6 名前:理性の棄却 ◆NKSqcgjO6c[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 23:05:30 ID:sLvdaBB. [2/9]
「彼……譲くん、絶対に浮気している」
彼女はそう切り出すと、今まで伏せていた目線をこちらへ向けた。
いつもは愛くるしいと言われているその目元が、今は、行き場のない憎悪に歪んでいる。
しかし尚、その顔には男を魅了するであろうものが感じられるのだから、この松田光という女はすごい。
容姿について平々凡々を自覚している僕からすれば、羨ましさを通り越して、ズルさすら感じる。
ここが学食であることを考慮し、小声で返す。
「浮気?」
「そう……、絶対にそう! 心当たりがあって……」
松田光はコップに残っていた水を飲み干した後、その心当たりについて語り始めた。
今までは向こうから電話やメールが来ていたが、一、二週間前からこちらから連絡しても全く返事がない。
そのことを学校で問い詰めても、「ごめん」の一点張り。
部活のない日は一緒に下校していたが、それも用事を理由に断られることが多くなった。
……まくしたてられた内容を三行にまとめると、こんな感じである。
「それで浮気? たまたまなんじゃないかな?」
「偶然なんかじゃない! 確実な証拠もあるの!」
僕の落ち着き払った返答が気に障ったのか、彼女は語気を強めた。
確実な証拠とやらがあるなら最初から言えばいいのに、というセリフは飲み込んでおいた。
「今日、体育の時間中に、彼の携帯のナカを見たの」
「いやいや、それは人としてどうなの?」
「人である以前に彼女だし」
全く悪びれる様子のない彼女を見て、これ以上の追及は無意味と悟らされた。
「そしたら、まず今までしていなかったロックかけていた訳ね」
「じゃあ見れないじゃん」
「まあ誕生日で解除できたときは若干拍子抜けしたんだけど」
……それは迂闊過ぎ。
「で、とりあえずメールと電話の着信履歴を見てみたら……」
そこで彼女は言葉を止めた。
訊いてほしいということなのか。
正直面倒くさいが、訊かなければ永遠にこの不毛な問答が終わらないのではという危惧もある。
7 名前:理性の棄却 ◆NKSqcgjO6c[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 23:06:32 ID:sLvdaBB. [3/9]
「何があったの?」
「何もなかったの! メールも! 着信履歴も! 一件も!」
待ってましたと言わんばかりに即答される。
「ご丁寧にロックかけた上に、わざわざ履歴を消去するって、確実に女じゃん!」
確実かはともかく、彼女の心理は分からなくもない。
女かは別として、確かに何かやましいことがなければ考えにくい行動ではある。
捜査方法はギリギリアウトだが、筋は通っている。
「ということで、一つ頼まれてくれる? 彼の浮気相手を調べてほしいの」
結局浮気しているという前提の元に話が進んでいることにはあえて目をつぶる。
「僕が?」
「本当は私がしたいけども、私からの詮索だと警戒されちゃうかもだから」
「でも……」
「タダとは言わない。浮気相手掴めたら、学食一回奢るから」
「いや、そうじゃなくて……。別に探偵って訳じゃないし、僕には無理だよ」
「そう言わずに! 誰かまで分からなくても、ちょっとしたボロを出してもらうだけでいいから」
「どうやって?」
「いつも話しているみたいに、さりげなく訊くのよ」
指示が全然具体的ではないし、彼女は良い上司にはなれなさそうだ。
断りたかったが、彼女の頑固さは今までの会話で嫌というほど思い知らされた。
了承を得るまできっと帰らせてもらえないのだろう。
「……分かったよ」
「ホント!? ありがとう!」
「その代わり、僕が調べている間は一切干渉してこないこと。それだけ約束して」
「了解! そしたら何か分かったらすぐ連絡ちょうだいね。あっ、今アドレス教えるから携帯貸して」
彼女は手早く赤外線でメールアドレスを送ると、早々に僕に携帯を返した。
「じゃあ、連絡待ってるからね!」
「ちなみに、仮に浮気相手が見つかったとして、どうする訳?」
「それは……」
彼女の視線が一瞬泳いだ。
瞬時に、彼女が続く言葉をすり替えていることを察した。
その時点で、彼女の言葉への信頼は皆無となったのだが、一応聞いてみる。
「穏便に話し合うつもりよ?」
「話し合ってどうするの?」
「私と彼との関係を分かってもらって、二度とちょっかい出さないって約束してもらえればそれでいいかな」
「なるほど」
