(38)033 『マーブル模様の空が見たもの』

※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。



微かに振動する四角い窓の中で、淡いパステルブルーの空とミルキーホワイト雲が混ざり合い、綺麗なマーブル模様を描き出している。

――なのに、何でグレーのスタンプなんて捺しちゃったんだろ

マーブル模様の空の中、それを台無しにするかのように点々と捺された重い灰色の雲(スタンプ)。
それらと同様にどことなく重苦しい気分で、久住小春は小さくため息を吐いた。
重たい雲と同じ色のその吐息は窓ガラスの上で白く変わり、視界をぼやけさせる。
そのことがまたさらに小春の心を重くさせた。

「あの……」

そのとき、不意にかけられた遠慮がちな声に小春は振り返った。

「あの、あの、小春ちゃん…だよね?」

動かした視線の先にあったのは、必死の表情を浮かべた一人の幼い少女だった。

「うん、そうだよー。だけど…ナイショにしてね」

即座に「営業スマイル」を浮かべ、小春は立てた人差し指を口に当てながらいたずらっぽくウインクする。
本物の久住小春だと知って一瞬はしゃぎかけた少女は、小春のその言葉に慌ててうなずきながら口を抑えた。
そんな少女の様子に、小春の頬に自然な笑みが浮かぶ。

「小春のファンなの?」

自分の隣に座らせながら、小春は少女に尋ねた。

「うんっ!かわいいしね、きれいだしね、歌もお芝居もとっても上手だしね、それにいっつも元気だから大好き!」
「そっかー!小春すっごく嬉しいなー。ありがとー」

キラキラ輝く真っ直ぐな少女の瞳が、くすぐったさとともにじんわりと小春の心を温める。


「そうだ。お名前は何て言うの?」
「ミクだよ。今からおばあちゃんのところに届け物を持っていくの」
「へぇ~、…ミクちゃん一人で?」

今さらのように、小春はミクの保護者らしき姿が周囲にないことに気付いた。
平日の中途半端な時間帯のバス内は、乗客の数もまばらだ。
小春とミクの他には、前の方に数人、そしてすぐ後ろの最後列に1人が座っているだけだった。

「うん。お母さんは今日もお仕事でいないから仕方ないんだ」
「そっかー。でもえらいね、一人でお使いができて」
「だってもうすぐ2年生だもん。それくらいできるよ」

頬を膨らませて胸を張るミクに「ごめんごめん」と笑って両手を合わせながら、小春は微かな胸の痛みを覚えていた。
事情は人それぞれであるし仕方がないというのは百も承知だが、親の都合で淋しい思いをしている子どもを見るのはやはりやりきれない。
おそらく父親はいないのであろうミクが、孤独と肩を並べて日々を送っていることは想像に難くない。
誰よりも孤独の辛さを知っている小春にとって、「どうってことない」というミクの表情はかえって痛ましかった。

「ねえ、小春ちゃん…何かつらいことがあったの?」
「………どうして?」

ふと表情を曇らせてそう尋ねるミクに、小春は一瞬言葉を失った。

「だって……さっきも何だかさみしそうな顔でお外見てたし、今も……」

ミクのその言葉に、小春は衝撃を受けた。
まさか自分がミクに心配される立場であるとは想定もしていなかったし、何より――

「そっかー、小春そんな淋しそうな顔してた?」
「うん、してたよ。小春ちゃんでもやっぱりさみしいことあるんだね」

カメラの前でないとはいえ、ファンの子どもの前でそんな表情をしてしまっていた自分が情けなかった。


心配そうなミクの表情から憂いを取り除くべく、小春が言葉を継ごうとしたときにそれは起こった。

直前に停まった停留所から乗りこんだ一人の男。
明らかに不審な雰囲気と挙動のその男は、バスが走り出すと同時に運転手の元に向かった。

どことなく不穏な空気を感じた小春の視線がそちらに向けられるのとほぼ同時に、バス内に男の大声が響いた。

「おい運転手!バスを止めんじゃねーぞ!これからは俺の言うとおりに走れ!」

瞬時に張り詰める空気の中、小春は男の手に拳銃のようなものが握られ、それが運転手の頭に突きつけられているのを認めた。

(バスジャック…!)

