんだよ?これが確かめないでいられますかって。同じ研究者ならこの気持ち分かるっしょ?」
「………どうだろうね。まあどちらにしろ別に誰に言う気もないよ。面倒ゴトには関わりたくないから」
「さっすがDr.マルシェさんは話が分かるねー」

あさ美の肩を叩きながら、白衣の女は豪快に笑った。

「そもそも“生き残り”がいるというのは確かな情報なの?」

白衣の女の手の中の携帯電話を一瞥し、あさ美は無表情にそう訊ねた。
先ほど、その携帯電話によって部下と思しき相手に伝えられていた指示の内容が脳裏に過ぎり、再び微かな不快感が胸に滲む。

「“魔女”がそう言ってたらしいよ。『“あのとき”女の子を一人取り逃がした』って。これが年齢的にもバッチリ合うんだよね」
「ふーん。ま、どうでもいいけどあんまり派手なことしてると後で痛い目見るよ」
「これはこれはご忠告感謝致します、Dr.マルシェ殿」

わざとらしく深々と頭を下げる白衣の女に黙って背を向け、あさ美は自らの研究室へと向かった。

《何か、取り返しのつかない事態の端緒となるような気がしてならない》

そんな自分らしからぬ、根拠のない漠然とした胸騒ぎのようなものに捉われながら―――

    *    *    *


「あ、久住小春だー」

喫茶「リゾナント」に響いた亀井絵里の声に、店内の全員の視線がその手の中へと注がれた。

それらの視線に向けて、絵里はテレビ番組を映し出している自らの携帯電話を「ほらほら」と掲げてみせる。
その言葉どおり、小さい画面の中には笑顔の久住小春がおり、スピーカーからは明るい声が響いていた。

「絵里も会ってみたかったなー。みんなだけずるいよー。しかも絵里のことほったらかしにしてさ」

そう言いながら唇を尖らせる絵里に、カウンターの向こう側から高橋愛と田中れいなが口々に言い訳混じりの「ごめん」の声を上げる。

「仕方ないよ絵里。れいな本当に大ケガしてたんだよ。それにどっちにしろ絵里はもう寝てたんでしょ?」
「寝ながら待ってたんだもん!絵里ほんとに淋しかったんだからぁー」

駄々をこねる絵里の頭をなだめるようによしよしと撫でると、道重さゆみは反対側に視線を移した。

「でもあのときはほんとびっくりしたよね、ガキさん」
「え?…ああ、ほんとだよもう。心臓に悪いったらないよまったく」

同意を求めるさゆみの問い掛けに、カウンター席の新垣里沙がやれやれといった体で大げさに頷く。

「愛ちゃんは何言ってるかよく分かんないわ、ここに連れ戻されたられいながケガしてるわ、何故か久住小春ちゃんがいるわ……」
「ガキさんおもしろリアクションで二度見しとったけんね。『く、久住小春ぅ?』とか言って」

そのときの動作を真似ながらそう言うれいなに、里沙はやや顔を赤らめながら人差し指を突きつけた。

「あんたらがびっくりさせるからでしょうが!しかも私を呼んどいて肝心のさゆは呼んでないとか言うし!」
「だってテンパッちゃってて…とりあえずガキさん呼ばなーってそれしか頭になくて…」
「とりあえずでわたしを頼られても困るんですけど」

弁解する愛にそう言い返した里沙は、自分のその言葉に複雑な感情を喚起された。


わたしを頼られても困る――そう、困るのだ。
自分は“仲間”ではないのだから。

だけど――――

あの日、れいながケガをしたことを知ったとき、里沙は胃が締め付けられるような気持ちを自覚せざるをえなかった。
しかもあの後藤真希と対峙したと聞かされたときには、さらに背筋が冷える感覚をも。

あの日のことについて、自分は“組織”から何も聞かされていなかった。
…いや、状況から考えて後藤と愛たちの対峙の予定が元々なかったのは間違いない。
何故あのような事態になってしまったのかは分からないが、不幸な偶然というやつだったのだろう。

