(26)831 『復讐と帰還(7) 少女の戦い』

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「さて、次はどっちがやる?」

薄暗い照明の中で、粛清人吉澤ひとみの冷たい美貌が、新垣里沙の視界を独占していた。
吉澤の足元にリンリンが気を失って倒れている。

「邪魔だな、これは」

吉澤はうつ伏せに倒れているリンリンの腹の下に足を潜り込ませ、ぶん、と足を振り上げた。
リンリンが宙を舞う。
足でリンリンを投げたのだ。人間離れした脚力である。
自分めがけて放り投げられたリンリンを見つめたまま、里沙はその場から動く事も出来ずにいた。

「新垣さん、どいて」

久住小春が空中でリンリンを受け止め、勢いを殺しながらその場にしゃがみ込んだ。

「大丈夫、息があります」

小春の言葉に里沙はうなずく事も出来ない。
取り巻く状況が異常すぎる。

―もし記憶を失っていなかったら、何とか出来る私なのだろうか?

里沙の思考がやり場のない思いで回転し、追い詰められていく。

「次はどっちだ、答えろ。新垣か?」
「私だ、私がやる」

吉澤の言葉に里沙が反応するより早く、小春が返答した。


「小春…」
「新垣さん、リンリンを看ていてください」
「うん…小春」
「大丈夫です。新垣さんは小春が守ります」
「でも」
「心配しなくていいです。ジュンジュンもきっとすぐに来ますから」

先程、念写能力でジュンジュンを自分の瞼の裏に念写したのだ。
ジュンジュンはこちらに向かっている。
ならば、彼女が来るまで時間を稼ぐのが自分の役目だ。

「らしくねえな、新垣。そんなのにやらせるつもりか?」
「黙れ。私が相手だ」

里沙が記憶を失ってたたかえないという事は、何が何でも伏せておかなければならない。
こちらがまだ一枚強力なカードを持っていると思わせるため、という駆け引きの部分も勿論あるが、
里沙に異常な執着を見せる粛清人が里沙が記憶喪失だと知った時、何を仕出かすか分からないからだ。

「来い」
「お前…足が震えてるぜ」
「え?」

見ると、確かに足が震えている。少女の肉体が、たたかいを拒否しようとしているのだろうか。

「うるさ――」

いきなり、みぞおちを蹴り上げられた。腹が爆発したかと思う程の衝撃があった。
ぶふっ、と息を漏らし体がくの字に折れ曲がる。瞬間、顔面に膝が叩き込まれた。


つん、とした痛みが鼻の奥に広がる。
鼻血が喉に流れ込み、溺れるような感覚。
脳が揺さぶられ、意識が朦朧とする。
視界に星がちかちかと瞬く。
涙が滲む。

そういった諸々が塊となって小春の鼻骨を突き抜ける。
首が上向きにはね上げられ、薄暗い倉庫の天井が見えた。

―あれ?何で私は天井を見てる?
バカ!次が来るぞ!
―!
防げ!

あわてて頭をガードした腕ごと吉澤の回し蹴りが小春を撃ち抜いた。
2メートルは吹っ飛ばされコンクリートの床に転がされる。

「素人が」

吐き捨てるように、吉澤が言った。
しゃがみ込んだ小春の目に映るコンクリートがどんどん赤く染まっていく。
自分の血だ。
鼻の軟骨をやられたのだろう。激しい痛みが顔の中心にある。

「これで二人。新垣、やっとお前の番だぜ」

美貌の奥に氷点下の炎を燻らせた復讐鬼が里沙に歩み寄ろうとした時、背後から小春の声が湧き上がった。

「ば、ばて」
「あ?」

立ちあがり、流れる血を拭って、少女は叫んだ。


「待てって言ったんだよ!」

胸の奥から湧き上がる衝動に突き動かされながら駆け出し、憤りをぶつけるように右の拳を繰り出す。

―こいつを食らわせてやる!

能力者は、個人差があるとはいえ、その殆どが普通の人間より優れた身体能力を誇る。
その中でも、久住小春は特に恵まれた身体能力を持っていた。
本格的な訓練を積めば、一流の戦士になれる素質がある。

久住小春の不幸は、本格的な訓練なしに粛清人と呼ばれる超一流に挑んだ事だ。
渾身の力を込めた右拳の一撃が、粛清人の左手に受け止められていた。

―!