思わず傍らのミクを抱き寄せるようにしながら、小春は唇を噛んだ。
唐突な事態への驚きと怯えが小さな体から伝わってくる。

「お前らも少しでも妙な動きしやがったらブッ殺すからな!ガキでも関係ねーぞ!」

乗客の方にも威嚇の視線を送る男に、ミクは小春にしがみつくようにして声にならない恐怖を露わにした。

「大丈夫、大丈夫だよミクちゃん。小春が守ってあげるから」

その体をしっかりと抱きしめながら、小春は安心させるようにミクの頭を何度も撫でる。

「だけど…あの人ピストル持ってるよ?撃たれちゃうよ」
「大丈夫。じっとしてたら大丈夫だから。それに、あいつは小春が絶対やっつけるよ」
「小春ちゃんが…?でも男の人だよ?ピストルも持ってるし勝てないよ」
「テレビでいつも悪者やっつけてるでしょ?強いんだよ小春」
「だって…あれはお芝居なんでしょ?あの人は本当の悪い人だよ?」
「あはは……賢いなあミクちゃんは。でも大丈夫。作戦があるんだ」
「さくせん…?」


今のところ、すぐさまこちらに危害を加えるような様子は見えないが、この先もそうである保証はどこにもない。
むしろ、粗暴で後先を考えなさそうな挙動からして、突然逆上する可能性のほうが高い。
ならば、ただおとなしくしているよりも、多少の危険を冒してでも早い段階で男を取り押さえた方がいいだろう。

そう判断した小春は、ミクを自分が座っていた窓側の席に移し、自身は通路側に移動する。

残念ながらミクの言うとおり、現実に起こっているこの状況をドラマのように解決するのは不可能だ。
だけど――
念写――小春には人とは違う特別な能力がある。
それを上手く利用すれば――

そっとカバンに手を入れ、携帯を操作する。

 ピリリリリ―― ピリリリリ―― ピリリリリ――

次の瞬間、車内に鋭い電子音が鳴り響いた。

前の乗客たちがビクリと肩を震わせ、バスジャック犯の方や音のする方へと視線を泳がせるようにするのが小春の視界に入る。
同時に、猛然とその音の方を向いた男が、次いでその血走った目を小春の方に向けた。

「てめえコラ!何やってんだ!」

手にした拳銃をこちらに向け、男が叫ぶ。
次いで、あたふたとカバンから携帯電話を取り出す小春を見て、男は運転手に「止めやがったらブッ殺すからな!」と再度凄み、小春の座る後方の席へと駆け寄ってきた。

「ガキ!電話に出んじゃねーぞ!ブッ殺されてーか!よこせコラ!」

言いながら、男はようやくカバンから取り出されたばかりの携帯を小春の手からもぎ取るようにして奪う。
続いてその携帯を操作しようと画面に目をやった男に混乱の表情が浮かんだ。

「…あん?」


何が起こったか分からず、男は思わず自分の右手の中にあるものを目の前に持ってきた。
そこには間違いなく威嚇道具である拳銃が握られている。
それを確認し、再び左手に目をやる。

そこにはつい今しがた目の前の少女から奪い取った携帯があるはずだった。
だが、男の目に映ったのは――やはり拳銃だった。
それも、右手のものとまったく同じ――

理解のできない現象に戸惑い、両手を目の前に持ってきたまま男は動きを止める。

「ヒッッ――!?」

――と思った次の瞬間、男は突然その両手を顔から遠ざけ、反射的に振り払った。

 ゴトッ― カコッ―

両手に握られていた拳銃と小春の携帯はしばらく宙を舞った後、床に落ちて小さく音を立てた。
床に転がるそれらから顔を引き攣らせるようにして後ずさる男を尻目に、小春は素早く席を立ち、床に落ちた拳銃を拾い上げる。

「なっ…?ど………おま……」

目を白黒させて小春を指差す男に拾った拳銃を突きつけながら、小春は他の乗客に向かって叫んだ。

「皆さん!今のうちに早くそいつを!」

だが、乗客たちは小春の声にも立ち上がる素振りを見せない。
焦れてもう一度声を発しようとしたとき、背後の乗客が立ち上がる気配を感じた小春は、微かな安堵とともにそちらを振り返った。

「―――っ!?」

しかし、そこに在ったのは小春が期待したものとはかけ離れた光景だった。


「あなた…そいつに何をしたの?催眠術か何か?」

そう言いながら、油断なく視線を動かす女。
最後部の座席に座っていたその女の手には拳銃が握られている。
男から取り上げたものでも、念写で拳銃に見せかけた小春の携帯電話でもない、新たな拳銃が。

(まさか…仲間……!?しまった……!)

