89 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/03/27(火) 20:03:32 ID:ZX4xyh8k
第七話~にらみ合いと、秘められた伝言~

 従妹が通っている大学の先輩が、以前に一度だけ会ったことのある女性だった。
 今日俺が大学に来ているのは華に無理やり連れてこられたからなのだが、
そこで菊川かなこさんに会うとは予測も予想もしていなかった。
 しかも、かなこさんと華は先輩・後輩の仲らしい。
 こんな偶然が起こる確率はどれほどのものだろう。
 数値化することはできるのだろうか。
 できるのならば、導き出すための数式を誰かにご教授願いたい。

 俺は、完全な予測を立てるのは不可能だ、と考えている。
 天気予報の降水確率などは信じられないものの代表格だし、
いくら綿密にNASAが計算したところでシャトル打ち上げの成功を保証することなどできない。
 正しい数値を入力すればコンピュータはそれに合わせて答えを出してくれる。
 そうすればスペースシャトルの打ち上げは100%の確率で成功するだろう。
 だが、ここで疑問がわいてくる。

 その正しい数値をどうやって割り出せばいいのか?
 その数値とやらは本当に正確なのか?
 そしてコンピュータの計算式に不備は無いのか?
 なにより、それらが正しいということを証明するものなど存在するのか?
 それらはすべてが曖昧なものでしかない。
 正しいものなど、科学においては存在しえない。
「科学が正しいということを証明する科学は存在しない。
 なぜならば『証明する科学』が正しいと『証明する科学』が存在しないからだ」
 というやつである。

 物事の予測を計算式でまかなおうというのが無理なのだ。
 どこかで妥協をするしかない。
 降水確率が0%でも折りたたみ傘を持ち歩いたり、
シャトル自体に不備が無いよう点検・整備をしっかりと行うのが望ましい。
 そして俺はその通りに、人生を妥協して生きていこう……と考えていたが、
人間関係において妥協しようとしなかったのはなぜだろう。
 ……若気の至り、ということにしておくか。

 俺の性格は予測することには向いていない。
 深く考えずにその時、その場の状況に合わせて動くほうが上手くいく。
 考え始めると思考のベクトルが予測外の方向へと突き進み、行動もおかしくなる。
 そのせいではないのだろうが……現在、俺は全く予測のつかなかった状況に置かれている。
 
 自ら企業を退職したフリーターであるどこにでもいるような24歳の俺が、
 普段ならコンビニの事務所でのんびりと昼食をとっている正午に、
 従妹に連れてこられた俺とは全く縁の無い大学の中庭で、
 男装の変人と不必要な会話をしている間に従妹の魔の手から逃げ遅れ、
 従妹で幼馴染である現大園華と、その言動が全くの予測外である変人の十本松あすかと、
 顔見知りであること自体があり得ない良家のお嬢様である菊川かなこさんと昼食を食べることになった。

 こんな事態に俺が陥ることを予測していた者がいるとしたら、神か仏かお天道様だ。
 三人いるんなら誰か一人ぐらい教えてくれてもいいのではないか、と思う。


90 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/03/27(火) 20:04:15 ID:ZX4xyh8k
 大学の中庭は日当たりがよく、食事したり、昼寝をするには最適の環境だ。
 おあつらえむきに数人で食事ができるようなテーブルまで設置されている。
 さすがにハンモックを用意するほどに酔狂ではないようだが、
 木製のテーブルだけでも充分気が利いていると言える。

 華から渡された弁当箱を、膝の上からテーブルの上に移動させる。
 弁当箱を持ち上げたときに思ったことは「これは中身が詰まっているな」だった。
 普通ならばそれは喜ぶべきことなのだろうが、いささか多すぎるような気もする。 

