(39)915 『パスワード』

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ICU-集中治療室-の中で酸素マスクをつけ、何本ものチューブを体に突き刺された仲間を見ているのは痛々しかった。
青白い顔でベッドに横たわる絵里からは全くといっていいほど覇気が伝わってこない。
電子音が一定のリズムで短い音を刻み、緑色の線が波打つ。
それだけが、今、彼女が生きているという証だった。

愛は拳を握る。無理はさせていないつもりだった。
それでも、絵里の体は確実に蝕まれていた。


―――― 蓄積された疲れが一気にでたんだろう。


医師がそういったとき、8人の表情は一段と険しくなる。
心当たりは、ありすぎるほどに、ある。


「山は越えたからもう心配いらないよ。
でも、もうちょっと絵里ちゃんには生活を考え直してもらう必要があるね。
場合によっては長期入院も免れない。分かってあげてくれるね、君たちなら」

初老を迎えた頃だろうか。白髪が多く混じった髪を後ろに撫でつけ優しい声で告げる。
もっと叱り付けてくれたらきっと決心はもっと早くについていたのに
長く彼女を見てきた医師だ。絵里の性格も、親のことも、育ってきた環境も、全部お見通しだ。
その優しさが、今は痛かった。

―――― 分かってあげてくれるね、君たちなら

鮮明に蘇る言葉
愛は一度固く目を閉じて、それから決心したように口を開いた。


「絵里に…リゾナンターを抜けてもらおうと思う…」

静かな廊下に愛の声だけが響く。
白いベッドの上で眠る絵里から誰も視線を外さなかった。
決断のときが来た。答えを出すのにそう時間は長くかからなかった。
他に方法がないかと唱えるものもいたが、絵里の性格上、一緒にいる限り一人で留守番していられるほど大人しくはない。
人の痛みを誰よりもわかる人間だ。仲間が傷つく姿を黙ってみていることなど出来るはずがない。

「さゆみは、それでいいと思う…もうこんな絵里の姿、見たくない」

涙を浮かべ訴えるさゆみの姿に、みな頷くしかなかった。

「ガキさん、ええか?」
「―――――……」
「ガキさん!」

里沙の喉が苦しそうに唾を飲み込んだ。
自分に言い聞かせるように、何度も何度も頷いた。


「リゾナンターの記憶を消して。さゆ以外のみんなの記憶を。出会ったあの日の記憶を。出会う前の生活に、絵里をもどして」

震えていた。でも、愛の目に涙は浮かんでいない。

「でもそれで、亀井さんは幸せなんやろか…」

愛佳の言うことは尤もだったが、愛の決断は揺ぎ無かった。
頭ではわかっている。でも、心が理解してくれないのだ。みながみな、葛藤していた。自分の心と戦っていた。

「だいじょうぶ。さゆみんがカメの傍にいてくれるでしょ?」

里沙が愛佳の頭を撫でる。さゆみは力強く、頷いて見せた。


「絵里を、死なせたくないんや」
「わかってます、分かってるんですけど。なんやよぉ、わからへん…
 高橋さん、もし、もしも何かのキッカケで亀井さんがリゾナントの事を思い出したら
 あの喫茶店でみんなと出会ったら、その時は一人のお客さんとして、友達として、迎え入れてあげていいんですよね?」

愛は何も言わず、愛佳を引き寄せた。
幼い泣き声が静かな廊下に響く。落ち着いて見えても、しっかりしていても
16歳はまだまだ子どもだ。崩れ落ちてしまいそうな体をしっかりと抱いた。

「じゃぁ、行くね」

里沙が目を瞑る。さゆみはその手を取った。そしてさゆみの手をれいなが、その手を小春が
ジュンジュン、それからリンリン、愛はリンリンの手をとり、愛佳ごといっしょに里沙に寄り添う。
里沙が絵里の意識下へもぐる。そして記憶を抜いた。『小さな喫茶店』ほんの少しのカケラを残して。


―――――― バイバイ、絵里…

さゆみに後を任せ、メンバーは次々と病院を後にする。
最後まで治療室の前から動こうとしないジュンジュンをれいなは引っ張るようにして連れ出した。
さゆみはみんなが出て行った後の廊下をしばらくの間ぼんやりと見つめていたが
自分を奮い立たせるように、頬を一度パチンと叩き、椅子に腰掛けた。
絵里の携帯を取り出す。そしてアドレス帳からメンバーの名前を抜いた。
それからメールと発着信履歴にデータフォルダ…次々に作業を進めていたが、ふとさゆみの手が止まる。

「…なにこれ…すごい量…」

フォトフォルダに収められてた写真の数々
さゆみはサムネイル表示された画面をスクロールしていく。
全部、リゾナントだった。全部、メンバーだった。


「いつの間にこんなに撮ってたの?」

不思議に思い一つ一つを開けて見たら、そこにカメラ目線で映るメンバーは少なく
一人一人が自由に過ごす、リゾナントの日常風景を撮った写真ばかりだった。

「バカ…これじゃ、盗撮だよ」

コーヒーを入れる愛の姿、接客しているれいなの横顔、手帳とにらめっこしている里沙のしかめっ面。
自分が映るテレビを指差しはしゃぐ小春の笑顔、愛佳の勉強している背中に
ジュンジュンがバナナをほおばった瞬間の幸せそうな顔、寒いギャグを披露した瞬間の生き生きとしたリンリン。
そして、絵里にもたれかかって眠る、さゆみの安心した寝顔。


消せなかった。これが絵里の全てだった。生きる、力だった。
会えない日にこの写真を一枚ずつ眺め、頬を綻ばせる絵里の顔が簡単に想像できる。
変な顔ーとバカにする絵里の顔が、可愛いねと褒めてくれる絵里の顔が

「えりぃ…」


―――――― もしも何かのキッカケで亀井さんがリゾナントの事を思い出したら…

愛佳の言葉が蘇る。
さゆみは素早い手つきで携帯を操作し、ユーザーフォルダのひとつをプライベートモードに設定し
絵里の知らないパスワードを打ち込んだ。
もしこれが解ける日が来たなら、それは間違いなく絵里の運命なのだろう。
命さえも惜しくない、運命なのだろう。
そうでなければいい、と思った。そして、そうであればいい、とも思った。

>リゾナント
パスワード OK?

絵里の記憶と思い出を全部詰込みボタンを押した。
いつかまた、その日が来ることを小さく祈って。