バスジャック犯は一人ではなかったのだ。
それも、乗客に成りすまして事前に乗り込んで―――

あまり計画性の感じられない男の挙動に油断し、その可能性を考えてもいなかった自分に怒りを覚える。
おそらく主犯はあの男ではなくこの女だ。
そして―――

「“作戦”は失敗ね、勇ましいお嬢さん」

――その通りだ。

男の手の中の拳銃と携帯電話をサソリに“した”ところまでは小春の思い描いたシナリオ通りだった。
小春の目論見どおり、男は拳銃を放り出した。
だけど――

「妙な真似したら遠慮なく撃たせてもらうわよ?…隣のかわいいお友達をね」

自分ではなくミクの方に銃口を向ける女の狡猾さに、小春は唇をきつく噛んだ。
同じ手はこの女には使えない。
拳銃をサソリにしようがタランチュラにしようが、念写でそう見せているだけで、実際には女の指は引き金にかかっている。
ミクの安全を考えればそんなことはできるはずがなかった。

「このガキが!ふざけたマネしやがって!」


ようやく混乱から抜け出した男が、憤怒に歪ませた醜い形相で小春に歩み寄る。
男は小春の手の中の拳銃を乱暴に奪い返すと、もう一方の手で小春の髪の毛を鷲掴みにした。

「てめえ!ただで済むと思うなよ!ブッ殺してやる!」

いきり立ってそう言いながら近づけられた男の顔から僅かに顔をそむけ、小春はボソリと言葉を返す。

「――――ないで」
「あ?何だコラ!命乞いか?だったらもっとデケー声でしろよ!」

おとなしくなった小春を見て余裕が出た男は、嘲るような笑みを浮かべた。
だが、小春から返ってきた言葉は男が想像したものとは違っていた。

「『口を近づけないで』って言ってんの。あんた自分の息がどんだけ臭いか分かってんの?」

その言葉に、男は呆気に取られたような表情を浮かべた後、先ほどに倍して醜く顔を歪ませる。

――永遠とも思える一瞬だった。

運転手は、必死にバスを走らせながら密かに本社にSOSを出していた。
数人の乗客は、緊迫した空気に呑まれて息をすることもできずにいた。
ミクは、小春に迫った危険を感じ取って無意識の叫びを上げようとしていた。
女は、呆れと冷笑が相半ばした表情で成りゆきを静観していた。
小春は、歯を食いしばるようにして男を睨み返していた。

「――ブッ殺……」

男は、片手で小春の髪を掴んで持ち上げるようにしたまま、もう片方の手に握られた拳銃を小春の顔面に振り下ろそうとしていた。

そして――
そのすぐ後ろで、淡い光の粒子が何かを形作り始めていた。


悠久の一瞬の後、鈍い音とともに男の体がぐらりと揺れた。
小春の眼前にあった血走った目が一転白目を剥き、その醜悪さを際立たせる。
掴まれていた髪の毛が解放され、よろけるようにしながら小春が見たもの――

「愛…ちゃん…」

それは、かつて見たことのないほど厳しい表情を浮かべた高橋愛の姿だった。

「な…なんなの……!?」

崩れ落ちた男の後ろから突然現れた小さなその姿に、女は驚愕の表情を浮かべながら咄嗟に拳銃を向ける。
だがそのときには、その腕はいつの間にか隣にいた愛の手に掴まれ、しっかり握っていたはずの拳銃は影も形もなかった。
そして――女の記憶はそれを最後に途切れた。

   *    *    *

先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まり返ったバス車内。
時間が停止したかのような数秒の後、愛がゆっくりと小春の元に歩み寄った。

