光の屈折率nは誘電率εと透磁率μから成る関数によって決定される。
つまり n=√ε* √μ。
透磁率を人為的に変動させることによって、屈折率を変化させれば理論的に物質の透明化は可能。
ナノテクノロジーによって透磁率を調整したメタマテリアルにより構成されるクローキングデバイス。
世界中の軍事技術の開発者から見れば、垂涎の的となるであろう光学迷彩装置。
それがこの指輪ってわけ。
メタマテリアルの鋳造技術の限界から、制限時間こそあるものの、それ以外は完璧です。
この私の桃色の脳細胞の手に掛かれば、この程度の装置を作るなんて朝飯前。
で、その光学迷彩を作動させて護衛の目を逃れて、
ついでに組織の規範から解放された私は、心の赴くままに、行きたい場所に向かった。
そして今、私は喫茶リゾナントの前にいる。
いや別に組織を裏切ろうってわけじゃない。
まあ、アレだよ。 うん、観察、観察。
敵であるリゾナンターが普段どんな場所で生活して、どんな物を口にして、どんな会話をしているか。
それを知ることは、重要だと思うよ。
それはまあ、リゾナンターに潜入しているスパイから詳細なレポは届いてるけど、やっぱ自分で確認しないとね。
でもやばっ、何かどきどきする。
今、私の姿は完全に見えなくなっている。
しかしこの中にいるであろう能力者達の中には、そんな障壁を物ともせず私の存在を捉えることの出来る者もいる。
でも、入ってみたい。
店のメニューを口にすることは出来ないだろうけど、自慢の珈琲の香りを嗅いでみたい。
看板メニューのオムレツの鮮やかな黄金色を目に焼き付けたい。
今の私には感じることは出来ないだろうが、共鳴という絆が織り成す空間にこの身を置いてみたい。
優しい色の木の扉に手を掛けて開けようとする。
中にいる人間には独りでに扉が開いたように見えるだろうけど、それは風の悪戯ってことで。
アレッ、開かないや。 どうしてだろう。
まさか寝坊してるの。
この程度の扉なら私の正拳突きで突破出来るけど、それじゃ意味が無いし。
アレッ。
「本日休業」って書かれたボードが掛けてあるよ。
普通なら目に入るはずなんだけどね。
何でだろう、心が浮き立っていたのかな。
組織による作戦行動や襲撃は予定されて無かったから、出動ってことは無いと思うんだけど。
さっきまでのワクワクした感情は何処かに吹っ飛んでいた。
落胆と安堵の入り混じった複雑な感情。
もしも自分の目で、耳で、心で、彼女たちを感じたら、私の中で何かが壊れていた。
だから、これでいいんだ。
そうなんだけどね。
クローキングデバイスの制限時間が切れて徐々に私の姿が映し出されていく。
ドアノブを握り締めていた力の入った掌も。
その掌を見てみる。
私の手は汚れていないのだろうか。
例え仮初めとはいっても彼女達と同じ場所にいる資格はあるのだろうかと、自分に問いかける。
ふっ、バカバカしい。
帰ろう、組織へ。 帰ろう、私の居場所へ。
訪問を熱望していたリゾナントへ背を向けて、歩みを進める。
今の私の居場所は、昔の私が行きたいと思っていた場所とは最も遠く離れた場所。
でもその場所を選んだのは、他ならない私自身。
後悔はしない。
私の選択が正しかったのか、間違っていたのか。
その答えを知るために、今は歩みを止めない。
私の名はドクターマルシェ。
共鳴という絆を自ら断ち切った女。
陽の光が差す道を歩きながら、闇のトンネルへと向かう。
その闇を抜けた先に待っているのは、さらなる深い闇なのか?
それとも?
最終更新:2014年01月17日 17:52