すかさず放った左拳は粛清人の右手に、あっけなく絡めとられた。

「まるでガキのケンカだな」
「放せ!」

小春の顔面に、再度、強い打撃が叩き込まれた。
吉澤の額が、小春の鼻にめり込んでいる。頭突きを食らったのだ。
鼻が曲がった。
悪臭の度合いを示す比喩表現ではなく、文字通り、鼻が横を向いた。
意識が遠のく。
後ろに倒れようにも両手を掴まれたままなのでそれもできない。
引き戻されて、また頭突き。
鼻が顔の中にめり込むかと思った。
霞む視界に赤く染まった吉澤の顔があった。


―あれ?何でこいつ赤いんだ?
もう目を閉じちゃえば痛い思いをしなくて済むのかな…
―ああ、私の血か。
何にも出来なかったな、私。
―随分出たなあ…
こんな事ならもっとちゃんとトレーニングしとけば良かった。

錯綜する小春の思考をよそに、弓を引き絞るように吉澤が首を引いた。もう一発入れる気だ。
淡々とした表情で止めを刺しにかかる吉澤の顔を、小春は他人事のように眺めていた。

―こいつ、もう一回やる気?
こういう時どうすればいいんだっけ、分かんないな。教えてもらえば良かった。
―もういい。これもらったら終わりにしよう。

「小春!」

新垣さんの声がする…新垣さんのトレーニングきっついんだよなあ…
―ん?新垣さん?
新垣さんは…私の後ろで…
―!!
何やってんだよ私は!

三度、吉澤の鉄槌が振り下ろされ、骨の軋む鈍い音が響いた。
痛みによってうめき声をあげたのは吉澤ひとみの方だった。小春が、頭突きに頭突きで返したのだ。

「へへっ、どうだ。私の頭も結構硬いだろ…」

久住小春はありったけの力を振り絞って唇を吊り上げ、不敵な笑みをその頬に張り付ける。
痛みに歪んだ顔で怒号を発しながら放たれた吉澤の拳が、小春の顎を貫いた。
脳を揺さぶられ、平衡感覚を失いながらも小春は不敵な笑みを浮かべたまま吉澤にしがみつく。


「捕まえたぞ」
「このガキが…!」

粛清人の膝が小春の腹部へ跳ね上げられる。
粛清人の肘が小春の背中に突き刺さる。
膝が跳ね上げられる度に小春の体が宙に浮く。
肘が打ち下ろされる度に小春の体が折れ曲がる。

何度も、何度も、気の遠くなるような痛みが立て続けに小春を見舞う。
吹き荒れる暴力の渦の中で、小春の体が小枝のように翻弄される。
それでも、それでも尚、久住小春は吉澤にしがみついた手の力を緩めようとはしない。

「こんなものよりジュンジュンのビンタの方がよっぽど痛かった」
「邪魔するんじゃねえよこの!」
「どうすればいいのかやっと分かったんだ」

いくら吉澤が振りほどこうとしても、小春は手を離さない。
小春の覚悟は揺るがない。小春はたたかいの意味を理解した。小春は守るべきものを見出していた。

久住小春は少女から、一人の戦士へと成長を遂げていく。

勝てなくたっていい。別に最初から勝てるなんて思っちゃいない。
私は強くない。お前は強い。そんな事は分かってるのさ。
お前があの人を狙うなら私はあの人を守ってやる。
邪魔してやる。抵抗してやる。抗ってやる。うんざりさせてやる。
一秒私が邪魔すれば、一秒長くあの人を守れる。一秒私が抵抗すれば、一秒長く望みがつながる。
いくらでも抗ってやるぞ。せいぜいうんざりすればいい。これがわたしのたたかいだ。

へへん、どうだ。まいったか。


凄絶な我慢比べが幕を開けた。
吉澤から送り込まれ続ける打撃は、人間が耐えうる許容量をすでに突破しているはずだが、小春の手にこもる力は微塵も揺らぐ事はない。
小春の思考力は最早、痛いとか、痛くないとか、そういう事を区別するだけの明瞭さを維持していなかった。
手を離さない。
悲壮なほど結晶化した意思に支えられ、小春の肉体が吉澤にしがみつく。

「もうやめて!」

小春の肉体より、吉澤の忍耐より、先に限界が訪れたのは里沙の精神だった。

「小春に酷い事しないで!お願いだから…お願いですから…もう、小春に酷い事しないで下さい…」
「にいがきさんだめだ」

里沙の絶望に引きずられて、小春の意識が混濁の度合いを深めていく。

だめだだめだよにいがきさんそれいじょうしゃべっちゃいけないよわたしはまだ
がんばれるからあきらめないでよにいがきさんきっともうちょっとでじゅんじゅん

「どうしてそんな酷い事するんですか…どうしてそんなに私が憎いんですか」

がたすけにくるからがまんするんだやっとわたしはやりかたがわかったんだから
わたしはわかったんだかくごができたんだわたしはせいぎのみかたなんだだから

「私が悪い事をしたんなら謝ります。だから、だから」

まだたたかえるんだだからにいがきさんはあきらめちゃ

「いけない…よう…」

急速に力を失って、コンクリートの床に沈み込む小春に一瞥もくれず、吉澤は里沙の前に立った。