そうして一ヶ月ほどの時間が過ぎたころ、彼女の奇行は始まったのだ。
「ねえ瞬君、俊君は、わたしのこと忘れちゃったりしないよねえ?」
うつろな微笑を浮かべながら八重子が聞いてきたのに、僕は「当たり前だろ」と答えることしか出
来なかった。
八重子は一瞬嬉しそうに微笑んだあと、すぐに顔を曇らせた。
「でも、お父さんも、きっと昔はそう言ってくれたと思う。それなのに、わたしのこと忘れちゃった」
八重子の瞳から涙が溢れ、ぽろぽろと零れ落ちる。
「だから、ね」
不意に、彼女の唇が笑みを形作った。
「わたしのこと、忘れないようにしてあげる。俊君の体に、わたしのこと刻み付けてあげる。そうし
たら、わたしのこと忘れないでいてくれるでしょう?」
一体何をするのだろう、と不思議に思っていると、八重子は黙って果物ナイフを取り出し、僕の腕
に冷たく光る刃を押し付けた。
「何するんだ、八重子!?」
僕は驚き、彼女の手を振り解いた。「動かないで!」と彼女は悲痛な叫びを上げた。
「これは儀式なの。俊君にわたしの存在を刻み付けるための儀式なの。こうしないと、俊君はわたし
のこと忘れてしまう。わたし、瞬君にも忘れられちゃったら、もう生きていけない!」
暗い部屋に響き渡るその叫びが、僕の胸を深く抉った。
僕が黙って差し出した腕を手に取り、八重子は嬉しそうに果物ナイフを握り締めた。
「ありがとう、瞬君。今から、わたしのこと、俊君の体に刻み付けてあげるからね……」
そして、彼女は「これはわたしがつけた傷。わたしが瞬君につけた傷」と呟きながら、僕の体に傷
を刻み始めたのだ。
この儀式は傷が癒えるたびに幾度も繰り返され、いつも唐突に終わった。
僕が泣いたり八重子が急に正気づいたり、切欠は様々だったが、いつだって終わり方自体は一緒だ。
「ごめん、ごめんね瞬君、わたし、なんてこと――!」
自分のしたことに初めて気付いたように取り乱す八重子を、僕が必死で慰める。しかし彼女は泣き
やまず、やがて疲れ果てたように眠ってしまう――その繰り返し。
眠る八重子の顔を見つめながら、僕はときどき考える。彼女は狂っているのだろうか、と。
そのたび、すぐに否定する。
(違う、彼女は狂ってなんかいない。お父さんのことで、少し疲れているだけなんだ)
だから、彼女を気違い扱いして病院に押し込もうだなんて、一度たりとも考えたことはない。
状況に終わりが見えないことは事実だ。彼女はこんな状態でも優しさを失っていないらしく、僕の
皮膚は本当に薄く切り裂かれるだけ。一生消えない傷跡なんていつまで経っても刻まれないし、それ
故すぐに消えて、元通りになってしまう。
僕の腕に傷がついている間は、八重子は落ち着いていた。だが、傷が消えるとすぐに不安定になり、
また僕の腕を取って儀式をやり直すのだ。
そんなことを、もうずっと繰り返している。終わりなんて、見えない。
「やだ、瞬君」
不意に、八重子の閉じられた目蓋から涙が零れ落ちた。
「忘れないで。わたしのこと、忘れないで、お願い」
僕は眠りながら苦しむ八重子の手を、ぎゅっと握り締める。その腕には、八重子が刻んだ無数の薄
い傷跡がある。おそらく、
一週間も経つころにはすっかり消えてしまう切り傷だ。
(僕は大丈夫だよ、八重子)
声には出さずに、語りかける。
(もっと深い傷を刻んでくれたって、大丈夫だ。それで君が安心できるって言うなら、いくらでも痛
みを受け入れる)
言えば逆に八重子を躊躇わせ、苦しめることになるだろう。
だから僕は、この思いを押し込めたまま、ただ時を待つのだ。
彼女が本当に僕の腕を深く抉り、傷と共に自分の存在をも刻み付けられたと確信できる、そのときまで。
窓の向こうに目を向ける。闇は深く暗く、夜明けはまだ遠いようだった。