(26)419 『黒い羊(4)』

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コツコツと、里沙の部屋のドアをノックする音がする。

ドアを開けると、そこには愛とれいなが立っていた。二人とも、たった数時間しかたっていないにもかかわらず、少し痩せたようにも見えた。

「里沙ちゃん…、頼みがあるんや…」
「なに…?愛ちゃん…」

「あーしを、昔の…、『i914』と呼ばれていた頃の…、あーしに会わせて欲しいんや」
「…!? …どういう事…?」

「あーしは…、あの『ビジョン』の中で…、『光』の『能力』を使ってた…。あれは、あーしが…、大量破壊兵器…、『i914と呼ばれていた頃の『力』…」
「愛ちゃん…!そんな言い方はやめて…!」

「でも、今はあの『力』が欲しい…。みんなを守る為に!」

「それに…、あーしのなかにいる『あの子』も、そろそろ救ってあげなくちゃいかんと思うんや…」
「里沙ちゃん、誤解せんで?あーしは、『i914』になるんじゃない…『あの子』に、『高橋愛』になってもらうために行くんや…」

「…どうすればいいの…?」
「…『退行催眠』…。里沙ちゃんならできるやろ?」

「…できる…と思う…。でも、愛ちゃん、あたしも一緒に行くよ?…なにができるかはわからないけど…」
「ええよ。その方が心強い」


「れいなは…、そばにいてくれる?」
会話に入れず、心細そうな顔をしているれいなに、愛が訊く。
「れいなも…、なんもできんっちゃけど…、愛ちゃんのそばにいたい…。だから…、ずっと愛ちゃんのそばにおるけん!」
「うん…、田中っち、あたしといっしょに愛ちゃんのそばにいて。そして何かあったらあたしを助けて…」
「…うん」

『退行催眠』…。「年齢退行催眠」療法とは、子供の頃の記憶や体験を現在の意識の中に催眠によって強く蘇らせ、それを現在の大人の意識の中で再体験することにより、心的外傷等の解決の糸口を探すものである。

しかし、里沙の持つ『精神干渉』の力であれば、現在の意識そのものを潜在意識の中、記憶の海の中へ連れて行くことさえ可能だと思われた。

里沙は、ベッドに愛を寝かせると、横の椅子に座りその手を握った。横にはれいなが、文字通り『借りてきた猫』のように神妙な面持ちで座っている。
横になった愛が、『精神感応』者として、習慣的に常に張っている精神の障壁を解除し、全くの無防備となった。

(愛ちゃん…。無防備すぎるよ…こんなあたしに…)
里沙は自分を完全に信頼し、全てをゆだねる愛の姿に、ある種の感動とたまらない愛しささえ感じ、眼が潤むのを押さえられなかった。
「里沙ちゃん…?」
「…うん、大丈夫…。行くよ?」

そして、里沙は愛の『精神』の中へと入り込んだ。


愛の『顕在意識』と呼ばれる『現在の意識』を、『統合膜』と呼ばれる精神の障壁を越え、『潜在意識』の中にある幼児期の記憶の世界へと連れて行く。

そして、愛は今…、幼い日の自分…、『i914』と呼ばれていた頃の自分と会っていた。

それは4歳児までの愛の記憶。通常は幼児期の記憶は時と共に色褪せ、記憶の海の奥底へと沈んでいく。
しかし、愛のその記憶は色あせることなく、ひとつの人格を形成したまま…、可愛らしい少女の姿のままで、漆黒の闇の中に立っていた。

「おねえちゃんは、だあれ…?ここにはずっとだれもこなかったよ…?」
「…おねえちゃんはね…、大きくなったあなたなの」
「ええ~?なにそれ、ふっしぎ~!」
「あいちゃんが大きくなってくれれば、あたしといっしょになれるのよ」

「ふ~ん、でもねえ、あいちゃん、おおきくならないんだよ」
「どうして?大丈夫だよ、いっしょに大きくなろ?」
「おおきくなるあいちゃんは、もうどっかへいっちゃったの」
「ふ~ん、そうなんだ?じゃあ、あいちゃんも大きくなろうよ?」

