第一次龍崑戦争

第一次龍崑戦争

第一次龍崑戦争とは

 第一次龍崑戦争(雲龍・崑崙戦争)とは大雲龍帝国と崑崙国との間に勃発した紛争である。この戦争は以降の二度の紛争へと禍根を残すことになる。

紛争勃発の経緯

 本時の紛争は、崑崙が雲龍に対して帝国主義発言から端を発し、雲龍からの謝罪要求を崑崙が断り続けたことにより両国間の関係が悪化、そして崑崙は奇襲作戦を発動、雲龍への軍事侵攻を開始した。

 この二ヶ国間の紛争は雲龍政府の停戦仲介拒否など(これに関する論争は最終項目を参照のこと)によって長期化し、安武率いるPKTOと三洲、ヤードを主力とする有志連合が崑崙の侵略行動を阻止すべく雲龍側に立って参戦し、一方でフェナス率いるICAが崑崙側に立って参戦、世界規模への大規模戦争へと発展した。

この戦争の結果

 この戦争によって壊滅的打撃を蒙った崑崙国は、核兵器の保有や海軍の規模などが制限され、法律的には敗戦国ではないにも拘らず、雲龍サイドの活発なロビー活動によって以後敗戦国として扱われ、それを良しとしない崑崙国はそれ以降幾度と無く再軍備を繰り返すこととなる。それを阻止しようとする雲龍や日照と崑崙との間での外交的対立が激化し、本時戦争は後の紛争への序章に過ぎなかったことが明らかとなってゆく。

この紛争に関する諸論争

 雲龍政府は専守防衛連邦への停戦仲介を要請していたが、雲龍政府はこれを自ら拒絶するという外交的非礼を諸外国に見せ付けた。
 だがこの仲介案拒絶の事件について戦後に後付された理由によると、当時の仲介案が崑崙寄りであったため拒絶せざるを得なかったというものがある。これについては真偽が定かではなく、明確な資料を発見できないこともあり、未だに結論は出ていない。仲介案拒否という外交的無礼が無ければ両国間の小規模紛争が世界大戦に発展し、第二次、三次へと続くこともなく、また龍専戦争は起きなかったとの指摘もあるが、資料が見つからない以上はこの結果論を決定的に正しいという見方は決してできないだろう。

 宣戦布告無き戦争であったと糾弾されるが、少なくともこの戦争に至るまでの事件や対立過程は一応は演出されており、雲龍政府が戦争よりも以前の時点で仲介を第三国に要求しているということは、雲龍側が崑崙の侵攻を紛争勃発前に予見できるほどの外交ゲームとしての対立が演出されていたことへの証左であろう。

 雲龍国営放送の奇怪なプロパガンダ画像の掲載や、雰囲気を害しかねない報道が取り沙汰され始めるのもこの頃であったとされる。以後、雲龍国営放送のその独特の報道内容に関しての論争がたびたび行われることとなる。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2007年10月29日 01:38
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。