 俺から少し間を空けて左に座っている華の表情は緊張していた。
 ときおり、ちらちらと俺の手元を見ている。
 自分の顔が見られていることに気づくと、ごまかすようにそっぽを向いた。
 空色のリボンが華の流れるような長い髪をまとめているのが見える。
「遠慮せずに食べていいですよ。おなか、すいているでしょう?」
「ああ」
 別に遠慮しているわけではない。
 いったいどんなものが入っているのかと不安で、蓋を開ける気にならないのだ。
 しかし、躊躇ったところで結局はこの弁当の中身を腹に収めるまでの時間を延ばすことにしかならない。
「おや、食べないのかな? それとも食べたくないのかな?
 それはよくないね。まだ若いのに、健康体なのに、そのうえ男なのに。
 もしかして君は見た目より年をとっていたり、不治の病に冒されていたり、女だったりするのかい?」
 テーブルを挟んで向かい側に座っている十本松が、無駄に長い台詞を吐き出した。
「……あえて返答するが、お前が言ったことのいずれも正解ではない」
 俺は女ではないし、この弁当はもちろん食べる。
 しかし食べたくない、というのは少しだけ当たっている。
 いくら俺が食べたくないと思っても、食べなければならないのだが。
「わたくしたちに気を使わずに、お先に召し上がってもよろしいのですよ」
 左斜め前には、どこまでも礼儀正しい佇まいをしたかなこさんが座っている。
 彼女の席には藍色の布に包まれた四角形のものが置かれている。
「かなこさんもお弁当なんですね」
「はい」
「自分で作ったんですか?」
「こう見えても、料理を作ることが趣味でございまして。
 将来、殿方となった男性には毎日毎食手料理を食べていただきたいですから」
 俺の顔を見ながら、かなこさんが微笑んだ。
 そんなことを言いながら微笑まれたら、好意を向けられていると勘違いしてしまいそうだな。
 
「よっし……」
 俺の胸の前に置かれている弁当を食べる覚悟は、たった今決まった。
 こういうのは躊躇うより、さっさと行動して、さっさと終わらせてしまうほうがいい。
 蓋の上に手を置く。そして、一瞬の躊躇のあとで、その手を持ち上げる。
 あらわになった弁当箱の中身を見た俺は、あっけにとられた。
 きつねの色をしたご飯の中に、細長く切られたごぼう、きざまれている人参、
小さな四角形になったこんにゃく、鶏肉が入っている。
 ところどころに、いんげんがアクセントのようになって点在している。
「これは……五目ご飯か」
「私が一番得意な料理なんです。
 何を作ればいいか迷ったからそれにしたんですけど、おにいさんはそれ、嫌いですか?」
「特に嫌いってわけじゃない。
 ……が、一つ聞きたい。何故それがぎっしりと弁当箱につめこまれているんだ」
 手元にある弁当箱のサイズは、横に30センチ、縦に20センチ、高さは6センチほど。
 かなり大き目の弁当箱であるが、中身の全てを五目ご飯が埋め尽くしている。
 これを俺一人で食べろというのだろうか。
「可愛い従妹である、華君が作った料理だ。
 もちろん米の一粒すら残さず、具のひとかけらも残さず食べるのだろう?」
「……ああ、もちろんだ」
 途中で倒れたりしなければな。


91 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/03/27(火) 20:06:02 ID:ZX4xyh8k

 両手を胸の前にあわせ、割り箸を親指とひとさし指の間に挟む。
 手が軽く震えているせいで、箸がぶれて見える。
「い、いただきます」
 左手で少し重い弁当箱を支えて、五目ご飯に箸をさしこむ。
 箸を使ってちょうどいい大きさに分けようとするが、かたくて、なかなか細かくなってくれない。
 華のやつ、かなり力を込めて押し込んだな。
 いったいどれだけの量を炊いてこの中につめこんだんだ。
「この、こいつ。さっさと……よし、これなら食べられる」
 苦戦しつつも、一口に収まる大きさの五目ご飯の塊を分けて、箸の先端でつまみ口に運ぶ。
 おそるおそる、舌でその味を確かめる。
「……ん……ぅむ、うん……」
「どうですか、味の方は?」
 華が緊張のおももちで、感想を求めてきた。口の中のものを飲み込んでから答える。
「まともな味……じゃなくて、ちゃんと味がついてるな」
「お、美味しいです、か?」
 ……言ったほうがいいんだろうな。恥ずかしいけど。
「うん。自信を持つだけあって上手に作れてるな。
 美味いぞこれ。本当に上達してるんだな」
 そう。まったく予想外の美味さだった。
 ご飯にはもちろん味がついているし、鶏肉の歯ごたえも感じられる。
 初めて作った人間であれば、ここまではうまく作ることはできないはずだ。
「これなら全部食べられるよ。ありがとな、華」
 弁当箱を持つ左手に重さを感じさせない程度の量にしてほしかったが、あえて言わないでおこう。

