(26)936 『復讐と帰還(8) 守る少女』



「お前は、何を言ってるんだ…?」

吉澤の目に映る里沙の顔に、涙と、恐怖と、無力感が塗りたくられている。
かつて自分の右腕だった新垣里沙は、こんな情けない面をぶら下げるような奴じゃない。

「お願いですから、もうやめて下さい…」
「お前は何だ。何なんだ」

奇妙な不安感が、吉澤の胸を駆け巡った。
里沙の襟をつかみ上げて詰問する。

「言え!」
「分からないんです、目が覚めたら、心に穴が空いてたんです」
「寝ぼけてんじゃねえ!」
「やめろ」

吉澤の足を掴む手があった。

「にいがきさんにてをだすな」
「お前…」
「ひとりずつのやくそくだろうわたしはおわってない」

久住小春が、這いつくばって、吉澤を睨みつけていた。
未だかつて体験した事のないほどの凄まじい眼光が、吉澤を射抜く。
安倍なつみの闇色の瞳、後藤真希の凍てつくまなざし、それらとはまた別種の凄みがある。

吉澤ひとみはこの満身創痍の少女に恐怖している自分の存在をはっきりと感じていた。
光だ。
少女の瞳の奥から放たれる光に恐怖しているのだ。

「わたしはまもるんだ」


少女の、小春の、一人の戦士の守るべきもの。
それは新垣里沙の事であると答えれば、間違っている訳ではないが、本質はその先にある。
里沙を守ることで、命を賭すことで、守るべきものを守るのだ。
守るべきものを人間としての矜持と言い換えてもいい。正義の心と言い換えてもいい。正しい道を進む事だと言い換えてもいい。

久住小春の優れた感受性が、守るべきものの本質を導き出す。
心を照らす光。
闇の住人である吉澤にはそれが眩しく、怖ろしい。

―立ち上がれもしないガキが怖いのか私は?
ねえ、よっすぃ。
―!?

不意に、吉澤の胸の奥から、懐かしい声が聞こえた。
甲高く、甘ったるいその声に、かつて自分は安らぎを感じていたのだ。
友への思いが、萎えかけた心を奮い立たせる。

―わかってるよ。ガキにビビってる場合じゃねえ。

「おい、久住といったな、お前。言え、新垣はどうなってやがるんだ」
「だれがいうか」
「言わねえとこいつを絞め殺すぞ」

吉澤が襟首を掴む腕に力を込めると、みるみる里沙の顔から血の気が引いていく。

「こっ…はっ…」
「尋問は私の得意分野だぜ」
「――きおくがないんだ」
「何?」
「わたしたちのこともおぼえてない」
「記憶が…」


小春の言葉を反芻し、理解していくにつれ、吉澤の顔が震え紅潮する。
どうも新垣の様子がおかしいとは思っていた。その違和感の正体が分かった時、吉澤の怒りが沸騰した。

「冗談じゃねえぞ!!」

くそったれ!
手の甲で里沙を張り飛ばし、空気をつんざくように、吉澤は吠えた。
冷酷な復讐者の姿はそこにはなく、やり場のない怒りに身をよじる一人の女の姿があった。

「分からないんです、私。私が、分からないんです」
「だったら教えてやる!」

叩きつけるように言葉を続ける。

「お前は私の部下で、組織の裏切り者で、私の一番の友達を殺した。それが、それがお前だ!新垣里沙!!」
「…!私が、殺した…?」

気の毒なほど困惑した表情で、里沙が言った。
なんて顔しやがるんだと、吉澤の胸が張り裂ける。

「石川を殺したお前が石川を覚えてないなんて、そんな事があってたまるか!!」

気色の悪い獣を何体も用意したのも、網を張って待ち構えたのも、全て石川梨華の無念を晴らすためにやった事だ。
どんな汚い手を使ってでも、リゾナンター新垣里沙の心を恐怖と絶望と悔恨で闇に染めると誓った。
復讐こそが友への鎮魂になると信じていた。
ところがどうだ、自分が復讐しようとした相手はリゾナンターなどではなく、ただの小娘ではないか。

「こんな…こんな馬鹿な話があるかよ!」


形容しようのない感情が吉澤の胸の中で荒れ狂う。
凶暴な力を拳に乗せて、里沙の顔面に叩きつけた。
里沙は受け身をとる事も出来ずにコンクリートに転がされた。

「粛清人Rはたたかって死んだ。だからお前もたたかって死ぬんだ」

荒れ狂う感情が血の贄を求めている。
たたかいで流される血だけが、この感情を鎮めるただ一つの贄だと、吉澤の魔性が告げていた。

倒れたままの里沙の頭部めがけ、踏み込んで蹴りを入れる。
いや、入れようとした。が、踏み込もうとした瞬間、吉澤の眼前にコンクリートが迫ってきた。
倒れた。

―?