それでも――どこか愛とれいなに後ろめたい思いを抱いてしまっている自分がいた。
2人が…いや、小春を入れて3人が遭遇した受難の責任の一端が、自分にもあるような錯覚にとらわれて。

無論、負うべき事柄など実際には何一つない。
それ以前に、自責の念にかられる理由すらないのだ。
相手は“監視対象”でしかないのだから―――

れいなは、数箇所の骨にヒビが入っていたものの幸いにして命に別状はなく、ケガ自体もさゆみの治癒能力によりすぐに完治した。
そのことに、隠し切れない安堵の気持ちを抱いている自分への戸惑いと戒め。
だがそれと同時に、小春のことやさゆみの治癒能力に関するデータを“組織”に報告しなければならないと冷静に考えている自分への安心と……微かな嫌悪―――

「でもガキさんはおかげで小春ちゃんに会えたんだからいいじゃん。絵里なんか一人で淋しく病室でさー」
「絵里、しつこい。愛ちゃんとれいなは大変だったんだから仕方ないの」
「ほんまごめんなー絵里。だけど小春に会う機会は近いうちに絶対またあるから」
「ぶっちゃけ会わん方がいいとやけどね。絶対イメージぶっ壊れるけん覚悟しとかんと」

入り混じり、揺れ動く感情を抑えつける里沙をよそに、「リゾナント」には賑やかな声が響いている。

その喧騒や温かさと決別するように――もしくはそこから逃げ出すように――里沙はカウンター席から腰を上げた。


    *    *    *

「あ、帰るん?ガキさん」

椅子から降り、カバンを手に取った里沙に、愛は視線を向けた。

「うん、明日も早いから」

そう短く答えた里沙は、飛び交う「おやすみー」の挨拶に同じ言葉を返しながら出口に向かう。
その背中がドアの向こうに消えるまで見送った後、愛は背後を振り返った。

「れいな、『CLOSED』の札かけてくるね。…で、ちょっとだけ時間かかるかも。あ、ほんとちょっとだから」
「うん?別にいいっちゃけど…何で時間かかると?」

首を傾げるれいなに、絵里が訳知り顔で首を振る。

「まったくれいなはデリカシーがないなぁ。愛する人と2人きりでおやすみの挨拶がしたいってことに決まってるじゃん」
「はぁ?愛する人ってなん?いきなり何の話をしとーと?」
「だからぁ、ガキさんだよガキさん。追いかけていってガキさんにおやすみのキスがしたいんだよ愛ちゃんは」
「キ…キスって…!?やけど……ええっ!?」
「もう、絵里!れいなをからかわないの。ほら愛ちゃん、早く行かないとキリがないよ」

さゆみのその言葉に「じゃ、ちょっとごめん」と苦笑すると、愛は『CLOSED』の札を持ち扉に向かった。

扉をくぐると同時に、ひんやりとした夜気が体を包む。
闇をわずかに照らす街灯の下に先ほど見送った里沙の背中を認めて、愛は小さく息を吐いた。
『CLOSED』の札をドアに掛けると、その背中に向かって大声で呼びかける。

「おーい、ガキさーん」

そして、その声に驚いたように振り返る里沙のところへと、愛は一瞬で移動した。


「ちょ…何やってんの!」

ギョッとしたように後ずさり、慌ててあたりを見回す里沙に、愛は「人おらんの確認したから心配いらんてー」と笑った。

「だから心臓に悪いことはやめてってば、ほんと。で…どうしたの?わざわざ追っかけてくるなんて」
「え?ああ、うん……いや、特別な用事があるわけでもなかったんやけど……」

思わず追いかけてきたものの、何を話すとも特に考えていなかった愛は気まずげに言いよどむ。
そんな愛に「何それー」と呆れたように返す里沙の表情には、先ほど見送った背中と同じように、微かな“孤独”がちらついていた。