 褒められたことがよほど驚きだったのか、しばらくの間目を大きく開けていたが、
次は口をぱくぱくと小さく動かし始めた。
「へ、ぁ……ぁぅ……ぁりがと、ございます。おにい……さんん……」
 そう言うと、また俺に顔を背けた。華の耳が、きもち紅くなっている。
 ……そういえば、昨日、華は俺のこと好きだって言ったよな。
 いかん。思い出すと、なんだか華が可愛く見えてきた。
 まだ二月なのに、体がほてっている。
 おまけに、胸の奥がなんだかむずがゆい。なんだか、これって……
「うぅーむ。まるで思春期の中学生のような光景だね。
 憧れの先輩にお弁当を作る健気で、無垢で、穢れの無い女子生徒と、
 野獣のごとき食欲と、恥ずかしい台詞を人前で言える心臓を持った男子生徒。
 そのままお弁当と一緒に華君を食べたりしないでくれよ。
 食べるんなら私もぜひ混ぜてくれ。混ぜ込んでくれ。そう、わかめごはんのように!」
「俺の思考を読むな、この変人!」
「ほう。君は、私と華君と君の三人で混ぜ込まれたかったのかい?」
「断じて違う!」
「せっかくの誘いだが、断らせてもらうよ。私にはかなこという名前の婚約者が……」
 俺の言葉を無視して、十本松がかなこさんの肩に手を乗せた。



92 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/03/27(火) 20:07:04 ID:ZX4xyh8k

 しかしすぐさま、自分から手を退けた。
「おやおや、これはこれは……」
 そう呟きながら、今まで十本松は一度も見せなかった苦い色を顔に張り付かせて笑った。
 その理由は、かなこさんの雰囲気が先刻とまるで異なっていた、ということ。
 目を細めて、頬を少し緩ませて薄く笑っているが、何かが違う。

「ふふふ……ようございましたね。雄志さま。
 華さんに美味しいお弁当を作っていただいて。
 仲のよろしいお二人を見ていると、こう……えも言われぬ気分になりますわ」
 どんな気分なのかは明確に口にしなかったが、なんとなくわかる。
「華さんにここまで仲のよろしい男性がいらっしゃること、とても嬉しく思います」
 彼女は、面白いなどとは、嬉しいなどとは思っていない。
 声を聞いていれば、分かる。
 初めて会った日と同じだ。
 料亭で食事したときに豹変した彼女の声と、今の台詞。そのトーンとアクセントのつけ方がまるで同じなのだ。
 低いトーンと、強いアクセント。
 聞く人間に訴えかけるような、強く、はっきりとした、忘れさせまいという意思。
 それを言霊にして、俺に――俺だけに、ぶつけてくる。

「聞いてくださいまし。
 華さんは大学では男性とまったくと言っていいほど会話をされないのです。
 わたくしはそれをいつも気にかけておりましたが、すでに仲のよい男性がいらっしゃったのですね。
 ふふふ……それが、まさか雄志さまだとは米粒ほどにも思いませんでした」
 かなこさんは弁当箱から一粒の白米を箸でつまみ、美しい顔の前にそれを構えた。
 その箸の先端と、米粒が俺に向けられる。
「どうかされましたか? ふふふ……」
 目を反らせない。
 彼女の目の輝きから目が離せない。
 かなこさんは俺の目を見つめているから、当然彼女の目には俺が映りこんでいる。
 その目を見つめていると、まるで俺自身が瞳の中に閉じ込められたのではないかと錯覚してしまう。
「お口を、開けてくださいませ」
 言われるがまま、反射的に上下の唇を離す。
 
 ひゅっ

 彼女が着ている服の袖が、空気を切るような軽い音を立てた。
 かなこさんが身を乗り出し、右腕を突き出して、俺の口の中に箸の先端を入れたのだ。
 もちろん、箸は口内のどこにも当たっていない。口内の空間でどこにも触れずに停止している。
 冷や汗が流れる。息ができない。
 もし動いたら、そのまま右腕を動かされて、箸の先端を喉の奥に突き刺されそうな気がしたから。
「ふふ……」
 かなこさんが静かな声を漏らした。
 声を漏らしただけで、笑ってはいなかった。
 目は大きく開き、まばたき一つしない。
 俺の目と、脳を貫いて、後頭部に穴を開けてしまいそうな――恐ろしい瞳だった。



93 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/03/27(火) 20:08:27 ID:ZX4xyh8k
 