踏み込もうとした足が掴まれていた。だからバランスを失って倒れたのだ。
小春の手だ。
執念と握力だけの存在となった小春が、復讐者の足に絡みついて動きを封じている。

「こいつ…しつこいんだよ!」

倒れたままの姿勢で小春の顔に蹴りを入れる。
蹴る。蹴る。また蹴る。
血と涙でぐしゃぐしゃの小春の顔めがけて足の裏を叩きつける。
それでも、手を離さない。

「化け物か…!」

容赦ない攻撃を加えている方の吉澤の顔に、はっきりとした恐怖の色が浮かんでいる。
小春の瞼は腫れあがり、両目は殆ど何も見えなくなっているだろう。ただ、あの眼光だけが生きていた。
吉澤の蹴りが苛烈さを増す。蹴りを打ち込む度に、周囲に血のにおいがまき散らされた。


人は、恐怖心からも過激になりうる。

―息の根を止めるしかない。それしか、こいつから逃れる術はない。

吉澤の脳裏にそうよぎった瞬間、里沙が小春と吉澤の間に体を滑り込ませ、小春を抱きしめて、叫んだ。

「もうやめて下さい!私が憎いなら私を殺してもいいですから!だから、小春を殺さないで!」

絶叫であった。

「にいがきさん」
「ごめんね、ごめんね小春…私のせいで、ごめんね…」

自分の命を注ぎ込むように、きつく、少女を抱きしめた。
小春は、薄れゆく意識の中、懐かしいぬくもりに包まれ、安らぎを感じていた。
里沙の体温は、かつての新垣里沙の体温と変わらぬものであった。

「いいと言われなくてもお前は殺す」

二人を見下ろしながら言葉を吐いた吉澤の顔から、先程まで浮かんでいた怖れの色が消えていた。
すでに吉澤は復讐者である自分を捨てている。
ダークネス恐怖の象徴である粛清人の本分に立ち返ることで、冷静な自分を取り戻したのだ。

「にいがきさんあいつをやっつけて」

小春はもう現実に起こっている事の認識が出来なくなっている。
ただ、里沙に抱きしめられている事だけが分かった。
自分を叱り、導き、見守ってきてくれた新垣里沙に抱きしめられている事だけが。


――小春が私を頼っている。
そう分かった時、里沙の胸が

―とくん

と、高鳴った。

里沙は、命に代えてもこの腕の中にいる少女を守りたいと思った。
たたかう術はない。それでも、この子がやってくれたように、自分もやらなければ。
里沙は涙を振り払って、粛清人の瞳を睨みつけた。

「絶対に小春には手を出させない」

里沙の目に、小春と同じ光が宿っている。
少女が命を賭けて守ろうとしたものを、里沙もまた、守ろうとしていた。
どんな絶望にも、恐怖にも、譲ってはならないものがある。

「そういう台詞は、たたかえる人間が吐くもんだぜ。…なあ」

吉澤の言葉は里沙に向けられたものではない。その後ろにいる人物に向けられたものだ。
その後ろ?
振り向くと、里沙のすぐそばにパジャマ姿の小柄な女性が立っていた。
一体どうやってこの閉鎖された空間に入ってきたのか里沙には分からないが、彼女は当たり前のようにそこにいた。
吉澤はスッと目を細め、パジャマ姿の女性に言った。

「フン、死にぞこないがノコノコと」
「こう見えてあたしは、あたしらは結構しぶといんよ」

彼女は里沙の前に立ち、里沙を見つめた。
アーモンド形をした、優しい目をしている。


「ごめんなあ、遅うなって…でも、ガキさんが呼んでくれたから、あたしはここに跳べたんやよ」
「私が、呼んだ?」

里沙の胸を指差し、「そこであたしを呼んだやろ?」と言って、続けて自分の胸を差し、
「ここで聞いた」と、照れくさそうに笑った。
久住小春によって揺り動かされた里沙の魂が共鳴し、彼女をここに導いたのだ。

「私を知ってるんですか?あなたは…」
「あたしは高橋愛。世界一素敵な名前やろ?――世界で一番大切な人が、そう言ってくれた」

高橋愛は里沙から粛清人に顔を向け直し、静かな怒りをその視線に乗せた。

「ここからはあたしが相手だ」
「そうかい、こっちは丁度、準備運動が終った所なんだ」
「なら、リハビリを兼ねてやらせてもらおうか」

リゾナンター高橋愛と粛清人吉澤ひとみ、二人の頬に強烈な微笑が貼り付けられる。
高鳴る心と、魔性のざわめき。
たたかいは、さらなる流血を欲していた。



最終更新:2014年01月17日 16:01