「その……さ、ガキさん」
「ん?」
「ガキさんもさ、あーしらのこと頼ってくれてええんやからね」

愛が思わず口にしたその言葉に、里沙は意表を突かれたように口をポカンと開けた。
数瞬の間を置いて、その表情は“孤独”のちらつく笑顔に変わる。

「もー、急に何言ってんのさ。ほんとどうしちゃったの?」
「あ、いや、なんかいつも頼ってばっかりで申し訳ないなって」
「何?さっき言ったこと気にしてんの?」
「そういうわけじゃないけど……なあガキさん。明日も、来る?」

微かな不安を明るい声で覆い隠し、愛は唐突にそう訊ねた。

「なんだよそんなにわたしのことが好きかー?はいはい、来るよ。心配しないで」

愛と同じく何かを覆い隠しているような声で、里沙は呆れたように笑い返してくる。

「うん。…じゃ、また明日――」

そう言いかけた愛は突然途中で言葉を止め、笑顔を消した視線を虚空に泳がせた。


「どうしたの?もしかして……また“声”が?」

愛と同様に笑顔の消えた表情で、里沙がやや緊張をはらんだ声を向けてくる。
その顔に視線を戻した愛は小さく頷くと、申し訳なさそうな顔を作った。

「ガキさん、ごめん」
「はいはい、店に戻ってあの子らに伝えてくればいいんでしょ」
「うん、ごめんな」
「そんなの気にしなくていいから。それより……気をつけてね。危険なことはしないでよ」
「…うん、大丈夫。ありがとガキさん」

里沙に笑顔を向けながら、愛は“声”のする方へと“飛”んだ―――


    *    *    *


“飛”んだ先――愛が目にしたのは、闇の中に蕭然と立つ無機質なコンクリートのビルだった。
一目見て廃墟だと分かる荒廃したその様は、不気味さと同時にどことなく哀切の色を帯びている。
ビルの中から聞こえる“声”が持つやるせなく切ない響きは、その印象をさらに強めていた。

小さく息を吐き、愛は再び光の粒子となる。
その光が再び愛の形を取ったのは、廃墟となったビルのその一室だった。

元々荒れていたと思われるその部屋は、さらについ今しがた新たに無残に荒らされた形跡を残していた。
割れて散らばる窓ガラス、粉々の木片、床や壁に飛び散る血痕、手足をおかしな方向に捻じ曲げられてうずくまる男達。
廃墟にも関わらず人口密度が高く、つい先ほどまでおそらく賑やかであったであろうその部屋は、今は廃墟に相応しく静まり返っていた。

だが、その衝撃的な光景は愛にとって背景でしかなかった。
愛の視線は静寂と惨状の中、ただ一つ動く白い姿態に吸い寄せられていた。
胸を締め付けるような、それでいてどこか安心するような“声”を発するその女性へと―――


気配を感じたらしく、女性は愛の立つ部屋の入り口を振り返った。
白い裸身を申し訳程度の布きれで隠したその姿は、直前に何があったのかを類推させ、瞬時、愛は胸を痛める。

だが次の瞬間――自分に真っ直ぐに向けられたその瞳の透き通るような純真さに、愛は言葉を忘れて立ち尽くした。
その瞳から流れ込んでくるかのような、淋しくも温かい“声”を聞きながら―――


「ナニカ、キルモノ、ナイデスカ」


悠久とも思える一瞬の後、先に言葉を発したのは女性の方だった。
たった今逢ったばかりの愛に対し、たどたどしくも揺るぎない信頼を湛えた声と瞳で。


――そして愛は知った。

女性――李純の負った哀しい運命と、それが故に歩まざるをえなかったこれまでの道のりの苛酷さを。
それにも関わらず、決して失われることなく純の中に在り続ける純真さと慈愛の心を。


そしてそれは、“共鳴”という名の絆が、生まれや言葉を越えて2人を……“仲間”たちを繋いだ瞬間でもあった―――