「かなこさん。そこまでです」
 唐突に、華の声が割り込んだ。いや……華が出したのか、今の声は?
「おにいさんに変なことをするのは、やめてください。
 いくらかなこさんが相手だとしても、それ以上何かするというのなら、怒りますよ」
 
 ――刀。

 その声を聞いて思い浮かべたのは、緩やかな曲線を描き、
見ているだけで喉元を捉えられているような錯覚と緊迫感を与える、美しい刃物の姿だった。
 かなこさんと同じく、華の声までもが異質なものへと変貌していた。

 肉体と思考を捕らえて動けなくしてしまう、かなこさんの声。
 遠く離れていても、それすら無視して射抜かれてしまいそうな、華の声。

 そして、俺はその声の持ち主たちが手を伸ばせば届きそうな距離にいる。
 完全に、動きを封じられた。
 たった今かなこさんに箸を突きつけられているというのもあるが、もうひとつ。
「おにいさんに危害を加えるというのならば、私は……」
 今の華を刺激したら、まずいことになる。
 『下手に動いたら彼女のなにかが爆発する』、と直感が告げている。
 それが何なのかはわからない。だから『なにか』という曖昧な、抽象的な表現しか出来ない。
 だが、華から噴出している気配から察するに、暴力的なモノであることは間違いない。
 その矛先は、確実にかなこさんへと向けられるだろう。
 それだけは防がなければならない。
 そしてそんな事態に陥るのを防げるのは俺しかいない。
 顎に手を当てて苦笑いを浮かべている十本松など当てにならない。

 『かなこさんの悪ふざけを止める』。
 それが今の俺に考えられる最良の事態打開策だ。
 まず、かなこさんの手を退ける。
 次に、華を冷静にさせる。
 単純だが、この手順でいくことに決めた。
(よし……!)
 空いている右手を動かして、かなこさんの腕を握った。
 ――つもりだったが、俺の手はただ握り拳を作っただけだった。
 気がついたら、目の前にいたはずのかなこさんは元の位置に戻っていた。

 彼女は手元にある弁当箱を布でくるんでいた。
 藍色の布でしっかりと結び目を作り終わった後で、鈴の鳴るような声を出した。
「ふふふ。華さんは本当に可愛いですわね」
 いつもの穏やかな微笑みで呆けている俺と、険しい顔のままの華を見つめている。
「冗談ですわ。あまりにお二人が仲良くされているものですから、つい」
 かなこさんは穏やかな口調でそう言ったが、華の表情は依然険しいままだった。
「……冗談が通じない場合もあるということをかなこさんは理解した方がいいですね。
 すみませんけど、私はこれで失礼します!」
 華はテーブルの上に広げていた弁当箱を手早くしまうと席を立った。
「ちょっと、待て!」
「おにいさん。弁当箱は私の部屋の前に置いててください。……それじゃ」
 静止する俺の声を聞かず、華はその場から立ち去った。
 
 その時の華は、額に軽くしわを寄せて、奥歯を強くかみ締めて、怒りを押さえ込んでいるように見えた。



94 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/03/27(火) 20:10:14 ID:ZX4xyh8k

 立ち去っていく華の背中を見送っていると、いままで黙っていた十本松がようやく声を出した。
「雄志君。君も大変だな。同情はしないが、苦情は出そう。
 なぜ君だけがそんなにモテているのか。これこそ、恋愛格差だと私は思うよ。
 毎年の賃金闘争でも取り上げるべき案件だね」
「…………」
 「黙ってろ。つっこむ気分じゃない」と言ってやりたいが、生憎そんなことを言う気分ですらなかった。
 華はというと、近くにある建物のドアを勢い良く開け放ち、中へと入っていくところだった。

「……」
 かなこさんも立ち去る華の背中をじっと、物憂げな瞳で見つめていた。
 もちろんこうなった原因は彼女にあるわけだが、その目を見ていると責めることがためらわれた。
「申し訳ありませんでした。
 また、雄志さまを不快な気分にさせてしまって……」
 なぜか、彼女が俺に向かって頭を下げた。俺に謝ってもらっても困る。
「俺じゃなくて、華に謝ってやってください。
 あいつは結構意固地だから、こうなるとなかなか口をきかないんです。
 だから、かなこさんの方から声をかけてくれませんか?」
「……わかりました。雄志さまがそうおっしゃるのでしたら、そのようにいたします」
 かなこさんはトートバッグの中に弁当箱を入れると、ゆっくりと立ち上がった。
「それでは、わたくしはこれで失礼いたします。ごきげんよう。雄志さま」
 両手を腰の前で合わせて、俺に頭頂部を見せるように礼をすると、
かなこさんは華の通ったドアの方へと向かっていった。