人格分離…!里沙は気付いた。人は耐えられないほど辛い体験をすると、それを自身が創造した別人格に背負わせる事で、それから逃れようとする…。
幼少期に虐待を受けた人間に、多重人格症が発生しやすいというのは、それが原因ともいわれている。
「この子が背負わされているのは…?」

「いや!…あいちゃんもおおきくなろうとしたの…。でも、おおきくなると、こわいおじさんたちがでてくるの…」
「こわいおじさん?」
「…そうだよ…、こわいの…だからおおきくなれないの…」
「だいじょうぶだよ…おねえさんが追い払ってあげる。だから大きくなってみて?」


「ほんと?」
急に、少女の眼に大人びた光が宿る。今まさに、分離された愛の人格である少女が、4歳からの成長の道筋を追体験しようとしていた。

「あ…!だめだよ、ほら…でてきたよ…!」
少女が叫ぶ。
「…!!」
愛は息を呑んだ。

少女の背後の闇の中に、中年男性の虚ろな顔がボーッと浮かぶ。怯えているようにも、泣き叫んでいるかのようにも見える。
「これは…!?」

思い出した。ずっと『この子』の中に封印していた記憶を。
それは2歳の時…。はじめて『光』の『能力』で消した男の顔。命乞いをしていただろうか…?もうどこの誰かもわからない…。ただ“消した”事だけは覚えている…。その時の男の怯えた顔とともに…。

忘れていたのではない…。この子の中に閉じ込めていただけ。そして、この子は…、成長すると、自分のした事の意味に…、その『罪』の重さに気がついてしまう…。

だからこの子は成長をやめた。罪の意識のない、4歳児のままでいる事を選んだ。

「だいじょうぶだよ…。おねえさんがいるから…。もっとがんばって?」
「ほんと…?ほんとにだいじょうぶ…?」

虚空にまた一つの顔が浮かぶ。…ああ、そうだ…。2回目はあの男だった…。愛の心にまた重い罪の記憶が蘇る。


次々と、少女の背後の闇に、『i914』の力によって“消された”者たちのデスマスクが浮かぶ。
数十、数百を越えると、それはもはや顔かたちも不鮮明な、ただの虚ろな『死の仮面』となり、漆黒の闇を埋め尽くしてゆく。
しかし、それは紛れもなく『高橋愛』が“消した”人間たちへの罪の記憶として、愛の精神に刻まれていく。

「おねえちゃん…。こわいよ…。どんどんふえるよ…」
「…だいじょうぶ…!おねえちゃんがみんな連れて行くから…!」

愛は少女を強く抱きしめた。

「いけない…!!」
里沙が叫ぶ。もとより、“耐えられない”からこそ封印された『記憶』…。いきなり全てを受け止める事はあまりに危険だった。

しかし、次の瞬間、少女は光となって愛の中へと消えた。その顔には微かな笑みを浮かべていたように見えた。
闇に浮かんでいた無数のデスマスクも消え去り、愛は漆黒の闇の中で一人ひざまずいていた。

「愛…ちゃん…?」
大丈夫?と声をかけようとして、里沙は愛から…、後藤にも似た、闇のオーラがたちのぼるのを見た様な気がして、思わず息を呑んだ。

「大丈夫…。これであの子も救われたやろ…」
愛がゆっくりとたちあがる。
「愛ちゃん…!?」
「さあ、帰ろう…!正直…つらいわ…。ここまであの子の記憶が重い物とは、思わなかったわ…」
「うん…、愛ちゃん、ムチャしないでよ…」


里沙は愛を伴い、愛の精神の中、記憶の海を抜け、現実世界へと連れ戻す。
あの少女の消える瞬間の、微かな笑顔が里沙の心を暖かくしていた。

しかし、同時に、あの時愛からたちのぼったように見えた闇色のオーラが、里沙の心に小さな影を落としていた。