彼女なりにオブラートに包んでこの物言いでは、腹の内ではどんなことを思っているのか、逆に知りたくなる。
怖いもの見たさってやつだ。
8 名前:理性の棄却 ◆NKSqcgjO6c[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 23:07:11 ID:sLvdaBB. [4/9]
「でも、もしその浮気相手に本気になっちゃってたらどうするの?」
「それはない」
その彼女の返答は、何か確信めいた物言いであった。
思わず即座に聞き返す。
「というと?」
「さっき、彼の携帯を調べたって言ったじゃない?」
「うん」
「メールとかはなかったんだけど、彼のロックフォルダ……ああ、パスは誕生日ね。それを見たら、その中にあったのよ」
「何が?」
「私とのツーショットの写真がね。これってつまり本心では私のこと好きってことでしょ?」
「……ふーん」
僕は立ち上がり、トレーを持って彼女に背を向ける。
「あれ? もう帰る?」
「うん、次の授業始まっちゃうし」
「あっ、ってことは私も行かなきゃじゃん」
彼女のことは待たずに返却口へ歩き出す。
「いやー、でも本当に助かるわ。彼のこと知りたければ、身内に訊くのが一番だしね」
彼女の言葉は聞き流した。
9 名前:理性の棄却 ◆NKSqcgjO6c[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 23:08:06 ID:sLvdaBB. [5/9]
松田光から依頼された浮気調査。
これについては、もう結果は分かっている。
浮気相手など存在しない。
なぜなら、そもそも松田光と、彼女の言う彼との間に、男女関係などないのだから。
つまりは、彼女の妄想に過ぎない。
それに付き合わされるこちらの身にもなってほしい。
まあこちらが調べている間は介入してこないことを約束させたので、しばらくは何も言ってはこないだろう。
勿論面倒なことには巻き込まれたくないので、最終的には誰か適当な女をでっちあげてはおくつもりだ。
それよりも、今僕には確かめなければならないことがある。
学校が終わると、足早に帰宅する。
「おかえりなさい。今日は彩も早いのね」
「うん、ただいま」
「譲にも伝えてあるけど、今から買い物行ってくるから、少なくともどっちかは留守番よろしくね」
「うん」
既に準備万端なようで、母はエコバッグを提げていた。
母と玄関で入れ違いの形になりながら、階段を上がる。
歩きながら、ポケットの中身を確認する。
自分の部屋を通り過ぎ、「譲」と書かれた部屋の扉を開ける。
「ただいま、兄さん」
「おかえり……。早かったね、彩」
ベッドに座っている兄は、笑顔で、いつになく整った姿勢で僕を出迎えてくれた。
僕が帰宅したことはドアの開閉音で分かっていたのだろう。
僕をもてなそうという意思からなのか、それとも――。
「ねぇ、兄さん。僕のこと、怖い?」
「……うん?」
兄の強張った表情が、全てを物語っていた。
まあ僕としても、二週間前のあれはやり過ぎだったとは思っている。
完全に兄の良心に訴えかけるやり方だったし、後ろめたくないのかと言われれば耳が痛くなる。
怖がられても仕方のないことだ。
自分にそう言い聞かせて、あくまでも落ち着き払って話す。
10 名前:理性の棄却 ◆NKSqcgjO6c[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 23:08:34 ID:sLvdaBB. [6/9]
「そうだよね、怖いよね。ごめんね兄さん」
そう言いながら兄の隣に腰を下ろした瞬間、一瞬兄さんの肩が揺れたのを感じた。
構わず、兄にもたれかかる。
「でも兄さん、あの後、僕との約束守ってまっすぐ帰ってくれるようになったよね。凄く安心するし、嬉しいんだよ?」
「……うん、そうか、よかった」
「履歴を削除した後、他の女の子と連絡も取ってないようだしね」
「そりゃ、そうだよ……うん」
「でも、携帯の暗証番号に誕生日は迂闊だと思うよ?」
「え!?」
兄はもう笑顔を取り繕う余裕もなく、顔を真っ青にしていた。
「勝手に見たのか!?」
「誤解しないでよ? そんな非人道的なこと、兄さんのことを心から愛している僕がする訳ないじゃん。
だから、念のため携帯にロックかけさせはしたけど、その管理は兄さんに任せたし」
「じゃあなんで暗証番号のこと――」
「松田光が、体育の時間中に盗み見たんだってよ」
「光が!?」
「『光』!?」
衝動的に兄をベッドへ押し倒す。
何が起きたのかわからず戸惑っている様子の兄も、すごくいい。
……でも、その言葉は約束違反だよ、兄さん?