 パンッ――

次の瞬間、小春の頬が乾いた音を立てる。

言葉を発しようと開きかけた口をそのままに、小春は驚きに目を見開いた。
愛が自分に…いや、“仲間”に手を上げたことなど、今まで一度たりともなかったから。

「…何で小春が叩かれなきゃならないんですか」

一気に押し寄せる幾多の感情を必死に押さえ込みながら、小春は低くそう言った。

「…何でか分からんのか?」


同じようにそう低く返す愛の表情もまた、多くの感情を内包しているのが、小春にも手に取るように分かる。

「そんなの分かるわけないじゃないですか」

だが、小春はわざと視線を逸らすようにしながらぶっきらぼうにそう言い返した。
しばらくの沈黙の後、愛は静かに言葉を継ぐ。

「小春。あんたのやったことはただの無鉄砲や」
「あの状況ではあれが最善だと思ったんですから仕方ないじゃないですか」
「やけど小春のその行動のせいで、自分だけやなく他の人まで危険にさらされた」
「…ッッ…それは……だけど……」
「他に安全なやり方はいくらでもあったはずや。それ以前にもっと早くあーしに…」
「小春は一人で…自分の力だけで何とかしたかったんです!」

不意に感情が目と口から一度にあふれ出すのを感じながら、小春はもうそれを止めようとはしなかった。

「いつも…小春はいつも愛ちゃんや他の人に頼ってばっかりで…でも、いつかは絶対小春も一人で何とかしないといけないときが来るじゃないですか」
「小春……」
「誰かに頼ってばっかりじゃいつまでたっても自立できないから…!だから…!だから一人でも小春はできるんだってことを――」
「それは違うよ小春」

小春の言葉を優しく…しかしきっぱりと遮り、愛はハンカチをそっと手渡した。

「小春の気持ちはよく分かるよ。…ううん、たった今よく分かった。やけどな、小春。絶対に誰にも頼らんことが自立することとは違うよ」
「違う……?」
「確かに自分の力だけでなんとかしないかんときもあるかもしれん。でも、人は一人で生きてるわけやない。助けが必要なときは迷わず助けを求めればいい」

ハンカチを握り締めたまま言葉を失くす小春に、愛は話を続ける。

「何もかもを自分だけで抱え込むのは自立とは言わん。何より、本当の自分のことなんて自分だけでは絶対に分からんのやから」
「自分だけでは…分からない?」


呆然と愛の言葉を繰り返す小春に、愛は微笑みながらうなずく。

「そう。人は、他の人と関わることで成長していく。自分を知っていく。そして自分がどうなっていけばいいかを学んでいく」
「他の人と…関わることで……」
「それに……たとえどんなに離れたとしても、誰かと一度繋がった心は途切れない」

先ほど小春の頬を張った愛の掌が、今度は優しく小春の胸に押し当てられる。

「小春があーしに助けを求めるなら…あーしは必ず飛んでいく。いつでも。どんなに遠くにいても。だから小春、もっと自分を…大切にして?お願い」
「愛ちゃん……」

愛の手から流れ込んでくる温かい何かを感じながら、小春はゆっくりと頭を下げた。

「ごめんなさい。小春が間違ってた。…自立するって難しいね。やっぱ小春はまだまだだな」
「うむ、分かればよろしい」

わざとらしく勿体をつけてうなずく愛と視線が合った小春が思わず吹き出したとき―――愛すら予想しえなかった「それ」は起こった。

「おねえちゃんのバカーー!!」

すぐ近くの座席から放たれた叫びに、ビクリと肩を震わせながら愛と小春がやった視線の先には、悲痛な表情のミクの姿があった。

「小春ちゃんは悪くないもん!ミクを助けようとしてがんばってくれたんだもん!なのになんでたたくの?なんでおこるの?おねえちゃんきらい!あ~~ん………」
「あ、いや、あの、ち、ちがうんよ。うん、小春は…小春ちゃんは悪くないんやけど…その…そやなくて……」
「わるい、のは、あの男、の人、と女の、ひ、人だもん…。小、春ちゃんは、わ、わるくない、もん……」
「そ、そうなんよ。ミクちゃんの言う通りなんよ。あの、でもな、あの……あ~何て言うたらええんやろ……」

「助けが必要ならいつでも呼んでくださいねー。愛ちゃんのためなら小春いつでも駆けつけるっすよー」

ニヤニヤとそううそぶく小春の頭上のスピーカーから、緊急停止する旨を告げる運転手のアナウンスがミクの泣き声にかき消されながらも車内に響く。
路肩に寄って停止するバスを、マーブル模様の空と灰色の雲が、さしたる興味もなさそうにただ見下ろしていた。