 華とかなこさんが居なくなり、中庭のテーブルの前に残っているのは二人だけになった。
「ここ、途端に色気がなくなったな」
 と、俺から十本松に話を振ってみる。
「まったくもってその通りだ。
 雄志君、何故君が色気を持ち合わせていないのかと不思議でならないよ」
「俺が持ってても仕方ないだろ、それ。……むしろ女のお前が持っていて然るべきだな」
「何を言っているんだ。私が男を惑わす色香をぷんぷんと匂わせていたら君に襲われてしまうじゃないか。
 そうなったらかなこと海の見える教会で愛を誓うことすらできないだろう? 私は浮気はしない性質でね」
 こいつは本気でかなこさんと結婚するつもりでいるのだろうか。
 その口から飛び出す無駄な喋りのように、悪い冗談だとしか思えない。
 十本松だって顔立ちは悪くないんだから、黙ってさえいれば男が寄ってくるだろうに。

 そもそも、なんでこいつは男装なんてしているんだ。
 性癖か?お遊びか?罰ゲームか?
 それとも悪い病気にでもかかっているんだろうか。
「なんだい、さっきからテーブル越しに私の顔を見たり肩を見たり胸を見たり。
 立ち上がってくれ、なんて言わないでくれよ。君に全身を視姦されるのは御免だからね」
「全力で否定させてもらう。
 何でお前が男装なんてしているのか、って疑問に思ってな。観察してただけだよ」
 一番気になる疑問をぶつけてみる。
 また訳のわからない、意味を成さない返事が返ってくるかと思ったが、
俺の目をじっと見つめたまま、顎に右手を添えた格好で沈黙していた。



95 :ことのはぐるま ◆Z.OmhTbrSo [sage] :2007/03/27(火) 20:12:51 ID:ZX4xyh8k

「メッセージだよ」
 声の調子はそのままに、十本松が簡潔な返事をした。
「メッセージ?」
 おうむ返しに聞き返す。
「伝言だよ。かなこへ向けた、ね」
 ジャケットの襟を正し、ネクタイを軽く左右に動かしながら言葉を続けた。
「伝言の内容は……私はある人物に成り代わっているんだぞ、というところかな。
 つまり、『十本松あすかは誰かに成り代わっていることを、かなこへ暗に伝えている』。ということさ」
 テーブルに両肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せてから、十本松の台詞は終わった。
 それで充分だと言わんばかりににやけた笑いを浮かべているが、俺にはさっぱり理解できなかった。
「……お前が、かなこさんの昔の恋人の振りをしているとでも言うのか?」

 俺の言葉を聞いて肯定なり否定なりの言葉を返してくるかと思いきや、
右拳を唇に当てて、細い肩を揺らし始めた。
「ふ、ふふふふふふふふ。……ははははは、あっはははははは!
 ははは……違う。まったく違う。
 携帯電話とPHSは違う、というぐらいに違う答えだよ」
 首を右に振り、左に振り、もう一度右に振ってから俺の顔と向き合った。
「じゃあ、いったいなんだって言うんだ」
「人に聞く前に、自分で考えてみたらどうだい?
 ……と言っても、ヒントなしではわかるはずも無いね」
 右手をジャケットの内側に入れて、四角形をしたもの――1冊の本を取り出して、
テーブルの上に置いた。

 大きさは文庫本程度。青い背表紙はところどころ破けていて、
タイトルのようなものは記されていないという、本かどうかも疑わしいものだった。

 それをテーブルの上でスライドさせるように動かして、俺の前までたどりついたら、
這うような緩慢とした動きで右手を戻す。
 テーブルに左肘をついて左手に顎を乗せたまま、こう言った。
「その本を君にあげるよ。とても面白い本だから、熟読してみるといい。
 心が熟れて、膿んで、腐ってしまうほどに読みふけるがいいさ。フハハハハハハ!」
 わざとらしい笑い声をあげた後、十本松は立ち上がった。
 そして、細い指を全てまっすぐに伸ばして肘を90度に曲げ、腕を振りながら走り去った。

 奴まで走り去った後その場に残っているのは、俺と、華の作った弁当と、十本松からもらった本だけだった。

----
最終更新:2011年05月26日 11:18