「僕以外の女のことを呼び捨てにしないでって言ったよね?」
「あっ、ごめん……。約束、破って。もう言わないから……!」
言葉と表情から、どれだけ本気か伝わってくる。
この辺りの誠実さが兄の魅力でもあるから、許したくもなる。
ただ、その前に一つだけ確認したいことがある。
「ありがとう。松田光に聞いたところによると、ちゃんと距離をとっているようだし」
「うん、直接会う機会もほとんどなくしたし、メールや電話なんて勿論してないし……」
「そうだよね、さすが兄さん。行動が早い」
「うん……」
「そんな兄さんに一つ聞いてもいいかな?」
「なに?」
「まさかとは思うけど、もう別れるつもりの女の写真なんて、持ち歩いてたりしてないよね?」
「っ――」
あっ、時が止まった。
本当に兄さんは、嘘のつけない正直な人。
そこが、好き。
そこが、嫌い。
11 名前:理性の棄却 ◆NKSqcgjO6c[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 23:09:10 ID:sLvdaBB. [7/9]
「彩!? 待て!」
兄の制止を無視し、兄から数歩離れる。
そしてポケットから、二週間前にも使ったカッターを取り出す。
その刃先をあてがうのは、自分の左手首。
「もう僕は死ぬしかないみたいだね! 二週間前、松田光と別れてって言ったよね!?
でも、兄さんが、いきなり別れを切り出したら変だと思われるから自然消滅の形にしたいって言ったんだよ?
だから、いつその自然消滅とやらが訪れるのかわからないけれど我慢していたっていうのに!
結局あの松田光と別れる気なんてないんでしょ!?
前みたいに『彼女なんていない』だなんて嘘を平気でついて僕のこと騙しながら、
陰でコソコソ付き合い続けるつもりだったんでしょ!?
兄さんが僕以外の女を好きなこんな世界、生きる意味ない!」
もう兄の瞳は恐怖に濡れていて、ただ僕の右手の挙動を注視するのみとなっていた。
こんなやり方でしか兄を振り向かせられない自分の愚かさは重々承知している。
それでも──。
物心ついたときから兄を愛し、幾度も兄にアプローチし、……そして、躱されてきた僕だから分かる。
最後に人を突き動かすのは、用意周到な計略などではなく、なりふり構わない情熱なのだと。
「ごめん! もう本当に別れるから!」
「嘘つきの言葉を信用しろと?」
「ホントのホントだ! 明日、必ず言いに行くから……」
「今」
「え?」
虚をつかれたかのような表情の兄をよそに、続ける。
「今、ここで、電話で別れを告げて。そうでなきゃ信じられない」
「いや、さすがにそれは……。そもそも彩に言われて履歴もアドレス帳も全部削除しちゃってるし……」
「どうせ松田光の番号は覚えているんでしょ?」
例によって兄は動揺を隠し切れていない。
何もかも、お見通しなんだから。
兄の瞳から恐怖が消え、代わりにそこには絶望が色濃く浮かび上がっていた。
しばしの沈黙の後、兄は携帯電話をゆっくりと取り出した。
数回の操作の後、徐ろにそれを耳にあてがう。
「……もしもし、光? ……ごめん、もう光と付き合えないから、別れよう」
それだけ言うと、すぐに通話を終了し、携帯電話を部屋の隅へ放り投げた。
そして、僕と目を合わせてくる。
「もう、嘘つかないから。だから、絶対に死のうとなんてしないでくれ……」
12 名前:理性の棄却 ◆NKSqcgjO6c[sage] 投稿日:2015/10/19(月) 23:09:40 ID:sLvdaBB. [8/9]
兄は泣いている。
世界でただ一人の愛しい兄を泣かせるとは、なんて僕は罪な妹だ。
この罪を背負い、兄と共に逝けたらどれだけ幸せだろうか。
僕は用済みのカッターをしまうと、数歩兄さんへ歩み寄ると、その体を抱き寄せた。
「ありがとう、兄さん。もう、どこにもいかないでね……」
兄さんが、僕のことを愛していないのは分かっている。
そして、これからもそんな瞬間は訪れないことも。
ならばせめて、兄の心だけは縛り付けておく。
──誰にも、渡してなるものか。
──ピンポーン。
家のインターホンの音。
そういえば、兄さんが捨てた携帯電話がさっきからずっとうるさかった。
しかし、今は止まっている。
性懲りもない女だ。
あの電話の後からほとんど時間が経ってないということは、付近にいたに違いない。
いけないストーカー、泥棒猫……。
「彩……? どこへ行くんだ?」
兄さんの体から腕をとき、部屋の扉へ向かう僕を兄さんが呼び止める。
「どこって、インターホンが鳴ったんだから、玄関に決まってるよ」
「……いかないでくれ……!」
「大丈夫、安心して。すぐ戻ってくるから」
振り返ることなく、僕はスカートの中を探りながら、玄関へ歩み出した。
最終更新:2015年10月21日 16:52