(39)631 『坂の上の亀』

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「亀井さん、お誕生日――おめでとうございます」

そう、亀井絵里の墓前で呟いた同行者は、なんとなく照れくさいような顔をしていた。
12月の風が添えられたガーベラを撫でている。

「冷えますね、今日は。ガーベラには気の毒だったかも知れません。元々は温暖な地方の花ですから」

違う花にすれば良かったかもしれない。と私が言うと、同行者―エリソン・P・カーメイ氏は流暢な日本語で気を使って下さった。

「しかしながら、亀井絵里にガーベラは相応しい花かもしれません」
「何故です?」
「日本では、ガーベラの別名をアフリカセンボンヤリというらしいですから」

ひょっとすると、カーメイ氏はアフリカセンボンヤリを「アフリカ船、ぼんやり」という意味だと勘違いしているのかもしれない。
そう考えると、確かにぼんやりしたアフリカの船というのは何となくだがしっくり来る気がする。
実際は千本の槍と書くのだが訂正するのは何か気が引けて、私は話題を変える事にした。

「亀井絵里は病身だったと聞いていますが」

私がそう言うと、カーメイ氏はその哲学的な顔立ちをわずかに曇らせた。

「心臓に病を抱えていた事は確かなのですが、それがどの程度のものだったのか、よく分からないのです」
「よく、分からないのですか?」
「ええ、そこがリゾナン史の難しいところで」

資料によって食い違うところが大だという。
不治の病説。折り合いを付けていける程度の物説。既に完治した説。その他諸々の説が入り混じり、
亀井絵里研究に関してはアメリカ屈指と言われるカーメイ氏にもどれか一つを選択するのは困難な事らしい。


もっとも、この種の食い違いは亀井絵里の病に限った話ではなく、あらゆる事柄についても確認されていて、
多くのリゾナン史家の頭痛の原因ともなっている。

「一笑に付して下さって結構ですが…」

そう前置きを置いて、カーメイ氏は続けた。

「ひょっとすると、21世紀初頭の日本には平行世界があったのかもしれません」

言い終わった後、口元には笑みを浮かべてらっしゃったが、声には真剣な響きがあった。
パラレルワールド、確かに荒唐無稽な話ではあるが、そうすると多くの矛盾が解消される。
無理やりに一つの流れに纏めるのではなく、あるがままを受け入れる方が理に適っているのかもしれない。

「まあ、一種のファンタジーでしょうがね」

―それよりも、と言ってカーメイ氏は私に質問を投げかけてきた。

「ポケポケプーというのは、正確にはどういう意味なのでしょうか?」

ポケポケプー。あるいは、ぽけぽけぷうとも表記する。
亀井絵里の代名詞と言っても過言ではないが、米国人であるカーメイ氏にはその詳細なニュアンスが掴みづらいようだ。

「一般的には、ボケている様子を表すボケボケを柔らかくした表現だと言われていますが」
「それは私も聞き及んでいます。しかしそれだけでは亀井絵里を表現しきれてないように思うのです」

確かに、カーメイ氏の仰る通りであろう。


「意外かもしれませんが、亀井絵里以前にポケポケプーという日本語は存在しませんでした」
「では、誰がその言葉を作ったのですか」
「新垣里沙です」
「新垣里沙とは、あの新垣里沙の事ですか?」
「ええ、彼女が名付けたのです」

カーメイ氏には意外だったかも知れないが、
亀井絵里と同じくリゾナンターとして数奇な運命を生きた新垣里沙が、ポケポケプーの生みの親である。
新垣里沙の言語センスと言うのはかなりのもので、その他にも多くの名言を生んだのだが、ここでは置く。

「霧が晴れゆく思いがします」

カーメイ氏はやや興奮をはらんだ口調で言った。

「新垣里沙はどのような意図を持って、亀井絵里をポケポケプーと呼んだのでしょう」
「ここからは私見が混ざるのですが、おそらく温もりにあふれた様子を表すポカポカと関係があるのかもしれません」
「あの温和な人柄をよく表していますな」

まるで、亀井絵里に直に接したことがあるような様子で、カーメイ氏は頷いた。

「ではプーというのは?」
「プーは…」

私が考え込んでしまったのを気の毒に思われたのか、カーメイ氏は喫茶店にでも寄って話の続きをしようと提案して下さった。
ここへ来る途中で、洒落た喫茶店を見つけたらしい。

「ポカポカのコーヒーを飲みたい気分でもあります」

あるいは、こちらが本音だったのかもしれない。


喫茶店への坂道の途中で、不意にカーメイ氏が立ち止り、空を指さして言った。

「あれを見て下さい」

指の先、のぼってゆく坂の上の青い天に一朶の白い雲がかがやいていた。
その雲がどことなく亀のかたちに似ていないかと、カーメイ氏は言った。言われてみればそういう気もしないではない。
よほど気に入ったのか、カーメイ氏は亀型の雲を目指して小走りで坂をのぼっていく。

その背中の向こうの空に、一羽の鳥が円を描いた。
そういえば、亀井絵里は戦後、何を思ったか鷹匠になって諸国を回ったという伝説がある。
まあ、カーメイ氏に言わせれば一種のファンタジーに属するものなのかもしれないが。